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それはそうと 

全国ウン十万(いるかな)の酒見賢一「陋巷に在り」

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) 陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫)
酒見 賢一 (1996/03)
新潮社

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ファンの諸君、あんな終わり方を許していいんですか?ようやく孔子の『狂』に対する『狷』という顔回のアイデンティティの輪郭が明らかになって、世界における”無為”の意味に対する具体的なアプローチが可能な状態になったというのに。
三一の回心の行方は?いよいよ女になろうとしている予の媚女としての素質はどういう方向に花開くのかなど、どう考えてもこれからの話だと思うんですが。

タイトルが何だ、そんなもんは”心はいつも「陋巷に在り」”と言えば済むことじゃないか(作者の声参照)。終わるということだけでも十分ショックなのに。おととい図書館で借りて読んで、昨日一日ヘコんでました。もう顔回に会えないなんて・・・・。ウルフガイ犬神明も現象学探偵矢吹駆も吹っ飛ばして、恐らく僕の読書史上最も好きなキャラでした。瞬発力だけなら”ザ・探偵”榎木津礼二郎という対抗馬もいるにはいますが、リアルに関心あるので、顔回の生き様には。

いやあホントに。何というか僕がもし書けるものなら書きたいタイプの小説No.1なんですよね、「陋巷に在り」は。哲学的テーマを小説的想像力にしか出来ないアプローチで追求し切る。
例えばかの京極夏彦の中禅寺シリーズはいかにもよく書けていて楽しいし、勉強になるし、一見深遠でもあるんですが、実際にはどこかで見たような内容のパッチワーク、見ようによっては単なる現代哲学諸思想解説小説で、元ネタたちを全く越えていない。言わば文学を哲学に従属させているような結構いびつというか矮小なところのある作品だと思うんですよね僕に言わせると。勿論あれはあれで好きですが。

はあ。何か逆に本が読みたくて仕方が無くなってきましたが。


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京極「陰摩羅鬼の瑕」 

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス) 陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス)
京極 夏彦 (2003/08/09)
講談社

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読みました。微かにネタバレ。
面白くなかった、ような気がしますが、アメドラ好きの僕はシリーズものにはとても寛大なので、頑張って書いて出してくれればそれで満足です。惰性は許さないけど失敗作は全然許す。シリーズ全体の中ではそれもまた彩り。
酒見賢一「陋港に在り」好きの僕としては儒教関係の薀蓄・新視点が補強できたのも嬉しかったですし。意識・・・・してるよね?やっぱり。俺だって言いたいことがあったんだよおという京極氏の心の叫びが聞こえたような気がしましたが。

ただ注文が2点ほど。
1.関口の聴いていた「金属的な羽音」は、心理的/脳内音響と見せかけて100%館内の現実の音だと思っていた、というよりその程度のトリックは当然の要求として折り込み済みだったんですが、ノータッチで流されてしまったこと。
2.説明の経済の為か、これまでもちょこちょことあえてその時代には存在しなかったはずの言葉や概念が挿入されたことのあるこのシリーズですが、今回の「解離性同一性障害」は酷過ぎる。どういうつもりだ?「多重人格」くらいならまだしも。それだって今回の例なら「二重」で十分、それくらいならこの時代の話としてもさほど違和感は無い。何か特別な意図でもあるのか?

ついでに言えば榎木津役に立たな過ぎ。そろそろ腹立って来た。助けろよ。


文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫) 文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)
京極 夏彦 (2006/09/16)
講談社

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訂正。
そういえば内容ほとんど憶えていないなと「塗仏の宴 宴の支度」

塗仏の宴 宴の支度 (講談社ノベルス) 塗仏の宴 宴の支度 (講談社ノベルス)
京極 夏彦 (1998/03)
講談社

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を読み返してみたところ、『解離性同一性障害』は既にここで出ていたことを発見。記憶って・・・・。
ただしどういうつもりだ?という疑問はそのまま。読みようによっては『多重人格』と『解離性同一性障害』を別の概念として使っているようにも見えるし。・・・・いや、そういう学説もあるにはあるんですけどね、一回ちゃんと展開してもらわないと。


文庫版 塗仏の宴―宴の支度 (講談社文庫) 文庫版 塗仏の宴―宴の支度 (講談社文庫)
京極 夏彦 (2003/09)
講談社

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ポール・ジョンソン「近代の誕生」より その1 

近代の誕生(1) 地球社会の形成 近代の誕生(1) 地球社会の形成
ポール・ジョンソン (1995/03)
株式会社共同通信社

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まだ暇な時にこつこつ読みの最中ですが。
1815年〜1830年を特に”近代”の基盤が整理された期間と特に認定して、そこらへんの出来事を集中的に書いた本らしいです。とりあえずは建国/独立間もない頃のアメリカ合衆国のいい加減ぶりが面白いです。

・誰でもかれでも握手をするというのはアメリカ独特の風習で、同じアングロサクソンでもイギリスでは特に親しみを表現する時以外はお辞儀ですますことが多いので、当時のアメリカを訪れたイギリス人は一様に違和感を感じていたらしい。

・ではなぜアメリカ人が握手にこだわるかというと、お辞儀は上下関係を表わし、独立元イギリスの君主制や階級社会を連想させるので、共和制の平等国家アメリカには握手が相応しいとそういうこと。

・このこととも関連するが、この時点でのアメリカの共和制、非君主制というのは今からは想像できないくらい歴史的に異様なもので、別にフランスや後のソ連のように革命を輸出しようとはしていないにもかかわらず、ほとんどの国にとって当時のアメリカ合衆国は”アカ”の国、イデオロギー国家、狂信者の国として、単なるポリシーではなく実感のレベルでなるべく係わり合いになりたくない存在であったらしい。

・それは後の超友好国、すぐ隣りのカナダにおいても同じで、アメリカがナイーヴに歓迎を期待してカナダに強い影響力を振るおうとすると、イギリス系フランス系の区別を越えて一致団結して徹底的に抵抗した。

・・・・今はこんなところ。この人はいつも視点が面白いので、この後も続々出て来そう。

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ポール・ジョンソン「近代の誕生」より その2 

近代の誕生(2) 機械文明の広がり 近代の誕生(2) 機械文明の広がり
ポール・ジョンソン (1995/03)
株式会社共同通信社

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・19世紀初頭の「新国家」アメリカを訪れたイギリスの多くの”進歩的知識人”は、20世紀のある時期のソ連に対して西側知識人が示したのと同種の理想化、全面肯定的論調を展開した。

・いわゆる「リンチ(=私刑)」の語源は人の名字のあの”Lynch”。詳しくはこれとか。

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ポール・ジョンソン「近代の誕生」より その3 

近代の誕生(3) 民衆の時代へ 近代の誕生(3) 民衆の時代へ
ポール・ジョンソン (1995/03)
株式会社共同通信社

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今回の共通テーマは原住民、黒人、差別、迫害といったそこらへん。

・南アフリカの人種隔離政策は、南アフリカや支配国イギリスが野蛮で暴虐的だから起きたわけではなく、むしろ良心的な面があったからこそ起きた。

「アメリカの温帯では、インディアンが実質的には完全に制圧された。したがってあとに入った白人は、インディアンの土地をすべてその手に収め、二十世紀の子孫たちは良心の呵責などまったく感じることなく、その遺産を享受している。ところが南アフリカでは、植民省の理想主義がもたらした種々の規制のおかげで、黒人は絶滅を免れたばかりではなく、人口が拡大するゆとりがあった。」



ちなみに植民省を動かしたのは現代で言う人権思想的なものを先駆的に奉じていたイギリスのキリスト教会の活動だそうですが、とにかくこうして植民の際に原住民を”思いやった”結果、後に人種隔離という「対策」を講じる必要が出て来てしまったということ。アメリカ大陸のインディアン/インディオの場合、完膚なきまでに叩き潰してしまったので問題の規模が極小になって落ち着いた。

・・・・まあいやなことを言うようですが、復讐の連鎖を断ち切ること、是非は別として「結果としての平和」をダイレクトに希求するなら、物理的に敵を絶滅させるのが一番合理的なのは確かなので。モンゴルや織田信長の”残虐性”の歴史的効果なども思い合わせつつ。
つまりJリーグも僕のような輩に容赦すべきではないのかもしれない(?)。テレビも含めたいっさいの観戦中止の措置を発動すべきかも。いや、受け入れますけど僕は。身の程は知っています。


・制度的社会経済的圧制と、「偏見」「差別感情」とはまた別のものである。

「彼(トクヴィル)がとまどいをおぼえたのは、黒人がほとんど見られない地域でも同じくらい根強い偏見が認められることだった。」

「アダムズ(第2代アメリカ大統領)はロシアに滞在したとき、農奴の男女が日常的に鞭で打たれて殺されているような国の国民でも、アメリカの人種的偏見にショックを受けていることを知った。」




・(アメリカ)南部で綿花栽培が盛んだったのではなく、綿花栽培という新産業の共通性による結び付きが、「南部」という地域を誕生させた。

「南部の奴隷制は時代遅れな制度で、ロシアの農奴制と同じく過去の遺物だと見る考えは間違っている。それは産業革命から、高度な技術から、数億の消費者をかかえる大衆市場の要求を満たそうとする商業精神から生まれたもので、まさに新しい近代社会の一部だったといってよい。だからこそ根絶するのがあれほど難しかったのである。」

「したがって今日われわれが理解している、奴隷制擁護という大目的で結ばれた地理上の存在としての『南部』を生み出したのは、十九世紀初頭の世界的な木綿ブームだったといえるだろう。」



具体的にはアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナの綿花栽培が盛んな”新”南部と、元はタバコの生産地で、後に新南部の労働力としての黒人奴隷の「生産」(つまり生殖)に専念する”旧”南部との経済的連結の総体。
一項目目と繋げて言えば、こうした「生産」活動による黒人人口の絶対的増大が、インディアンをめぐっては起きなかったような根本的人種問題をアメリカに引き起こしたとそういうことになります。

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高橋義夫 

剣仙伝奇 剣仙伝奇
高橋 義夫 (1999/12)
徳間書店

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最近気に入ってよく読んでいる作家。
1945年生まれ、「狼奉行」で直木賞受賞。(とのことですが未読)

ジャンルとしては時代小説、というより剣豪小説ですかね。ただし扱うのは剣だけではなくて古武術全般。
そのディテールへのこだわりが面白いのと、もう1つは割りとエキゾチックというか異文化コミュニケーションちゅうか(NOVA?)、近代以前の日本と東アジアを中心とする諸外国との接触部分への着目がライフワーク的な個性となっている人。この2つの結び付きの論理的帰結として、「剣術vsフェンシング」だの「柔術vs桃花拳」だののような”異種格闘技(武術)戦”が実現したりするのも楽しい。

一読として柔軟で素軽い、若々しいとさえ言える感覚が印象的だったので、てっきり我が愛する酒見賢一(’63年生まれ)のちょい上くらいの世代の人だと思ったら、今年で還暦のおじいちゃんでびっくり。編集者出身というライトインテリな経歴が関係あったりするのかも。

写真は僕がこの人を初めて読んだ1冊で、「剣仙伝奇」。オール中国人の伝奇ものという結果的には例外的な作品ですが、主人公の積年の恨みが遍歴の果てに浄化していく描写が好きです。
他に読んだ中では「渤海王の使者」「武闘の大地」などがお勧めと言えばお勧めですが、多分どれを読んでも特に当たり外れは無いと思います。万事淡々とした人。
高橋義夫の本

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「日本大変」 

日本大変―小栗上野介と三野村利左衛門 日本大変―小栗上野介と三野村利左衛門
高橋 義夫 (1999/12)
集英社

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相変わらずこつこつ読んでます、高橋義夫の本。図書館の書棚完全制覇まで頑張るぞ、おお!
ちなみに暇なのではありません。暇・・・・というか腰を据えて読む時は専ら学術系になります。そこまで落ち着けない時に小説を読みます。別に上下というわけでもないですが、やはり学術系は「入る」のに少し時間がかかるのと、当たりを引いた時の興奮が激しくてしばらくその世界から抜けられなくなったりするので、忙しい時は自重。

さて副題にもある通り、幕臣/商人(三井中興の祖)の違いはあっても同じ志を持って維新前後に日本の近代的市場経済の基礎を築くのに貢献した二人の経済人の活躍と悲運を描いたこの作品は、あろうことか武術の達人が出て来ません(笑)。こんなのも書くんだという感じですが、改めてプロフィールを見ると経済史にも独自の見識を持つ人であるよう。

色々面白かったですが一番なるほどなと思ったのは、現在のように円単一でも金本位ですらもない江戸時代の通貨というのはかなり複雑で、金銀銅に大判小判、各種の銭に藩札の類、様々入り混じって、なかなか一筋縄ではいかない。そのためそこらの商店が普通に貨幣を使うのでもどれをどの用途でどれくらい使うのか、それ以前に持つのか、あるいは使わないで貯蓄用にするのかなど、それぞれの裁量で考えなくてはならない。

つまり例えば同じ小判でも鋳造された時期によって○○小判、××小判と違う種類のものが同時に流通して、主に金の含有量などによってそれぞれの信用度にばらつきがあったりするわけで。一般に新しいものほど信用が無いようなんですが。

だから今だったらあえて「投資」をしようとする人だけが気にするドルで持つか円で持つかみたいなものに近い「相場」、「金融市場」を、およそ経済活動に関わる人は全て気にしていた、せざるを得なかった、自然に投資マインドが磨かれていた。
金で金を生む類の今日でもキワモノ視されるタイプの取引も、むしろ当たり前のものとして受け入れられていたようです。ある意味市場経済自体にまだキワモノ感があったので、「毒を食らわば皿まで」みたいな部分もあったのかも知れませんが。

他ざっと面白かったこと。
・維新前後の「日本経済」はほとんどイコール「三井の経済」で、しかもそれは潰れなかったのが不思議なくらいの綱渡りの連続だった。
・その実は既に老舗の旧弊に侵されていた三井を改革した三野村利左衛門の膝元の店では、一種の商店内議会制のようなものも採用されて役の上下に関係無く直言することが日頃から求められ、主人だろうが番頭だろうが手代だろうが、みんな互いを「あなた」と敬称抜きで呼びあっていた。
・いわゆる「大政奉還」は後の呼称で、当時はもっとあっさり「政権返上」と言っていた。

今日の豆知識。

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浄瑠璃坂の仇討ち/高橋義夫 

浄瑠璃坂の仇討ち 浄瑠璃坂の仇討ち
高橋 義夫 (1998/07)
文藝春秋

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相変わらずこつこつ読んでます・・・・あ、前回と同じ書き出しだ。
実に何というか「こつこつ」読むのが似合う人で(笑)。
年齢(’45年生まれ)の割りに妙に軽やかだ、風通しがいいということを最初に書きましたが、その後色々読む中でだいたい正体が見えて来たような気がします。
要するに学者肌なところがあるんですね。相当に理知的というか。その学者的な論理性や問題意識自体の持つ普遍性が、年齢の壁を越えさせている。1+1が2であることに年齢は関係無いというわけで。

かといって別に京極みたいに難しいことが書いてあるわけでは全然無いです。至って普通の時代小説といえばそう。義理も人情も丁寧に過不足無く描かれている。
ただまあ、生臭い感情や大げさなクライマックスに対する忌避感・苦手意識みたいなものはあると思います。そこらへんが学者っぽいというのと、僕の肌に合うというのと。

読んでいる時は知らなかったんですが、後に赤穂浪士たちも参考にしたという実在の仇討ち事件を元にしたこの作品も、終始淡々としているところや妙に剣術のディテールが細かいところなど、正に高橋義夫さんらしい作品。ただよく読むと微妙に大作仕様というか、事件の裾野をきっちり広げて縦糸横糸を丁寧に張り巡らし、山あり谷あり展開の起伏にも工夫の跡が見られ、結構リキ入ってるなあなんか新境地にでも挑戦してるんだろうかというそういう印象もあります。いや、別に長くはないんですけど。

にもかかわらずまたはそれゆえに驚かされるのが話のクライマックス及び結末の静かさで、仇討ち自体は史実通りに決行されるのですがその中で当然ハイライトとして登場するだろうと誰もが予想する、ネタバレになるので詳しくは書きませんが恐らくは大部分が作者の創作だろう複数の因縁・宿命の対決が、いずれも華々しい悲劇として行き付くところまでは行かずにニアミス程度で微妙なところで回避されて収束するんですね。十分に作風に慣れていた僕でもかなり意表を衝かれました。

ググっても大した書評が出て来なかったので分からないんですが、これ一般の読者にはどう受け止められるんでしょう。物足りないと思われるんでしょうかやっぱり。僕は際どいところで上手く成立している、なかなか見事な手腕だなと思いましたが。

最初の「剣仙伝奇」でも『主人公の積年の恨みが遍歴の果てに浄化していく描写が好き』と僕は書いてますが、こういうアンチ・クライマックスというかストレートな恩讐の激突の回避というのは、かなりの程度この人の性分でもあるし、問題意識のありかでもあるんだろうと思います。
問題意識というのはつまり、少し文脈は違いますが例えば僕が「遠すぎた橋」について書いた”悲壮美の回避”みたいなことですけど。みんな少し落ち着けよと、ムキになってもいいことないよ。さぞかし気持ちはいいだろうけど、そう簡単にエスカレートする激情に身を委ねてしまうのはどうだろうと。・・・・こう言葉にしてしまうと馬鹿みたいですが(笑)。

少なくともフィクションを創って提供する立場の人間として、盛り上がりを自己増殖的に目的化するのはイカンと、本当の「解決」とは何かもう少し考えてみようと、そういう問題意識は持っているのだと思います。受け取る人によってはただのきれいごと、学者もどきのたわ言でしかないのかもしれませんが。
いやあ、良かったなあと思いましたけどね僕は。みんな悪い奴じゃないんだから喧嘩はやめようよ。人死にが出りゃあいいってもんじゃないよと。甘いですかね(笑)。

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「竜の封印 ?神の系譜1」西風隆介 

神の系譜〈1〉竜の封印 神の系譜〈1〉竜の封印
西風 隆介 (2000/04)
徳間書店

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西風(ならい)と読むそうです。いかにも何か由来がありそうなPNですが。
筒井康隆・高橋克彦・南山宏と、豪華キャストの推薦者を引っ張り出しての徳間の大プッシュもけたたましい伝奇SFミステリー(?)ですが、本人は割りと飄々とした感じで好感が持てました。1955年生まれとそこそこお年ですが、少年少女の描き方なんて凄く伸び伸びした感じでいいな・・・・とは思いますが、逆にこれは古い描き方か、あるいは距離感があるから出来る描き方なのかなとも少し。売れてんのかね、よく知らん。

ノベルズ版のその”賛”つきの装丁を見て即座に連想しましたが、明らかにウブメでデビューした当時の京極が意識されていて(少なくとも売り手が)、内容的にも彷彿とさせる、あるいはいかにも”京極後”を感じさせる「情報小説」「思弁小説」。(どちらも筒井の評)

・・・・と、なんかネガティヴな紹介になってしまいましたが、普通に楽しいです。
特に京極『榎木津礼二郎』の例の「他人の記憶が見える」能力の可能性、あれを基本的には京極の仮説を引き継ぎながら(多分)、認知神経心理学とやらを踏まえて結構丁寧にフォロー/展開してあるので、京極好きな人も読んでみたらいいと思います。

詳しくは読んでのお楽しみということにしておきますが(笑)、とりあえず僕が思うに他人の「記憶を見る」あるいは「思考を読む」、いずれも十分に想像の範囲内だと思うんですよね。(僕自身そういう素養が無くも無いタイプの人だと思いますし。)
なぜかと言えば、実は人間は日々それをやっているからです。・・・・ただし対象は自分ですが。自分という名の「他人」。

つまり他人をどうこうするより前に、まず自分の「記憶を見」たり「思考を読」んだりしないと日常生活が送れないわけで、当たり前にやってるようで実はこれ自体一種の技術で、成功/失敗もあれば上手い/下手も歴然とある。
そしてこれが上手くなれば、またはそのプロセス・システムを深く明確に理解出来るようになれば、それの転用(”類推”ともいう)で自然かなり他人のそれへのアクセスも可能になるというそういうことです。

勿論その前提として我々が使っている「脳」というシステムの規格性・共通性、そしてそれぞれの脳・・・・言ってみればパソコンを繋ぐネットワークのようなものの存在を想定しなくてはいけないわけですが、そこらへんはネタバレにもなるので本編を読んで下さい。

最後に一言。自分で思ってるほど人は「個性的」ではないのです。
それは忌々しいことでもあり(笑)、一方では孤独ではないという喜びでもあるわけですが。

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水晶球に未来が映るわけ 

chrystalball

『竜の封印』の話の続き。最初に感心したポイント。

水晶球に未来は映るのか。
映る、と言えなくもない。「意識の操作”外”の予測」が見えることは考えられるし、「意識を遥かに越える量の情報の貯蔵庫」とのチャンネルに水晶球がなり得ることは確実に言える。
論理は以下の通り。

・水晶球/透明な球体は、光学的には何も映さない。従ってそれを覗き込んでも本来は何の視覚像も形成できない
・人が何かを見て意識がそれを知覚し(かけ)た時、その裏で脳はその対象を同定/認識する為に忙しく既知の情報から検索作業を行ない、意識に参照材料を提供しようとする。
・水晶球を覗き込む時、何も見えないにも関わらずそれを知らない意識は必死に何かを見ようとする。
・それに応じて脳の方も、「見えない何かに対する参照材料を探す」という不可能な作業を懸命に行なう。
・結果外界(水晶球)から視覚像形成のための手がかりを何も得られない意識は、内界(脳)が提供した参照材料、つまり自分の記憶の中のイメージの方を「見」ることになる。

・・・・まずこれが基本的な構造。

・ここに「未来」を知ろう、見ようとしている人がいる。
・その為に水晶球を覗き込むが、当然何も見えない。
・しかし脳は「未来を見たい」という意識の要求に合わせて律儀に作業を行ない、関連のありそうな情報/イメージを供給し続ける。
・十分な時間・環境下で水晶球を見続けると、供給された情報群は結び付いて組み立てられ、有意味で生き生きとしたヴィジョンに成長し、「未来が見える」。
・脳は意識が通常処理するよりも圧倒的に優れた質・量・幅の情報を有しているので、このように期せずして意識の操作よりも脳の作業の方が主体となるような状況下では、思わぬ含意に富んだあるいは冷徹で客観的な予測力を備えたヴィジョンが形成されることもある。

こんな感じ。なかなか面白いでしょ?
ちなみにこの説に従えば、色や模様付きの、つまり何かが「見えてしまう」水晶球を使うのは無意味だ、インチキだということになりますね。


まあ「未来を見る」というのは分かり易い例でしかないので、より本質的にはこうした(水晶球を覗くというような)一種の感覚遮断、外的刺激の限定を継続的に行なうと、通常は外界からの雑多でかつ(知覚可能な範囲の)決まり切った刺激への反応に右往左往している意識が、自らの脳というより巨大で豊かな情報源と直接繋がれるようになるということです。

本来意識はむしろ外界への反応の為にあり、脳もその準備に向けて用意されているのでそれはシンプルに言えば「脳の誤作動」(作者)であり、ざんない言い方をすればその時その人は”幻覚”や”妄想”に捕らわれているとも言えるわけです。
しかしやり方によっては確かにより深い知見を得るチャンスでもあり、古来様々な宗教・神秘主義体系はそれを知っていて意図的にそのテクニックを活用していた、『汝自身を知れ』というデルフォイの神託はそういう意味だとそれが作者の説くところ。

外的刺激の継続的限定、つまり”孤独”は人を哲学者にするというわけでもありますが。
僕?日常的に脳の誤作動を起こしている孤独な哲学者ですよ、はい。(笑)

(追記)
本書では特に触れられていませんが、いわゆる「想像」というのも限定的な脳の誤作動とそう考えて間違いないように思いますね。幻覚・妄想まではいかないけれど、外的刺激・情報から直には導き出せない、その分を密かに脳から融通している特殊なタイプの思考。

宇宙の彼方アレキサンダーへ?! 

”イスケンデルは、彼(か)の英雄アレクサンダーのトルコ語読みであった。”

・・・・夢枕獏『シナン』下巻174ページより。(参考

シナン (下) シナン (下)
夢枕 獏 (2004/11/08)
中央公論新社

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そういうことだったんですか、松本零士先生。
ヤマトは銀河を又にかけたロングマーチ(長征)を敢行したのですね。
アニメの画面上の説明としては、アレクサンダーの「東征」ならぬ「西征」というイメージでしたが。宇宙に東西があるかどうかは別にして。

ヤマトは征服こそしなかったけれど、確かにガミラスと地球二つの文明は闘争を通じた融合を果たしてある種の”ヘレニズム”、新文化を醸成して、それがその後のシリーズの繰り返しの動乱を取りまとめる紐帯にはなっていました。


史上最大のモスク建造者の話、『シナン』も面白いです。
夢枕獏の宗教や神の話は好きですね。『涅槃の王』シリーズラストの、ブッダの覚醒のシーンは思わず説得されました。

涅槃の王〈巻ノ結〉神獣変化・覚者降臨編 涅槃の王〈巻ノ結〉神獣変化・覚者降臨編
夢枕 獏 (1996/04)
祥伝社

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『完訳 水滸伝』(人肉食編) 

完訳 水滸伝〈7〉 完訳 水滸伝〈7〉
清水 茂 (1999/04)
岩波書店

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全10巻の内の最初の2巻、読み始めの時に主に金庸との関係を中心に感じたことを書きましたが、めでたく読み終わったので改めて。

全体の構成としてはだいたい1巻から7巻、全100回の内の1?71回までが108人の人集め、その後の72?100回「招安」(後述)により丸ごと官軍(宋朝)に組み入れられた梁山泊軍団が、北に南に朝敵と戦う話になっています。
この「招安」の前後で話の様相がかなり変わりますが、ますばそれ以前の話に見られる目立った特徴から。


人肉食について

前回ほんのつかみのつもりで「やたら牛肉を食べる人たちの話」だなんてことを書きましたが、舐めてました(食べて?)。それどころじゃありませんでした。
この人たち、人肉も普通に食います。(笑)

(近代以前の)中国人の人肉食については、一応吉川『三国志』で子供の時に経験済みではあったんですけどね。
それは劉備玄徳をこよなく尊敬するある貧しい男が、客として訪れた玄徳一行をもてなす為に自分の妻を殺してその脇腹の肉か何かをこっそりご馳走するという確かそんなエピソードで、玄徳たちは殺された妻を、あるいはそうさせた男の貧しい境遇を哀れみはしても、男の心根自体は天晴れなものというそんな感じの受け取り方で。

書いたのが吉川英治なので、ニュアンスとしてはだいぶ柔らかいというか、ちょうど日本の「鉢の木」のようなそんな情緒の書き方になっていたと思いますが、それでも子供心には結構衝撃的ではありました。(グロよりは感銘の方が大きかったですが)

しかし・・・・『水滸伝』にはそんな”情緒”はかけらもありません。(笑)
単なる食材の一つです。軽い軽い。
どうも魚や山菜だけじゃ物足りないな、何か食い甲斐のある酒のつまみはないものか。おっ、こんなところに死体が。どれどれ、この野郎なかなか結構な肉付きじゃないか、いい暮らししやがってこの。俺様にも回しやがれってんだ、じゃあちょいと失礼してこの腿のあたりをいかせてもらうよアング。

てな調子です。さすがに腹減ったから殺して食うまでの描写はありませんが、死んでれば食べるし、たまたま殺してしまったらついでに食うし、旅人を盛り殺して金品を強奪した挙句、死体はそのまま店の食材に活用するという、完結したサイクルを持った地球に優しい盗賊茶店なら普通に出て来ます。


まあ論理的には人肉食はそれほど重大なタブーたり得ないだろうとは僕も思いますが、それよりも何て言うか・・・・どうしても肉食わなくちゃいけませんかね?中国人の方。そっちの方にゲッソリ。(笑)
つくづく違う文化だと思いますね。肌が黄色いから仲間だとか、迂闊に思うと泣きを見る。そりゃアメリカと接近するはずだよなという(笑)。真面目にアメリカ人にとっては、本質的に日本人より遥かに中国人の方が理解し易いんじゃないかと思います。肉食人種どうし。

*ちなみに『水滸伝』の成立年代については諸説ありますが、だいたい元代前後と考えておけば間違いないようです。人肉食慣習理解の参考の為に。(笑)


・・・・”倫理意識編”につづく。


『完訳 水滸伝』(倫理意識編) 

「招安」前の話つづき。人肉食編の次。


『水滸伝』と言えば男が男に惚れる”男伊達”の世界、弱気を助け強きをくじき、富貴から奪い貧賤に施す義賊、しかも悪徳官吏とはやり合っても天朝様への忠義の心・報恩報国の志は決して忘れない義士の物語、のはずなんですが。
そうしたメンタリティ/テーマ性によって、同じく男伊達の物語、現代”武侠小説”(参考)の有力な源流の一つと目されているわけですが。その実態はいかなるものか。


穴だらけ、超ご都合主義な「義」「侠」

『水滸伝』が男伊達の、義侠の物語であることは、他ならぬ作中人物たちによって耳にタコが出来て、しまいにそれも擦れて取れるくらい(笑)日常的に喧伝されています。
それは勿論庶民の娯楽「講談」という元々の形式、繰り返しやお約束を恐れずいやむしろ歓迎される、分かり易さが何よりも優先されるそういうスタイルによるところもありますが、それ以上に作中人物たちの徹頭徹尾の「本気」の現れであるわけです。少なくとも主観的意識的には、彼らが歩んでいるのは正に”義侠”の道以外の何物でもないのです。

しかし、しかし、残念ながら現代日本人である僕の目には、彼らのやってることは滅茶苦茶もいいとこです。何が「義」だ、何が「侠」だ、自己中心的な、極端な身贔屓の、手前味噌の、ご都合主義的な倫理観で爆進する、傍迷惑な人殺しの集団でしかないじゃないか。
・・・・ここで金庸の、あるいは”武侠小説”の現代の読者は言うでしょう。分かる分かると。
残念。あなたは全然「分か」ってなんかいません。(笑)
水滸伝の連中に比べたら、金庸の登場人物なんて悪役も含めて立派な紳士、お行儀の良い市民社会の住人です。ラベルが違うんですラベルが。ボルトが。ナットが。

前近代的な頑なな倫理意識に殉じていること、それをめぐっていちいち激しい感情を露わにすること、それ自体は共通しています。ただ論理性のラベ・・・・レベルが全く違うんですよ。
例え反応は大げさでバランスを欠いていたとしても、金庸の登場人物たちの言うことやることには、それなりの論理性が必ず読み取れます(文学的な謎は別)。何よりも彼ら自身に、過去現在未来に渡るそうした自分の”倫理基準”を一貫したものにしようとする意識、外れていれば恥じる意識、あるいはより妥当性のある倫理を確立しようとする意識が存在しています。それゆえに彼らは悩んだり葛藤したりするわけですが、そうしたものは水滸伝の豪傑たちには全くと言っていいほどありません

偽善的なわけでも悪気があるわけでもないんですが、意識の構造がやはり現代人とは全然違う。意識の及ぶ範囲が違うと言った方がいいですかね。彼らなりの真剣さと一貫性はあるんですが、それがあまりに浅くて場当たりで視野が狭いので、現代の目で見ると穴だらけに見える。だからご都合「主義」ではないわけですが実際には。

以下少し、例示してみましょう。現代武侠との比較も含めて。

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『完訳 水滸伝』(”官軍”梁山泊軍編) 

完訳 水滸伝〈10〉 完訳 水滸伝〈10〉
清水 茂 (1999/06)
岩波書店

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人肉食編倫理意識編


「招安」とその前、その後

まず「招安」ですが、だいたい察しがつくと思いますが例えば梁山泊のような、中央が手を焼くくらいに膨れ上がった基本的には反政府的反社会的勢力を、それまでの罪は問わないという条件で丸ごと官軍に呑み込むことです。
その際に主要メンバーには官位官職が与えられるのが常だったので、中央が弱くて招安が乱発されるような時期においては、「出世したければまず山賊になることだ」的な皮肉が囁かれたりしました。対象となる勢力の性格としては純然たる犯罪者集団あり、地方軍閥的なものあり、あるいはあわよくば新たな/次代の王朝をも担おうかという政治的野心・思想を持ったものあり、色々です。

梁山泊(軍)は各地の犯罪者が三々五々集まって形成された言わば”湖賊”ですが、ほとんど首領の宋江公明一人の頑なな忠義心で早くから「招安」(されること)を一つの目的として掲げ、紆余曲折を経てその願いを遂げます。
招安後は、常々泊内の反対者たちが危惧した通りに、大した見返りもなしに北へ南へと朝敵との戦いに要するに便利遣いされて、あるいは激戦に倒れ、あるいは手柄を立てれば立てたで妬まれて陥れられ、最終的には108人のほとんどが非業の最期を遂げます。

やば、泣きそう。


・・・・という反応はなんか少数派らしいんですが。
『水滸伝』の醍醐味は108人集合までのハチャメチャストーリーで、後半は付け足し、一部は不要または改竄的な。

確かにがらっと雰囲気は変わります、ほとんど別の作品。
荒々しいピカレスク(悪漢)ロマンから、折り目正しい歴史悲劇のように。
僕も最初は違和感がありました。おい真面目に戦争してるよというのと、決闘or一騎打ち用と思われた豪傑たちの武芸が、普通に集団戦闘で使われているのと。

ただ劇的な効果としては僕の場合むしろ逆で、この後半があるから全体として『水滸伝』は金字塔で、後半によって前半も救われていると。

ぶっちゃけ最初こそ楽しかったものの、じきに108人集める過程に飽きて&ナンセンスさに呆れてしまっていたというのがありますね、前提として。単純に長いし。
それでいい加減に読んでいたのが、いざ情け容赦ないサバイバル戦闘に突入して、一人また一人と”現実”の死に直面して行くのを見ると、急に前半の牧歌性が懐かしくなり、また108星の一人一人が愛おしくなって来た。

というと後半がシビアなだけでつまらないようですが、そんなことは全然なくて、要するに法螺話の集まりである”108星”を、見事に現実の戦争の場面に一人一人当てはめてあるいは見せ場を作り、あるいはむしろあえて犬死にさせ、そこまでせんでもというくらいにリアルな史劇に仕立ててあります。(序盤に出て来て結構印象深い「青面獣楊志」なんて、早々に病気で脱落して、「こりゃ逆に戦後も生き残って何か重要な役を担わせる伏線だな」とてっきり思っていたら、そのまんま二度と登場せずに単に病気で死んでしまって、リアル過ぎて哀しかったです。)

成立過程についてはいまだ謎が多いようですが、ともかく誰かしらちゃんとした「作家」が関わっていることが想像できると思いますね。


そうした前半と後半の”ギャップ”の中で、「約束が違う、こんな作品の出演オファーじゃなかったはずだ」と騒いでもおかしくない(笑)梁山泊の荒くれどもが、何か粛々と運命を受け入れて、当てがわれた役割を果たして行くのがどうにも健気で、哀れを誘って。予想外に感動してしまいました。

はっきり言ってそんなに整合性はなくて、いかにも色んな時代、色んなタイプの人の想いをそれぞれに詰め込んで出来上がったごたまぜの「作品」という感じですが、それゆえになるほど中国大衆文学の模範であり代表であり、いつでもそこにあって世を照らしているんだなというのが、漠然とですが実感出来ました。
前半の乱雑そのもののパワー、後半の構築性と悲壮美、どちらも中国だという。”夢と現実”なんてまとめはちょっときれい過ぎるかもしれませんが。


・・・・とりあえず、無性にゲームがやりたくなって困ってます(笑)。108星使いてえ。


中田力 『脳のなかの水分子』 より ?孔子と老子 

脳のなかの水分子―意識が創られるとき脳のなかの水分子―意識が創られるとき
(2006/08)
中田 力

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「意識が創られるとき」という副題は、この本単体だと誇大広告に近かったですが(笑・著者の他の本に詳述してあるみたいです)、『閉鎖系』『開放系』という物理学・熱力学概念から、孔子と老子・荘子の思想を位置付けてあって面白かったので、中国思想ブログとして(笑)メモっておきます。
メインの内容はちょっと、僕の文責では紹介し切れません。


商(殷)王朝と古代日本、そして殷周革命

白川静博士の言を借りるまでもなく、古代日本を築いた人々が、商(殷)王朝文化の継承者であったことは間違いないようである。

漢字を生み出し、アジア文化の祖となる中国古典文化を作り上げた商王朝は、(中略)自然の中の人間という存在をはっきり意識した、ある意味、融和を求める優しい心の文化が生み出したものである。神がまだ人々を支配する存在ではなく、単に「母なる自然」の代弁者だった、古き、良き、時代である。


実は初耳で特に言うことはありませんが、ありそうな話だとは思います。
ただしこの段階では、(日本人は)「ムー大陸の生き残りの子孫である」みたいな話と、大差ない受容の仕方ですが。(笑)
まあどっちでもいいですよ。なんなら両方でもいい(笑)。ともあれ今日に至っても高い知的水準と非論理性・厳格性の不思議な共存を特徴とする日本文化は、サブカルチャーを中心に日々面白いものを生み出し続けていると思います。(その点Jリーグはまだまだ型通り)
それらにこうした分かり易いロマンチックな起源があるのなら・・・・楽しいことです。

ところがその後、

太公望と、姫昌の子、発によって、神の国は滅ぼされた。(中略)
殷周革命である。
世界が、文化よりも力を優先させる戦いの時代に入ったことを象徴した事件でもある。


孔子の”理想”である周王朝を。こういう文脈で性格付けたものを見るのは、個人的には初めてかもしれません。理想の国ではなく、理想を終わらせた国。


儒教と老荘思想

孔子はそんな(周が倒れた後の長く続いた戦乱の)時代に生まれた、魯の国の人である。
人となりとしての仁、規範としての礼を説いた儒教は、その後、東洋思想を長年にわたって支配することになった。

それはまた、放っておけば世の秩序は乱れるという概念に基づいた、中世封建国家を支える。厳格な身分制度の根底にある考え方でもあった。


前の項目と合わせれば、自然的秩序を壊してしまったからこそ必要となった、人間的秩序ということでしょうか。
それが「理想」だというのは、根本的にはマッチポンプであるという。


儒教の掲げた人間絶対主義に反発し、あくまで自然と調和した生き方を主張したものが老荘思想である。老子から尹喜へと受け継がれた道教の成立は、ある意味、商王朝文化の復興であった。
商王朝文化を継承した古代日本を引き継いだ平安朝廷が、道教的古典思想の影響下にあったことにも、うなずけるものがある。


老荘/道教自体が分からないことだらけなので、かなり危うい話にはなってますが、一つだけ言うと”平安朝の道教的古典思想”というのは、簡単に言えば「陰陽道」のことでしょうね。
ともあれこの人の論の面白いところはこれらの対比そのものにあって、以下。


閉じた系と開いた系

熱力学の言葉を借りて現代的に表現すれば、儒教の発想は第二法則に基づいている
つまり、閉じた系においては常にエントロピーが増大するのである、エントロピーとは無秩序を表す物理量であるから、エントロピーの増大とは無秩序が増大すること、つまりは、秩序が乱れることを意味する。
封建国家という閉じた系の中では、放っておくと世の秩序は乱れるのである。だからこそ、仁と礼を重んじる必要がある。


あんまり厳密に受け取らないで、”儒教と熱力学”という取り合わせの意外さを楽しんで下さい。(笑)

それに対し、老荘思想は自己形成の考え方を表している
つまりは、開かれた系における発想である。
開かれた系で自然に起きるパターン形成、つまりは、自己形成による秩序に任せるとの考え方である。


”無為自然”っちゅうやつ?
熱力学(の第二法則)については、ほぼ『現代用語の基礎知識』なのでいいですね。
「自己形成」というのはれっきとした科学用語で、『規則と環境に従って、自動的に適切な構造(形やパターン)が作り上げられる』現象、働きのこと。例えば”形状記憶合金”や”ブラウン運動”など。(p.34から)

筆者が自己形成を重視している、もしくは愛しているのは商王朝文化の理想化を見れば明らかですが、ちゃんと(?)こういう総合的な視点も示してはあります。

明らかに閉じた系に属する中世封建国家における儒教的発想の適合性を認める一方で、開いた系を基本とする民主主義を獲得した現代社会では、自己形成を重んじる道教的発想が重要度を増していることも否定できない。


+”グローバリゼーション”という、究極的に「開いた」系。


まとめ

究極的になぜ自己形成が重要かというと、

自然科学を語る限り、老荘思想が適しているのはいうまでもない。自然界に現れるものはすべて、自己形成するからである。
言い換えれば、人間の努力ではどうにもならないのである。人間が自然を支配できると考えた瞬間から、崩壊が始まる。


これ自体はよくある警句ですが。

僕自身は孔子という人は、やはり(怪力乱神を)「語らず」の人であって、つまりあえて形式的に社会秩序内的に、思索・主張の内容を限定した人だと思います。
だから多分なろうと思えば「老子」にもなれた人で、そういうつもりで読むと見かけの堅苦しい倫理観や処世訓的内容の背後に、語られなかったものも含めた全体性が、直接的な文言の形式性ゆえにかえってクリアに見える気がする、そういう思想家だと思っています。

そこらへんが閉じた&開いた「系」という分類概念が導入されることによって、要するに”条件”の設定の問題であるという形で、整理できる気がするかなと。
と同時に、筆者の重点としてはこっちですが、何やらボヤッとした身も蓋も無いようなことを言っているようにも見える老荘の思想も、「開いた系」というより現代的な条件下ではむしろ相応しい、リアルな認識であると、そういう形で掬い上げることが出来るという、その視点は新鮮でした。

まあ所詮比喩ですし、ありがちな拡大&移転解釈ではありますし、細かいところで突っ込みどころは沢山あるでしょうけど。


日本人は老荘思想、なんですかねえ?(笑)


『ゴサインタン』プチ感想 

ゴサインタン―神の座 (文春文庫)ゴサインタン―神の座 (文春文庫)
(2002/10)
篠田 節子

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篠田節子のネパール仏教小説?
中国もの・・・・ではないけど、中華文化圏ものということでこちらで。(笑)
まあ遥か先ですが、いずれ金庸を論じ尽くしたら、ここは普通に「書評ブログ」になる予定ですので。


ネレーロさんの書かれていることはこととして総じて同感ですが、あえて僕が最も単純にこの小説を性格付けるとすると、やはり

宗教小説

ということになります。
それは”宗教的な”小説ということではなくて、”宗教を”書いた小説ということです。”教団を”と言った方が分かり易いかな。狭いけど。

一つの宗教・教団の形成・変転を追ったフィクションということなら、角川版『幻魔』を筆頭に(筆頭か?)いくつもあるでしょうが、この作品が特徴的だなと思うのは、それを徹底的に此岸的に、現世の範囲で書いているということです。
といって科学主義とか合理主義とかで、宗教を否定しているということではなくて、むしろ狂おしい宗教的関心を持って。

つまり例えば『弥勒』

弥勒 (講談社文庫)弥勒 (講談社文庫)
(2001/10)
篠田 節子
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などを読んでも、あるいは他の芸術や”才能”を採り上げた作品群を見ても、この作者が宗教や何らか神的超越的、この世ならざる、理性を越えた/越えて行くものに寄せる関心は”敬虔”と言ってもいいくらいのもので、何らか自分なりの宗教的直観(信仰ではないと思います)を持っている人なのは明らかだろうと思います。

この作品もそうした関心に基づいて書かれているわけですが、ただそれを、”この世の外”や”あちら側”のようなものを、極力持ち出さないで書こうとしている。それは意識的なものだと思います。
いかに”外”を持ち出さずに”内”の範囲で、しかし徹底的に敬虔に宗教を描けるか、その限界に挑戦している作品だと思います。


勿論この作品でも、主人公(日本人)のネパール人妻”淑子”は、数々の「奇蹟」的な業を顕して、それがそもそもの「教団」形成のきっかけにはなるわけですが、しかしそれが要するに何なのかは、虚実を含めていっさい最後まで明らかにされない。秘されているというのではなくて、問うことを禁じられるというか、放棄されるというか。
それはネパールに戻った後の妻の人格変容の意味についてもそうですね。現象は現象であって、それが”宗教的”(もしくは科学的)に意味として組織されることはない。「世界観」は提示されないというか。

それで成立しているのか、いないのか、それは微妙なところもありますが。
一つにはそれを問わない為に(または問わないことを示す為に)、かなり目まぐるしい場面や構図の転換が行われているわけですが。
成立しているとすればある意味凄く怖い話なんですよね、これは。つまり”内”で成立してしまえば、”外”の救いは期待出来ない、保証されないわけですから。決して反宗教的動機で書かれていない、中立的ですらもない作品なだけに、そう。そういう”宗教”小説。


・・・・と、いう感じです、ネレーロさん。(笑)
「奇蹟」すらも現世に閉じ込めてしまう作品、みたいな。一種の思考実験かもしれません。


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