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『書剣恩仇録』総評 

書剣恩仇録〈1〉秘密結社 紅花会 書剣恩仇録〈1〉秘密結社 紅花会
金 庸 (1996/10)
徳間書店

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”最初から完成された作家金庸”・・・・の、習作

完成されてるのに習作とはこれいかに。

さすがにデビュー作ですし、しかも作家デビューに向けて長年準備を重ねて来たわけでもないのにいきなり「毎日連載の新聞小説」なんて過酷な条件ですから、多少はバタバタするのも致し方はないと、とりあえずは常識的にも言えると思いますが。

ただそういう言い訳的な理由とは別に、むしろ作品に関する意識付けの問題・性格が、このデビュー作の「習作」性、今イチピントの合ってない印象をもたらしているより大きな原因なのではないかと思います。狭義の”技術”という意味では最初から何も問題はないし、こめられている思想そのものも後代に比べて別に青いとかそういうことは全然なくて、それこそ”完成”されている。

とりあえず具体的な難点としては
(1)文体が(他の作品に比べて)硬い。他人行儀。
(2)パートは充実しているが、全編としては何かそのパートが機械的に継ぎ足し継ぎ足しされているだけのような印象があり、全4巻と特に長い方ではないのに個人的には全作品中で一番長く感じた。え?まだ続くの?
(3)作品の基本的身分表示としての「大義名分」がうるさい、わざとらしい。(第1期の特徴の甚だしいもの)
・・・・といったことが挙げられると思います。

(1)に関してはやはり、単純に自信がまだなかった&こなれてなかったということでしょうね。
(2)についても当然新聞小説の細切れのペースがまだよく把握できなくて、結果パートの繋がりがだらだらと足し算になってしまったか、もしくは安全策でパートはパートとして最初から割り切って単純化して書いたか、いずれにしても広い意味での未熟・不慣れは否定できない原因としてあったと思います。

でもそれだけではないのではないかと。


習作だけど「集大成」、「決定版」

またもやなんなんだという感じですが。(笑)

つまりこういうことです。
なろうと思ってなったわけではなく、かつ今後特にこれで身を立てて行こうという予定もなかった”腰掛け作家”金庸にとって、このデビュー作は同時にラスト作でもあり得たわけです。
また一方で文学についても武侠小説についても溢れんばかりの知識・教養を持ち、沢山の言いたいことをしかも最初から十分に洗練された形で準備万端保持していた、そういうおよそかわいくない(笑)「新人作家」金庸でもあったわけです。

そこでどうしたか。
新人の身の程を知るわけでもなく、アマチュア時代から育んだピュアな想いを凝縮した形でぶつけるわけでもなく(そもそもそんなものはない)、金庸は「この際だ」と『武侠小説』という形態で吐き出せるものをいきなり全部吐き出してしまおうとした、あるいは『武侠小説』ということでイメージ出来る完璧なもの/包括的なものをいきなり書いてしまおうとした、そういう風に僕は感じました。
それがこの積算的にゴテゴテした構成になり、それに慣れが追い付かないことでやや散漫にとっちらかった全体的印象ともなったと、そういうことではないかと。

・・・・言わば ビートルズがいきなり『ホワイトアルバム』

ザ・ビートルズ ザ・ビートルズ
ザ・ビートルズ (1998/03/11)
東芝EMI

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でデビューしてしまったようなもの と、こんな比喩を使えば分かる人には分かるでしょうか。そういう「集大成」、「決定版」。
どんなに実力があってもいきなり『ホワイトアルバム』は無理ってもんで。

『書』と『剣』と『恩』と『仇』と。タイトル自体、武侠小説の目録のようです。

各論につづく)

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『書剣恩仇録』各論(1) 

(総論)より。


書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密 書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密
金 庸 (1996/11)
徳間書店

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『書剣恩仇録』に関する悪評(笑)

当時大評判を呼んだらしい記念すべきデビュー作ですが、その後東アジア中に広がった金庸読みの間では、相対的にかなり評判の悪い部類の作品として落ち着いてしまっています。かく言う僕も初見の印象はうーんという感じでした。


1.主人公陳家洛の不人気

成長の過程、過去のことは書きませんでしたからね。成長してからの、最後の数年間の話です。



この人はね、中国の伝統的な知識分子です。大きな官僚の家庭で育てられた。(中略)彼自身は英雄好漢ではなく、伝統的な中国の読書人なんです。


どちらも『きわめつき武侠小説指南』における金庸自身の言葉ですが、ここにあるように

・作中でドラマチックな変容・成長を遂げてくれないので感情移入がし難い。
・のぺっとしたエリートで、建て前主義過ぎて人間味が足りない。

という苦情が陳家洛についてはよく聞かれます。


2.構成の慌ただしさ、ぎこちなさ

上の1番目の引用はこう続きます。

岡崎 どうしてですか。やはり処女作だったから・・・・?
金庸 じっくり引き延ばして書く時間がなかったからね。だから、ストーリーの展開が速すぎる。

(『きわめつき武侠小説指南』p.66)


僕自身、先に「難点」の(2)として書いたことですね。


3.”滅満興漢”の「お国のため」テーマの空々しさ

これも(3)として書いたこと。

特に誰もが愛してやまない悲劇のヒロイン”香香公主”カスリーをその為に見捨てた恨みが中心となっているわけですが、また1.の”陳家洛のパーソナリティ”の問題とも不可分の関係があります。それを強調したがゆえに、ああいう建て前主義的な性格になったという。


以上基本的には同感なわけですが、1,2については必ずしも一方的に欠点と言い立てるのには疑問というか同情的な部分があるので、(その3)以降でこれから反論・弁護を試みてみます。

3についてはまあその通りですね(笑)。ただ

・そもそもが「(清の)乾隆帝出自伝説」「香妃伝説」といった、中国で巷間よく知られたエピソードを重要なモチーフとした比較的公共性の高いストーリーであり、ある意味本質的には”仕様”だとも言える。
・そしてそうした歴史性/公共性を積極的に導入するというのは金庸の武侠小説の重要な特徴であり画期性であるが、ただこのデビュー作ではそれの文学性・抒情性との匙加減が今一つうまく行っていない。

という事情は鑑みる必要があることを付記しておきます。

では続いてイクスキューズのパートへ。

(2)につづく)


『書剣恩仇録』各論(2) 

(1)より。


書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃 書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃
金 庸 (1996/12)
徳間書店

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1.主人公陳家洛の不人気 について


”非・キャラ小説”としての『書剣恩仇録』

『天龍八部』といえば、処女作『書剣恩仇録』で、ストーリーから構想を練る方法をとった金庸さんが、うって変わってキャラクター造形から構想に入ったと語っている作品である。

(『武侠小説の巨人 金庸の世界』)


金庸の作品が程度差はあれ、基本的に”キャラ小説”ではないということは既に書きました
当然『書剣恩仇録』もそうで、しかも上にあるように恐らく最もそうした特徴が強く出ている、つまり近代/西洋小説的な”人物描写”、「人間探求」的な志向性の薄い作品と言っていいのだと思います。

だからこの作品への後代の読者からの最も多く聞く不満、「主人公陳家洛のキャラが薄い」「感情移入がし難い」ということも、確かに”名門子弟の保守的知識人”という陳家洛個人の性格によるものも少なくはないでしょうが、基本的にはこの作品の登場人物である宿命であり、ただその個性がそれを強調している、または「主人公」という期待感がその印象を強くしているというのがフェアな評価なのではないかと思います。


キャラ(小説)と”成長”

前項の引用部分において、金庸は要するに「処女作でじっくり書き込む時間やスペースがなかったから陳家洛の”成長”が書けなかった」と言っているわけですが、本当にそうなのかなと僕は思う部分があります。
全4巻の『書剣恩仇録』と全5巻の『射英雄伝』、大して長さは違わないですし、そもそも『射』の長さは脇役の膨らませ過ぎによるところが多い(笑)とも言えると思いますし。やろうとすれば出来たはず。

理由付けとしてはむしろ、上の「ストーリーから構想を練る方法をとった」という方が本質的なんじゃないかと思います。そもそもそういう体質の作品ではなかったということ。
つまり・・・・例えば試しに幼い陳家洛が”天地怪侠”袁士霄の訓導の元、幾多の苦難を乗り越えて「成長」し、立派になってあの実際の『書剣恩仇録』の陳家洛となって現れる様子をイメージしてみても、そういうストーリーを構想しようとしても、どうもしっくり来ないんですよね。文体と合わないというか。単なる書き足しですむとは思えない。別の作品にするしかない

そもそも”成長”や(必ず)”成長する主人公”という概念自体、本質的に”キャラ小説”(と僕が便宜上呼んでいるもの)的なものだと思います。
キャラ/人物への重点的着目、そこから作者や読者の自己投影的な感情移入の受け皿として選ばれた特権的なキャラとしての「主人公」。そしてその「主人公」は何らか複雑で充実した内容の”内面”を持って思い悩み、やがて困難を乗り越えて”成長”して行くことを自明のこととして期待される。

金庸の作品は相対的には”キャラ小説”性は薄いわけですが、一方で武侠小説の近代化の推進者として、充実した内面を持って成長・変化する主人公を描こうとしていたのも明らかなわけです。
だから陳家洛についてもそういう意図や期待感は持ってはいて、それに従って読者も無意識にそういう文脈で読もうとするわけですが、実際にはそうなっていない。それはいち陳家洛の問題というよりは、作品自体にそういうキャラを住まわせる構造・空気があまりにも出来上がっていなかったということで。

要するにマズいのは俳優(陳家洛)じゃなくて作品、つまりは監督・脚本(金庸)の方だよと。
そんな話。(笑)


エリートで何が悪い?!

そうしたドラマティックに「成長」する主人公・人物を描こうとする場合、落差が大きくなる分最初の設定を低めにしておいた方が分かりやすいのは明らかで、そういう意味でエリートでボンボンの陳家洛というのは難しいキャラクターなわけです。
ただ一方で主人公サイドというものは基本的には清く正しく品が良いものでありますし、読者の願望を仮託されて活躍する都合上(笑)、ある程度調子よく強くあってもらわないと困るわけで、そういう意味でドジでノロマな亀(郭靖?・笑)と同じくらいに、恵まれたバックボーンを持った”王子様”系キャラというのも王道なわけです。そして陳家洛にも実は、本来は、そういう魅力はあったのだと思います。

思い出してみて下さい。序盤で陳家洛が紅花会の二代目を継ぐ継がないでグズグズしていた時、延々これやるのかな、でもってこいつの活躍を見るには気長に”成長”を待たなきゃいけないのかな、あるいは基本的にアムロレイ/碇シンジ的なウジウジ主人公なのかなと気が重くなりませんでしたか?(笑)
そんでもっていったん引き受けた陳家洛が妙にあっさりと手練の武芸やてきぱきとした指揮能力を見せた時、多少の拍子抜けは感じつつも正直ほっとした&そのあっさり感に痛快さを覚えたということはありませんでしたか?そんなにいつもいつも汗臭い根性物語が読みたいわけではないですよね?

だから陳家洛は陳家洛で別に良かったはずなんですよね。そういうキャラとしてちゃんと描けば。ただ金庸の方針が上手く定まらなくて、伸ばし切れなかっただけで。
後に『飛狐外伝』(’59)で再登場した時の陳家洛は、貴公子の基本性格はそのままに、結構厚みも味もある素敵なおじさん(?)として描かれていたと思います(笑)。『書剣恩仇録』(’55)での若き日の陳家洛も、同様にもう少し積極的な魅力のある人物として描かれてもおかしくはなかったはず。だから『飛狐外伝』はキャラとしての陳家洛のリベンジというか、作家金庸のお詫びというかけじめというか(笑)、そんな風なニュアンスでも読めるかなとそう思います。

(3)につづく)


『書剣恩仇録』各論(3) 

(2)より。


書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決 書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決
金 庸 (1997/01)
徳間書店

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2.構成の慌ただしさ、ぎこちなさ について


”ゼロ”期の金庸

なぜ武侠小説を書き始めたかというと、私は小さいころから非常にこういうジャンルの小説が好きだったのですが、ちょうど自分の新聞を主宰していましたので、「連載小説」という欄は書く人がいなかったので、ほかに書く人がいないなら自分で書こうと思い、(中略)
だから、最初は読者に好かれるかどうかということはまったく考えていなかったわけです。

(『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』 神奈川大学評論ブックレット)


好きだったから書いた。たまたま書く機会があったから書いた。どう受け止められるかは分からなかった。

非常に初々しい(笑)というか、ある種無防備な金庸さんの当時のありさまが語られていますね。一応先立つこと3年前に梁羽生はデビューしているはずですが(武侠Wiki)、それが支えになるほどにも”ジャンル”としては確立していなかったという風に聞こえます。

つまり少なくともこのデビュー作『書剣恩仇録』は、右も左も分からない中、自分の中にあった”旧派武侠”またはそれ以前の武侠小説的なものの蓄積を、かなり直接的に混沌とした形で吐き出して繋ぎ合わせたものと、そう考えていいのだと思います。
構想としては、意識としては人物も歴史もテーマ性も描き込んで、展開もガッチリしっかりやってという『射英雄伝』的なイメージは既にあって、そういう作業をしていたつもりだったのかもしれないですが、その前に吐き出すべきもの、陽の目を見るべきもっとプリミティヴな武侠的なものが金庸の中にあって、言わばこうした意識と無意識が渾然となって同時に表現されているのがこの『書剣恩仇録』なのではないかと。

先に比喩的に、「デビュー作にして”集大成”的な性格を持っている」と書きましたが、言い方を変えるとこれは『新派武侠』作家金庸のデビュー作にして、(実在はしませんが)『旧派(以前)武侠』作家金庸のラスト作でもあるとそんな感じです。


”ゼロ”期金庸の楽しさ

以上、主に全体の造型面での不具合を指摘して来ましたが、それはそれとして、にもかかわらず、だからこそ、個々のシーンやエピソードの充実具合、イメージの豊潤さは圧倒的です。 (中略)
逆に全体像が見えないまま、作者自身も初めてで手加減が分からないまま、惜しげもなく際限もなく、次々に英雄豪傑奇人変人美男美女(アーンド爺婆)がワラワラと登場して、一つ一つが一編のA級映画のクライマックスシーンになり得るような凝った趣向の名場面が、ビュンビュンと現れては消えて行って休む間もありません。

凄い!という部分と無茶苦茶!という部分が混在してますけどね。ともかくもガードの仕方が分からないので(笑)、とりあえずはやられます。


自分で自分を引用するのも変な感じですが、これは改訂前の、初読の印象によるこの(その4)の一節。その後読み返してみても、確かにこういうところはあります。(やっぱなんか変・笑)
雑だったり浅かったり、淡々とシーンが繋ぎ合わされているだけに見えるところは確かにあるんですが、反面それが大らかで生き生きとした印象も与える。むしろこれが元々の、庶民の娯楽B級小説としての武侠本来の楽しさなのかなと、特に『射英雄伝』の意味性と格闘した後に読むと感じました。(勿論(その2)の3.で述べたように『書剣恩仇録』には『書剣恩仇録』なりの意味性はあるわけですが、浮き過ぎてて逆に忘れてしまうというところが(笑))


例示:張召重をめぐる力関係

一例として、例えば張召重という人がいます。乾隆帝を別にすれば主人公たちのほぼ唯一の敵/ライバルで、最初から最後まで反則なくらいに強い、ある意味ではかっこいい”ザ・仇役”。抜群の存在感で善と悪の作品の基本構図を支える特権的なキャラで、だからそう簡単に負けてもらっては困るわけです。それなのに・・・・

相手の少なくとも五人は、おのれと互角、いや、上手の者もいる。(単行本4巻150ページ)


これは終盤砂漠の迷宮の入り口付近で、いよいよ追い詰められた張召重のつぶやきですが、僕何かここ笑っちゃうんですよね。なんだ五人て。なんで五人もいるんだよ。

とりあえずこの”五人”とは誰かですが、
1.武当派の兄弟子陸韮青
2.紅花会四番差配”奔雷手”文泰来
3.”天山双鷹”の一、陳正徳
4.”天山双鷹”の二、関明梅
5.”天地怪侠”袁士霄
だと前後から思われます。「上手の者」は5.袁士霄ですね。

1.はいいです、兄弟子だし。(でも出来れば長兄馬真同様少し腕が落ちるくらいでいいと思いますが。)
2.もまあ許します。大部分の時間を虜囚の境遇と重傷の身で過ごす眠れる獅子ですし。
ただ3,4,5の爺婆は・・・・。お元気で結構とはいえ(笑)、新世代の怪物たる張召重が、そう聞き分け良く旧世代に譲ってしまうのは。まして風下に立って(袁士霄)そのまんまというのは。

しかもここに更にウイグルの奇人アファンティがいるわけです。なんなんでしょうあの人は。結構話が押し詰まってから突然出て来て、わけもなくやたらめったら強くて(笑)。反則ですよね。

こうして見渡すとあれほど憎々しく強かった張召重が、何か武林の勢力図の空隙を衝いてうまく立ち回っただけの小物に見えかねないから不思議です(笑)。いや、そんなことはないんですけどね。間違いなく特権的な仇役なんですけどこの人は。ただ色々出している内に気が付くとそういう力関係になってしまったという。

『射雕英雄伝』を題材に金庸作品の”非・キャラ小説”性を論じた時には、そのかわりに、それとのセットとして作品全体の高度の構築性・形式性というものがあるということを述べました。キャラはその精巧な構築物の部品であると。そしてそれには要所要所での、「誰が誰よりどう強いか」というような理由付けも含まれるわけですが。
ところがこうして見ると、『書剣恩仇録』の段階ではそういうものすらもあまりないように見えます。もっとこう単純に稚気で、思い付きで書かれているように見える。それが楽しい。

(4)につづく。


『書剣恩仇録』各論(4) 

(3)より。


作者と作品/まとめ


引用付け足し。

それはいっぺんにさらけ出さないようにすべきだったんですが、(最初の頃は)うまく書けてないんですね。登場人物が最初から善人、あるいは悪人として完結しているのはいいことではありません。

きわめつき武侠小説指南 p.81)


このように作者自身にもある種”失敗作”的烙印を押されてしまっている『書剣恩仇録』ではあります。
僕なりに弁護(笑)を試みて来ましたが、努力して常により良い作品を書こうとしている作者の立場としては、やはりこういう評価になるのは仕方ないでしょうね。

ただ作者自身も含めて、後の作品を知っている後代の読者はどうしても後知恵で物を見ようとしてしまいますが、一方で常に作品はその時その時単品として書かれるのであって、それは決して「歴史」的パースペクティヴに還元し尽くせるものではない。
また往々にして作者は過去作を恥じたり終わったものだと片付けたがり、あるいは金庸自身が実際に繰り返し行なっているように(笑)『改訂』みたいな作業をやりたがるものですが、読者にとっての、またあえて言えば客観的な価値はそれとはまた別のものです。技術的巧拙=作品の価値ではないし、拙かろうとなんだろうと、どちらかと言えばオリジナルな形で残しておいて欲しいと願うものだと思います。リベンジは次回作でお願いしますというか。(笑)

一言で言えば作者は作者、作品は作品というか。だからこそ、こういう「評論」の類も成立する余地・意義があるんだとも言えますし。
失敗してるから失敗作とは限らない、増してつまらないとは限らない。


『書剣恩仇録』と『鹿鼎記』


(その3)で陳家洛について書いている時にふと思ったことなんですけど。
この処女作と最終作は対照的だけど似てるところがあるなと。特に主人公の性格を通じて。
どういうことか。

つまり『鹿鼎記』の主人公”韋小宝”は、娼婦の息子のろくでなしという意味では貴公子陳家洛と対照的ですが、一方でいわゆる武侠小説(の主人公)的な典型的「英雄好漢」ではないこと、それにも増して最初から最後まで目立った「成長」を見せないタイプの主人公であるという意味で、実はこの両作の主人公は好一対的な存在と見ることが可能なのではないかということです。

・・・・分かる人にはもう分かってますね、僕の魂胆が。(笑)
そうです、だから『鹿鼎記』(’69)と『書剣恩仇録』(’55)はそれぞれに、間に挟まった金庸の典型的な「武侠小説」群とはズレた作風を持ち、『鹿鼎記』が武侠小説をまとめて相対化した”ポスト武侠小説”なら、『書剣恩仇録』は言わば”プレ武侠小説”として対で考えてみるとバイオグラフィ的にはきれいだなという。勿論『書剣恩仇録』は『鹿鼎記』のようには、意識的にズラされて書かれているわけではないわけですが。

ただデフォルト・無為自然(『書剣』)→創造・構築(メインの作品群)→解体・自然回帰(『鹿鼎記』)という流れは、言われてみれば当然のことかなと。(言ったのは自分ですが・笑)
混沌から生まれたものが混沌に帰って行った。ならばやはり、永久に金庸の新作は書かれることは無い?!という悲しい結論になりそうですが。(笑)


こんなところで。

(以下は文庫版)
書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会 書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会
金 庸 (2001/04)
徳間書店

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書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密 書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密
金 庸 (2001/04)
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書剣恩仇録〈3〉砂漠の花香妃 書剣恩仇録〈3〉砂漠の花香妃
金 庸 (2001/05)
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書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決 書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決
金 庸 (2001/05)
徳間書店

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『碧血剣』総評 

の、再読改訂版。


碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/04)
徳間書店

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『書剣』での”禊(みそぎ)”終了後の、真のデビュー作?!

正直前回デビュー作『書剣恩仇録』についてこんなこと(旧派武侠のラスト作)あんなこと(プレ武侠小説)を書いていた時点では、いいのかまた思い付きでそんなこと書いて、後で恥かかないかと心細い思いをしていたんですが、『碧血剣』を再読してみてその直観に間違いはなかった、少なくとも自分内では印象に一貫性はある、修正の必要はないとちょっと安心しました。

その一方で『射英雄伝』について書いた「『書剣恩仇録』でのデビュー時から、素直に延長していけばある程度書かれることが予測できるタイプの作品」という評価については、多少修正の必要があるというかあまりにも何の気なしに書き過ぎたなというそういう反省があります。
要するに『射』の集大成性、最大公約数性を強調するための記述だったわけですが、スタイル的には、作品の系譜的にはむしろこちらの第2作『碧血剣』の延長戦上にあるというのが素直な読みだと思います。文体的にも、馬鹿正直タイプの少年主人公の成長・冒険ストーリーという意味でも、また明らかに黄蓉の前身である男装好きの爆裂ファザコン小悪魔美少女夏青青の存在を見ても。

そう言えば『碧血』も『射』もどちらも「商報」系の掲載ですね。『碧血剣』が読者に好評だったので、似たようなのを一つということで、主人公の性格に”合わせ鏡”を付け加えて、脇役も豪華にして政治性の中身にも捻りを加えてと、パワーアップ版の”同工異曲”が『射』であると、そんな連載時の流れがあったのかも知れないなと想像しますが。

ともかく”プレ武侠”『書剣恩仇録』と”ポスト武侠”『鹿鼎記』に挟まれた、言わば金庸の「本体」の作品群の始点に位置する実質的なデビュー作、これが僕の推奨する(笑)『碧血剣』の位置付けです。


楽しきかな金庸

楽しい。とにかく楽しい。
ぶっちゃけあまり好きな方の作品ではない『書剣恩仇録』や『射英雄伝』と格闘を続ける内に少し忘れかけていた、金庸の楽しさ、自分がどんなに金庸が好きかということを思い出させてもらいました。

それが何かということですが、やれ鋭い歴史認識だ尋常でない豊かな教養だ、伝統中国小説の再発見者にして近代武侠小説の文学的地位の確立者だと金庸に捧げられる賛辞は数々ありますが、結局のところ僕が魅了されるのはそれら全てを背景にして尚、・・・・いやもっとはっきり言えば踏み台にして、ありゃ?何?と常に予想を裏切って突如飛び出すあっけらかんとした軽味、馬鹿馬鹿しさ、悪ふざけ、その跳躍力の途轍もなさ、無責任な楽しさなのですね。なーんてね、とか言われてる感じです。ちゃんちゃんという。

それらが所謂”作品的価値”かと言われると俄かには答え難いんですが(笑)、逆にそこらへんを見ないと意外と金庸は古臭かったりお子様向けだったり、現実にそういう評価があるようにそういう面も多いわけです。金庸が馬鹿だとは誰も思わないでしょうが、金庸作品があえて読むに値しないという評価は十分ありうると思います。
人類の叡智、中国四千年の知恵(笑)を振り絞っての悪ふざけ。大人だから分かる稚気の価値、頭のいい人にしか出来ない馬鹿。根底には「真面目になってもしょうがないよ」という”無常観””達観”があるんでしょうけどね。

構築主義的な作家ではあるのだけれど、本当に面白いのは壊れる瞬間、乱心する瞬間という変な人。


『碧血剣』の軽味

『碧血剣』自体について言えば、特徴的なのは自由さ、自然さ、そこから来る全般的な軽やかさというものが挙げられると思います。
それは一つは

・緊張のデビュー作『書剣恩仇録』で長年たまっていたものをとりあえず吐き出して日の光に当てて、整理整頓や再認識をひと通りすまし、かつその成果が世間に受け入れられた

という解放感と自信、それで得た自由。そしてもう一つは

・とはいえ初期(第2作)であるので、まずはオーソドックスに自分が書きたいと思う理想的・典型的な武侠小説の実現に素直に邁進している

という自然さ。

後者は特に、後の『侠客行』や『鹿鼎記』のような、”趣向”として意図的に「軽さ」を追求しているものとの比較において明らかだと思います。


・・・・一瞬『書剣恩仇録』への評価との差別化が分かり難く感じるかもしれませんが、簡単に言えば『書剣恩仇録』は”無雑作””無作為”『碧血剣』は”無邪気”ということです。態度として”無邪気”であるだけで、作品の構成的に未整理、無雑作なわけではない。むしろリラックスして分かり易く書けている。
ちなみに僕が第一稿で行なった「ビートルズで言えば割とあっさり出来ちゃったサージェント・ペパーズ」

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
ザ・ビートルズ (1998/03/11)
東芝EMI

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という比喩は、元々『書剣』=早過ぎた『ホワイトアルバム』に引っ掛けて言っただけで大した意味はなかった(笑)んですが、(ビートルズが)「ひととおり世間に受け入れられた後の、闊達で無邪気な創造性の爆発」という意味でなら、一応比喩としてまだ生かせるかなと。

各論へつづく)


『碧血剣』各論(1) 

碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺 碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/05)
徳間書店

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(総評)より。


ある主人公の半生

幼年時代

明朝悲劇の功臣である父・袁崇煥を早くに失い、その支持者たちによって構成された愛国秘密結社”山宗”の希望の星として大事に守られ、英才教育を受けて育つ。

少年時代(前半)

”山宗”の瓦解により武林の名門”華山派”に引き取られ、人里離れた高山の修行場でひたすら武芸の修行に打ち込む。3人しかいない第一世代の弟子の一人としてその奥義の全てを伝授され、また併せて”鉄剣門”の筆頭弟子木桑道人、既に故人である伝説の剣客”金蛇郎君”の武芸をも会得。若くして当代随一の実力者となる。

少年時代(後半)

満を持して山を降りる。主な目的は
・父の仇を討つ。(今上帝崇禎を殺す/倒す)
・関外満清族の中華侵入を阻止し、漢族国家を立て直す。
・その一助として、華山派の師穆人清も参陣している李自成の農民反乱を助ける。
の三つ。

しかし実際にやったことは
1.超絶トラブルメイカー美少女”夏青青”の尻拭い(と、なし崩しの恋愛ごっこ)
2.くだんの”金蛇郎君”の秘められた過去の謎解き(と、その一環としての宝探し)
3.焦家一党と”仙都派”の喧嘩の仲裁
4.ふと思い立って満清族の皇帝ホンタイジ暗殺を試みるが失敗。囚われて親父の顔で逃がしてもらう。
5.そうこうしてる内に上記李自成が都を落としに迫って来たので、居合わせたついでにちょっと内応。
等々。ちなみに数字は優先順位です。印象順位というか。番外として”木桑道人の碁の相手”というのも挙げるべきかもしれません。

少年時代の終わり?青年時代以降

気が付くと中華が居づらくなって来たので、飲み屋で知り合ったガイジンから小耳に挟んだ噂話を頼りに、仲間を引き連れて一旗挙げに国外脱出。


・・・・多少デフォルメ入ってるのは勘弁。悪意がこもっているように見えるのは気のせいです。(笑)
でもホント何もしてませんよね気が付くと。袁承志って。泰山、いや華山鳴動、小猿一匹。



袁承志というキャラクター

ほぼ余談なので読み飛ばしてくれても構いませんが。いくつか確認事項。


・袁承志は馬鹿ではない。

こんな(↑)調子なので、どうも郭靖(『射英雄伝』)や張無忌(『倚天屠龍記』)あたりと一緒くたにボンクラ系主人公の一人として認識される傾向がありますが(笑)、実は賢いんですよね袁承志は。翻訳ですが早い時期に”怜悧”などという形容が進呈されています(1巻p.98)。これはかの黄蓉などとも共通する形容詞で、手元の辞書によると「かしこいこと。りこう。利発」とか。
”怜悧”。見よこの涼やかな字面。・・・・いや、単に僕が好きなだけですけど(笑)。漢字っていいなあ。

・袁承志は若様である。

言わすもがなと言えば言わずもがななんですけど。
大功ある将軍、しかも科挙出身の教養人である袁崇煥の遺児で、みんなに大事にされてお坊ちゃまもいいとこ。陳国公の次男陳家洛(『書剣恩仇録』)とどっちが格上なのかはよく分かりませんが、ともかく筋目としては郭靖なんかではなくてそっちに近いタイプ。(にも関わらず印象は山猿っぽいですが)

・郭靖との同型性

こっからは僕の主観。
一つは幼年時代と少・青年時代との対比。多少オツムの差はあれどどちらも子供の時は骨っぽくて、果敢な行動力があって、いかにも”原石”という感じでした。さぞかし行く末はと思いきや、出来上がったのはなんか常に他人任せ成り行き任せのただの人の好いアンちゃんで。
腕白猿小僧時代→正義感の強い直球少年時代→スーパーサイヤ人になって微妙に邪悪味も加えた青年時代→巨大な使命感と自己犠牲、裏腹の変わらない理屈無用の戦闘マニア性をしぶとく併せ持った味のある壮年時代と、見事に一貫性とそれぞれの時代なりの精彩を表現し切った鳥山悟空という実例を知っている僕(ら)には何とも物足りなく思えますが、『碧血』『射』と2回繰り返してるからには金庸的にはこの描写でOKということなんでしょうね。

もう一つはいいかげん耳にタコの”成長”、あまり変わらないという問題。ただし袁承志の場合は「変わるまでもなかった」という感じですが。
立派な血筋と恵まれた天分、幾人もの優れた師匠の教えを受け、にも関わらず結果的には大してやることがなかった(笑)というそんな態で。ちょいちょいとそのたびちょっと頑張れば十分。元々馬鹿じゃないしぃ。お勉強(武術の稽古)だけはちゃんとやりましたよ僕という。

関連して郭靖との似て非なるところを言ってみると、同じく「父の仇を追う」宿命を授けられながらも、父の顔も知らずまた要するに私怨であって、いずれ復讐という行為の意味を深く考えざるを得なかった郭靖に対して、父親の記憶への自然な愛着を持ち、またその父親が同時に重要人物でありその仇を討つことが国家的大事と結び付いていて、取り立てて大きな疑問なく人生の目標を手にすることが出来た袁承志。
描写の問題とかは置くとして、設定的に郭靖と比べても袁承志の葛藤やそれによる成長とかは浅くならざるを得ないところがあるわけですね。

・・・・実際問題としては、ほぼ純分量的に話はほとんどそんな次元までは行ってないわけですけど。さわりだけというか。さすがにこれではマズイということで(笑)、『射』では金庸もそれなりに頑張ったんだと思います。


で、結論ですが。袁承志大好き!(爆)
いやあ、素直でおっとりでいられるならそれが一番ですよ。無駄な苦労はしばしば人の魂を腐らせる。
人生腹六分だよ。ねえ?袁承志。

さっさと行きます。(笑)


『碧血剣』各論(2) 

碧血剣〈3〉北京落城 碧血剣〈3〉北京落城
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/06)
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(1)より。


「歴史小説」としての『碧血剣』

ことほどさように実は色々起きているようで、史実の出来事以外にはこれといって特に何も起きていない『碧血剣』のストーリー。
戯れにこれ自体を史実だとしてみた場合、その性格づけとしては「李自成・呉三桂の乱 こぼれ話集」みたいなものになるのではないかと。”裏話”にも少々足りない気が。(笑)

以下は例の”武術描写”の件では、少々ネガティヴな引用の仕方をしてしまった現・新版”Kizurizm”のきつりさんの言。

物語のカタルシスを追求すれば史実に反してしまうが、歴史を変えることはできないのである。その枠組みでどれだけお話を作るかがやはり歴史小説の肝なのだと思うが、金庸氏はおそらくその難しさを理解してこれ以降の話はあまり史実とリンクさせないようにしたのではないか。(中略)現にこの作品以降、『鹿鼎記』まではあまり深くリンクはしていないように思えるし、あるいは主人公の目的に歴史を改変するようなものはなくなっているのである。

『武侠ノススメ』アーカイヴ


太字強調は僕。
おっしゃるとおりだと思いますね。金庸自身の言も引いてみると、こんなことを言っています。

私の小説の中に歴史的な題材を取り入れて、歴史小説を書くというのは、イギリスの作家のスコットとフランスの大デュマの影響をかなり強く受けています。(中略)基本的な歴史的事実に違反しなければ、ある程度までは自分の想像を入れることはできる

(『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』 神奈川大学評論ブックレット)


挙げられた中では大デュマの『三銃士』くらいしかまともに読んでませんが。あれを参考にすると”史実を背景にした法螺話”ということで、バランス的には『碧血剣』とも重なる気がします。
だからどのみち「歴史小説」とは言っても、いわゆる司馬遼太郎的なそれではないわけでしょうけど。むしろ現代日本での普通の用語法で言えば”歴史伝奇小説”、史実を背景とするタイプの伝奇小説で。

私の小説は『水滸伝』の方に近いからね。『三国志演義』は比較的歴史性が強いです。歴史を語る部分が多い。

『きわめつき武侠小説指南』


決定打とも言える分かり易い対照ですが、さりとて(『碧血剣』が)「史実と虚構の緊張感が上手く演出されていない」という結論には変わりがない(笑)ですね。
(歴史)伝奇小説なら尚のこと、このバランスが命。狭義の歴史小説の場合、極端に言えば史実を順番に並べてそれに自分なりの意味付けと、それから定番の”目撃者としての虚構の一般人”の2,3人も付け加えれば(笑)それで一応作品として成り立つわけですけど。一方で優れた歴史伝奇小説になると、どれだけ途方もない馬鹿話に仕上がっても、でもなぜかそれこそが本当に起きたことに思えて仕方がなかったりします。

そういう緊張感はハナからないですね。あくまで「武侠小説」であって「伝奇小説」という意識で書いているわけではないと言えばそれまでですが。ていうか日本の(伝奇小説)が特殊なのかも。


「歴史小説」という強迫観念

再びきつりさん。上の引用の”(中略)”として隠した箇所です。

このあたり、歴史小説のほうが武侠小説より上と考えているふしがある氏としては挫折であったのではないかと推察されるのであるが。


次は僕が初読後の第一稿で書いたこと。ちょっと長い。

プロローグとエピローグ

『碧血剣』の全体の構成は大まかにこうなっています。

プロローグ(第一章?第二章途中)

ボルネオ島ブルネイ国(当時中国の勢力圏、一種の桃源郷的位置付け)からの訪問者張朝唐主従が、(子供時代の)袁承志一派の旗揚げ騒動に巻き込まれ、救われてブルネイに帰るまで。

本編(第二章?第二十章途中)

袁承志が成長して一人前になり、明末清初の大混乱の渦の中に飛び込み、苦闘する過程。

エピローグ(第二十章残り)

顛末の結果を見届けようと再び中国本土を訪れた張朝唐と再会した袁承志が、時を経ても何ら変わらぬ中国のありようとその中で悟った人の世の無常に胸を衝かれ、張朝唐の勧めに従い海外に新天地を求め中国を脱出するまで。


読んでみると分かりますが、さして長くもないこのストーリーにあえて付されたこのプロローグとエピローグは、感覚的には唐突または拍子抜け感の源になりかねず、内容的にもあってもなくても成立するようなそういうものだと思います。本編部分の、運命の子袁承志が名前の通り亡き父の志を承けて立ち上がり、奮闘し、やがて夢破れる話をちゃんと書けばそれで十分だと思います。ただでさえ、金蛇郎君の回想エピソードが大きな部分を占める二重構造になっているわけですし。

それでもそれらには一定の効果・意味はあって、つまり「本編」のみなら純度の高い、血湧き肉踊る奇想天外荒唐無稽な少年冒険ロマンになっているものを、プロローグとエピローグが視点を複層化することによって俄然「歴史小説」性が高まる、歴史や文明というものの意味を考察・反省したそういう小説ですよという体裁が整えられるということです。・・・・かなり急ごしらえではありますが。

ここらへんは照れなのか打算なのか、本編のノリノリの武侠ロマンだけではどうしても終わりに出来なかった、作家金庸のこの時期特有の何らか自意識的問題があるのだろうと思います。後代の読者からすれば余計なことを、ちゃんと書けてるんだからもっと自信を持てよという感じですが。


・・・・まあそういうことです。(笑)


まとめて言うと、きつりさんもおっしゃってるようにコンプレックスなのか何なのか、この時点での金庸は武侠小説を”ちゃんと”「歴史小説」にしなければという強迫観念が割りとはっきりあって、それでこんな風な細工もしてみるんだけどどうも上手くいかない。
それで徐々にそういうことは意識しなくなって、(別系統の『雪山飛狐』飛ばして)次の『射英雄伝』ではまだ意味深なタイトルをめぐる不透明なんかも残りますが、以後はもうかなり自由に書くようになって変なぎこちなさや史実と虚構の分立が目立つ散漫さなどが顔を覗かせることはなくなったと、そういう筋書き。

ラストです。


『碧血剣』各論(3) 

碧血剣〈3〉北京落城 碧血剣〈3〉北京落城
金 庸、岡崎 由美 他 (2001/09)
徳間書店

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(2)より。


それでも大好き!『碧血剣』

アホだ。
しょせん僕はそれほど金庸をマジに受け取ってないということかも知れません。何かを教えてもらおうとは思っていないというか、既に知っていることを舐め回して遊んでいる秘密クラブの会員的というか。
まあこの作品に関しては、元々ひどくガードの甘い作品なので、あえて攻めるのも味気ないというかむしろ乗ってあげて一緒に弾けるのが上策というか。ネチネチ攻めたり、脳を緊張させて読むのが上策の作品も後にはあります。

意味はない、気持ちがいいだけ。ルースィー・イン・ザ・スカーイ・ウィズ・ダアーイモンということでひとつよろしく。


(おまけ)女性キャラ番付

というわけで(?)のお気楽企画。微妙にリンク(?)。
結構駒も揃ってるので、金庸の女性キャラ造形の原型的なものを一覧するにもいいでしょうとか一応言っておきますけど、実際にはセクハラ大会。(笑)

1位 何鉄主(何守)

やはりどちらかというと旧名がいい。字も簡単だし。南方イ族”五毒教”という、地理的にも道徳規範的にも、中華世界の周縁部分からやってきたトリックスターにして悪の天使(笑)。無益な殺生がだ?い好き、だって楽しいんですものホホホ。あらきれいな血しぶき、明日はきっと晴れですわ。
金庸の全女性キャラの中でも屈指の魅力だと思いますが、「付き合いたい」というのともちょっと違うんだな。むしろこの得難い率直さや柔軟性、本質的な部分での明るさは、”女友達”として至宝級。お近付きになれれば人生の果実の半分くらいは手にしたも同然。
逆にうっかりその気になられた場合が問題ですが、まあ気の済むまでどうぞと好きにさせるかな。飽きたらまた友達に戻りましょう。

2位 阿九(ナニ公主?)

お忍びで盗賊に身をやつす今上崇禎帝の皇女。正に男サイドからの妄想系”お姫様”。
エロい。とにかくエロい。片腕でも全然OKですが、重心が不安定なので出来ればもう一本も行っときたい。行くよ?いいかい?
後の(かなり)『鹿鼎記』での厳格な尼さん師匠ぶりとは、「浮き世離れ」という共通項はあっても今イチ結び付きにくいんですが。愛しい袁承志の前ならトロけるのかな。
気が付くと1位も2位も隻腕系ですけど、深い意味はありません。(笑)

3位 夏青青(温青)

情け無用喧嘩上等の凄まじいカラミ女ぶりですが、少なくとも嘘はないからねこのコは。阿九の美貌を見て素直に「負けた」と思うところとかもかわいい。
ただひたすらに欠落を埋めようと、ワタシにかまってと、”愛を求める気持ち”というものの実相を感動的なほどあからさまに体現しているキャラですが、金庸の視線としてはそうした”愛”を結局はまとめて切って捨てる仏教哲学的なそれと、そうした達観を元にある種「かわいい動物」を見るような温かさとがごちゃまぜになっている感じか。かわいいよ夏青青。でもあっち行ってくれ。

4位 焦宛児

父を支えて家業を助ける健気なしっかり者。乱れるところを見てみたい?
こういう学級委員タイプは僕のろくでなしぶりを笑って愛してくれるパターンと、毛嫌いして寄ると触ると揉めるパターンと割りとはっきり二分されるので、ちょっと試してみないと分かりません。

5位+ 温儀(夏青青の母親)
5位? 安小慧

似たような感じ。普通の女。温儀の+分は不幸による味の濃さ。(笑)
どちらも人生の選択(男の選び方)を割りと成り行きの”情”で決めている感じですが、考えても別にアタシにそれ以上何もないしぃと無意識に身のほどを弁えているといるようなところも。
そういう平凡な女温儀が怪傑金蛇郎君の運命の女だというのは微妙にはまりが悪い感じもしますが、ある意味(娘の)夏青青同様に元々の欠落の大きかった人ですからね、金蛇さんは。穴があったら埋めてみたいてなもんで。どのみち金庸のカップリングは縁と義理が8割方ですし。魂というより。

7位 何紅薬(若い時)

恐怖のカルト集団五毒教の掟を破ってまで身を捧げた金蛇郎君にぼろ雑巾のように(笑)使い捨てられたかわいそうな女(ヒト)・・・・の、はずなんですが、どうにも自業自得、独り相撲の感が。根本的に自己中心的だからでしょうね、ハナから相手の姿なんぞ見えていない。皮算用が外れただけじゃんという。
猫と美人には滅法甘い僕ですが、これはパスかな。心を開いても何も返って来そうにない。

8位 安大娘(笑)

安小慧のおっかさん。酒が入るとちょっと女になるのが怖いので、陽が高い内に帰ります。

9位? 孫仲君
10位? 帰二娘

悪夢の師弟コンビ。順位は若い順。(笑)
言っちゃうよ?だから女は!って。ノータイムで差別だ!と返って来るだろうけど、気にしない。
こんな女(帰二娘)を女房にしてる時点で、”神拳無敵”帰辛樹の人間の底も知れようというもの。「尻に敷かれてる」のではなくて、本質的な部分での自信の無さを既成事実的に補ってもらってるんでしょう。嫌な共犯関係だ。
孫仲君夏青青の違いが分かり難いという人もいるかもしれませんが、『贅沢』(前者)と『飢え』(後者)の違いという感じでどうですか?


番外 ジャクリーヌ

軍隊に随行して来た通りすがりのホルトガル女。(しかし名前が・・・・)
素材的にはかなり上位に来ると思いますが、ほぼ”白人版何鉄主”という感じでなんか卑怯なのでスルー。まあその天然のお姫様っぷりも併せて、”何鉄主と阿九の間”ということにしてもいいですが。
ちょっと金庸の「闊達な」「現代的な」タイプの女性キャラのネタバレという面も。要するに、実は中国人ではないみたいな。


・・・・以上、クレーム等は受け付けます。(笑)


(終わり)



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