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『書剣恩仇録』総評 

書剣恩仇録〈1〉秘密結社 紅花会 書剣恩仇録〈1〉秘密結社 紅花会
金 庸 (1996/10)
徳間書店

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”最初から完成された作家金庸”・・・・の、習作

完成されてるのに習作とはこれいかに。

さすがにデビュー作ですし、しかも作家デビューに向けて長年準備を重ねて来たわけでもないのにいきなり「毎日連載の新聞小説」なんて過酷な条件ですから、多少はバタバタするのも致し方はないと、とりあえずは常識的にも言えると思いますが。

ただそういう言い訳的な理由とは別に、むしろ作品に関する意識付けの問題・性格が、このデビュー作の「習作」性、今イチピントの合ってない印象をもたらしているより大きな原因なのではないかと思います。狭義の”技術”という意味では最初から何も問題はないし、こめられている思想そのものも後代に比べて別に青いとかそういうことは全然なくて、それこそ”完成”されている。

とりあえず具体的な難点としては
(1)文体が(他の作品に比べて)硬い。他人行儀。
(2)パートは充実しているが、全編としては何かそのパートが機械的に継ぎ足し継ぎ足しされているだけのような印象があり、全4巻と特に長い方ではないのに個人的には全作品中で一番長く感じた。え?まだ続くの?
(3)作品の基本的身分表示としての「大義名分」がうるさい、わざとらしい。(第1期の特徴の甚だしいもの)
・・・・といったことが挙げられると思います。

(1)に関してはやはり、単純に自信がまだなかった&こなれてなかったということでしょうね。
(2)についても当然新聞小説の細切れのペースがまだよく把握できなくて、結果パートの繋がりがだらだらと足し算になってしまったか、もしくは安全策でパートはパートとして最初から割り切って単純化して書いたか、いずれにしても広い意味での未熟・不慣れは否定できない原因としてあったと思います。

でもそれだけではないのではないかと。


習作だけど「集大成」、「決定版」

またもやなんなんだという感じですが。(笑)

つまりこういうことです。
なろうと思ってなったわけではなく、かつ今後特にこれで身を立てて行こうという予定もなかった”腰掛け作家”金庸にとって、このデビュー作は同時にラスト作でもあり得たわけです。
また一方で文学についても武侠小説についても溢れんばかりの知識・教養を持ち、沢山の言いたいことをしかも最初から十分に洗練された形で準備万端保持していた、そういうおよそかわいくない(笑)「新人作家」金庸でもあったわけです。

そこでどうしたか。
新人の身の程を知るわけでもなく、アマチュア時代から育んだピュアな想いを凝縮した形でぶつけるわけでもなく(そもそもそんなものはない)、金庸は「この際だ」と『武侠小説』という形態で吐き出せるものをいきなり全部吐き出してしまおうとした、あるいは『武侠小説』ということでイメージ出来る完璧なもの/包括的なものをいきなり書いてしまおうとした、そういう風に僕は感じました。
それがこの積算的にゴテゴテした構成になり、それに慣れが追い付かないことでやや散漫にとっちらかった全体的印象ともなったと、そういうことではないかと。

・・・・言わば ビートルズがいきなり『ホワイトアルバム』

ザ・ビートルズ ザ・ビートルズ
ザ・ビートルズ (1998/03/11)
東芝EMI

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でデビューしてしまったようなもの と、こんな比喩を使えば分かる人には分かるでしょうか。そういう「集大成」、「決定版」。
どんなに実力があってもいきなり『ホワイトアルバム』は無理ってもんで。

『書』と『剣』と『恩』と『仇』と。タイトル自体、武侠小説の目録のようです。

各論につづく)

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『書剣恩仇録』各論(1) 

(総論)より。


書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密 書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密
金 庸 (1996/11)
徳間書店

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『書剣恩仇録』に関する悪評(笑)

当時大評判を呼んだらしい記念すべきデビュー作ですが、その後東アジア中に広がった金庸読みの間では、相対的にかなり評判の悪い部類の作品として落ち着いてしまっています。かく言う僕も初見の印象はうーんという感じでした。


1.主人公陳家洛の不人気

成長の過程、過去のことは書きませんでしたからね。成長してからの、最後の数年間の話です。



この人はね、中国の伝統的な知識分子です。大きな官僚の家庭で育てられた。(中略)彼自身は英雄好漢ではなく、伝統的な中国の読書人なんです。


どちらも『きわめつき武侠小説指南』における金庸自身の言葉ですが、ここにあるように

・作中でドラマチックな変容・成長を遂げてくれないので感情移入がし難い。
・のぺっとしたエリートで、建て前主義過ぎて人間味が足りない。

という苦情が陳家洛についてはよく聞かれます。


2.構成の慌ただしさ、ぎこちなさ

上の1番目の引用はこう続きます。

岡崎 どうしてですか。やはり処女作だったから・・・・?
金庸 じっくり引き延ばして書く時間がなかったからね。だから、ストーリーの展開が速すぎる。

(『きわめつき武侠小説指南』p.66)


僕自身、先に「難点」の(2)として書いたことですね。


3.”滅満興漢”の「お国のため」テーマの空々しさ

これも(3)として書いたこと。

特に誰もが愛してやまない悲劇のヒロイン”香香公主”カスリーをその為に見捨てた恨みが中心となっているわけですが、また1.の”陳家洛のパーソナリティ”の問題とも不可分の関係があります。それを強調したがゆえに、ああいう建て前主義的な性格になったという。


以上基本的には同感なわけですが、1,2については必ずしも一方的に欠点と言い立てるのには疑問というか同情的な部分があるので、(その3)以降でこれから反論・弁護を試みてみます。

3についてはまあその通りですね(笑)。ただ

・そもそもが「(清の)乾隆帝出自伝説」「香妃伝説」といった、中国で巷間よく知られたエピソードを重要なモチーフとした比較的公共性の高いストーリーであり、ある意味本質的には”仕様”だとも言える。
・そしてそうした歴史性/公共性を積極的に導入するというのは金庸の武侠小説の重要な特徴であり画期性であるが、ただこのデビュー作ではそれの文学性・抒情性との匙加減が今一つうまく行っていない。

という事情は鑑みる必要があることを付記しておきます。

では続いてイクスキューズのパートへ。

(2)につづく)


『書剣恩仇録』各論(2) 

(1)より。


書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃 書剣恩仇録〈3〉砂漠の花 香妃
金 庸 (1996/12)
徳間書店

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1.主人公陳家洛の不人気 について


”非・キャラ小説”としての『書剣恩仇録』

『天龍八部』といえば、処女作『書剣恩仇録』で、ストーリーから構想を練る方法をとった金庸さんが、うって変わってキャラクター造形から構想に入ったと語っている作品である。

(『武侠小説の巨人 金庸の世界』)


金庸の作品が程度差はあれ、基本的に”キャラ小説”ではないということは既に書きました
当然『書剣恩仇録』もそうで、しかも上にあるように恐らく最もそうした特徴が強く出ている、つまり近代/西洋小説的な”人物描写”、「人間探求」的な志向性の薄い作品と言っていいのだと思います。

だからこの作品への後代の読者からの最も多く聞く不満、「主人公陳家洛のキャラが薄い」「感情移入がし難い」ということも、確かに”名門子弟の保守的知識人”という陳家洛個人の性格によるものも少なくはないでしょうが、基本的にはこの作品の登場人物である宿命であり、ただその個性がそれを強調している、または「主人公」という期待感がその印象を強くしているというのがフェアな評価なのではないかと思います。


キャラ(小説)と”成長”

前項の引用部分において、金庸は要するに「処女作でじっくり書き込む時間やスペースがなかったから陳家洛の”成長”が書けなかった」と言っているわけですが、本当にそうなのかなと僕は思う部分があります。
全4巻の『書剣恩仇録』と全5巻の『射英雄伝』、大して長さは違わないですし、そもそも『射』の長さは脇役の膨らませ過ぎによるところが多い(笑)とも言えると思いますし。やろうとすれば出来たはず。

理由付けとしてはむしろ、上の「ストーリーから構想を練る方法をとった」という方が本質的なんじゃないかと思います。そもそもそういう体質の作品ではなかったということ。
つまり・・・・例えば試しに幼い陳家洛が”天地怪侠”袁士霄の訓導の元、幾多の苦難を乗り越えて「成長」し、立派になってあの実際の『書剣恩仇録』の陳家洛となって現れる様子をイメージしてみても、そういうストーリーを構想しようとしても、どうもしっくり来ないんですよね。文体と合わないというか。単なる書き足しですむとは思えない。別の作品にするしかない

そもそも”成長”や(必ず)”成長する主人公”という概念自体、本質的に”キャラ小説”(と僕が便宜上呼んでいるもの)的なものだと思います。
キャラ/人物への重点的着目、そこから作者や読者の自己投影的な感情移入の受け皿として選ばれた特権的なキャラとしての「主人公」。そしてその「主人公」は何らか複雑で充実した内容の”内面”を持って思い悩み、やがて困難を乗り越えて”成長”して行くことを自明のこととして期待される。

金庸の作品は相対的には”キャラ小説”性は薄いわけですが、一方で武侠小説の近代化の推進者として、充実した内面を持って成長・変化する主人公を描こうとしていたのも明らかなわけです。
だから陳家洛についてもそういう意図や期待感は持ってはいて、それに従って読者も無意識にそういう文脈で読もうとするわけですが、実際にはそうなっていない。それはいち陳家洛の問題というよりは、作品自体にそういうキャラを住まわせる構造・空気があまりにも出来上がっていなかったということで。

要するにマズいのは俳優(陳家洛)じゃなくて作品、つまりは監督・脚本(金庸)の方だよと。
そんな話。(笑)


エリートで何が悪い?!

そうしたドラマティックに「成長」する主人公・人物を描こうとする場合、落差が大きくなる分最初の設定を低めにしておいた方が分かりやすいのは明らかで、そういう意味でエリートでボンボンの陳家洛というのは難しいキャラクターなわけです。
ただ一方で主人公サイドというものは基本的には清く正しく品が良いものでありますし、読者の願望を仮託されて活躍する都合上(笑)、ある程度調子よく強くあってもらわないと困るわけで、そういう意味でドジでノロマな亀(郭靖?・笑)と同じくらいに、恵まれたバックボーンを持った”王子様”系キャラというのも王道なわけです。そして陳家洛にも実は、本来は、そういう魅力はあったのだと思います。

思い出してみて下さい。序盤で陳家洛が紅花会の二代目を継ぐ継がないでグズグズしていた時、延々これやるのかな、でもってこいつの活躍を見るには気長に”成長”を待たなきゃいけないのかな、あるいは基本的にアムロレイ/碇シンジ的なウジウジ主人公なのかなと気が重くなりませんでしたか?(笑)
そんでもっていったん引き受けた陳家洛が妙にあっさりと手練の武芸やてきぱきとした指揮能力を見せた時、多少の拍子抜けは感じつつも正直ほっとした&そのあっさり感に痛快さを覚えたということはありませんでしたか?そんなにいつもいつも汗臭い根性物語が読みたいわけではないですよね?

だから陳家洛は陳家洛で別に良かったはずなんですよね。そういうキャラとしてちゃんと描けば。ただ金庸の方針が上手く定まらなくて、伸ばし切れなかっただけで。
後に『飛狐外伝』(’59)で再登場した時の陳家洛は、貴公子の基本性格はそのままに、結構厚みも味もある素敵なおじさん(?)として描かれていたと思います(笑)。『書剣恩仇録』(’55)での若き日の陳家洛も、同様にもう少し積極的な魅力のある人物として描かれてもおかしくはなかったはず。だから『飛狐外伝』はキャラとしての陳家洛のリベンジというか、作家金庸のお詫びというかけじめというか(笑)、そんな風なニュアンスでも読めるかなとそう思います。

(3)につづく)


『書剣恩仇録』各論(3) 

(2)より。


書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決 書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決
金 庸 (1997/01)
徳間書店

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2.構成の慌ただしさ、ぎこちなさ について


”ゼロ”期の金庸

なぜ武侠小説を書き始めたかというと、私は小さいころから非常にこういうジャンルの小説が好きだったのですが、ちょうど自分の新聞を主宰していましたので、「連載小説」という欄は書く人がいなかったので、ほかに書く人がいないなら自分で書こうと思い、(中略)
だから、最初は読者に好かれるかどうかということはまったく考えていなかったわけです。

(『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』 神奈川大学評論ブックレット)


好きだったから書いた。たまたま書く機会があったから書いた。どう受け止められるかは分からなかった。

非常に初々しい(笑)というか、ある種無防備な金庸さんの当時のありさまが語られていますね。一応先立つこと3年前に梁羽生はデビューしているはずですが(武侠Wiki)、それが支えになるほどにも”ジャンル”としては確立していなかったという風に聞こえます。

つまり少なくともこのデビュー作『書剣恩仇録』は、右も左も分からない中、自分の中にあった”旧派武侠”またはそれ以前の武侠小説的なものの蓄積を、かなり直接的に混沌とした形で吐き出して繋ぎ合わせたものと、そう考えていいのだと思います。
構想としては、意識としては人物も歴史もテーマ性も描き込んで、展開もガッチリしっかりやってという『射英雄伝』的なイメージは既にあって、そういう作業をしていたつもりだったのかもしれないですが、その前に吐き出すべきもの、陽の目を見るべきもっとプリミティヴな武侠的なものが金庸の中にあって、言わばこうした意識と無意識が渾然となって同時に表現されているのがこの『書剣恩仇録』なのではないかと。

先に比喩的に、「デビュー作にして”集大成”的な性格を持っている」と書きましたが、言い方を変えるとこれは『新派武侠』作家金庸のデビュー作にして、(実在はしませんが)『旧派(以前)武侠』作家金庸のラスト作でもあるとそんな感じです。


”ゼロ”期金庸の楽しさ

以上、主に全体の造型面での不具合を指摘して来ましたが、それはそれとして、にもかかわらず、だからこそ、個々のシーンやエピソードの充実具合、イメージの豊潤さは圧倒的です。 (中略)
逆に全体像が見えないまま、作者自身も初めてで手加減が分からないまま、惜しげもなく際限もなく、次々に英雄豪傑奇人変人美男美女(アーンド爺婆)がワラワラと登場して、一つ一つが一編のA級映画のクライマックスシーンになり得るような凝った趣向の名場面が、ビュンビュンと現れては消えて行って休む間もありません。

凄い!という部分と無茶苦茶!という部分が混在してますけどね。ともかくもガードの仕方が分からないので(笑)、とりあえずはやられます。


自分で自分を引用するのも変な感じですが、これは改訂前の、初読の印象によるこの(その4)の一節。その後読み返してみても、確かにこういうところはあります。(やっぱなんか変・笑)
雑だったり浅かったり、淡々とシーンが繋ぎ合わされているだけに見えるところは確かにあるんですが、反面それが大らかで生き生きとした印象も与える。むしろこれが元々の、庶民の娯楽B級小説としての武侠本来の楽しさなのかなと、特に『射英雄伝』の意味性と格闘した後に読むと感じました。(勿論(その2)の3.で述べたように『書剣恩仇録』には『書剣恩仇録』なりの意味性はあるわけですが、浮き過ぎてて逆に忘れてしまうというところが(笑))


例示:張召重をめぐる力関係

一例として、例えば張召重という人がいます。乾隆帝を別にすれば主人公たちのほぼ唯一の敵/ライバルで、最初から最後まで反則なくらいに強い、ある意味ではかっこいい”ザ・仇役”。抜群の存在感で善と悪の作品の基本構図を支える特権的なキャラで、だからそう簡単に負けてもらっては困るわけです。それなのに・・・・

相手の少なくとも五人は、おのれと互角、いや、上手の者もいる。(単行本4巻150ページ)


これは終盤砂漠の迷宮の入り口付近で、いよいよ追い詰められた張召重のつぶやきですが、僕何かここ笑っちゃうんですよね。なんだ五人て。なんで五人もいるんだよ。

とりあえずこの”五人”とは誰かですが、
1.武当派の兄弟子陸韮青
2.紅花会四番差配”奔雷手”文泰来
3.”天山双鷹”の一、陳正徳
4.”天山双鷹”の二、関明梅
5.”天地怪侠”袁士霄
だと前後から思われます。「上手の者」は5.袁士霄ですね。

1.はいいです、兄弟子だし。(でも出来れば長兄馬真同様少し腕が落ちるくらいでいいと思いますが。)
2.もまあ許します。大部分の時間を虜囚の境遇と重傷の身で過ごす眠れる獅子ですし。
ただ3,4,5の爺婆は・・・・。お元気で結構とはいえ(笑)、新世代の怪物たる張召重が、そう聞き分け良く旧世代に譲ってしまうのは。まして風下に立って(袁士霄)そのまんまというのは。

しかもここに更にウイグルの奇人アファンティがいるわけです。なんなんでしょうあの人は。結構話が押し詰まってから突然出て来て、わけもなくやたらめったら強くて(笑)。反則ですよね。

こうして見渡すとあれほど憎々しく強かった張召重が、何か武林の勢力図の空隙を衝いてうまく立ち回っただけの小物に見えかねないから不思議です(笑)。いや、そんなことはないんですけどね。間違いなく特権的な仇役なんですけどこの人は。ただ色々出している内に気が付くとそういう力関係になってしまったという。

『射雕英雄伝』を題材に金庸作品の”非・キャラ小説”性を論じた時には、そのかわりに、それとのセットとして作品全体の高度の構築性・形式性というものがあるということを述べました。キャラはその精巧な構築物の部品であると。そしてそれには要所要所での、「誰が誰よりどう強いか」というような理由付けも含まれるわけですが。
ところがこうして見ると、『書剣恩仇録』の段階ではそういうものすらもあまりないように見えます。もっとこう単純に稚気で、思い付きで書かれているように見える。それが楽しい。

(4)につづく。


『書剣恩仇録』各論(4) 

(3)より。


作者と作品/まとめ


引用付け足し。

それはいっぺんにさらけ出さないようにすべきだったんですが、(最初の頃は)うまく書けてないんですね。登場人物が最初から善人、あるいは悪人として完結しているのはいいことではありません。

きわめつき武侠小説指南 p.81)


このように作者自身にもある種”失敗作”的烙印を押されてしまっている『書剣恩仇録』ではあります。
僕なりに弁護(笑)を試みて来ましたが、努力して常により良い作品を書こうとしている作者の立場としては、やはりこういう評価になるのは仕方ないでしょうね。

ただ作者自身も含めて、後の作品を知っている後代の読者はどうしても後知恵で物を見ようとしてしまいますが、一方で常に作品はその時その時単品として書かれるのであって、それは決して「歴史」的パースペクティヴに還元し尽くせるものではない。
また往々にして作者は過去作を恥じたり終わったものだと片付けたがり、あるいは金庸自身が実際に繰り返し行なっているように(笑)『改訂』みたいな作業をやりたがるものですが、読者にとっての、またあえて言えば客観的な価値はそれとはまた別のものです。技術的巧拙=作品の価値ではないし、拙かろうとなんだろうと、どちらかと言えばオリジナルな形で残しておいて欲しいと願うものだと思います。リベンジは次回作でお願いしますというか。(笑)

一言で言えば作者は作者、作品は作品というか。だからこそ、こういう「評論」の類も成立する余地・意義があるんだとも言えますし。
失敗してるから失敗作とは限らない、増してつまらないとは限らない。


『書剣恩仇録』と『鹿鼎記』


(その3)で陳家洛について書いている時にふと思ったことなんですけど。
この処女作と最終作は対照的だけど似てるところがあるなと。特に主人公の性格を通じて。
どういうことか。

つまり『鹿鼎記』の主人公”韋小宝”は、娼婦の息子のろくでなしという意味では貴公子陳家洛と対照的ですが、一方でいわゆる武侠小説(の主人公)的な典型的「英雄好漢」ではないこと、それにも増して最初から最後まで目立った「成長」を見せないタイプの主人公であるという意味で、実はこの両作の主人公は好一対的な存在と見ることが可能なのではないかということです。

・・・・分かる人にはもう分かってますね、僕の魂胆が。(笑)
そうです、だから『鹿鼎記』(’69)と『書剣恩仇録』(’55)はそれぞれに、間に挟まった金庸の典型的な「武侠小説」群とはズレた作風を持ち、『鹿鼎記』が武侠小説をまとめて相対化した”ポスト武侠小説”なら、『書剣恩仇録』は言わば”プレ武侠小説”として対で考えてみるとバイオグラフィ的にはきれいだなという。勿論『書剣恩仇録』は『鹿鼎記』のようには、意識的にズラされて書かれているわけではないわけですが。

ただデフォルト・無為自然(『書剣』)→創造・構築(メインの作品群)→解体・自然回帰(『鹿鼎記』)という流れは、言われてみれば当然のことかなと。(言ったのは自分ですが・笑)
混沌から生まれたものが混沌に帰って行った。ならばやはり、永久に金庸の新作は書かれることは無い?!という悲しい結論になりそうですが。(笑)


こんなところで。

(以下は文庫版)
書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会 書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会
金 庸 (2001/04)
徳間書店

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書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密 書剣恩仇録〈2〉乾隆帝の秘密
金 庸 (2001/04)
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書剣恩仇録〈3〉砂漠の花香妃 書剣恩仇録〈3〉砂漠の花香妃
金 庸 (2001/05)
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書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決 書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決
金 庸 (2001/05)
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