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『雪山飛狐』総評(1) 

雪山飛狐 雪山飛狐
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/02)
徳間書店

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レビュー第3弾。
いずれどうなるか分かったもんじゃないですが、だいたいこんなパースペクティブで書いてます。はい。

さて『雪山飛狐』ですが、一巻ものと短いですが、意外に難物。むしろ無視してしまった方が流れとしては書きやすい。(笑)
一言で言って意義付けが難しいんですね。読み応えがあるないという意味では遥かに疑問の残る『越女剣』は、上の参考エントリーでも書いたように”金庸武侠の下書き”みたいな見方が実際出来ると思うんですが、『雪山』は・・・・。はっきり言って、バイオグラフィ的には存在しないものとしても全然支障が無いような。
いや、面白いは面白いんですけどね。

それについても一応僕なりの仮説を立ててみたので、後ほど。


”嵐の山荘”ミステリー?

『書剣”ホワイトアルバム”恩仇録』、『碧血”サージェントペパーズ”剣』にちなんで『雪山』もビートルズで例えてみると・・・・うーん、『イエローサブマリン』かな、ちょっと無理矢理だけど。
つまり一度はやってみたかった”嵐の山荘”ミステリー、一度はやってみたかった映画のサントラということで。

ただし”嵐の山荘”ミステリーとは言っても、別にそれによる「密室性」が主題になったりはしてませんけどね(笑)。あくまで雰囲気作りのレベル。
あえてミステリーということで言うならば、”複数の語り手による過去の事件の説明のズレが生み出す謎”という意味で、少し「叙述トリック」的なところはありますが。

いずれにしてもこれは一種のシャレ、若い時から西洋小説も好んで読んでいたという現代中国人金庸さんが、せっかく書き手に回ったのでちょっとやってみた同窓会的な趣向ではないかと。
伝統中国小説にも多分似たような趣向はあったんじゃないかとは想像しますが、そのテのミステリーを読んだ経験のある人には、明らかに欧米&日本の西側のそれの臭いが漂っているのは感じられると思います。

一方でその密室性/閉鎖空間性を前提に、「食料を捨ててしまうことで自分諸共ゲストを(飢えによって)皆殺しにする」というえげつない殺人手段が、個人的な怨恨ではなくて恩人への義理という動機によって、しかもいかにも当たり前のものとして計画されるというのはいかにも中国的、武侠的だと思いますが。他の小説ジャンルではなかなか説得力を持たせるのは難しいでしょう。


胡斐という”主人公”

ところでこの『雪山』の実質的主人公が、回想エピソードの中の胡一刀と苗人鳳の好敵手二人であることは論を待たないと思いますが、そこで問題になるのが書名にもあるように表向きの主人公である、”雪山飛狐”こと胡斐の位置付け。
ぶっちゃけ「主人公」としては随分落ち着かない扱いですよね。一巻ものなのにさんざん待たされて(しかもその間の話題の中心は自分ではない)登場した挙句、一応かっこいいところを見せて速攻で恋なんかもしますが、でもラストはアレですし。(笑)

ところがその一方で、妙に示唆的な細かい描写だなと思うところも僕にはあります。例えば

雪山飛狐と名乗るだけあって、普段ならば聡明で臨機応変な胡斐(p.316)

あるいは

胡斐は普段から悪人を徹底的にやっつける方である。(p.326)

といった記述。

”普段””普段”って、それを具体的に見せるのが作品てものでしょうが、そんな主人公の性格を全部作者が説明してしまって終わりってそれどうなの?金庸先生と、筋としては突っ込まなくてはいけないところだと思います。
特に前段部分は、なまじ「狐」と「聡明で臨機応変」との結び付きがイメージ的に魅力的なだけに、そこ見たいそこと、それこそ油揚げの臭いだけかがされた狐のような気分になります。(笑)

勿論あっさり言ってしまえば長さ的に書くスペースが無かったということでしょうが、ではならばなぜそんな構成になってしまったのかという。
そして何より不思議なのは、そういうストーリーテリングの定石的にはまずい書き方をしながら、実際に作品を読んで僕が金庸の説明に説得力を感じなかったかというと、実は感じたということです。(だから僕の”難癖”にピンと来なかった人も多いでしょう。)


(2)につづく。


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『雪山飛狐』総評(2) 

(1)より。


『飛狐外伝』との関係

周知の通り、後に『飛狐外伝』においてこの『雪山飛狐』の言わば”前日談”が語られることになります。
「胡一刀と苗人鳳」の関係も含めて、飛狐シリーズの内容的なことについてはそちらの方で一緒に語ろうかと思ってますがそれはともかく。

なぜ明らかに駆け足の不十分な記述でありながら、(ラストを除けば)『雪山飛狐』の描写にそれなりの説得力が感じられるのか。それは、実は『雪山飛狐』の背後に既に『飛狐外伝』が存在していたからではないかと。
よく「書かないところまでちゃんと考えてから書け」(それによって厚味やリアリティが生まれる)と言いますが、その通り、金庸先生はちゃんと考えてあって、それであの程度の記述でも説得力が生まれたんですね、いやあさすが。

・・・・ではなくて(笑)。いや、そうなんですけど。
つまりですね、僕が思うに『飛狐』ストーリーは、最初から『雪山』と『外伝』両方を含めた、ひょっとしたらそれ以上の広がりを持ってまとめて構想されていたのではないかと。だから本来ならそういうものとして四巻ものなり何なりの規模でちゃんと展開されるはずが、諸般の事情で一巻分のスペースしか取れずに、それで無理矢理書く為の方便or動機付けとして”嵐の山荘”ミステリーという趣向に手を出したというそんな感じなのではないかと。


『射英雄伝』のとばっちり?

そこで冒頭に予告した「仮説」ですが。
次作ご存知『射英雄伝』は、スケール的にも完成度的にも、前3作と比べて頭一つ二つ抜けた押しも押されぬいきなりの「決定版」的な作品になります。技術的内容的には、何回も言っているようにそれまでの作品にも既に最初から十分なものはあったわけですが、何というか製作ベースが違うというかプロダクションが違うというか代わったというか、そんな感じ。気合が違う。

言わば書かれる前から代表作たることを運命付けられていたエリートで、だから尚更その前の『雪山』が味噌っかすに見えてしまう(笑)というか無い方が流れ的にすっきりするというか。”嵐の山荘”云々が技法的にその後に影響を与えたようにも見えないし、起・承・転・結の「転」にすらなっていない。

で、実際味噌っかすだったんではないかと。
つまりどういうことかと言うと、『飛狐』の構想と差のない時期に『射』の構想も出来上がっていて、こりゃ凄いということで(新聞の)連載開始時期も優先的に決まってしまって、それまでの場繋ぎとしての限られたスペースで『雪山飛狐』は書かれたのではないかと。それでバタバタと圧縮して書かれたのがあれで、でも内容的には十分面白いのでこれはこれでちゃんと世に出してやろうということで、後に書かれた”残り”の部分が『飛狐外伝』。

どうでしょう、この説。勿論何ら確証はありませんが。(笑)
よくよく見てみるとあの鬼の『神』の次作が今更『外伝』というのもどうも肩透かしですし、しかもそのすぐ後に『倚天』が来るわけですから、要するに『射』三部作の谷間に便利遣いされた幸薄い作品だと、そうまとめて『飛狐』ストーリーは考えていいのかもしれないですね。面白いのに。かわいそう。


・・・・なんか意外と当たり前のことを書いたような気もしてきました。(笑)
まあ今回はこんなところで。さくさくと次の”エリート”様の方へ行きましょう。
注目度が高いだろう”ラスト”問題は、面倒なので『外伝』レビューに先送り。実はまだ何も考えてません(笑)。分かんないよあんなの。まあなんかひねり出すつもりですが。


『飛狐外伝』 ?お仕事モードの金庸先生(1) 

飛狐外伝〈1〉風雨追跡行飛狐外伝〈1〉風雨追跡行
(2001/09)
岡崎 由美、金 庸 他

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『雪山飛狐』編(1)(2)
更に参考、『金庸先生の執筆環境』


『飛狐外伝』の基本性格

まず基礎知識の確認。

・’60年発表。’57年に書かれた『雪山飛狐』”前伝”(3巻作者あとがきより)。『雪山』主人公胡斐の成長過程を描写。

・上記『雪山飛狐』も掲載されたメジャー紙「大公報」から独立して、自ら主宰する「明報」創刊後の、『神雕剣侠』(’59)に続く第2弾作品。(『金庸先生の執筆環境』

・実際に掲載されたのは新聞ではなく、「武侠と歴史」という小説雑誌。それにかなり手を入れて(主に削除)、他の新聞小説作品と文体等を揃えたのが現在読める単行本版。

・同じくあとがきによると、”武”と”侠”の内、意識的に”侠”の面を追求してみることがメインの狙いであったとのこと。(後述)

・・・・基本的な印象としてはやはり『雪山飛狐』と同じで、申し分なく面白いけれど掴み所がない、バイオグラフィ全体の中で見るとあっても無くてもいいような気がする、というもの。
勿論『外伝』の場合は『雪山』の”前伝”である、主人公胡斐の”若き日の姿”が見られるという意義が最初から折り込み済みなわけですが、”若き日”とは言っても『雪山』の胡斐も十分に若い、大したタイムラグもギャップ感もあるわけではないので、正直有り難味は薄いです。(笑)


『飛狐外伝』の特徴

内容的にはともかく、主に構成面とそこから来る印象には、『飛狐外伝』にはそれなりに特徴的なものがあると思います。

1.続編/シリーズ系作品としての特徴

時系列が逆なのですんなり「続編」と言えないのがめんどくさいんですが(笑)、ともかく、『神雕剣侠』ともある意味共通する特徴。

具体的には”前作”『雪山飛狐』の余韻、及び既に世界観が存在・共有されていることから可能になる、説明も前振りもなしに、いきなり本題に入ってぐいぐい進むスピード感のようなもの。
そのオープニングのスピード感に導かれて、あるいは単刀直入感を基本として、その後のストーリーも語られる。

2.コンパクト仕様の金庸

前段「基本性格」で述べたように、単行本化に当たって金庸はかなりバサバサと、雑誌連載用に(新聞小説形態と比べて)冗長になっていた部分を削ぎ落とす作業をやったそうです。
そのせいと、それから1.で述べたスピード感の恩恵の相乗効果でしょう、『飛狐外伝』は何と言うか、”核”だけが剥き出しにされて並べられているような、ある意味無雑作な凝縮感というものが全編に感じられます。

元々「息もつかせぬ怒涛の展開」「名場面の連打連打」みたいなものは金庸作品の定評のあるところなんですが、それでも『射雕英雄伝』を筆頭とする他の作品には、それなりの起伏なり装飾性なり、構成美を意識したようなものがそれぞれに見られると思います。
しかし『飛狐外伝』にはそういうものはほとんど感じられません。別に破綻しているわけでも流れが切れるわけでもありませんが、何かもっと無作為に、時間通り単純にエピソードが並べられているような印象があります。

・・・・そうですね、金庸作品一般が「満漢全席」(岡崎由美氏)だとすれば、『飛狐外伝』はその”弁当”版という感じでしょうか(笑)。同じ質の料理を、ただし出す段取りとかはさほど気にせずにともあれ召し上がれと品数も落として、四角い弁当箱の中にとにかく詰めましたという感じ。
メインの商品にはなれないけど美味しくて食べやすい。ちょっとくらい冷めてても安心?!(笑)


(2)につづく。


『飛狐外伝』 ?お仕事モードの金庸先生(2) 

飛狐外伝〈2〉愛憎の父娘飛狐外伝〈2〉愛憎の父娘
(2001/10)
岡崎 由美、金 庸 他

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(1)より。


『飛狐外伝』の”お仕事”性

表題ですが。
基本的には『雪山飛狐』について書いた「射3部作の狭間で穴埋め的に書かれた地味な作品」ということですね。積極的な存在価値の薄い。(1)の”お弁当”性ということも含めて。
同じく(1)で、金庸自身が解説で”侠”に重きを置いた作品であると書いているということを書きました。具体的にはこう。

およそ武侠小説の主人公というものは、富貴貧賤に拘らず、威武に対して不屈であるものだ。これらは大丈夫足るべき三つの標準であり、それらをなし通すことはさして困難なことではない。


そこでわたしは、本書において胡斐にさらなる要求をつきつけることにした。「美色のために動かず、哀懇のために動かず、面子のために動かず」という課題を与えてみたのである。


・・・・以下それについて実例が挙げられるのですが、正直ぴんと来ないというか、そう言われればそうかなというくらいの感じです。金庸自身も「さほど深みのあるものにすることはできなかった」と述懐しています。

要するにこれも前作『雪山飛狐』の”嵐の山荘ミステリー”性と同じで、まず埋めなくてはいけない連載枠があって、それに対して後付け的にやや無理矢理付与した「テーマ」「趣向」の類なのではないかと、僕などは思うのですが。


『飛狐外伝』の”お仕事”性?

何か悪口のようになってしまいましたが、それもこれも、全部で15作くらいしか書かなかった金庸の他の作品が、押し並べて一作一作キャラが立っている、それとの比較の上での話ですね。

そもそも繰り返し書いているように、金庸というのはある種の余技というか、新聞を中心とする自分の総合的な文化活動の”一環”として時限つきみたいな感じで『小説家』をやった人で、極端に言えば「企画もの」なんですね(笑)。(ペンネーム)”金庸”という企画というか。
だから”何となく”書くなんてのはほとんど定義矛盾なわけですが、それに一番近い、「いつもの金庸」それ以上でもそれ以下でもない作品が『飛狐外伝』(シリーズ)だということです。

・・・・と、いうものとしてリラックスしてこの割りと淡々とした作品を読んでいて、改めて思うのは「巧いなあ」ということ。今更ですが。
それもこう狙ったとか特別に趣向を凝らしたとかそういうことではなく、もっと身についた巧さ。シーンやエピソードを円滑に読ませるための。逆にあえて”狙った”風のものというのは、必ずしも成功してないようにも見えるんですけどね、他の作品を見てると。(笑)

具体的に『飛狐外伝』で特に見事な、ハイライト的なシーンは、何と言っても最終3巻

飛狐外伝〈3〉風に散る花飛狐外伝〈3〉風に散る花
(2001/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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”天下掌門人大会”でしょう。・・・・そう、”シーン”なんですよねこれ。P.104?261、ページ数にして150ページ余りに及ぶ長大な、でも基本的に1シーンの。
内容的には要するに全国から集まった武芸者たちが、皇族(福康安)の御前で入れ替わり立ち代わり腕を競うというそれだけの話で、いかにも冗漫になりそうなところを、各武芸者たちの錯綜するそれぞれの思惑を複雑に絡め、かつ分かり易く整理し、それをしかも飽くまで”武術”の激突として、それに載せて絶妙な押し引きの勘で最後まで飽きさせず緩ませず読ませる。小説というよりもむしろ舞台台本的ですが、万人垂涎の腕の冴えではないでしょうか。
勿論武術のバラエティも目が眩むほどで、実に楽しい。

ちなみにこの”1シーン”性、舞台の固定性は、何となく『雪山飛狐』の”山荘”を思わせるものがある、それに対応すると言えるかも知れないと評論家的には言っておきますが(笑)、まあ気にしないでいいです。


以上で一応の総評は終わりですが、ついでなのでかの『雪山飛狐』のミステリー、「苗人鳳と胡斐の決着」問題を含めた、飛狐シリーズの割りと真面目な”テーマ”性について思うところがあるので、次に各論として論じてシリーズについてのまとめとしたいと思います。


『飛狐』シリーズの「不可知」性 

『雪山飛狐』『飛狐外伝』総評。


胡斐と苗人鳳の”決着”の行方

『飛狐』シリーズ最大のミステリーと言えば、『雪山飛狐』

雪山飛狐 雪山飛狐
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/02)
徳間書店

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のラスト、雪中の切り立つ崖において、主人公胡斐が父・胡一刀の仇でありかつ恋人・苗若蘭の父親でもある苗人鳳と、奇なる行きがかりから生死を賭けた立ち会いに及び、いよいよあと一手で止めを刺せるという段において大いに悩み、さてどのような決断を下したかということを描かずに話が閉じられている、その先がどうだったかという有名なそれであるのは言うまでもありません。

 百千もの想いが渦巻いた。
 かつておのれの父母を死に追いやり、おのれを天涯孤独の身に陥しいれた男。だがそれは天下に知らぬものとてない英雄であり、いとしく思う人の父でもある。理をもってすれば切るわけにはいかぬ。しかし切らなければおのれの生きる望みはない。壮年に達したばかりでやすやすと死ねようか。かといってこの男を殺せば、何の顔あって苗若蘭にまみえることできよう。生涯遭うのを避けねばならぬとしたら、そんな生き方をするより、むしろ死んだ方がました。
 打ち下ろすべきかどうか。思いは千々に乱れるばかり。相手を傷つけたくはないが、おのれの命であがなうべくもない。(中略)

 胡斐は無事に戻ってきて苗若蘭と再会できるであろうか。
 あの一刀は振り下ろされるのであろうか。


今回読み直してみてあれと思ったのは、最大のジレンマが「父母の仇」と「恋人の父」「尊敬に足る人物」ということにはなく、それについては”相手を傷つけたくはない”(つまり後者が重い)とある意味解決済みで、むしろ「やらなければ自分がやられる」というジレンマの方に重点があることですが。それはともかく。
この先について直接的な僕の想像を披露することはしません。いずれさんざん論じ尽くされていることでしょうし。

ただ「作品」という意味では”ぼかし”ているわけではなくて、これで本当に終わり、”答え”は無いのだと思います。
それはジレンマ自体がほとんど解決不能だというのもそうですが、と同時にその「解決不能」性が『飛狐』シリーズそのものの本質と関わっているように見える、そのように僕としては了解可能であるからです。


程霊素の死

このことに思い至ったの『飛狐外伝』3巻

飛狐外伝〈3〉風に散る花飛狐外伝〈3〉風に散る花
(2001/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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における、胡斐を慕いながらついに報われず、彼の命を救うために死んで行った悲運の少女程霊素の死の場面を読んでいた時です。

 それとも程霊素は、このことをも予測していたのだろうか?程霊素は胡斐が自分を愛していないことを知っていた。自分が胡斐を愛するようには決して自分を愛してくれないことを。だったら、こんな結末を迎えるほうがよかったのではないか?恋人の毒血で自らを殺し、恋人の命を救うほうが。
(中略)
 少女の心ははかりがたい。ましてや程霊素のような少女が、心の底でほんとうのところなにを考えていたかなど、誰にも永遠に知りようがないのだ。(p.341)


ここのところはちょっとわざとらしいというか、クドい感じがするんですね僕は。
人の心が、増して死んじゃった人が何を考えていたかなんて、分からない、”知りようがない”のは当たり前のことです。ただそれを分かるような態で、あるいは”分からない”ことをめぐって何らかまとまった形を作るのが普通の意味での小説/フィクションというもので、自分で書いといて分からない分からないって、何のことだと。(笑)

言ってみればここは金庸がフィクションとして半端に投げ出しちゃってるところに、リアル/現実の不可知性が不用意に侵入して来ているような感じがします。
そういう”リアリズム”を主体とするような小説や映画のスタイルというのも確かにありますけどね、いつもは錯綜したジレンマをあっと驚く馬鹿馬鹿しい”超展開”で突破して見せるのが身上の法螺話の名手金庸が(笑)、今更リアリズムってあんたどのクチが言うかと。(笑)


『飛狐』シリーズの不作為性

ちなみに『外伝』のもう一つのカップル、「在家」と「出家」という結ばれない運命の境遇に最初から引き裂かれていた胡斐と円性の2人が、結局そのジレンマ通りに何も状況が変わらないまま結ばれずに終わってしまうというのも、同種の”リアリズム”のように感じます。(勿論『雪山』との辻褄の問題は前提としてありますが)

ではこれらのリアリズム的な展開や描写が、直接的に金庸のそういう意図であったかというと、そこまでは思わないんですね。
そうではなくて『飛狐』シリーズのお仕事性・手なり性、「企画」としての弱さ・消極性が明快な展開を決定させることが出来ずに、そこに上でも書いたようにリアルが、不可知な現実性がなし崩しに”侵入”して来ている、そのように感じます。

あるいは法螺話の名手であるのと同時の金庸の特徴である、”勧善懲悪”や”中華史観”などを筆頭とするお定まりの物語構造への反抗や相対主義、ある種の現実主義が、この比較的気合の入っていない不作為な作品においては、より”生”(なま)な形で出ているか。

いずれにしてもそういう風に「投げ出されている」ことを重要な特徴として持つ『飛狐』シリーズ、その内の1作である『雪山飛狐』ならではの、不可知である、解決不能であること自体をある意味での”メッセージ”として持つ、そういう「ラストシーンの謎」であると、何となくパースペクティヴ的には僕は了解に成功したというそういう話です。(笑)


まあ気持ち悪いには違いないですけどね。何とかしろよとは思いますけど。
とりあえずあえて決めれば胡斐には涙を飲んで苗人鳳をバッサリやっておいてもらわないと、『飛狐』シリーズの新作が書かれる可能性がなくなるので困るということは言えると思います(笑)。苗若蘭の機嫌取りなんぞ後で考えればよろし。


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