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『神雕剣侠』編執筆計画 

神〓剣侠〈1〉忘れがたみ 神〓剣侠〈1〉忘れがたみ
金 庸 (2006/06)
徳間書店

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金庸レビューシリーズ第4弾。ちなみにタイトルは翻訳版の『剣侠』の方で。

まだ再読中ですが、前々から考えていたことと併せてだいたいアウトラインが見えたので、掲示しておきます。・・・・いや、長いんですよ多分、物凄く。(笑)
基本方針としては
(1)長さや全体の構成は気にせず、書きたいことは書き切る。
(2)そのかわり、なるべく一つ一つをコラム的に単品で読めるような感じにするよう心掛ける。

といったところ。

で、大まかな順番としては、ストーリーや総論に入る前に、先に主要キャラクターの特徴とそこにこめられたテーマ性の方をまとめてしまいます。
だから興味はあるけどまだ読んでないという人は、本格的なネタバレが始まらない今の内に読んでおくことをお奨めします。(笑)


以下当面の執筆予定。

その1 黄薬師と黄蓉と楊過

いずれ劣らぬ屈指の目から鼻へ抜けるうるさ型、黄父娘と楊過、3者3様の「理性」と「個人」、その共通性と相違性を比較します。

その2 黄薬師と小龍女

いずれ劣らぬ屈指の世捨て人(笑)、黄薬師と小龍女の共通性と対照性を比較します。

その3 楊過と小龍女

その1,その2を踏まえて、楊過と小龍女の”純愛”の実態に迫ります。


これだけで結構分かる人には分かるかもしれませんね。しーです、しー。
絶対書こうと思ってたのは何と言っても”その1”で、それゆえにストーリーの前にこっちを書くことにしたわけですが。
今のところどうも楊過のキャラの割りといいかげんなところが難所だなあと思いながら読んでます。他のキャラは結構整然としているんですけどね。まあ主人公ってだいたいそんなもんだと言えばそうですけど。色々背負わされるから。

「ストーリー/総論編」、または別の形かもしれませんが第2部に入る時も、こんな風に先にアウトラインを示してみる予定。
では読みに戻ります(笑)。面白いわあ、やっぱ。



神雕剣侠〈2〉モンゴルの野望 神雕剣侠〈2〉モンゴルの野望
金 庸、岡崎 由美 他 (2006/07)
徳間書店

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神=剣侠〈3〉襄陽城の攻防 神=剣侠〈3〉襄陽城の攻防
金 庸 (2006/08)
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神〓剣侠〈4〉永遠の契り 神〓剣侠〈4〉永遠の契り
金 庸 (2006/09)
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神〓剣侠〈5〉めぐり逢い 神〓剣侠〈5〉めぐり逢い
金 庸 (2006/10)
徳間書店

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3つの理性、3つの個人 ?黄薬師と黄蓉と楊過 

アウトライン編

『神雕剣侠』のメインテーマ、あるいはメインなストーリー構造が、主人公楊過とその武術の師匠小龍女の二人の間の言わば「自由恋愛」と、それに待ったをかける(師弟の別を神聖視する)”武林”の掟やその背景にある中国の古代/中世社会の道徳や社会通念との葛藤・対決にあるのは言うまでもないと思います。

古来悲恋物語(この二人は最終的にはハッピーエンドですが)には多かれ少なかれこうした構図はつきものですが、特に『神雕』の場合主人公楊過の強烈な性格と併せて、殊更この対決構図、”個人の自由vs社会の掟””理性・論理vs因習・観念”という印象が鮮やかです。
単なる運命に翻弄されるカップルではなく、時代にそぐわない、あるいは先取りし過ぎた性格・思想を持ってしまった個人の悲劇。近代人in中世

楊過の複雑なキャラクターがこれだけで語れるものでないのは言うまでもないですが、それについては後で改めて述べるとして、こうした「個人」主義や「理性」主義という観点に注目すると、前作『射雕英雄伝』から引き続くこの『神雕』には、似たような特徴を持ったキャラクターが他にも存在します。勿論”東邪”こと黄薬師とその娘黄蓉です。

実際これら二人それぞれと楊過の類似性については作中でも繰り返し語られますが、さりとて全く同一というわけではなく、三人それぞれに資質の現れ方や活動範囲は違って、特に黄蓉と楊過の場合はそこが正に対立点になったりします。
それに比べれば楊過と黄薬師は友好的ですが、突き詰めればやはりこの二人にも相容れない部分は少なからずあると僕は思います。

ここらへんを僕なりに図式化してみると、こんな感じになります。

黄薬師 : ”超”時代的理性/個人

・・・・中国語で言えば「邪」。英語で言えばwise,intelligent


黄蓉 : ”没”時代的理性/個人

・・・・中国語で言えば「巧」。英語で言えばsmart,clever


楊過 : ”反”時代的(近代的)理性/個人

・・・・中国語で言えば「狂」。英語で言えばbright,clever


”超”だしwiseだし、何となく黄薬師が一番優れていると言っているように見えるかも知れませんが、特にそんなことはありません。どちらかというと「賢」者ぶってて偉そうというのが分類の本質かもしれません(笑)。wise自体にも元々そういうニュアンスはありますし。
黄薬師の場合特に、一見していかにも中国語と英語の噛み合いが悪いですが、それには独特の理由があるので後ほど。

黄薬師の「邪」、楊過の「狂」(原義”自由奔放”)は『神雕』5巻で再定義された武林の新”五絶”に従っているのですぐ分かると思いますが、黄蓉の「巧」が何によっているかというと、同じく2巻で周伯通の内心の声として語られているそれよりは目立たない分類によります。

周伯通が日ごろから最も敬服しているのは、師兄の王重陽のほかは、九指神丐(かい)・洪七公、黄薬師の邪、黄蓉の巧で、かれらと密かに通じるものがあると思っていた。
(単行本p.373)

ちなみに僕は一回目の読みでは気に留めなかったこの箇所を今回見て、自分の考えていることが満更当てずっぽうではないというか、金庸もこの三人をかなり意識的に描き分けているという自信を得たのですがまあそれはそれとして。

英語の形容詞は”頭がいい”系の類義語の中から、僕がだいたいで当てはめてみたもの。
黄蓉と楊過で”clever”(ずるがしこい)が共通しているのは意図的なものです。
黄薬師の”intelligent”はそれに対する半ば数合わせですが、黄薬師の教養主義、知そのものに対する愛という特徴も含意しています。・・・・つまり”clever”(ずるがしこい)というのは要するに実用的、対人・対社会的な知のあり方ですから。


以下、この基本分類に従って比較検討して行きます。


”超・続編”としての『神雕剣侠』(1) 

神乗寥赴</p></div>
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”超・続編”としての『神雕剣侠』(2) 

神乗寥赴</p></div>
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『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(1) 

倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集) 倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集)
岡崎 由美、金 庸 他 (2000/12)
徳間書店

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金庸Wiki

”三部作”として成り立っているはずの『射英雄伝』(’57)『神剣侠』(’59)、そして本作『倚天屠龍記』(’61)ですが、内容的な繋がりの深い『射』と『神』の間には、ご自身の思想的理由によるメジャー紙退社→独立創業という大変化があり(Wiki)、そのせいや自由度の高まりもあってでしょう、文体・スタイル的に大きな違いがあるということは既に書きました
また『神』と『倚天』の場合は、文体的には序盤は似たような暗く重いトーンでいかにも前作の延長という雰囲気がありますが、冒頭の繋ぎエピソード終了後時代が一気に飛んで前作の生き残りは超高齢のほぼ仙人の爺さん(笑)1人だけになりますし、ぼんやり坊ちゃんの主人公張無忌が本格的に活動し始めてからは、文体的連続性もほとんどどこかへ行ってしまいます。

こうして見ると、”三部作”とはいえこの3作はかなり独立性が高いというか、一応最初にまとまった構想が漠然とはあったとしても、結局は前作を承けて、その時々の心境で書いたんだろうなと、そういう受け止め方が自然なのではないかと思います。


『神』と『倚天』のコントラスト

というわけで直近の2作に絞って繋がり・比較を考えてみると、意図的かどうかはともかく、この2作は結構対照的な部分の多い作品のように思います。分かり易いところから例を挙げてみると

1.九”陰”真経(神←射)と九”陽”真経(倚天)
2.反骨と意志の主人公(楊過・神)と受容性と成り行きの主人公(張無忌・倚天)
3.一途で運命的な恋愛(楊過と小龍女)とあちらもこちらも立てて定まらない恋愛(張無忌と少女たち)

といったところ。

そのうち1の”陰”と”陽”の2経については、最初からセットで考えていたわけではなく、”陰”からの連想で”陽”をデッチ上げたような臭いを僕は感じるんですが(笑)、実際にはどうなんでしょう。
というのはこの『倚天』のある意味突出した大きなトピックスとして、「太極拳」(剣)の誕生秘話エピソードというものがあるわけですが、大極派及びその母体となった「武当派」と、ライバル「少林派」の対照を考えてみた時に、明らかに内家の武当&太極が”陰”外家の少林が”陽”とした方がイメージ的にはすっきりすると思います。実際に”陰柔”と”陽剛”というような言い方は、金庸作品やあるいはこの『射』シリーズでもしばしば登場しますし。

それがいずれフィクションとはいえ(笑)、武当/太極が「九”陽”真経」を主な典拠とせざるを得なかったのは、ひとえにその前に独立した重要ツールとして「九”陰”真経」が登場してしまっていた(注・少林派とは無関係)からではないかと、そう思うわけです。
まあ性格的には張無忌はいかにも”陽”ですけどね(笑)。それはともかく。

なおこうしたコントラストが「意図的かどうかはともかく」と上に書いたのは、勿論コントラストそのものは意識していたでしょうが、作品の根本的な構想としてどこまでメインの狙いだったのかは分からないという、そういう意味です。少なくとも結果としてそのコントラストが重要である、というのが僕の今回の論なわけですが。


再び『神剣侠』の特異性

今回はややネガティヴな意味合いで。

『神剣侠』が特異に直接的感情的な作品であり、それゆえに魅力的だということは書きました
しかしそれは即ち金庸作品としてはやはり規格から外れた作品であり、失敗作ではないものの、金庸がその名前の”作家”として伝えようとしているメッセージとしては、少々バランスを欠いたものになっているという、そういう見方も出来なくはないと思います。

それは例えば『越女剣』についての項で書いた、”遠近法”や立体感、相対主義的なもの。
つまり武侠小説ということで、「恩」や「仇」の中国的・中世的な激情の世界を生き生きと描きながら、同時にそれらの意味・意義を自然な形で限定していくような相対化して行くような。登場人物自からがそれを語ることもありますが、多くは読者の視線や心境、作品世界を眺める立場を誘導することで。

そこらへん、『神』はちょっと単線というか、行った行ったの印象があるんですね、”残る”というか。基本的には主人公楊過が”強”過ぎる、能動的過ぎるということだと思いますが。主人公過ぎるというか。極端に言うと楊過が正しくて他が間違っているという話になっているところがある。楊過の「想い」が直接的に肯定されているというか。
それによって読者の視野が限定される、距離感が奪われる。「俯瞰」や「奥行き」を本来とする金庸作品らしくなくなっているというか。

勿論これには事情があって、ちょっと書きかけて放り出してますが(笑)、この作品及び主人公楊過には、半ば近代的な個人主義自由主義的な価値観でもって中国的中世的な価値観とより直接的に対決するというテーマ/使命があるわけです。
だからそっちの戦いで手一杯or義務は果たしているというのと、今回はニュートラル性の優先順位は高くないというのと、そういうことだと思いますが。

ただそれにしても『神』は少しあからさまというか、読んでて気恥ずかしくなる部分はあります。ある意味比喩ではないかもしれないですが、日本で言えばいわゆる少年漫画的、少年ジャンプ的な努力・友情・正義の世界に見えるところがあるというか。なせばなるのか。勿論金庸先生はジャンプなんて知らないでしょうが。(笑)
それにこれも日本で言えば旧型の少女漫画的な、”2人の為に世界はあるの””愛こそ全て”の(楊過と小龍女の)「純愛」が合わさって、まあ例えば事情を知らない金庸初心者の男友達にうっかり勧めちゃったりしたら、「お前宗旨が変わったのか」とヒかれること請け合い。(笑)

・・・・実際にはこうした要素をあの「分別大王」の金庸が、微塵も揶揄的にではなく正面から、あえて描き切ったその奇跡的なバランスがこの作品の面白いところなんですけどね。読んでて燃えないのかと言われれば、そりゃ燃えますけど。(笑)
ともかくそういう性格も持っている作品であるということです。

(2)につづく。


『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(2) 

倚天屠龍記〈第2巻〉黒い刻印 倚天屠龍記〈第2巻〉黒い刻印
岡崎 由美、金 庸 他 (2001/01)
徳間書店

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(1)より。

張無忌という主人公

”『倚天屠龍記』の評判”でも書いたように、というより天下に隠れもない事実として(笑)、”張無忌”と言えば「優柔不断」、ヘタレ主人公の代表としての定評があります。

大きく言えば先行する『碧血剣』(’56)の袁承志や、『射英雄伝』(’57)の郭靖などと同様のおっとりお人好し系の主人公として、(金庸作品では)そんなに珍しいタイプでもないわけなんですが、張無忌のそれはより徹底しています。
例えば”悪評”(笑)のおおもとであろう、張無忌を慕う4人の少女をめぐる女性関係についてでは

(いったい本当のところ、僕は誰を一番愛しているんだ?)
どんなに考えても結論は出ない。
・・・・5巻p349

(ぼくたち五人、みんなで仲睦まじく一生一緒にいられたら、どんなに愉快だろう?)
・・・・同p.350


こういうのを別に色男ぶってるわけでも欲張ってるわけでもなく、真顔で言って(考えて)しまうのが笑えます。同じ箇所で作者自身にもはっきり、”優柔不断”だと地の文で言われてしまっていますね。(まあ、それも技法的には直接的過ぎてどうかと思いますが(笑))

直接ついでに金庸は5巻の解説(’77)で、「われわれと同じごく普通の人間ということか」と再定義を試みています。(作者とは言え、書かれたものについては一人の読者ですから。)
なるほどそういう見方もあるかもしれませんが、ただそうした気弱でパッとしないところもある張無忌は、一面ではあらゆる角度から武術を極めた金庸全作中でも最強クラスの使い手であり、また概ね独立独歩の主人公群の中にあって、珍しく”明教”という一大勢力を率いて中国の大勢を決する力も持ったスーパー主人公でもあるわけで、そういう意味ではその”普通”さは異様であり、ある種過激で不自然な設定とも言えると思います。

なぜそうなのか、なぜ張無忌は単におっとり系主人公という以上の目立つ消極性を性格として持ったのかといえば、やはりそれは前作『神剣侠』の主人公楊過との対比でしょう。
あの徹底的な能動性と行動力、それでもって僕が”少年漫画的”と評するような、かなり恣意的な形でストーリーを動かして行った運命を屈服させて行った、こちらはこちらで異例の主人公、その存在があったから、それとの対比で張無忌の消極性・受動性も形作られた。楊過がいたから張無忌もいた。

・・・・こうした張無忌の性格付けor性格の意味に、何らか底流的な意図があったと僕が考えるのは、一つには例の”太極拳誕生エピソード”というものの存在があります。
つまり太極拳という究極の”柔”の武術、徹底的に相手の力を利用して収めて(”円”の動きで)丸め込んで、決して強引に直線的に倒しに行ったりはしない思想性を持った武術。その誕生がある種独立した存在感と感動を持って作中に置かれているのは、それが隠れたこの作品のテーマであり、それを主人公として相応しく担っていたのが張無忌であるという。剛の楊過柔の張無忌


むしろ”正統”、または”軌道修正”

これまででほとんど道筋は見えていると思いますが、ここで表題の「陰画」の話。
結果的に見ると、しつこいようですが『神剣侠』は金庸にとって例外的な作品でありました、いい意味でも悪い意味でも。ほぼ一回切りの情熱の迸りとして感動的である反面、”構造”を見せることによって間接的に語る、世界や運命と人為や意志を安易に関係づけない、達観や諦念を一つの大きな特徴とする、金庸”らしくない”作品でもあった。

それに対する、三部作構成の中での半ば無意識の揺り戻し『倚天屠龍記』であった、そういう性格を持った作品であると、そう言えるのではないかと思います。

”半ば無意識”と言ったのは『倚天屠龍記』が全体として読み応えはあるけれど余り整理された、明確なメッセージが伝わって来る作品ではないというのと、ややカンニングですが(笑)上の”解説”部分において金庸が、郭靖と楊過と張無忌の性格を、漫然と並列的に描写しているからです。
対立が意識的なら、例えば『射英雄伝』におけるお馴染みの”郭靖と楊康の合わせ鏡”を、世代を経てより極端なものにした(つまり郭靖の無欲と楊康のエゴが、張無忌の超受動と楊過の超能動に)とでも言えば「万事計画通りだよ」と言い募れるわけで。(笑)

・・・・まあこれは見方によっては僕の解釈の根拠に対する薮蛇でもあるわけですが(笑)、気にしません。上でも言った通り、作者は全部知っているわけではない。最近とみに思いますが。

再び張無忌の性格の話をすると、その後金庸は、例えば優柔不断どころかそもそも”意志が無い”主人公(『侠客行』(’65)の”のらいぬ”)や、意思/本音とは裏腹な方へ裏腹な方へ名を上げ出世して行く主人公(『鹿鼎記』(’69)の”韋小宝”)などを使って、次々と傑作・怪作(笑)を書き上げて行きます。
これを見てもむしろ張無忌的な、”流される””巻き込まれる”主人公、あるいは登場人物の能動的な意志などではなく、ストーリーや運命そのものが主役であるような作品の方が、金庸的には正統・王道であるのは明らかだと思います。あるいは色々書いてみて、ここで芸風を確認したか。


個々の「内容」について書くべきこと/書きたいことは尽きないですが、総論としての、位置付け的な意味での『倚天屠龍記』についての僕の解釈は以上です。
最後に実は『倚天屠龍記』は『倚天屠龍記』なりに少年漫画である、ということを番外編的に書いて(笑)、今回は終わりにしたいと思います。


倚天屠龍記〈第3巻〉盟主の条件 倚天屠龍記〈第3巻〉盟主の条件
岡崎 由美、金 庸 他 (2001/02)
徳間書店

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倚天屠龍記〈第4巻〉魔女と魔剣と 倚天屠龍記〈第4巻〉魔女と魔剣と
岡崎 由美、金 庸 他 (2001/03)
徳間書店

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倚天屠龍記 (第5巻) 選ばれし者 倚天屠龍記 (第5巻) 選ばれし者
金 庸、岡崎 由美 他 (2001/04)
徳間書店

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少年漫画としての『倚天屠龍記』 

『倚天』総論(1)(2)
あるいは漫画としての金庸。どちらかというとウブな読者向けの、浅?い説明です。


初めて金庸、具体的には『秘曲 笑傲江湖』を読んだ時は、その身も蓋もない読み易さ・面白さに、「なんじゃこりゃ、漫画だな」といい意味で(笑)呆れたものでしたが。
ちなみにいくつか読んだその後に『神剣侠』(の序盤)を読んだ際は、その”超・続編”ならではのスピード感・ダイナミズムに、「これはついに漫画を越えて(?)アニメだ。あ、いまシュッという音がしてキャラが飛んだのが見えた」と来るところまで来たことを感じた訳ですが。(笑)

一方で「金庸≒ライトノベル(Wiki)」という認識は、今やそのスジでは隠れもないものになりつつあるようですが、比喩として有効なほどまだ(ライトノベルが)一般的に認知されているとは思えませんし、僕自身当時は知らなかったのであくまで「漫画」という比喩で語ると、確かに金庸には漫画的な部分が少なからずあると思います。
より正確には、日本なら「漫画」が満たしている需要のかなりの部分を、中国では金庸/武侠小説が担っているということです。

これは言ってみれば単に論理的な話で、
1.「ストーリー漫画」というジャンルがここまで確立・隆盛・充実しているのは、日本だけである。
(日本が異例なので中国が殊更おかしいわけではない)
2.日本ではもうそのジャンルの存在自体が呼び起こしている部分はあるとしても、ジャンル誕生の元となった基本的な(広義の)文学的的需要は、かなりの程度普遍的なものと考えられる。
3.だから武侠という(日本の「漫画」同様)原則的に明からさまに娯楽・通俗的なジャンルに金庸が手を染める際に、自然「漫画」的需要に対応する側面も多分に含まれることになる。

言い替えれば日本なら「漫画」で書かれたはずの要素のかなりの部分が、中国圏なら(他にもあるんでしょうが)武侠で書かれる、あるいは才能・書き手がそこに流れているだろうということが推測される訳ですね。
金庸自身は日本の文化事情とかはほとんど知らないようですし、中国に限ってもそんなに先鋭的なジャンル意識でもって書いてはいないように見えるので、”無法地帯で書きたいことを書いている”という感じかなと思いますが(笑)。そういう意味で甘いところも沢山見えますが、大衆文化に悪擦れした日本人読者的な目では。


で、『倚天屠龍記』ですが。
(1)で『神剣侠』が少年ジャンプのバトルもの的だと書いたのは、はっきり言えば分かり易くする為のこじつけでした(笑)。そうだと言えばそうだし、関係無いと言えば関係無い。

しかし『倚天屠龍記』の悪名高い張無忌の”女難”、優柔不断で受け身の八方美人(美男?)ぶりの方は、これはもうどうしようもなく、少年漫画やそれ系のアニメのある類型を連想せざるを得ません。言葉としてはなんでしょう、うーんラブコメ?萌えアニメ?、とにかく
「気弱な/おっとりした男主人公が、なんだか分からないけれど結果的に色んなタイプの美(少)女にモテモテになり、くっつきそうでくっつかず落ち着きそうで落ち着かず、延々振り回されたり美味しい思いをしたりするさまを描く男の願望充足ストーリー」のこと。

もう”どれ”と言う必要も無いように思いますが(笑)。今だったら深夜帯やUHF局系でやってるアニメの大半は、そうした要素を満載しています。コンビニで片っ端から男漫画誌を立ち読みしてもよろし。(特にヤンジャンとか?)
だから『倚天屠龍記』のそれに対する女性読者のヴィヴィッドな不審や反感に満ちた反応を見ると、ニャハハという感じにどうしてもなります。そういうものなんだと言うしかないです。ひと足飛びに言うならば、結局男は「モテたい」のであって「”恋愛”がしたい」わけではないんだというか、「決めないor沢山いることに意義がある」というか。
もう一つ言えば、「受け身でいたい」「責任を背負いたくない」ということでもありますか。以上それぞれ深い理由とかは面倒なので割愛しますが(笑)、とにかくそういう普遍的な願望はあって、それによってこれだけの類似のストーリーが飽きもせず氾濫している。・・・・女の方にも何かそれに相当するものはあるんでしょうけどね。

と同時に、書いた当時そこそこオッサン(37才)の、かなりな教養人の金庸先生にも、あるいは中国人の男子(笑)にもおんなじようなものがあるんだなあと、苦笑い。
まあ、あるんでしょうけどね。あるんですよ。性は国境を越える?
ちなみにくだんの『倚天屠龍記』の4少女を、そうした観点から類型として考えてみますと・・・・

趙敏・・・・ツンデレ

小昭・・・・メイドさん?(笑)

殷離・・・・いつまでも主人公にお姉さんぶった口を利きたがる幼馴染?

周芷若・・・・デレツン?

ツンデレはもっとずばりなのが『鹿鼎記』あたりにいましたが、それはまたその時に。(笑)
周芷若はよく分かりませんね。類型以前にキャラとして崩壊している気がします。後年のヒュードロドロ恨み晴らさで置くべきかな姿に、どう透視してみても(笑)光明頂攻防戦あたりの気丈だけれど可憐な心根の真っ直ぐな少女の姿は重ねられません。
強いて言えばもっと(互いに)幼い時の、玄冥神掌の寒毒に苦しむ張無忌をせっせと看護する小さなお母さん的な姿に(一瞬でしたが)、情の濃さと独占欲と、それが裏返った時にどう出るかみたいなそんな教訓(笑)を見て取れないことはないですが。

現実には「デレ」で入ったものが「ツン」になってしまった時の女の怖さというのは最大級で、正直手の施しようがないというか、類型化して取り込みようがないというか。「嫌い」より「失望」の方が重いということか。撤退あるのみ。
ともかくここだけ変に現実的というか、一般文学的で、そういう意味でも違和感を覚えます。背後霊の(笑)滅絶師太の怖さなんかは、えげつないとは言えそれなりに作品の一部になっていると思うんですが。周芷若のパートは根本的に気持ちが悪い。ぶっちゃけ何をそんなに怒ってるのかピンと来ない。事実関係を追ってみれば、なるほど裏切られてると言えばそうなんですが。なんかね。

・・・・そんな感想はそれでいいとして。


とにかくこれは深い理由があるというよりも、類型的な願望の反映した設定だということですね。
やろうと思えば張無忌の「魅力」or「もてる理由」について語る、ひねり出すこと自体は出来なくもないかも知れませんが、作者が最初から考えてもいないだろうところを無理矢理カバーするというのも。(笑)
まあ(2)で述べた(太極拳的な)「受け身の哲学/美徳」みたいなところで、とりあえず了解しておけばと。

以上、ラブコメとしての『倚天屠龍記』という話でした。(そうなのか?)
ま、別に『倚天』に限った話ではないんですけど、いい機会だから書いておこうと。


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