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『越女剣』評 

越女剣―傑作武侠中篇集 (傑作武侠中篇集) 越女剣―傑作武侠中篇集 (傑作武侠中篇集)
岡崎 由美、金 庸 他 (2001/06)
徳間書店

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’61年の2作と’70年の1作を併せた、日本編集の金庸唯一の中編集

時間的には結構離れていますが、括りで語れる共通の特徴はあるかと。
一言で言えば、金庸”未満”の作品たち。

特に破綻しているわけではないですし、要素としてはおおむねいつもの金庸節で構成されているんですが、何かが違う。同じ要素が見せ方によって、あるいはちゃんとした見せ方がなされないことによって違う意味合いを持ってしまう、いつものようには見えないという。
「プロデュース」みたいな作業の大事さ、的な話。


『白馬は西風にいななく』 (’61年)

薄幸の少女の悲恋を中心にしたストーリーで、狙いとしては”情緒纏綿”(てんめん)とかにしたかったんでしょうが、単におセンチに感じます。
同様にえげつない悪人ややり切れない人間の”業”のような、本来なら物語の世界観に厚みや立体感をもたらすはずのハードな要素も、ただただ残酷で救いが無い感じにしか見えません。

一言で言えば投げっぱなしなんですね、処理/調理不足というか。こういう要素はこう働くはずで、こういう要素はこう働くはずだという”計画”をそのまま読まされているような感じ。
センチメンタリズムも残酷さも、ある意味での生(なま)の迫力はありますが、後味がいい、食べて美味しいものではあまりない。

『鴛鴦刀』 (’61年)

こちらは一転して軽快でコミカルなタッチで、国難をめぐる宿怨というお馴染みのモチーフを隠れた中心に据えた謎解きストーリーで、読み易いは読み易いです。ていうか要はそれを一つの大きな口実とする宝刀争奪勝ち抜き武術合戦で、ストーリーというほどのものでは本当はないです。(笑)
それはそれでいいんですけど、せっかく金庸自身が世に認めさせた武侠小説の文学的価値を、自ら先祖帰りさせて台無しにしている気もしなくはないです。(笑)

まあそんな目くじら立てるようなものではないでしょうが、ただラストは余りにいただけないですね。
なんだこの古臭いorやる気のない、教訓譚風のシメは。よっぽど困ったんでしょうか。
正直金返せという感じです。(?)

・・・・この2つに関しては、ほんとに’61年(頃)に書かれたのか、それ自体に少し疑問を感じます。昔書いた習作を、編集者の求めに応じて適当に仕上げて出しちゃったとかでは?という。(笑)
次の『越女剣』の方は、年代的な成熟感としては割りと納得が行くというか、純粋に別もの/アウトテイクという感じで受け取れますが。

『越女剣』 (’70年)

”臥薪嘗胆”の故事で知られる、春秋時代の「越」と「呉」の宿命の戦いをめぐる伝説を、金庸にしては割合忠実に脚色した作品。(らしい)
ということで古典的というか静かで小さくまとまった印象が強いですが、嫌いじゃないです。同じく少女のある意味での悲恋を描いているということで『白馬?』と比べるならば、『白馬』がうまく器が作れずに情緒が垂れ流しになっているのに対して、こちらはその「古典」性が一定の節度というかスタイル性を保証しているという感じ。

まあ『越女』の少女自体が、ほとんど俗人ではないというのもありますかね。なんでこのジジイにいきなり恋するのかはよく分かりませんが。(笑)
『射英雄伝』では雑魚技扱い韓小瑩ネエさんの「越女剣」が、こういう入神の必殺剣の由来を持っていたというのは何となく嬉しいです。(笑)



簡単に言えば書き込み不足、なんだと思います、単純に。金庸の意図を説明し尽くす為のスペースが足りない、基本(巨大)”建造物”である金庸作品にとって、安普請早普請は致命的であるという。侘び住まいは似合わない。(笑)

別な言い方をすると、やはり”ジャーナリスト”、”学者”なんでしょうねこの人は。本質的には”文学者”ではない。散文的な人というか。
事例の積み重ねによって初めて一定の説得力が生まれるのであって、凝縮した文学的・象徴的表現によって、一点集中センス良く表現したりは出来ない。

ここらへんはまあ、代表的には「結末のわざとらしさ」という形で、他の作品でもちょいちょい顔を出す性格ですね。端的に書くのは下手。

”プロデュース不足””金庸未満”についてもう少し説明すると、まず一方にこの作品集でも随所に顔を出す古代的中国的な情緒や詩情、あるいは暴力や殺人に禁忌の薄い、我々現代日本人とは各種優先順位の異なる価値観等の、まとめて非西洋近代的要素があります。
それを金庸が自らの持つ西洋近代人としての部分からの目線で改めて認識し、再構成して提供する一種のハイブリッドが、文学作品としての”金庸”の完成品なわけです。

それがその作業が不徹底な状態で目に触れると、完成状態ならある意味”殺菌”済みの状態で安心して(つっても結構エグいですが)楽しめる「非西洋近代的要素」のエキゾチズムやインパクトが、やけに生な状態でつきつけられて居心地が悪い。
また完成状態のきっちりした遠近法の中に置かれれば、そうした要素は我々が習慣的に絶対化している西洋近代的価値観や感受性を相対化するというような立派な(笑)機能も持ち得るのですが、未完成に投げ出されるとただただ古くて野蛮、あるいは滑稽なものに見えたりする。そういうことです。

とにかく時に脳天気にも見える(笑)金庸作品の、それなりに複雑で重層的な生成過程、あるいは金庸が行っている知的作業のプロセスの一端が、ある意味期せずして見える興味深い作品であると、そういう言い方は出来るかもしれません。恥ずかしい舞台裏、とも言いますが。(笑)


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金庸の作り方(?) ?『連城訣』評(1) 

連城訣 上 (1) (徳間文庫 き 12-21 金庸武侠小説集) 連城訣 上 (1) (徳間文庫 き 12-21 金庸武侠小説集)
金 庸 (2007/04)
徳間書店

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2巻ものなんで、きれいに2回で終わらせましょう。(笑)
そんなに書くこともないし。


金庸の”名場面”

読み直しで1巻の途中までつらつらと読んでいて、はたと気が付いて笑ってしまったんですが。
それは何かと言うと、前半の中心となるかの陰惨で救いの無い、”冤罪と牢獄”のシーン/エピソード、それから後半の中心となるチベットの雪山の洞窟とそこに渦巻いた複雑な葛藤劇、どちらも非常に印象的で記憶に残っていたんですが、しかしそれが同じ一つの話の中の場面だということは、その時になるまですっかり忘れていたからです。(笑)

勿論個人差のあることで、誰もがそうだということはないでしょうが、全作中でもかなり存在感の薄目の作品ですし、意外とそういう人はいるのではないか、あるいはこの作品についてそうでなくても、似たような散発的な記憶の仕方を金庸の”名場面”についてしてしまうことは割合あるのではないかと想像しますがどうでしょう。

一つ一つの場面の作り方は素晴らしい。名人である。ただ話全体がある意味単なる「場面の足し算」みたいなところがあって、実はどれがどこ(の作品)に来てもそれはそれで成り立つような。仮想の順列組み合わせというか。
この作品の場合、2巻本ということもあってそこらへんがよりはっきりと、つまり第一巻「菊花散る窓」(牢獄)と第二巻「雪華舞う谷」(チベット)と、2つの別のヴィジョンを合成してでっち上げた話みたいなそんな印象もあります。


『連城訣』という作品

基本的には僕は、ポリシーとしてなるべく後知恵やタレコミ的な周辺情報は入れたくない人ではあるんですが、この作品については後書きにある金庸自身の解題は全面的に重視せざるを得なくて、つまりこれは「生家の先祖が直接関与した冤罪にまつわる実話」を基に膨らました例外的な作品であるからですね。
そういう意味では恐らく本当に書きたかったのはやはり前半部分の”冤罪”のエピソードであって、それ以後/全体については、娯楽小説として成り立たせる為に半ば無理矢理付け足して膨らませて、何とか一つの作品としての体裁を整えたという、そういう性格の作品のように思います。・・・・だから僕が上で言っているのは、当たり前と言えば当たり前の話なんですけどね。(笑)

またさほど人気が無い(?)中でもこの作品の”異彩”として強い印象を与える、主人公狄雲に降りかかるあまりと言えばあまりの不幸・不運や、悪い奴嫌な奴、あるいは出て来る人間のほとんどが、露悪的なまでに人間の嫌な面をこれでもかと見せ付けて来るダークでダウンな作風。
これもそういう狙いをあえてコンセプトとして作ったというよりは、元になる実話のそもそもの悲惨さや、あるいはよく言われる法治の行き届いてない、腐敗や強欲や暴虐に塗り潰された(ある時期までの)中国社会の現実、それらをある意味素直に反映させた結果なのではないかなと。

・・・・ただその中でも、むしろその暗さ・重さ・絶望感を逆手に取って”不具にされても使える究極・最強の奥義”(「神照経」と「連城剣譜」)の話として、ちゃんと武侠の快楽、一発逆転のカタルシスを、全体のトーンを失わずに成立させる金庸の才覚はやはり大したものだなと思います。


金庸の作り方(?)

改めて言うとこの作品は、1巻本の『雪山飛狐』に次ぐ、金庸作品の中では2番目に短い”長編”小説であります。

かつて僕は『水滸伝』と金庸作品との類似性として、「各パート・エピソードと「全体」や「本筋」とのゆる?い関係」ということを書きました。これはつまり今回の1項目目と似たようなことで、部分が部分として独立的に存在しているという話。それによって1本の小説としてのまとまり感や流れ感みたいなものが、若干薄く/頼りなく見える傾向があると。

前回書いた時はそれは基本的に金庸の長大なタイプ(数的にはこっちがメインですが)の作品を念頭において、「あえて言えばほとんどが”余談”である」「何が核なのか中心なのか、分かり難いところがある」という意味合いで主に書いていました。
今回の『連城訣』は短い作品でそういった面は余り目立ちませんが、代わりにむしろ、「長かろうが短かろうが」「中心だろうが枝葉だろうが」、要するに「部分・場面の足し算構成である」というある意味より本質的なところに注目が行っているという、そういう話になりますか。

いずれにしてもそうした構造の有力な理由付けとして、前回『水滸伝』との比較論で述べた”講談”(調)という出自・源流、元々一つ一つの話として読み切りで語られたものを後に一つのものとして構成した(講談)、そういうものを典型的な「物語」として基本イメージとして抱いているという推定は、同様に使えるかと思いますが。

そしてこの『連城訣』の場合は、2つ目の項目で述べた特殊事情、”実際のエピソードを元にやや無理矢理長くしている”ということにより、そうした手順が透けて見えやすいという特徴がある、そこらへんに興味を惹かれたというそういうことです。
付け加えるとすれば”長い”と言っても”短い”ので、物量に圧倒されずに構造を見て取り易いと、そういうこともあるかも知れません。(笑)

・・・・次は内容面の話を。


連城訣〈1〉菊花散る窓 連城訣〈1〉菊花散る窓
金 庸、岡崎 由美 他 (2000/01)
徳間書店

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金庸の”厭世” ?『連城訣』評(2) 

連城訣 下 (3) (徳間文庫 き 12-22 金庸武侠小説集) 連城訣 下 (3) (徳間文庫 き 12-22 金庸武侠小説集)
金 庸 (2007/04)
徳間書店

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(1)


『連城訣』のハッピー・エンディング

香香公主の悲劇的な死を態良く綺麗事にまとめてしまう『書剣恩仇録』、主人公一行がバタバタと慌ただしく”新天地”に旅立ってしまって何のこっちゃという感じの『碧血剣』、どう言い繕っても誤魔化したとしか見えない(笑)ご存知悪名高い『雪山飛狐』のそれと、金庸作品のエンディング本編に比べて余り出来が良くないというのは、定評に近いものがあるのではないかと思います。
上に挙げたのは初期の3作で、そういう意味では全体的に未熟な分、不細工さも目立つのでしょうが、その後の『射雕英雄伝』『倚天屠龍記』などのスタイル確立後の作品においても、基本的な事情はさして変わらないように思えます。・・・・総じて言えば、”ハチャメチャ痛快な本編”に対する、”妙に意味性が勝ったわざとらしいエンディング”という関係。

なぜそうなのかというのは今は置くとして、そういう中でこの『連城訣』のエンディングは、個人的には珍しく落ち着きの良い、”美しい”と言っても言い過ぎでない、そういうエンディングになっていると感じます。
それぞれに俗世での希望を失い、疲れ果てた狄雲と水笙が、2人の束の間の心通わせた地、当時は敵味方の間柄ながら、思えば他の誰とのそれよりも”真実”に満ちていた時間を過ごしたチベットの雪洞に、申し合わせたように再び集い、その後の人生を穏やかに過ごすのだろうことが暗示されるあのエンディング。

一種の定型であり、出来過ぎた甘い夢ではあるわけですが、いつに無い(笑)説得力というか自然さを感じました。


”不幸””悲惨”とのコントラスト

そうである理由は割りとすんなり推測がついて、それはそこに至る過程、二人がそれぞれに味わう不運や裏切りや絶望が、十分な説得力と分量をもって描かれていて、読者(僕)も心の底からうんざりし、最早そうするしかない二人の選択・行動に納得感を感じるからだろうと思います。
つまりきちんと「落としどころ」に落とされているから、内容的には”甘い夢”でも抵抗を感じない、むしろ諸手を挙げて二人を祝福したくなるという。

逆に言えばそうでない金庸の「エンディング」類は、意図は分からないでもないがそこまでの追い込み、リードが甘い・不十分であると、そういうことになるかも知れません。
・・・・よくよく考えれば形としては『碧血剣』の”新天地”などと、似たようなパターンと言えばそうなわけですよね。あんな仰々しくはないですが。


金庸の”厭世”モチーフ

これはまた、エンディングとして出来が良いばかりでなく、金庸作品中に繰り返し出て来る”厭世”モチーフ、”脱俗”願望の、非常にコンパクトで厭味のない好サンプルであると、そういう風にも言えると思います。
恐らくだから金庸としてはある意味いつものやり方ではあるんでしょうが、それが”エンディング”としての出来の良さと同じ理由、不幸や悲惨の前振りの説得力によって、端的なリアリティを持った。

そしてそれを生んだのは「実話」を元にしたというこの作品の成り立ち、言い換えればその金庸個人にも因縁の浅からぬ実際の冤罪事件のインパクト、悲惨さ、やり切れなさ、それへの作家としての技巧・意匠のレベルをある意味越えた感情移入、それが作品の根幹に存在していつも以上の迫力・説得力に金庸の筆を導いたのではないか。

・・・・こう書いてしまうといかにもフィクションは事実に勝てないみたいな短絡的な話になってしまいそうですが(笑)、別にそういうことが言いたいわけではないです。
例えば金庸に限っても、後の『秘曲笑傲江湖』などでは似たようなモチーフをより大部の作品(全5巻)全編に渡って徹底的に追究して、娯楽小説としてのとてつもないクオリティとのむしろ相乗的なバランスの中で、十分な説得力をもって描くことに成功していると思います。


金庸の”厭世”観

だからこの作品の自分的な固有の位置付けとしては、クオリティ云々というよりもそうした”いつもの”モチーフ、それに込められた金庸の「本気」が一瞬垣間見えた気がするという、そういうところにあるかなと。そのきっかけとして「実話」への感情移入があった。
つまり「作家」の部分のみならず「個人」の部分も強めに出ているということで、そういう意味では同じく(”続編”という)特殊事情によって例外的に感情的になった、「個人」の部分が色濃く出ている『神雕剣侠』と、似たような性格もあるかなと思います。(どちらも暗めの作品ですね(笑)。)

で、やや唐突なまとめ方になりますが、僕がこの作品にかこつけて(?)言いたいことがあるとすれば、それは「金庸の”厭世”観/”脱俗”願望は結構本気である」ということです。

・・・・つまり確かにまずはそれは中国の伝統的文人・知識人共通の理想であり、憧れの境涯であるでしょう。また詳しくは知りませんが金庸の重要な思想的背景であるらしい仏教においては、言うまでもなくこれは根底に流れている感受性・価値観で、そういう意味では一般的なものであるでしょう。
だから基本的にはスタイル/約束事として、あるいは社会的存在としての作家としての方針としてそういう内容を金庸は常に作中に含ませるわけですが、ただそれは必ずしも格好をつけてるわけでも説教を垂れているわけでもなく(笑)、何かの機会には生(なま)の形で噴出する、個人としての金庸の心の叫びみたいなものでもあると、そういう風に僕は感じます。

なぜこんなことをわざわざ言うかというと、金庸作品のこの部分をどう捉えるか、感情移入するかどうかによって、金庸の読み方やキャラクターの評価は結構変わって来るように思うからです。
具体的にはあまり現代日本人が相対的に習慣化している、西欧的キリスト教/ヒューマニズム的な見方・価値観で、安易に解釈して欲しくないなと思うわけです。それは金庸の作品の、少なからぬ重要な部分の読み落としに繋がると。


それと(それこそ)個人金庸が現実に見せている旺盛な社会・政治参加の意欲や、人後に落ちないという噂の経済的貪欲(笑)などをどう考えるかですが、そこらへんはまあやはり中国人≒儒教人としての社会観・ライフサイクル観なのかなあと。
つまり元気な時は目一杯参加して、その後隠退するという。そこらへんが自明の前提としてスタイル化されている。まあ分かりませんが。(笑)

とりあえずこんなところで。


連城訣〈2〉雪華舞う谷 連城訣〈2〉雪華舞う谷
岡崎 由美、金 庸 他 (2000/02)
徳間書店

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