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金庸派究極奥義 『侠客行』(1) 

侠客行〈第1巻〉野良犬侠客行〈第1巻〉野良犬
(1997/10)
金 庸、岡崎 由美 他

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カテゴリーを再構成して、(総論)(各論)の区別とかまた曖昧にしちゃってますがすいません。
・・・・ああ、いっそ全部書き直したい!(それは駄目、ゼッタイ)

その中でも結構何書くかかなり困った『侠客行』の、今回は”総論”っぽい内容。
困った理由はつまらないからではなくて、逆に面白くて満足してしまうから。というのと、やっぱり・・・・内容が無いから。(笑)
だから主に形式についての話と、その「形式」自体が何を意味するかということを書こうかと。


金庸作品の基本的特徴

金庸作品全般に、見た目の特徴として通じるものを挙げてみると、こんなのが特に印象的かと。

(1)巻き込まれ型の主人公 ・・・・多くは消極的受動的or非社会的性格
(2)偶然的要素の大きい武芸修得
(3)主人公の意思や本意とは裏腹or無関係なストーリー展開


ある意味では全部同じことですけどね。

(1)巻き込まれ型の主人公であり、主人公は性格的にぼんやりおっとり、もしくはだらしない(笑)か、そうでない積極的or鋭敏な性格である場合も、社会的なことや立身の類には興味を持っていない
大別してみると、こんな感じ。
 前者:袁承志(『碧血剣』)、郭靖(『射英雄伝』)、張無忌(『倚天屠龍記』)、狄雲(『連城訣』)、
  段誉、虚竹(『天龍八部』)、狗雑種(『侠客行』)
 後者:楊過(『神剣侠』)、令狐冲(『笑傲江湖』)、韋小宝(『鹿鼎記』)
 中間:陳家洛(『書剣恩仇録』)
 例外:胡斐(『飛狐』シリーズ)、蕭峯(『天龍八部』)

陳家洛は基本的に天下国家の人ですし、性格的にも普通の人だと思いますが、”優柔不断”の悪評が高くて(笑)実際にそれにより作品に積極的な性格が失われているので、玉虫色の評価。
胡斐はよく分かりませんね。頭は切れますし父親の因縁にけりをつける問題解決の意欲も揺るぎないので前向きな人物と言っていいんでしょうが、そもそもどういうキャラなのか。『飛狐』シリーズそのものと同様、クオリティが低いわけじゃないんですが何か浮いた感じ。

蕭峯は苦難により後半はかなり厭世的になってますが、基本性格としては/何事もなければ丐幇の幇主として国の為民族の為尽くしたでしょうから、まあ例外ですかね。
ただし『天龍八部』という複数主人公のストーリーだからこそ、その1人として存在を許された捻りの無い人物像だと思います。実はあんまり僕好きじゃないです。興味無いというか。

あと韋小宝は”出世”はしますけど、あれは至って個人的な快楽主義・自己保存が、たまたま国家スケールで展開してしまっただけ(笑)なので、「社会性」とも「前向き」とも言えないでしょう。

そうした巻き込まれ型の主人公は、必要なスキルを努力や自ら求めてというよりは、僥倖や行きがかりで身に付けるのが常です。・・・・(2)
またそうして(笑)パワーアップした主人公たちはそれぞれに活躍しますが、所詮巻き込まれ型で太いモチベーションを持っていないので、ストーリー全体の中で彼の意思は必ずしも中心的位置では機能しません。”する”というより”なっちゃう”のが金庸のストーリーの基本です。・・・・(3)


正に”金庸”な『侠客行』

そしてこの’65の『侠客行』は、こうした金庸スタイルを純化した、そのエッセンス、技法の骨組みだけで出来上がっているような作品で、それゆえ「内容」というほどの内容が存在せず、いわゆる”感情移入”は難しいタイプの作品という定評。

項目別に見ていきますと
(1)
名前を知らないことに象徴されるように、出発点として「自己」や「自我」の意識のようなものをほとんど持っておらず、積極的/消極的という以前の無意志的なパーソナリティ。
(2)
最初に教わった武芸は上達の為ではなく、修練を誤らして自滅を誘う為。その危機を脱させた一撃は殺す目的で放たれたものが、正に僥倖として作用したもの。次に身に付けた「羅漢伏魔功」は、本人は人形で遊んでいるつもりでいたものが、その無欲が幸いして古今屈指の修得困難な武芸を自然に身に付けることに。
その後も主に他人の都合でひたすら受け身でいくつかの武芸を身に付け、最後には天下の名人達人が数十年頭を悩ました侠客島の武芸を、字が読めない/悩ます頭が無いという理由でその気もないのにあっさり身に付ける。
(3)
(1)のようなパーソナリティなので、他人や状況に反応するだけで、さしたる目的意識も持たずただただ流されるのみ。しかしなぜか結果的に事件の中心に位置し続け、あれよあれよと息付く間も無く話を転がす。

という具合で、徹底的に空虚というか、形式的というかパズル的というか。わざとらしいほど技巧的な、偶然の組み合わせで出来た作品。
それを無内容無感情と抵抗を感じるか、徹底ぶりとそこから来るスピード感、エッジ感、カラッとした馬鹿馬鹿しさを快と感じるかで、好き嫌いは分かれるようです。

公平に言って金庸の「仕様書」みたいなところはあって(笑)、それが習作や初期作品としてではなく、ひと通り書き終わった挙句の後期の作品(ラスト3作)として書かれているのが面白いところ。
つまりはこれは金庸の一種の「自己認識」であると、そう言って間違い無いと思います。

前後の状況的なことを言えば、その前に書かれているのが『天龍八部』(’63)、最長クラスのかつ最高クラスの複雑な構成を持った、それまでの蓄積と経験を一度全部まとめて注入しようとしたような、多少これ見よがしな作品で。
そうしたやや恥ずかしいタイプの(笑)”集大成”作品の経験を元に、またそこで色々滞留していたものを出し切って、今度は冷静にシャープに、ミニマムなアプローチによる、これはこれで”集大成”な作品かなと。

・・・・ついでに、だとすれば、また次の『笑傲江湖』(’67)は、両者の中間のバランスの取れた作品、かな?


というわけで表題の意味ですが。
とりあえず全部書いてあるカタログ的な『天龍八部』(か読み易い『笑傲江湖』)が一般門弟向きの”奥義書”だとすれば、不親切だけど凝縮度の高い『侠客行』は、限られた高弟向きの奥義書であると、そんなまとめ。

次からはその”内容が無い”中で、しかしその「形式」の中に込められた「内容」(ややこしい)について、書いてみたいと思います。

侠客行〈1〉野良犬 (徳間文庫)

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”知”と”非知” 『侠客行』(2) 

侠客行〈第2巻〉闇からの使者侠客行〈第2巻〉闇からの使者
(1997/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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承前
『侠客行』から無理矢理テーマを引き出す作戦その1。(笑)


”純”な男の価値 ?中国人の男性/性差観

我々日本人読者が金庸作品を読んでいると、作者金庸が意識的に「伝え」ようとしていることとは別に、むしろ中国人として無意識に/お約束として依拠・前提としていることこそ逆に面白かったりしますが、その内の一つとして僕が読んでいてあれ?と思ったのは、中国伝統文化における男性観、性的役割分担観。具体的には男が”純”であることの価値感。

代表的には勿論『射英雄伝』の郭靖、あるいはjinyuさんなどがよく指摘しておられる、郭靖の中国における、日本人には奇妙なほどの絶対的人気。
それには勿論、”大侠・郭靖”としての「国に尽くす」という、これも中国的な大道徳の要素も絡んでいるわけでしょうが、しかし現代の読者に彼が超・鉄板のヒーローとして受け入れられるに当たっては、彼の日本人からすると「ちょっと足りないんじゃないのか?」と少し引きかねないような(笑)人の良さ、盲目的な誠実さが、王道的な”ヒーロー”像/人間として純粋にプラスの属性として受け入れられているという、そういう土壌の存在が感じられるのですが。

実際にはこういうテーマ化し得るような大きな人物設定の問題というよりは、作品群の端々で、あるいは全てのキャラクターの描写における押し並べての価値基準としてそういうことを感じることが多々あって、基本的なところで中国人は純な男、男の「真心」に最大の価値を置き、才気とか現実的能力とかは、ヒーローとして副次的な要素であるようで。
勿論日本にもこうした感じ方は無くはないんですが、ちょっとスケールというか思い入れの熱が違うというか。まあ韓国ものなどでもそういうことは感じなくはないので、これは日本人が感情的に淡い/薄いか、中韓に前近代的心情がまだ色濃いとか、そういう一般文化的理由もあるのかも知れません。

で、ともかくその場合逆に女の側にどういう属性が帰せられるかというと、それは「気働き」であるとか「駆け引き」「打算」であるとか、そういうもっと分かり易く現実的外面的な”能力”で、何やらアダムに対するイヴ(エヴァ)的なそういう神話的古代的偏見(笑)の臭いもしなくはないですが、まとめて言うと、

 ”男は愛嬌、女は甲斐性”

的なコントラスト。頭を使うのはむしろ女の役目。男は心を使う。(?)
まあ逆に、実際の男に真心がないことの反映的願望かもしれませんが。(笑)

話戻して”純”という言葉自体について言うと、例えば少林派などの正統的武芸などについてよく言われる、「至純」の境地のような表現。色々目を配るよりも一つの道を真っ直ぐに極めるのが尊い・強いという価値観。
勿論それはあくまで世界観の基本設定であって、実際には金庸は主人公たちに様々にハイブリッドな上達を施して、それによってスペシャリティを、常識の超越をさせるわけですが。


”知”から見る”非知”

と、いうのは例えばの前フリですが。(長え)
より金庸的に言うと、彼自身は能力的にも階級的にも相当に知的な、「知」の色彩の濃い世界の住人であり、その自負も使命感もたっぷり備えているのは明らか。また世に様々頭の良い人がいる中でも、どちらかと言えばその・・・・はっきり言うと少しそれが小賢しい、鼻につくような出方をしないでもない(笑)タイプの人/作家だと思います。

勿論自分の「武侠」文学をこのような複雑で示唆的で、かつ突き抜けた快楽性を持ったものとして(ジャンルとして)構成したそもそもの見識・手腕自体は、間違っても単なる軽薄才子でも俗物知識人のものでもないとこれははっきり言っておくべきですが、気質というか手癖的に、それほど機微や情に通じたタイプの人ではなくて、ある意味”情”すらも理論的にやっているところがある。

そうした傾きを自覚しないわけはない(たまに吐露もしてますね)金庸にとって、例えば男の”真心”、あるいは素朴で一途で純真な心情のようなものは、ある意味では憧れであり、微妙にコンプレックスを掻き立てられる要素でもあるのだと思います。
程度の低い人の場合はそうした自分の苦手なものを、価値的に下に書いて自己防衛したりということも可能でしょうが、それをするには金庸は賢過ぎる。

その流れでより一般的に言うと、真に知的な人ほど、その逆の”非知”の価値が分かる、分かってしまうものなのですよね。既に十分な”知”を得ていれば、それに無闇な幻想や強迫観念は持たずに、逆にその限界を日々感じながら暮らすことになる。
そしてそれとのコントラストや境界付けで、それぞれの”非知”がどのような意味と価値を持ち、”知”とはまた違う特有の困難があるかを理解し、尊敬することになる。攻撃の対象とするのはむしろ中途半端な”知”の方。


半端なものは好かんというのは、この前の”愛”の話とも通じるところがありますが。悪人は正機に、大愚は大賢に通じる。ある意味ではこの世の「外」からの視点も持っている人でありますし。
結論的に何を言いたいかと言いますと、どうして金庸がホケキャラ系主人公を書きたがるか(笑)というと、それは
1.純真さに対する中国的な土壌を背景にし、
2.知を極めたものとして非知の価値を十分に知っていてそれを描きたいと思っている

からだというそういうことですね。

そしてその究極が、『侠客行』の主人公”狗雑種”であるという、そういう話。
やっぱ狗雑種最高!(笑)


もう一つ行きます。

侠客行〈2〉闇からの使者 (徳間文庫)

メモ:”無我”と”縁” 

天龍八部〈6〉天山奇遇天龍八部〈6〉天山奇遇
(2002/08)
岡崎 由美、金 庸 他

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金庸ファンの皆様どうも。
放置中もポツリポツリと過去ログに拍手が来るのが、微妙にプレッシャーなアトです。(笑)
順番としては『侠客行』の(3)なんですが、書こうとしている内容がカブリそうなのでこっちでやっておきます。
一応、”「仏教」小説としての『天龍八部』(4)”ですが、(1)(2)(3)の続きではないので、特に前のを確認する必要は無いです。

無我と縁
改めて作中に引用されている経典の文言を総チェックしてみて、取り上げるとすればこれかなと。他は本編中に解説がついているor普通に読めば分かるものか、言い方が仰々しいだけで大した内容ではない(笑)と思われます。

まずは引用箇所を。


「衆生は無我にして、苦楽はにしたがう。たとえ栄誉を受くるとも、過去の宿因のなせるもの、今はこれを得ようとも、縁が尽きれば無にかえる。何の喜ぶことあらんや。得失は縁により、心には増減なし。」

(単行本6巻p.181)



「み仏の教えでは、万法はこれの一字です。『諸法は縁より生じ、諸法は縁より滅す。我仏大沙門、常にかくのごとき説をなす。』」

(単行本6巻p.285)


いずれも小坊主虚竹の言で、面目躍如ですね。段誉の引き方だと、どうにも薄っぺらくて仕方ありません。(笑)
前者は文中にあるように少林開祖の達磨さんの言葉(曇林『入道四行観』)、後者はずばりお釈迦様(”我仏大沙門”)の言葉とされるもの(馬勝『地蔵本願経講記』)ということ。

以下とりあえず文中語それぞれの標準的定義。(参考にしたのは各Wiki、及び財団法人仏教伝道協会「やさしい仏教用語」

”衆生”・・・・生命あるものすべて。

”無我”・・・・”我”が無いこと。

 ”我”
 ・狭義にはバラモンの”アートマン”、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
 ・広義には自分も世界も全てを含めた、個々の存在の実体のこと。

従って”無我”も、

 ・永続的な確固とした「我れ」、主体が無いという意味(狭義)と、
 ・「世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」という意味(広義)

と、二つの場合がある。

”縁”(”因”と”縁”)

・因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける間接的原因、外的条件。
・過去の宿因。(↑引用部分)

 ”縁起”
 ・「因縁生起」(いんねんしょうき)の略。「縁って起こる」こと。
 ・世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って消滅変化しているという考え方。

”法”(万法、諸法)

1.「法則」「真理」。教法、説法。時に「秩序」「掟」「慣習」。
2.存在。具体的な存在を構成する要素的存在。

・・・・ここでは主に2の意味と考えられる。


(”無我”と”縁”の関係)


釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。

”縁起”Wikiより)


あらゆるもの、個物には実体は無く、「無我」である。その意味で区別は無い。
しかし同時にあらゆるものは関係性の中にあり、それぞれの関係において生起する。だからそれぞれの関係の個別性具体性によって、束の間意味や価値や個別的存在性が規定される。彼が彼であるのは、彼の持つ「縁」による。

ただしその「縁」が尽きれば(縁の影響の範囲を越えれば)、彼が彼であった根拠や個体性は失われる。すなわち『縁が尽きれば無にかえる』『縁より生じ、縁より滅す』。(↑)

・・・・まあ仏のスケールでは無でも、凡俗のスケールでは有みたいな話です。(笑)
究極的には無いけれど、とりあえずは有る。あるいはそれぞれの「縁」の実効範囲内でなら、有ると言っても当面差し支えは無い。


というようなことを押さえつつ、話を金庸に戻します


”無我”と”縁”と金庸のストーリー 

天龍八部〈7〉激闘少林寺天龍八部〈7〉激闘少林寺
(2002/09)
岡崎 由美、金 庸 他

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承前
”「仏教」小説としての『天龍八部』(5)”兼、”『侠客行』(3)”。テキトー。(笑)


『天龍八部』の”無我”と”縁”

前回確認したそれぞれの概念の定義に従って、引用部分の意味自体はだいたい分かると思いますが、ではそのことの『天龍八部』的意味は何か。

改めて『天龍八部』というこの長い小説の内容を見てみると、ありていに言ってかなり悲惨な話だと言えると思います。
特に申し分の無い好漢蕭峯の救いの無い運命や、だらしないけれど憎めない(笑)、段正淳とそれぞれに可愛げのある女たちの末路は、何もそこまでしないでもと、作者金庸を恨みたくなる向きも少なくはないでしょう。

そのやや乱暴とも思えるやり口はともかくとして、こうしたストーリーの意図自体は割合明白で、つまりは個々の人間の人柄やら意思やら努力やらといった”関数”だけでは推し量れない、「人の世のままならなさ」「運命の皮肉」、こうしたこれまでの金庸の作品にも度々登場してきた要素・観念を、”仏教”を明示的なモチーフとしたこの作品でより徹底的に追究する、ある種のこの世の”真の姿”として読者に示唆するという、そういうことだと思います。

そうした把握、世界観の理論的前提が、『無我』であり『縁』であるわけですね。
元々この世(の存在)に確たる実体、根拠は無い。無我である。だから物事の成り行きも、あっさり言ってしまえば偶然である。善意悪意の差に本質的意味はないし、誰かの努力が結果に与える影響なども、どうしようもなく限定的なものである。
・・・・つまりそれらは言ってみれば直接原因たる「因」であるわけですが、実際の最終結果はそれに加えて間接原因としての「縁」が大きく影響していて、その部分は人間には制御不能であるし不可知であるということです。


(”縁”についての注)

ちょっと段取り悪いですが(笑)、ここでもう少し『縁』について説明しておいた方がいいかもしれません。つまり、「縁とは具体的に何ですか?」という問いには意味が無いということについて。
なぜかと言えば、それはそもそもが機能的定義であると考えられるからです。

では縁とは本来何かと言えば、要するに”縁”して機能しているもののことだと思います。中身は知らないが、ある程度特定可能な”因”とは別に、その時その最終結果をもたらした間接原因、それを”縁”と呼ぶということ。縁として働いているものが縁。
・・・・何か誤魔化しているように聞こえるかも知れませんが(笑)、こういう概念の使い方というのは割合あって、例えばかの現代物理の「量子力学」の「量子」なども、どれが量子かと問われても、示すことは出来ないんですね。「原子」や「分子」のような意味で「ある」わけではない。ただ問題となる物理現象のプロセス内で、ある特定の機能の仕方をしているもの/領域を「量子」と名付けて、説明の便宜とする、理論の機能性を確保するというそういうものです。それで用は足りている。(参考)

『縁』という概念も大きくはその類だと思います。そもそも仏教は、それこそ「原子」や「分子」のような”実体”的概念から出発するというスタイルをとらない(”無我”)ので、ますます問題ではないわけです。

*ちなみに前回の『入道四行観』の引用では、「過去の宿因」という説明がなされていますが、これはよくある通俗的な解釈を便宜的に採用したものか、あるいは単なる慣習的な語り口なのではないかなあと思います。というのもこの箇所自体が、仏教の哲理を語ったものというよりは、世人への直接的な戒め・訓話の類に見えるからです。
・・・・もしくは翻訳者の意訳のし過ぎも少し疑っているんですが(笑)、原文をご存知の方がいたらお教え下さい。


金庸的ストーリーにとっての”無我”と”縁”

仏教色の強い(あからさまな)『天龍八部』においてはかなり極端ですが、多かれ少なかれ、金庸作品におけるストーリーが、主人公や登場人物たちの意思や本意と無関係or裏腹な展開を見せるということは、金庸作品の基本的特徴として前にも述べました。時に悲劇的に、時に喜劇/シュール/スラップスティック的に。

金庸の「仏教」がどこまで本気なのかは僕は知りませんが(笑)、それらがどのくらい直接的に仏教思想由来であるかは別にして、やはり金庸のこの世の出来事の把握の仕方、見切り方、運命観みたいなものの根底には、こうした達観や諦観が色濃くあるのだと思います。
創作上の趣向やスタイル意識は意識として、だからこそ金庸はこうしたストーリーを書きたがる、書かずにいられないのだ・・・・と、言うことを『侠客行』編の(3)として書こうと思っていたんですがもういいですね。(笑)

侠客行〈第3巻〉侠客島の秘密侠客行〈第3巻〉侠客島の秘密
(1997/12)
金 庸、岡崎 由美 他

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侠客行〈3〉侠客島の秘密―金庸武侠小説集 (徳間文庫)

一見冗談のような偶然任せの超展開も、つまるところこの世で日々起きている、もっともらしい意味や因果関係があるように見える”現実の”出来事も、一皮向けば同じくらい馬鹿馬鹿しい、まともに努力するのが空しくなるような訳の分からない、制御不能の偶然の帰結なのではないかという、(金庸の)直観や虚無感の反映であると。


もう一つ、アウトテイク集的なものを書いて、”「仏教」小説としての『天龍八部』”編終わり。

天龍八部〈8〉雁門悲歌天龍八部〈8〉雁門悲歌
(2002/10)
岡崎 由美、金 庸 他

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その他金庸と仏教 

天龍八部〈5〉草原の王国天龍八部〈5〉草原の王国
(2002/07)
岡崎 由美、金 庸 他

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早くキリをつけてしまおう。まあ大した話ではないです。(笑)


「頓悟」と「漸悟」、と金庸の武術修行


「玄難大師は禅の理に精通しておいでゆえ、禅宗の要旨が『頓悟』にあることは存じておられよう。棋道においても同じこと、十にもならぬ神童が、しばしば一流の名手を破る。」

(単行本5巻p.247)


少林派とのからみもあってでしょう、金庸の仏教の多くが”禅”であり、また少なくとも作品内では決まって『頓悟』の優位を語っているのは、何冊か読めばすぐに分かることだと思います。

ここで『頓悟』とは、またそれの反対である『漸悟』とは何かというと、


一足とびに究極の悟りに至るのを頓悟、漸漸に順序しだいを経て悟りに進むのを漸悟という。

「松風>茶道レポート凌亂>頓悟主義と漸悟主義について」


ということです。
修行や悟りのプロセス論として、特に禅や各種の「道」においてよく問題となる対立。
その細かい話や金庸がどういう理由であそこまではっきり頓悟の優位を語るのかは置くとして、ともかく金庸作品では、頓悟の優位はお約束として確定しているわけです。

そこから僕が想像する、言っておいた方が面白いかなと思うのは、例の金庸の主人公たちが身につける奇妙奇天烈な武芸の数々、特にしばしば「あんなにあっさり上達するのはおかしい」「理屈だけでああも簡単に出来るものか」と慣れない人からはクレームが出ることも無くはない(笑)独特の修行と上達の世界観、その背後にこの『頓悟』の思想があるのではないかなということ。

・・・・いや、そんな真面目な話ではないんですけどね(笑)。基本的には単なる金庸の稚気、悪ふざけなんでしょうけど。ただその”悪ふざけ”を支える屁理屈として、こういうものが用意されているのではないかな、そう考えると一応は納得できるかなというそういう話です。


”人無我・法有我”説

すっげえ細かい話で興味無い人はスルー推奨。


部派仏教になるとこの定型が形式化し、説一切有部(せついっさいうぶ)においては、要素である法の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう)と呼ぶ。



このような「法有我」もしくは「自性」に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹(りゅうじゅ)であり、自性に反対の無自性を鮮明にし、空(くう)であることを徹底した。
(中略)
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド、チベット、中国、日本その他のいたるところで、すべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。


・・・・いずれも Wiki”無我” より。

前々回説明したことと合わせて簡単に言うと
1.仏教以前のインド思想の、「我」(人/自分や世界の実体)の実在説。
2.それを否定した原始仏教の「無我」説
3.そこから世界については実体性を回復させた部派仏教の「人無我・法有我」説
4.最終的にやはり全て無我であるとした大乗仏教(以降)の「空」。

何を問題にしているかというと。
金庸が”無我”的な、”縁”主義的なスタンスで、主人公ら登場人物の「自由意志」や「努力」の影響力を極小化する方向の、ある種「運命論」的なストーリー展開を重点的に行っているという話を、前回まででしました。

ここらへんに関して、かつて僕は(やや留保的な書き方ですが)『射英雄伝』の項で、郭靖の”成長”や”自己実現”とのコントラストとして、「ギリシャ悲劇」という例を挙げました
代表的には「オイディプス王」。”父を殺し、母を犯す”という予言に逆らう為の人間側の努力にも関わらず、気が付けばそれと知らず正に予言通りの人生を歩んでしまったオイディプスの悲劇。

これがつまり、世界の主役はある種の「運命」であり、その前には個人の意思など無に等しいという、古代世界にかなり共通する世界観の表現なわけですが。
そして金庸の”運命論”的表現も、単純な先祖帰りではないにしても、基本的にはそうした古代的古典的な文学表現・世界観と、近代的個人主義的なそれとのハイブリッドの一種であると、そう僕は認識しているわけですが。

この認識にそう大きな間違いは無いと思うんですが、ただその時金庸が想定/イメージしている言わば”人無我”は、いったいどういう構図の元のものなのかなという。
つまり人は無であるが運命や世界(とその背後にいる神々)は有であるギリシャ悲劇は、ある意味「人無我・法有我」説に立っているわけで、それは人間の『自由意志』に対する神の『恩寵』の優位を基本的に語るキリスト教(例)なども大きく言えばそうでしょう。
・・・・というかこれが一番素朴・普遍的な古代/前近代的な考え方なので、「法」(世界、神)まで無我だと言い切ってしまうところに、仏教の特異性があるんだと思うんですが。

結論は特に無いんですけどね(笑)。今回調べていてちょっと考えてしまったというだけで。
禅である、大乗仏教であるという意味においては、デフォルトで「空」である、両方無我であるということになるかも知れませんが、そこまでは考えていないような気もしますし(笑)。さて。


ああ、めんどくさかった。これで”仏教”話は終わりです。
なかなか思ったようには説明できないものですね。もうちょっと上手く出来ると思ってたんですけど、言いたいことの半分も言えなかった。修行します。(笑)