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P・D・ウスペンスキー『奇蹟を求めて』 

奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)
(1981/02)
P.D.ウスペンスキー

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多重人格ノートの新作兼、『私の頭の中の消しゴム』で僕が書き殴った、「”人格”と”魂”」の話のフォロー。
いや、書いてから思い出したんですよ。そう言えばあそこにもあんなこと書いてあったなと。何せ結構な昔に読んだ本だったもので。


グルジェフという人

まずこの本の性格から説明しますと、ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフという高名な(いわゆる)”神秘思想家”の言行録を、その一番弟子とも目される著者ウスペンスキーが書き留めてまとめたものです。
グルジェフ自身の手になる著書もいくつかありますが、仕掛けの多い相当に捻った書き方になっているので、一般にグルジェフ思想を学ぶにはこの本が最適とされています。(グルジェフWiki)

僕自身がグルジェフの名を知ったのは、ご多聞に漏れず(?)キング・クリムゾンのロバート・フリップ(Wiki)経由で(あんまりいいのがなかったけどここらへんとか参照)、プログレ/フリップ自体をどちらかというといかがわしく(笑)思っていた僕は「ああ、またなんかこけおどし言ってる」くらいにしか聞いてなかったんですが、ひょんなことからこの本を読んでみたらえらく面白かったので驚きました。
”ハマる”ほど理解は出来なかったんですけどね当時は。その後自分なりに色々知識なり人生経験なり(笑)を積み重ねていく中で、後追い的にじわじわと、ああ、グルジェフが言っていたのはこういうことかなと認識が進んでいる最中というそんな感じ。

まああんまり僕にグルジェフ自身について聞いたりしないで下さい(笑)。答える任にはありません。他に『グルジェフ・ワーク』『注目すべき人々との出会い』の2冊を読んでいます。なぜかそういう趣味の友達に渡された、未翻訳の原稿のコピーなんぞも持ってますが。やだよこんなの訳すの。


グルジェフの「人格」論

膨大かつ複雑かつ非体系的なグルジェフ思想の中で、Wikiにも書いてある宇宙論的な部分などは正直手に負えないというか、はあそうですか、あなたが言うなら某か真実なんでしょう、重大なことなんでしょうと、そんな感じで受け止めるしかないんですが、広い意味で「心理学的」な部分についてなら僕にも何とか対応可能です。

その具体的な内容については次回以降に譲りますが、一言で言うと”多重人格”という症例、及びそれが示唆する人間観、世界観と通じるものが非常にある理論だと思います。だからこそその洗礼を受けて、副次的に僕のグルジェフ理解も進むことになったわけですが。
多重人格が打撃を与えた「人間」や「人格」や「心」に関する、我々近代人の情緒的で誇大妄想的な思い込み、それを剥ぎ取った後に存在している秩序、そういうものについてグルジェフは語っていたわけでしょう。

ここで注意したいのはグルジェフの立ち位置で、つまりロシア/中央アジア出身の20世紀前半に活躍したさすらいの神秘思想家グルジェフは、近年の北米を中心とする20世紀後半に巻き起こった多重人格”ブーム”(及びそれに対する反動)とは基本的に無縁なわけで、そうしたあらゆる”政治”や”影響”とは関係のないところで端的な”事実”として自らの「人格」論を語っています。
それだけに読む側には新鮮であり、衝撃的であり、汲むべき独自の価値もあると、そういう風に言えるのではないかと思います。

ただしグルジェフは同時代の心理学全般には、最終的にとても批判的ですがかなり通じていたようで、用語法自体はそれらを意識し、ある意味での理論的連続性はあると想定して読んでいいようです。参考までに代表的な心理学者/精神医学者とグルジェフの活躍時期を重ねてみるとこんな感じ。

シャルコー 1825?1893
ウィリアム・ジェームズ 1842?1910
パブロフ 1849?1936
フロイト 1856?1939
グルジェフ 1872?1949
ユング 1875?1961
エリクソン 1902?1994
スキナー 1904?1990
マズロー 1908?1970
『失われた私』(”シビル”) 1973

・・・・面白くなってついつい沢山挙げちゃいましたが。(笑)
シャルコーは特に催眠術の実践的治療家として知られる精神分析の祖の一人。
ジェームズはある意味グルジェフ同様、「外」の視点から心理学を研究した哲学者。
エリクソンは『アイデンティティ』の、マズローは『自己実現』の教祖。
パブロフとそれを元にしたスキナーの”条件付け””行動主義心理学”は、グルジェフと(知らず)同調的に、また多重人格の先触れ的に、「人格」幻想を攻撃した思想。
『失われた私』は現代多重人格運動の先駆的名著。

ま、こういう時代の人です。
次回まずはグルジェフの自己論、(多重)人格論から。「人格と魂(グルジェフの場合は”本質”)」についてはその後で。


・・・・しかしエリクソンとスキナーとマズローってほとんど同時代なんだなあ。意外。すげえライバル関係だ。(独り言)


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何百何千の<私> 

ちょっと長いですが、まずはグルジェフの言葉の衝撃力を伝えたいので網羅的に抜粋。太字部分は原典、色付き部分は僕です。一部勝手に段落を変えています。

話のたびにG(グルジェフ)は、人間内部の統一の欠如の問題に言及した。

G?人間の重大な誤りの一つで、しかも覚えておかなければならないのは、<私>に対する錯覚だ。
 我々の知っている人間、つまり<人間機械>、<為す>ことの出来ない人間、全てが<偶然起こる>ような人間、このような人間は永続的な単一の<私>をもつことはできない。彼の<私>は、彼の思考や感情、気分などと同じようにすばやく変わり、それゆえ彼は、自分を常に全く同一の人間であると考えることにおいて非常なまちがいを犯している。実は、彼は、常に違った人間であり、一瞬前の彼ではないのだ。



あらゆる思考、気分、欲望、感覚が<私>を主張する。そしてどの場合にも、この<私>は当然全体、つまり、人間の全体に属しており、それゆえ思考や欲望や嫌悪もこの全体から表現されると考えられている。
が実は、このような推測にはいかなる根拠もない。人間の一つ一つの思考や欲望は、全体から全く切り離され、独立して現れ、そして生きるのだ。全体は物理的には物として、抽象的には概念としてのみ存在するという単純な理由のために、決して自己を表現することはない。



人間は一個の<私>を持ってはいないのだ。そのかわりに何百何千というバラバラの小さな<私>があり、それらはほとんどの場合互いに他の存在を全く知らず、接触もなく、それどころか互いに敵対的、排他的で、比較さえ出来ないのだ。
一分ごとに、いや瞬間ごとに、人間は<私>と言ったり考えたりしている。そしてそのたびに彼の<私>は違っている。あるときは思考であり、あるときは欲望、またときには感覚、ときには別の思考という具合に果てしなく続くのだ。


複数の<私>たちの世界。

複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。



もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。



それぞれの小さな<私>は、自己を全体の名で呼ぶことも、全体の名において動くこともでき、賛成も反対もできるし、別の<私>ないしは全体が取り扱わなければならない約束や決定をすることもできる。これは、なぜ人々が決意はよくするのにそれを実行することはほとんどないかを説明している。
ある人が翌朝から早く起きようと決心したとしよう。一つの<私>、あるいは複数の<私>のグループがこれを決心する。ところが起床は、この決定に真向から反対しているか、これについては全く何も知らない他の<私>の仕事だ。当然その人はその朝も寝坊するだろう。そして夜になるともう一度早起きを決意するのだ。
(中略)
どんな小さな<私>にも小切手や約束手形(注・比喩)を振りだす権利があり、人間つまり全体がそれを支払わなければならないというのは人類の悲劇だ。人々の生活全体が、しばしば小さな偶発的な<私>の約束手形の支払いに振りまわされているのだ。


”東方の教え”の比喩。

ある教えでは、人間は召使いは沢山いるが主人も執事もいない家に例えられている。召使いたちは自分の仕事を全部忘れており、誰も自分のすべきことをしたがらず、みなわずかの間でも主人になりたがっているという有り様だ。
この種の無秩序の中で、この家は重大な危険におびやかされている。それからのがれる唯一の道は、もっと分別をわきまえた召使いたちが集まって、一時的な、つまり執事代理を選出することだ。



・・・・さてあなたはどう感じましたか?(笑)
現時点での僕の解釈及び解説は次で。


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何百何千の<私>:解 

『何百何千の<私>』。最低限引っかかるだろうところを。


(抜粋1)より

<人間機械>、<為す>ことの出来ない人間、全てが<偶然起こる>ような人間


グルジェフ思想/人間観のベース。
人間はデフォルトでは「意識」やら「自由意志」やらと呼べるほどのものは持っていない、「機械」的存在であるという。そしてその根本原因の一つとして、今回のテーマである人間内部の統一の欠如があるわけですね。(だから”ワーグ”を通じてそれを達成して、「意識」や「自由意志」を獲得する。)

これについて細かく説明はしませんが、補助線としては前のエントリーの生没年表で名前を挙げたパブロフ?スキナーの「条件付け」「行動主義」という思想・理論が参考になるかなと。要するに・・・・お前らみんな自分が思ってるずっとずっとパブロフの犬だぞ?とグルジェフは説いていると、そういう理解で大きな間違いはないと思います。
実際パブロフ(学派)は例の”餌とベルとヨダレ”のシンプルな条件関係の延長線、連鎖で言語や思考も含めた人間の高次の精神活動も全て説明できるとしていますし、行動学派の中心的な主張は正に「人間は意識なんて持ってない」(ただの刺激?反応マシンだ)というものでした。

こういう流れとグルジェフの直接的な関係は分かりません。年代的にも知ってはいたと思いますが、基本的にはグルジェフは遥か古代から連綿と続いている神秘・宗教思想の総括的継承/伝達者(”東方の教え”の比喩の項参照)であるという風に自らを位置付けています。ただし逆にグルジェフの元に、そちらの学派の人たちが後に参集したという事実はあるようです。


(抜粋3)より更に抜粋

人間は一個の<私>を持ってはいないのだ。そのかわりに何百何千というバラバラの小さな<私>があり、瞬間ごとに彼の<私>は違っている。


いいかげん、”多重人格”そのものには慣れた人にとっても、「何百何千」「瞬間ごと」という表現の極端さにはギョッとさせられるかもしれません。
ただこれは”ビリー・ミリガンは24(25)個の人格を持っていると思っていたけど本当は240個だった”という風に(笑)そのまま考える必要はないと思います。

例えば上の「意識」「意志」の問題にしても、要するに要求水準の違いであると、そう言って言えなくはないのだと思います。少なくとも犬や猫より人間が意識的なのは確かなわけで、つまり同じ意識性のレベルを見てそれを「意識」だと呼ぶ価値があると見るかないと見るか。これはよく「動物は思考(感情)を持っているか」といった設問でも問題になるところですが。
言ってみれば人間が犬猫を見ているような視点でグルジェフは人間を見ていると、そう想像してみると分かり易いだろうと思います。

「私」「人格」についても同じことで、統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるかによって、24にもなれば240にもなると。そこまで極端ではありませんが、実際現代の多重人格治療の現場でも、治療者・研究者によって同じ患者を対象としても見方は変わることがよくあります。
・・・・ただしグルジェフの本意は、そもそも”?人”と数えるに足るような統一性/一貫性を持った「私」を現状人間は形成出来てはいない。だから要するに有象無象だと、数える気にもならんが何百何千だと、そういうことなのでしょうが。

再び補助線を引くと、こういう2つの現象が既に知られています。
1.”ポップアップ”現象
極度に混乱した多重人格者が、長年の観察者にも全く判別できないような物凄い頻度で人格を交代させ続ける現象。
2.高機能自閉症者の”仮面の人物””顔”(ドナ・ウィリアムズ)
継続的な「アイデンティティ」の拠り所というよりも、場当たり的な対応・適応のツール、外界の刺激に対するその都度の「反応」という、よりグルジェフ的イメージに近い「人格」の例。
・・・・どちらも病的とされる状態の話なので、いわゆる”健常者”のそれとすぐに直接的に接続するのは難しいですが、参考にはなるだろうと思います。

(この項つづく)


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何百何千の<私>:解(つづき) 

何百何千の<私>:解


(抜粋4)より

人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。


これは面白い。「人格」が「交代」するというよりも、その時々その人の中で優位に立っている/活性化している諸要素(思考、気分、欲望、感覚など)を、その都度<私>と名付けて一体化するというそういうイメージですね。(なおこの”一体化”についてはグルジェフは『自己同一化』として別に重要な理論として説いてますが、煩雑になるので今回は割愛。)

これに対応するのが(抜粋2)の

全体は物理的には物(つまりカラダ)として、抽象的には概念としてのみ存在するという単純な理由のために、決して自己を表現することはない。


の部分。統一した/一貫したワタシは、概念としてのみ、機能としてのみ実在し、物理的構造的には実在しない。または表現されない。

・・・・何やらデカルトの”コギト”やらフッサール/現象学の”超越論的主観性”やら、その他諸々哲学的議論の迷路に入り込みそうな箇所ですが、それについて少なくともそういう脈絡ではグルジェフはそれ以上説いていないようなのでストップ。
むしろ問題はここらへんの関係が凡人と覚者で違うのか、それとも共通の構造なのか、内部的統一性を獲得すると変わるのか、そこらへんが重要であり興味深いところですが。

ともかくここでは通常の心理/精神医学的「多重人格」論との描写、論法の違いに留意すべきだと思います。


(抜粋6)
・・・・は、あらゆる理論的立場やグルジェフのような思想への懐疑を越えて、いち生活者として誰もが心にチクリと突き刺さる箇所だと思います。(笑)

なぜ人々が決意はよくするのにそれを実行することはほとんどないか


うるせえな。分かってるよ。”人類の悲劇”。ごもっとも。朝令暮改。短気は損気。女心と秋の空。男の下半身は別人格。
心当たりがあり過ぎるだけに非常に魅力的な説明に感じてしまいますが、どうでしょう。(笑)


キリがないのでこんなところで。
後はおのおの自分で考えるなり、グルを見つけて師事するなり好きにして下さい。
次からいよいよ「人格と魂」の話グルジェフ版。


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「人格」と「本質」 

いよいよ一方の本題。


繰り返しになりますが、僕が”「人格」と「魂」”として『消しゴム』について書いた時点では、グルジェフとのすり合わせは(少なくとも意識的には)全くやっていなかったので、齟齬とかは気にせずにニュートラルにお読み下さい。勿論どう違うのかという話も後で書きます。
ついでに言いますと、「人格」と「魂」という用語法自体は『消しゴム』or『消しゴム』の字幕翻訳者のもの(笑)であって僕は乗っかっただけなので、そこらへんあまりストレートに受け取らないでくれると。まあそれほど大きな違和感はないですけど。

ではグルジェフの言葉に行きます。今回も太字は原典、色付きは僕の指定。


「人格」と「本質」

人間は二つの部分から、すなわち本質人格とから成り立っていることを理解しなければならない。本質彼自身のものであり、人格は<彼自身のものではない>あるものだ。<彼自身のものではない>というのは外からきたものということであり、彼の学んだもの、考えたこと、記憶や感覚の中に残っている外的な印象のあらゆる痕跡、学んだ言葉や動作、模倣によってつくられた感情、これら全ては<彼自身のものではない>もの、すなわち人格である。



小さな子供はまだ人格をもっていない。彼は真にありのままだ。つまり彼は本質なのだ。彼の欲求、好み、思考、嫌悪はありのままの彼の存在を表現している
しかし、いわゆる<教育>が始まるやいなや人格が形成され始める。人格は、部分的には他人による意識的な影響、すなわち<教育>から生じ、また部分的には子供が他人を無意識的に模倣することから生じる。まわりの人々に対する<反抗>や、<彼自身の>、すなわち<真実の>ものを人々から隠そうとすることも、人格の形成においては大きな役割を演じている。



本質とは人間の内なる真実であり、人格は虚偽だ。しかし人格が成長するにつれて、本質は次第に自己を表現する事がまれになり、また弱くなり、そして本質は非常に初期の段階でその生長をやめ、それ以上生長しないということもしばしば起こる。
(別章)
私は、家族に尊敬されている父親とか、種々の思想ではちきれんばかりの教授連、有名な著作家、大臣クラスの重要な官吏たちをたくさん知っているが、彼らの本質はだいたい十二歳で発達を停止している。でも、これはそんなに悪い方ではない。時には本質のある側面が五、六歳で発達をやめ、それですべてが終わってしまうということも起こるのだから。



本質人格と並行して生長するケースもあるにはある。そのようなケースは、とりわけ文化生活という環境のもとでは非常にまれな例だ。絶え間ない闘争と危険に満ちた困難な条件のもとで自然に近い生き方をするものの方が、その本質が発達する可能性は大きいのだ。
一般に、このような人々の人格ごくわずかしか発達しない。彼らは自分自身のものはたくさんもっているが、<自分自身のものでない>ものはわずかしか持っていない。



「人格」と「本質」の役割/関係

自己修練における非常に重要な瞬間は、自分の人格本質を識別し始める時点である。自分の中の真の<私>、すなわち個体性はその本質からのみ生長することができる。個体性は、生長し、成熟した本質だとも言える。



一般に、人間の本質は原始的で野蛮であるか、あるいは単に愚かであるかのどちらかだ。本質の発達は自己修練にかかっているのだ。

前に言ったように、教養の低い人々の場合には、本質は教養のある人よりも高度に発達している。それなら彼らは進化の可能性にもっと近づいているべきだと思うかもしれないが、現実にはそうではない。なぜなら、彼らの場合、明らかに人格が十分発達していないからだ。つまり内的生長、自己修練の為には、本質のある程度の強さとともに人格のある程度の発達も必要なのだ。



「人格」と「本質」の分離

人は通常生きていくうえで自分が置かれたあらゆる状況に対して、それぞれ一定の役割(人格)を持っている。しかし、彼をほんのわずかでも違った状況においてみると、もう適当な役割を見つけることが出来ず、ほんの短時間ではあるが彼は自分自身(本質)になる

人間は自分のレパートリー(人格)の外(本質)に出ると、つまりたとえ一時的にでも自分の決まった役割から何かによって押し出されると、非常な居心地の悪さを感じ、何とか普通の役割のひとつに戻ろうと必死の努力をする。通常の役割に戻るとすぐにすべてはまたスムーズに運び、ぎこちない感じは消えてしまう。これが人生の有り様だ



東洋のスクールでは、人格本質を分離させうる方法や手段が知られている。そのために彼らは時には催眠術や特殊な麻酔薬を使ったり、ある種の肉体運動を行なったりする。もし人格本質がこれらの何らかの手段で分離されれば、いわば二つの存在が彼の内部に形成され、違った声で話し、全く異なった好み、目標、興味をもつようになる



・・・・(「人格」と「本質」の分離実験)につづく。


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「人格」と「本質」の分離実験 

”「人格」と「本質」”(の最後の項目)のつづき。ちょっとえげつないかも。


《人格と本質の分離実験》 ?グルジェフによる

被験者A
・壮or中年の、社会的地位のある人物。
・普段は饒舌で、「自分」「自分の家族」「キリスト教」「当時の戦争」「頻出する”スキャンダル”への嫌悪」などについてよく喋っていた。

被験者B
・若者。
・不真面目な道化者と周囲からは見られている。
・議論の為の議論が好きなまぜっ返し屋。


”分離”後の被験者Aの観察

何かを熱心に話していた二人のうち、年長者の方が話の途中で急に黙りこみ、前方をまっすぐに見ながら椅子の中に沈みこんでいくように思われた。(中略)年長者の方はまるで縮んだボールにでもなったかのように身動きもせず坐っていた。

「彼に何を考えているのか聞いてみなさい」とG(グルジェフ)が静かに言った。
「私?」と彼は、まるで目が覚めたかのように頭をあげた。
何も」彼は謝るように、あるいは驚かされたかのように弱々しくほほえんだ。
「あのね、ちょうど今あなたは戦争について話していたんですよ。つまり我々とドイツの間に平和がくると何が起きるだろうということについてね。あなたはまだ同じように考えていますか」と一人が言った。
「そんなこと知りませんよ」と彼は確信のなさそうな声で言った。「本当にそう言いましたか」
「ええ、もちろん。あなたは、みんながこれについて考える義務があり、誰も考えないでよい権利はないし、・・・・(中略)と言ったばかりですよ」
「本当ですか」と彼は言った。「何て奇妙なことだ。私はそんなこと何一つ覚えちゃいませんよ」
「でも今はそれに関心があるのですか」
「いいえ、全くないですね」
「あなたは今起こっていることの成りゆきやロシア、ひいては全文明に対するその影響については考えていませんか」
彼は残念そうに頭を振った。
「私はあなたが何を話しているのかわからないんですよ。そんなことには全然興味がないし、それに何も知らないんです


つづき

「それならあなたは前に家族について話したでしょう。もし家族の方が我々の考えに興味を覚えてワークに加わったとしたら、あなたはずっとやりやすいのではないですか」
「ええ、たぶんそうでしょうね」と、またはっきりしない声で言った。「でもどうしてそんなことを考えなくちゃいけないんです
「もっともです。でもあなたは、あなたと家族の間に広がりつつある、あなたの言葉によれば深い裂け目を恐れているといいましたね」
返事はなかった。
「いまはそれについてどう思っていますか」
「そんなことはこれっぽっちも考えちゃいません」
「もし何が欲しいのかと聞かれたら何と答えますか」
彼はまた驚いたような目つきで言った。「何も欲しくありません
「とにかく何か考えてごらんなさい、何が欲しいのです」
彼のかたわらのテーブルの上に飲みかけのお茶があった。彼は何か考えこむようにそれを長い間見つめていた。彼はまわりを二度見まわしてから、またお茶のカップを見、それから我々が互いに目を見合わせるほど真剣な声と抑揚で言った。
ラズベリー・ジャムが少しばかり欲しい



同様に被験者Bの観察

若い方の男は話を聞き、それから彼自身話し始めた。我々は互いに目を見合わせた。彼の声が違っていたのである。
彼はある自己観察を、はっきりと、簡潔かつ明瞭に、余計な言葉や無節制でおどけた調子は全然まじえずに語った。それから彼は黙りこみ、煙草を吸いながら明らかに何かを考えている様子であった。


(上の被験者Aへの質問中、”ラズベリー・ジャム”発言の後に)

「なぜあなたたちは彼に質問しているのです」と、ほとんど聞きとれないほどの声が部屋の隅から聞こえてきた。(中略)
彼が眠っているのがわからないのですか
「あなた自身もですか」と誰かが聞いた。
私はその反対に目が覚めました
「あなたが目を覚ましたのになぜ彼は眠ってしまったのですか」
「わかりません」



総括

彼らは二人とも、次の日には何も覚えてなかった。Gは次のように説明した。
すなわち、最初の人(被験者A)の普通の会話、驚き、動揺の原因形成しているものはすべて人格の中にある。それで、彼の人格が眠っているときには実際は何一つ残っていない
もう一人(被験者B)の方の人格には非常な話好きの性癖があるが、それでもその背後には人格と同じだけ、しかもそれよりよくものを知っている本質があり、人格が眠りこむときには本質が代わってその部署につく、しかもその部署に対してはもともと本質の方がずっと正当な権利を持っているのである、と。


「しかし、もし彼(ちなみに被験者B)がそれを覚えていないとしたら、観察は何の役に立つのですか」と誰かが聞いた。
G?本質が覚えている。人格は忘れる。でもそれは必要なことなのだ。というのは、そうでないと人格は何もかも歪めてそれを全部自分のものだと思いこむにちがいないからだ。



考察は次回。


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『魂』と『本質』 

”「人格」と「本質」””「人格」と「魂」”、併せた解。


まずおさらいとして、僕の『魂』の定義を抜粋してみますと

『人格』の背後or奥底or前提にあって、より必然的で永続的で、その人がその人である「本体」を担うもの

『人格』の偶然性の背後に感じられる、その人がその人である本体性一貫性かたち


と、あります。そしてその中身の例(候補)として、

・”輪廻”の究極的主体
・”前世”の経験・記憶・人格(の残滓)
・集合的無意識や人類的情報プールからその人用に型取られた素材
・DNA等受精卵の時点で持っている遺伝情報
・胎児期にホルモンや母体の経験/感情によって決定的に形成される何か
・乳・幼児期に刻み付けられる親や周囲の世界からの臨界的影響
・ともかくも”ものごころ”つく前のその人
・ともかくも”自我の目覚め”前のその人
・現在のその人(の『人格』)を形成したある決定的な経験or時期以前のその人


などと挙げています。

僕の『魂』もグルジェフの『本質』も、ともに(一方の)『人格』の偶然性や表面性との対照として、何らか必然的深層的な何かを意味しようとしているのは同じですが、反面無視出来ない違いもあります。


<構造>と<機能>の違い

<実体>と<現象>、あるいは<もの>と<こと>などでも可。

つまり僕の『魂』という説明が、何らか『魂』という”もの”、実体、存在、構造を主に示そうとしている、予感しているのに対して、グルジェフの『本質』はそれが何かは気にせずに、ともかくそういう現象について、「本質」として機能している”こと”についての論だということです。
言わば名詞と動詞の違い、仮にグルジェフのそれが名詞的に把握出来たとしてもそれは形のない機能を便宜上文法上そのように語っただけ、動詞が転じて動名詞になったようなものだとそういうことです。

分かり難いでしょうからさっさと具体的な話に移ると、つまり僕の例示中の「DNA」やら「胎児(期)」やら「乳・幼児(期)」やらの”生物学的な”説明がその”実体”性の最たるものです。”物質”性というか。
また並べるだけ並べて決定はしていないものの、そのどれかが選択されることによって『魂』の発達・完成の時期が一律で決め得る、物理的・生物学的に確定し得るような可能性も僕の説明は含んで示唆しています。
(イメージ的には「輪廻する魂」や「前世の人格」などは、実は非常に”実体”性の濃い説明であると思います。そういう”もの”、そういう”ひと”。)

それに対してグルジェフは、その『本質』として機能しているものが何に由来し、どんな(生物学的)構造や基盤を持っているかについては特に触れていません。
また発達時期についても、「十二歳」までの場合もあれば「五、六歳」の場合もある(抜粋3)、要するに人それぞれだとオープンに設定しています。更にここは非常に大きな違いかもしれませんが、僕の『魂』がいずれにせよタイムリミットつきなのに対して、グルジェフの『本質』は原則的には(彼の”ワーク”によって)いつまででも発達・発展可能だとされています。逆に言えば、生物的に特定できるような類のものではないということかも知れません。


違いの理由

僕が例示の中心に生物学的知見を置いたのは、まずは出発点が「アルツハイマー」(や「多重人格」)という正に生物学的医学的現象であったからであり、また元々個人的に、人間の発達に関して割りと生物学主義的な早期完成説の立場に重きを置く人だからでもあります。(つまり生物的なシステムが固まる割りと早目のある時期以降、人は根本的にはほとんど変わる可能性を持っていないとする立場。)

しかし同時に『魂』という現代ではかなりキワモノという面もある言葉に一定の具体性と信頼性を補強して、それによって”『人格』と『魂』”の相関関係/ダイナミズムの説明をスムーズにしようというそういう意図も強くありました。
目的はあくまで二項関係の展開とそれによる多くのことの説明可能性なのであって、”実体”の確定自体に重点はなかったわけです。

それが例えば

実際にはこれは定義そのものであって「中身」の特定にはあまりそぐわない概念


という、多分その時は何が言いたいのか分かり難かったろう注釈(言い訳ともいう)であったわけですね。あるいは

・ともかくも”ものごころ”つく前のその人
・ともかくも”自我の目覚め”前のその人
・現在のその人(の『人格』)を形成したある決定的な経験or時期以前のその人


という最後の方に繰り出した一種の”操作的定義”は、グルジェフが『本質』について行なっている純・機能的説明と同じような性格を持った説明だとも言えると思います。


結論

というわけでそんなに僕とグルジェフは違うことを言っているわけではないと思いますが、構造なのか機能なのか基準がフラフラしている僕のに比べてグルジェフの説明は遥かにすっきりしていてインパクトがあるなと思ったので、お客様により美味しいものを食べていただこうと(笑)補足的に提供してみたわけです。

グルジェフが<構造>面について考えていないことはないとは思いますが、”神秘思想”と括られる中でもグルジェフは例えば「アストラルボディ」がどうしたとか「霊界」がどうしたみたいな”実体”論的議論には全くと言っていいほど参加しない人なので、ここらへんはやはりこの人のポリシー、説明のスタイルなんだと思います。あくまで論理的・言語内的説明の範囲で説明できることについてのみ語るという。

まあともかくこうした二項の関係性で考えてみると、結構読解の糸口が見えそうに感じるものがあるんじゃないかと思いますが。恥ずかしながら(笑)僕の”愛”論なんかはその一例ですが。
今のところ特に正解があるわけではないので、理論的洗練は各々が自分の都合に合わせてすればいいのさというそういう感じ。


次でラスト。


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グルジェフの<私>と「人格」 

軽く脳味噌がヘタってますが、何としても今週中にケリをつけるぞとラスト稿。

何百何千の<私> の ”<私>”

「人格」と「本質」 の ”「人格」”

はどういう関係にあるのか。現代の精神医学的現象としての「多重人格」(解離同一性障害)を考える上で、どういう意味を持ち得るのか。
実は僕も書きながら考える感じなんですが。


まずグルジェフの<私>という言葉の定義ですが、”解”編でも書いたように、抜粋4のこの箇所が非常に核心的かなと。

複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。


時々で変わるその中身が何であれ、ともかくもその時
 <私>として働いているもの
あるいは
 <私>と名付けられているもの
が<私>である。
間違いがないと言えば間違いがないですが、無意味と言えば無意味なかなり抽象的な定義。

それに対して「人格」は、「人格」?「本質」という二項からなる概念的枠組のいち構成要素であり、「本質」が”自分のもの”つまり自分の中にある元からあるものによって成り立っているのに対して、「人格」は”自分のものでない”つまり外から来たものによって成り立っている。
「本質」が僕の言う「魂」に比べれば抽象的/機能的定義であるように、「人格」も特定の何かを指しているわけではありませんが、<私>の定義の究極的な抽象性に比べれば、それなりに具体的/構造的な定義かと。

思い切り分かり易く整理すれば
 <私>という機能の構造論が「人格」?「本質」である
あるいは
 <私>は「人格」と「本質」によって成り立っている
と言っても多分大きな間違いではないですが、なんというかグルジェフには鼻で笑われそうな(笑)猪口才な細工という気が。基本的にはそれぞれの文脈、それぞれの論の目的に応じて別々に考えるべき話だと思います。そんなに”体系”としての全体性/整合性を追求はしてない。”説法”ですからね基本的に。



一方の現代の心理学/精神医学(及び常識)の方ではどうなっているかと言うと、

まず「人格」の機能としては、
1.その人がその人であるアイデンティティの源、あるいは別名。
2.人間関係、社会生活を営むためのペルソナ(仮面)
という二面が何となく割りと緩い定義で一緒くたに考えられていた/使われていたところに、”多重人格”という衝撃的な現象が一世を風靡して、1.の用法がある種後退した。そして2.の側面を中心として、ある意味では初めて意識的で厳格な定義づけの動きが一般化した。

そして現在”多重人格”という現象を視野に入れて、あるいは多重人格を考えるor治療する目的の下にどうやら共通化している「人格」の定義としては、

特定の(時期や状況における)記憶を背景にした自己意識に基づいた、思考・感情や行動のパターンの集積


といったものがあげられるのではないかと思います。
上ではわざわざ”特定の”という断りが入っていますが、つまり記憶に十分な一貫性/統一性があれば思考・感情や行動のパターン、つまり「人格」にも一貫性/統一性がもたらされ、単一の「人格」を持った”正常な””健康な”人間とめでたく(?)認められるわけです。
言い換えれば多重人格とは記憶の病であると、そういうことになります。

ちなみにこの記憶への注目の背景には、
1.多重人格者が社会生活を送る上で最も端的に困難を訴える側面である。
2.伝統的な心理臨床において、多くの場合、記憶の分断・障壁を取り除くという方法で治癒・人格統合が達成されて来た。
3.多重人格者(等)の脳において、実際に強度のストレスによる(記憶を司る)海馬の萎縮が認められることが多い。(という最近の知見)

といった事情が存在します。

(つづく)


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グルジェフと現代心理学 

承前。タイトル変わってますが気にしない。
以上の基本を踏まえて両者の比較、すり合わせ。


(共通点)

1.「人格」の機能・定義

グルジェフ:社会的な要素の集積によって後天的に形成された、社会的な自己
現代心理学:社会行動・適応の為のペルソナ

・・・・多重人格という現象により単一性の幻想が破られ、「アイデンティティ」という伝統的な意味合いが後退したことによって、結果的に両者が接近。


(相違点)

1.「本質」という概念

グルジェフ:生来の部分の成長したものとしての「本質」概念を、「人格」と対置。
現代心理学:今のところそれに相当する概念はない。

・・・・「人格」概念が変容した(グルジェフ的なものに近づいた)のだから、論理的にいずれそういう概念が心理学の方でも発展してくることはあり得るかも。「単一性」幻想が覆い隠していた何か。

参考:ポスト単一「人格」時代のアイデンティティ基盤

(1)”本来の”人格

多重人格障害の治癒をめぐって、伝統的に患者/治療者双方が、まず素朴に追い求めるもの。”偽の””かりそめの”人格ではない、”本来の””オリジナルの”人格。
たいていは「ある年齢で外界から身を引いて成長を止めた(子供の)人格」というイメージをとる。

*感覚的には、同様に成長度合いの年齢的な個人差が語られるグルジェフの「本質」概念とも重なるようにも思えるが、グルジェフのそれは特に病的現象ではなく、「人格」と共にちゃんと時を刻みながらそれでも成長したりしなかったりするという質的な概念なので少し違う。何らか関係がありそうには思えるが。

(2)結果としての単一性

”オリジナル”人格の追求というものは、あたかも「神」や「真理」を追い求めるがごとき、果てのない/当てのない無限の検証作業になってしまう危険がある。
またそれは”多重人格”がすこぶる例外的で異常な現象である、あるいは本来「単一」である人格が「分裂」するという劇的なイメージで考えられていた時代の思考法とも言える。

現在は多重人格は割合ありふれた、誰にも十分に起こり得る現象であり、また「障害」という顕著な形では表われなくとも誰の中にもある程度の多重性は存在し、それが緩く統合されているのがいわゆる「正常な」状態であるというような考え方が主流になっている。

だから”本来”がどうであれ、今現在or将来的に何らかの形で一定の統一性が保たれることが目標であり、アイデンティティも言わば既成事実の追認的に、総体として考えていくというのが1つの方向性。
極端な場合は、明らかに独立性を持った複数の人格が個人の中に並存していても、そのことをその個人が全体として受容し、また対社会的にも大きな実害ある分裂が表われなければそれで良しとすることもある。それが自分(たち)だと。


2.「人格」及び「意識」概念の厳格性

単一であれ複数であれ、基本的に一般心理学や現代の常識的人間観においては、「人格」というそれなりにまとまりを持った主体が”あり”、それが「意識」的「意志」的に活動を行なうことによって人間の生活が成り立っているという視野の元にある。
しかしグルジェフの場合はむしろ”ない”こと、人間(<私>)が外界や他者やあるいは生理的欲求などの生物的規定性に影響されるままに、「無意識」的「無意志」的に”反応”するだけの機械的存在であることを基本に、人間について語っている。

前にも書いたように(”統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるか”)これはある程度は言葉遣いの問題で、最終的にどちらの記述法が説得的包括的、また実用的に事態を説明出来るかで用語の使用権は決まって来るのだと思う。いわゆる「実証性」の問題も、こうした”競争”に含み込まれるような形で存在するものなのではないか。証拠を証拠たらしめるのは枠組だ。

それはそれとしてあえて公平な(?)立場から両者のすり合わせを試みてみると、グルジェフが言っている『強い私』のようなもの

もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。


が我々の普通言う「人格」であり、現れては消える『弱い私』は無視して事態を単純化抽象化することによって、常識的な枠組は成り立っていると、そういう見方も可能かと。(実際多重人格者の「人格」を数えたりそれらと交渉する場合、そうした意図的単純化はしばしば行なわれる)
グルジェフの場合はむしろ『弱い私』の方に基準を合わせて、そうした微細なレベルも含めたある意味ではより包括的な枠組で理論を組み立てていると、そういう言い方も出来るのではないか。

まあどちらかと言えば「心」や「人間」といったロマン的概念とは一線を画しながら活動する自然科学者や、あるいはその影響下にある行動主義的or生理学主義的な心理学者と似たタイプの存在であると、そういう感じもします。・・・・ただし、そうしたタイプの学者に欠けている全体的な洞察力やイメージの喚起力をも、グルジェフは兼ね備えているように思いますが。


まだまだ書くべきことや書きたいことは沢山ある気がしますが、とりあえず今回はこれで終わり。


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