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金庸先生にくびったけ 

金庸

このあからさまに中国人顔の(笑)おじいちゃんの手による『武侠小説』と称せられる作品群に、今年の夏からこっち、僕の脳味噌は7割方占領されてました。
長編12編、短・中篇3編、ようやく読了。以下大々的に紹介したいと思います。(金庸Wiki)


まず初めにこの”金庸体験”が僕にどんな影響をもたらしたかですが・・・・

一つ。
これまでの読書生活の間に形成された、「小説」なり「ストーリー」の”面白さ”というものに関する暗黙のリミッター、相場が破壊された。ここまでやって/望んでいいんだ!

一つ。
上の内容でもあり結果でもありますが、「ドラマチックな」「ベタな」展開・構成一般に対する僕の忌避感・照れ・躊躇いのようなものが解きほぐされた。やっちまえばいいんだ、やっちまえば。・・・・まとめて言うと「ストーリー」に関する視野が大きく広がった。

一つ。
古代はともかく、近年の中国に対して否応なく醸成された来た僕の悪感情がきれいに拭い去られた。もう二度と”嫌中”には戻れない。金庸先生を生んでくれてありがとう!

一つ。
中国文化の偉大さ・究極性を改めて実感。やはりダテに「中華」は誇っていない。日本文化なんて結局は中国文化の影、あるいは不徹底なものでしかないという面は確かにある。

一つ。
その中国文化の普遍的な”偉大さ”への敬意の一方で、日本文化のローカリティへの”愛おしさ”も同時に深まった。やはりここは東亜の桃源郷であり、神国である。芙蓉であり不二である。ナンバーワンではないがオンリーワン(笑)、そうあるべきだ。

・・・・いや、実際ね、それで丸く収まるなら現代版冊封体制も悪くないんじゃないかと。”リーダー”って柄じゃないよ日本は。ナイーブなのがいいところ。


全体の構成はこんな風を予定しています。
 1.(金庸)武侠小説の基礎知識。
 2.全作品レビュー。
 3.各論。コラム。


詳しくは2の項でやりますが、早速読んでみたいという気の早い人の為に(笑)先に翻訳版の作品リストと最低限の案内を掲げておきます。どの作品とどの作品がどういう関係にあるか。

書剣恩仇録(’55)→飛狐外伝(’60)→雪山飛狐(’57)
 『書剣』のキャラが『外伝』にゲスト出演。発表が後の『外伝』は『雪山』の”前日談”。
碧血剣(’56)→秘曲 笑傲江湖(’67)→鹿鼎記(’69)
 『碧血』と『笑傲』は剣術門派の名前でうっすらと関係している程度ですが、『鹿鼎』は『碧血』の設定と地続きでキャラも年取って登場、『笑傲』のキャラも実在の人物として『鹿鼎』の中で名前が出て来ます。
射英雄伝(’57)→神剣侠(’59)→倚天屠龍記(’61)
 そのものずばり続きもの。
連城訣(’63)
天龍八部(’63)
侠客行(’65)
越女剣(短編集。’61,’61,’70)
 『鴛鴦刀』(’61)という一編が『碧血剣』の後日談的設定。

さてどれから読むべきかですが、僕がランクづけするとこんな感じ。

A:碧血剣、射英雄伝、天龍八部、秘曲 笑傲江湖
・・・・典型性、面白さ、他の作品との関係性で。
B:書剣恩仇録、飛狐(どちらでも)、連城訣、侠客行
・・・・『書剣』は記念すべきデビュー作ですが、色々と中途半端なので発表順命の人以外には薦めません。十分に面白いんですけど「これが金庸だ」と胸を張るには躊躇いが。『飛狐』2編は発表順、時系列順、どちらでもいいと思います。
C:神剣侠、倚天屠龍記、鹿鼎記、越女剣
・・・・前3つは続編であり、また『鹿鼎記』は傑作ではありますが”反・武侠小説”とも言われる上級者用の作品。『越女』は読む必要自体が基本的になし。

でははじまりはじまり。

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武侠小説とは/定義 

基礎知識編の1。


”武侠小説”とは

”武”術を身につけたor”武”芸で身を立てている”侠”客(大義・正義や友情・同情心を優先的な行動原理として、自己犠牲を厭わず生きる人)たちの活躍を描く小説。
中国語圏における広い意味での歴史小説の1ジャンルで、かの『水滸伝』あたりを源流とし、近代においては古派:1920?30年代、新派:1950年代?現在と二度の隆盛期を持つ。金庸は新派の第一人者である。
(武侠小説Wiki)


”侠客”について

基本的には精神のありよう、そういう心意気を持った人への尊称であり、特定の職業を指すわけではなくまた必ずしも武術・武芸が出来るわけではない。”武”と”侠”は元来は別の概念。
例えば日本史の例で言えば、「死罪の運命を承知しながら、困窮する農民の為に百姓一揆の先頭に立つ庄屋や名主」などは、武芸は出来なくとも立派な”侠客”と呼ばれる資格があるでしょう。

同じく日本の例で言うと、”侠”の字ですぐ思い浮かべるだろう”任侠”の徒も、「弱きを助け強きを挫く」(そして素人衆には迷惑をかけない)という矜持を保っていた古き良き時代ならば、”侠客”の名に値したかもしれません。あるいは「富者から奪い貧者に施す」”義賊”の類も、もし実在したならこのカテゴリーの一端を担わせてもいいかもしれません。

武侠小説内の実際の用法としては、必ずしもこういう目立った壮挙をやらなくても、義に厚いという定評のある名の通った武芸者なら、おおむね”侠客”として扱われるようです。


”江湖”と”武林”

”特定の職業を指すわけではな”いと言いましたが、一方ではっきりした社会階層的な特徴もあります。それは
(1)非官吏、反政府の民間人である。(例外もある)
(2)たいていは武術の一門か互助的な結社か、そうでなければ職業的用心棒組織に属している。(”義賊”行為自体は肯定されるが、職業としてはやはり公には認められない。)

(1)は一つには伝統的に中国は汚職大国であり、役人は悪とほとんど決まっているから。
そしてまた(金庸作品における)基本となる侠客たちの最も主要な”義”のテーマが、元・清両異民族王朝を筆頭とする時の抑圧的な/腐敗した王朝に抵抗することに置かれているから。

こうした民間の武芸者・侠客たちの織り成す生活世界をまとめて”江湖”と呼び、その中の特に武術各派(”少林派”などが筆頭)が構成する武術に特化した部分を”武林”と言う。

・・・・ただしこうした人たちの生活実態が細かく描かれることは稀で、何して暮らしてるのか謎な人が多いです(笑)。そこらへんは問わないという、ジャンルの約束事。
(ちなみにちょいちょい出て来る「元手いらずの商売」とはずばりド○ボーのこと(笑))


[参考文献]

武侠小説の巨人 金庸の世界 武侠小説の巨人 金庸の世界
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きわめつき武侠小説指南―金庸ワールドを読み解く きわめつき武侠小説指南―金庸ワールドを読み解く
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『男組』とジャッキーチェン 

基礎知識編の2。武侠小説についてのより直観的な説明。


流全次郎

『男組』=”武侠漫画”?!

見る限り誰も指摘していないようなので僕がしますが、日本人に”武侠”もの(小説)とはどういうものかを直観的に説明する上で、作・雁屋哲、画・池上遼一によるかの名作コミック、『男組』ほど相応しいものはないんじゃないかと思います。
ていうか主人公流全次郎の太極拳&八極拳や、強烈な印象を残した敵キャラの”蟷螂拳”など、現代/リアリズム設定の中での中国拳法の奇妙なまでの重要な役割から推察するに、雁屋先生がいずれかの時期の武侠小説に大きなインスピレーションを受けたのはまず間違いないだろうと思います。

そうです、あれです!
あの流全次郎と”五家宝連”との命懸けの兄弟愛・同志愛、”関東番長連合”総長堀田さん(名前だけで涙が・・・・)の分厚い義気、あれこそが「侠客」の世界です。流の勢力基盤が”少年刑務所”という日陰の世界だというのも、いかにも”江湖”っぽいですし。
軍艦島での「謎の師匠」との葛藤とその後の武術の手ほどきなども、非常に典型的なエピソードです。

それぞれに特技を持った多士済済の織り成す、男たち(と女傑たち)のいちいち強烈な(笑)情念の世界。インスパイアどころかオマージュ、あるいはそのものずばり武侠小説の少年漫画への移植の試みだったのかもしれないとさえ思います。

・・・・ただし文体としてはああいうリアリズム的なものを考えてしまうとちょっと違います。基本的に時代ものであり、伝統大衆小説なので、作家によって多少の違いはあれおおむねは様式美、舞台劇的な”お話”の世界です。あちらでは「大人の童話」と言われたりするそうですが。


酔拳

武侠小説=”カンフー映画の小説版”?!
(”文体”問題つづき)

順番としては逆なわけですが。つまり武侠小説を原作とした、あるいはそのような伝統を背景として成立したのが香港を中心とする「カンフー映画」の世界なわけで。
ちなみに”カンフー”とは基本的に素手の武術/拳法のことを指すので、刀剣飛び道具等、あらゆる得物による武術が同じくらい活躍する武侠ものを指す言葉としては、厳密には正しくありません。ずばり「武侠映画」という言葉もありますが、日本人にはほとんど馴染みがないので。

実際のところあちらでの金庸はこちらの司馬遼太郎や池波正太郎ばりの「原作」の大供給源で、TV・映画問わず無数に映像化されていますが(参考)、ほとんど見た人はいないと思うので我々にとっても青春である慣れ親しんだカンフー映画の方の比喩で。
特にジャッキーを挙げているのは「ブルース・リーではない」という意味です、主に。ああいうアメリカナイズされた即物的でスポーティなのを思い浮かべてしまうとちょっと違います。『少林寺』『HERO』ならまずまず。意外と『少林サッカー』も。(笑)

言いたいのは
・ストーリーの中に格闘シーンがあるのではなく、格闘シーンを見せるために、無数の格闘シーンを繋げた/包み込むものとしてストーリーがあるということ。
・格闘シーンにおける中国武術自体の文体、リズム感、空気感、世界観etcが、そうでないパートも含めて全編を貫いている。戦うように、舞うように話が進む。調子の良い大娯楽小説であると同時にポエティック(詩的)でもある。

・・・・2番目の項目は、ジャッキーのある時期までの映画にあるあの感覚です。ブルースは”現実”を感じさせてしまいますからね。
特に金庸は文学史的に意識して伝統に寄ってるので、結構京劇的・ジャッキー的です。かなりアホっぽい面があります(笑)。コメディではないんですが。


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司馬遼+京極+ドラゴンボール? 

db

解析によるとエキサイトの中国語翻訳ページなんてものがリンク元としてあったので、どうやら中国人か中国人の友達のいる日本人にもこのページが目に留まっているらしい。
これはいいかげんなことは書けませんね。書きますけど(笑)。多分。

基礎知識編の3。”作家”金庸について。


「司馬遼太郎」成分

・国民作家。歴史認識の叩き台。
・出身は新聞人。(司馬遼は元・産経記者。金庸については後述。)
・それほど独創的ではないが、十分に柔軟で多面性を持った歴史解釈。穏健な相対主義と、健全な民族主義


「京極夏彦」成分

・輸入文化としての西洋/近代小説の影響を意識的に限定して、文明開花以前のドメスティックな小説(京極なら江戸期の滝沢馬琴とか)の伝統・文体との再接合を意図。
・妖怪変化の如く(笑)、立ち過ぎるほどにキャラの立った多彩な登場人物たち。
・長い。


「ドラゴンボール」成分

・”幻想の中国”仕様。(中国人ではあるが近代人でもある金庸にとっても、中国伝奇世界はある意味十分にノスタルジー、エキゾチズムの対象)
・運命→困難→修行→打開→成長のシークエンス。
・奇想天外な常軌を逸した戦闘力設定。ある意味修行/超人化過程が一番の見せ場。


(金庸という人)

・(本名の)「査」一族という、歴史資料にも出て来るような、本式の知識人階級/家系の出身。
・本土の生まれだが戦中戦後の混乱の中で移住を繰り返し、香港を活動の主な拠点とする。
・本質的には政治評論家で、最初外交官を目指すも学校においても政府に対しても、常に体制側と衝突を繰り返してコースに乗れず、結局断念。
・代わりにジャーナリズムの世界に入り、初め『東南日報』、次いで『大公報』というメジャー紙で政治・文化記事を書き、後者の「新聞小説」欄を埋めるためというきっかけで作家生活をスタート。
・のち『大公報』の左傾化(共産党との癒着)に抗議して退社、自ら『明報』という新聞を主幹し、そこの社説と新聞小説欄を掛け持ちで双方毎日執筆するという、超人的なスケジュールの中で作家生活を送る。
・小説家としては’69年『鹿鼎記』をもって絶筆。以後は香港返還時の準備委員や大学の歴史学の教授などとして活動。


(作家金庸の特徴)

・当初から「作家」であることをさほど大きなアイデンティティの源としていないので、その分思想的にも文学史的にも、一歩引いたジャーナリスティックで客観的なスタンスが特徴。
・上に書いたように知的サラブレッドで、筋目立った豊かな知識・教養を自然な形で持ち合わせている人。
・従ってその作家生活は、ロマン的衝動的自己探求的色彩が薄く、言わば最初から完成された作家が適宜順番にその引き出しを開けていったというような印象を強く受ける。
・文学的な意図としては、既に書いたように一種の古典復興/文芸復興、「過度に西洋化して痩せ細った中国文学を、(民衆的)伝統との再接触で活性化させる」というようなものが見て取れる。その動機となっているのが、くだんの健全な民族主義


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こってり中華 

満漢全席

金庸基礎知識編のラスト。
”満漢全席小説”なんて形容をしている人がいましたが、ボリュームたっぷりゴージャスなのは確かなんですが、さりとてそれほど真っ向から”高級品”という感じでもなく、むしろざっくりかき込める気安い感じが素敵な(笑)金庸先生の魅力を具体的に紹介。


やけくそのように獰猛な娯楽性

一言で言えばこれですが。
教養がどうだ、歴史観がどうだとかは、読んでる時はてんで関係ありません。僕もこと小説に関してはほとんどエンターテイメント系一本の快楽主義的な人ですが、少なくとも日本人のものでこんな下品な(褒めてるんです・笑)のは読んだことありません。

パッと見てすぐ思ったのは、「これマンガやん」ということでした。勿論幼稚だとか下らないということではなく、日本の漫画家が日々編集者から受けている、恐らく小説家のそれとは比べ物にならない苛酷な『面白さ』の要求水準のプレッシャーを、社主でもあるはずの(笑)金庸先生は当たり前のものとして引き受けて実現しているということです。
これには日中の出版事情/歴史/文化の違いが大きく関係しているのだろうと思いますが(それについては各論で)、ともかく”小説”という媒体でここまでマンガ並みの問答無用の面白さ・娯楽性が実現できるというのは、こうして実例を見せてもらうまで思いもよりませんでした。

具体的には
 1.会話/セリフの漫才ばりのトリッキーで攻撃的なユーモア。
(一方で状況・心情説明は照れ臭いくらいに平明)
 2.格闘シーンを筆頭とする、描写&シーンの構成の幾何学的or音楽的なまでの緻密さ、構築性。(しかしテンポはあくまで迅速軽快)
 3.見せ場見せ場また見せ場。「緩急」は見せ場どうしのコントラストでつける。
 4.「ふざけんなよ!」と跳ね起きてしばしば読書を中断せざるを得ない(笑)、馬鹿馬鹿しく意外なストーリー展開。

1.ダイアローグ→2.シーン→3.シークエンス(エピソード)→4.ストーリーと構成要素として小さい順に挙げてみましたが、これは偶然ではなくて基本的に小さい方から大きい方へ、「部分の総和(+α)が全体となる」式の発想で作られているタイプの小説だと思います。
勿論エンターテイメント・ストーリーの基本としての必要十分な「ミステリー」性は踏んでいますが、一部の作品を除いて(後述)いわゆる日本でメジャーな「ミステリー」的な”構成美”のようなものはほとんど意識されていません。”全体”の見映えに”部分”を従属させたりはしないというか、完成度の為の完成度には興味が無いというか。そこらへんが大部ではあっても気楽に読めるところで。いつでも見たまんまを楽しめる。

一つには「毎日連載の新聞小説」という形態によるでしょうが、根本的には作家としての金庸の体質、または小説というものに対する考え方によっているように思えます。(多分後述)


”名物”修行エピソード参考

『ドラゴンボール』にもかの「カリン塔」や「界王星」などでの印象的な修行エピソードが数々ありますが、それでも「強くなりたい悟空(たち)が師匠にお願いして修行をつけてもらう」(または自分でする)という基本は不動なはずです。しかし金庸の悪戯心はその基本さえにも捻りを利かせます。

つまり
 ・本人は修行してるつもりがなかったり、
 ・師匠は修行をつけてるつもりがなかったり、
あまつさえ
 ・本人は強くなりたいとは毛ほども思ってなかったり
という根本的な欠落がありながら、なぜか気が付いてみると独創的な天下無敵の武術を身につけているという、これがむしろスタンダード。その過程の描写が凄い。

まあしかし毎度次から次へと呆れるほどけったいな修行プロセスとけったいな武術を考え付くものだと感心しますが、それらが少なくとも作品内では結構な完成度の論理性を持っているのでつい説得されそうになります。よい子はマネしないようにねという感じです。(笑)
特に言及はされてませんが、恐らくこの部分には作者の相当の情熱が込められているのではないかと思います。考えるの楽しくて仕方がないんじゃないでしょうかねえ。読んでる方は尚更。読み慣れると来た来たという感じです。(笑)

・・・・もう一つ、というより最大の名物であり売りである”格闘/武術シーン”については、書きたいことが沢山あり過ぎるので各論で。これ以上漠然と面白さを説明していても仕方がない気がしますので、ここらで切り上げて次からはいよいよ作品レビューへ。


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金庸全作レビュー:予備作業 

初めに翻訳版全13冊を、発表順に3つの時期に区切ってみることにしました。
(参考)(Wiki)

1.デビュー?確立期

書剣恩仇録(’55)
碧血剣(’56)
雪山飛狐(’57)
射英雄伝(’57)

2.盛期

神剣侠(’59) ・・・・射英雄伝の続編。
飛狐外伝(’60)
倚天屠龍記(’61) ・・・・射英雄伝、神剣侠の続編。
連城訣(’63)
天龍八部(’63)

3.自在期

侠客行(’65)
秘曲 笑傲江湖(’67)
鹿鼎記(’69)
越女剣(短編集。’61,’61,’70)


1.デビュー?確立期

書剣恩仇録(’55)でデビューして、日本でもPS版のゲームが出てたりする、初期の代表作にして屈指の人気作射英雄伝(’57)で完全に作風を確立するまで。

後の時期と比べた特徴としては、サービスなのか自信が無いのか、大義名分やら”教訓”やら、何かの時にとってつけたような後付けの小理屈が顔を出して、それが構成や結末のつけ方に少しギクシャクした感じを与えていること。まだ外聞を気にしている時期というか。
金庸自身の自我はとっくに確立していたはずだと思いますが、なまじもののはずみの余技の作家業なだけに(笑)、読者や文壇(?)への微妙なはばかりや媚びがあったのかなと思います。

一応人並みにスタイル的な試行錯誤のようなものもなかったことはないようですが、それも「やろうと思えば全部出来るけど、どれをどれくらいやったらいいんだろう」というかなり贅沢なレベルの話のように思います。苛烈な評論家である(後述)自分基準の満足不満足は別にして。


2.盛期

射英雄伝(’57)で確立した作風を基本に、自信を持ってそれぞれのテーマを展開しまくった時期。もう完全に読者も世間も文壇の常識も、”金庸ワールド”の方に引きずり込んで迷うところがありません。
この時期最後に位置付けた天龍八部(’63)は、3?4人の全く違うタイプの主人公をそれぞれに念入りに造型して、当時(中国”宋”代)の中華世界全域の国際性も華やかに、壮大で多彩な人間絵巻からタイトルにある仏教思想(『天龍八部経』)の精髄まで浮かび上がらせんと企図し・・・・てちょっと風呂敷を畳みきれなかった感もある(笑)意欲作ですが、ともかく作者自ら「集大成」を意識した作品であるのは間違いないでしょう。というわけで、ここに一つ区切りを。


3.自在期

天龍八部(’63)で一応やり切った金庸のその後。もう好き勝手。

侠客行(’65)は抱腹絶倒のかなり冗談のきついとぼけた作品。秘曲 笑傲江湖(’67)はこれでもかという、金庸娯楽テクニック大爆発の華麗な作品。”反・武侠小説”鹿鼎記(’69)は『武侠小説』のお約束をことごとくぶち壊して相対化した上で、それでもなお武侠の楽しみを追求してやり遂げたアクロバティックな作品。越女剣(’70)は・・・・おまけ。ミニマムにはこんなもんという、ある意味では(金庸)武侠小説の”使用前”をあからさまにする、貴重な作品集と言えないこともないですが。


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金庸先生の執筆環境 

本編は鋭意準備中(笑)ですが、そのための読み直し中に気が付いたこと。
いや、別にレア情報でも何でもないですが、『雪山』で話題にしたこととも大いに関係ありそうなのでメモ。


かの『武侠小説の巨人 金庸の世界』

武侠小説の巨人 金庸の世界 武侠小説の巨人 金庸の世界
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徳間書店

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の68ページに載っている「金庸作品総覧」という記事なんですが、そこの”掲載誌”の項を見てあれ?と。抜き書きしてみますと

『書剣恩仇録』(1955) 新晩報
『碧血剣』(1956) 商報
『雪山飛狐』(1957) 新晩報
『射英雄伝』(1957) 香港商報
 ?ここまで”大公報”時代
 ?ここから”明報”時代
『神剣侠』(1959) 明報
『飛狐外伝』(1960) 武侠与歴史
『倚天屠龍記』(1961) 明報


金庸Wikiなどで大雑把に「大公報」と「明報」の二つで書いていたような知識でいましたが、よく見ると結構色々あるようで。


新晩報 (『書剣恩仇録』『雪山飛狐』)

上海のメジャー紙「大公報」の娯楽面。金庸先生は主に香港支社で勤務。
ちなみに「明報」にも”晩報”があるようなので、要するに(新)”夕刊”みたいな意味かと字面から推測。金庸先生も、最盛期には「朝刊の続きを夕刊で書く」というアクロバット連載(笑)を敢行していたとおっしゃってましたし。

商報 (『碧血剣』)

てっきり「新晩報」同様、「大公報」内の出版物かと思ったら、こちらのサイトによると独立した別の新聞らしいです。

香港商報 (『射英雄伝』)

特にそう書いてはありませんが、商報の香港版でしょうね。
香港のWikiでは現在は左翼系と分類されていて、左傾化して金庸先生に逃げられた(笑)「大公報」ともども、多分商報も併せて要するに”政府系新聞”という共通点はあるかも。

明報 (『神剣侠』『倚天屠龍記』など)

金庸先生が独立して起こした自分の新聞。

武侠与歴史 (『飛狐外伝』)

日本語で言えば「武侠と歴史」ですよね?確か。とぼしい漢文の知識からすると。(笑)
新聞じゃないような感じがしますが。武侠専門紙?明報内の出版物?

・・・・ともかく色々あるということで。


で、パッと見ますと、まず「大公報」勤務時代においては

新晩報で『書剣恩仇録』?『雪山飛狐』を書き継ぎつつ、前後して
商報香港商報で『碧血剣』?『射英雄伝』を書くという二系統の流れが見えますね。

「明報」に移ってからは

ホームグラウンドで『神剣侠』?『倚天屠龍記』の本流を書きつつ
横っちょで『飛狐外伝』も書くというこれまた二段構え。

執筆環境を一系統しか想定していなかった僕は、単純に発表順の一つの流れの中から、内容的に二系統の流れを見出してみたわけですが、勘としては悪くないけど要するによく見れば誰でも分かることのようでした。(笑)

面白いのはその後の流れを決定付けた”代表作””王道”の『射英雄伝』が、商報系のサブグラウンドで書かれていることで、こうして見ると「金庸の王道は『射英雄伝』である」というよりは、色々な可能性を持っていた金庸ワールドが、「『射英雄伝』のヒットによって王道を定められた」とそう考えた方が実態に近いのではないかとそんな感じ。


それでも『神』が異色であるには違いないと思いますけどね。金庸先生の意図として特にそうではなかったとしても。「結果的に異色」というのが僕の説ですが。まあ後で。(笑)


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金庸と『水滸伝』 ?(1)文体 

吉川幸次郎/清水茂の『完訳 水滸伝』

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岩波書店

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をボチボチと読んでいます。ちなみに『神』はようやく図書館が”捕獲”してくれたので(笑)、明日にでも取りに行きます。ついでに『漂泊のヒーロー』も。
で、元祖武侠『水滸伝』、全10巻中まだ2巻の途中ですが、なんか非常に分かるというか、「これが、こうなって、金庸かあ」みたいなのが見える気がしたので、ちょっと書いておこうかと。

とりあえずどういう話かと言いますと、やたら牛肉を食べる人たちの話です。(笑)
いや、ほんとよく食う。金庸を読んでいても牛肉(主に生)が重要な酒のつまみだというのは分かるんですが、『水滸伝』は他に無いのか、中国は食用の牛肉が雀やゴキブリばりにそこらにゾロゾロ歩いてるのかというくらいそればっかり食ってます。ていうか食うことと飲むこと以外に関心があるように見えません。
しかし中国本土(関内)に牧場ってありましたっけ?あるのかもしれないけど風景として思い浮かばない。


文体について

元々原典がそういうものなわけですが、吉川/清水版の『水滸伝』の翻訳は、「講談調」という文体で書かれています。具体的にはこんな感じ。

さてこの八句の詩は、宋朝は神宗のみかどの御世、苗字は召、おん名は尭夫、道号を康節先生と申す大学者の作にて、唐の末つかた五代の頃、天下の兵馬たえ間なきを歎かれしもの。そもそもその頃といえば、朝(あした)は梁の世、暮(ゆうべ)は晋の世、まさにこれ「朱李石劉郭、梁唐晋漢周、あわせて十五の天子、五十年の大騒動」というわけでございましたが、やがては自然に天道一めぐり、かの甲馬営の陣屋にて、太祖武徳皇帝さまのご降誕となりました。


これは「引首」(まくら)と題された序章の冒頭で、この前に”八句の詩”があるわけですが、詩の部分は僕は以後もほとんど読み飛ばしてるので(笑)割愛。
ちなみに会話部分はこんな感じ。

さてその時、史進、
「こりゃいったい、どうしたものだろう。」
といえば、朱武たち三人の親分、土下座して、
「あにき、あなたは堅気の人、われらのせいで太郎さまを巻きぞえにしてはなりません。縄を取って来て、われら三人を縛りあげ、出て行って褒美をもらって下さい。(略)」
史進、「それはだめだ。そんなことしたら、わしがあなたたちをおびき寄せ、捉まえて褒美をもらうことになる。わしは天下のもの笑いになるばかり。死ぬならあなたたちといっしょに死に、生きのびるならいっしょに生きのびる。(略)」


見ての通り、いわゆる「古文」というほどではないですが普段読んでいる「小説」の文体からするとかなり古めかしくて不自然で、正直最初は感情移入できなくて途方に暮れました。やっぱ北方謙三のにでもすれば良かったかなと。(笑)
でも我慢して読んでたら10ページくらいでカチッとスイッチが入ったように焦点が合って、後はスーイスイ。思わず受験生時代の栄光が脳裏に甦ったことはこれまでといたします。(というのが決まり文句)


いや、実際気持ちいいんですよこれが。内容以前にこの文体が。ヒラヒラフラフラ舞うように、どこにも重心がかかっていなような中心がどこにあるのか分からないような頼りない感じが逆に。それでいてトントンやたら調子良く進むところも。
その文体が何に由来するかとかそういう文学史的な話はちょっと手に余りますが(当然誰かがやってるでしょうけど)、感じるのは金庸の文体との共通性で、なるほどこういう伝統を近代小説に移し替えるとああなるのかと。

結論的に言うと凄く上手くやってるなと思います。さすがに言われるだけのことはある。
実際にただ金庸を読んでいると、くだんの無中心性無重心性が、しばしば無感情性として感じられることがあるわけですけど。中心の不在=「作者」の不在=いわゆる「人間」的感情の不在みたいなそんな感じですかね。それをめぐってキャラの評判の上下(笑)や作者自身の作風の変遷とかもあるわけですね。

ただ作業としては実によく出来たものであると。ほとんど何も媒介物なしに直接移植しているように見えるんですけど、少し変わってはいてもちゃんと近代的な「小説」として読めますよね。
そして更に言うと、金庸を読む楽しみの何%かがこの見慣れない文体の快楽であったことに改めて気付いたと、そういうことです。

まあ”旧派武侠”を読んでないので、どこからが金庸個人の作業なのか正確には分かりかねますけど。


(ストーリー構造編)につづく


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金庸と『水滸伝』 ?(2)ストーリー構造 

文体編


ストーリー構造について

むしろストーリー”無構造”についてみたいな話なんですけどね。

『水滸伝』そのものについては、小学生くらいの頃にかの横山光輝漫画版
横山水滸1
水滸伝〈1〉 (1977年) / 横山 光輝

を途中まで読んでいたので、あらかた、少なくとも今読んでいる完訳版2巻や3巻の範囲でならストーリーは知っているわけです。ゆくゆくどうなるかも耳情報としてならだいたい。

にも関わらず読んでいると非常に頼りないというか、闇夜を進んでいるような気分になります。
それはつまり、この話はどこへ進んでいるのか、そもそもどこかへ向かっているのか進んでいるのかいないのかというそういう感覚です。(笑)

これは恐らくは水滸伝の、or”講談”スタイル特有の、各パート・エピソードと「全体」や「本筋」とのゆる?い関係によるのだと思います。別に破綻しているわけでも、”?サーガ”みたいに分量的に凄まじく脱線しているわけでもないので、あくまで感覚的なもの、語り手の意識的なものなのだと思いますが。
進んでないわけではないんだけど、中心や軸との緊張感のある繋がりが感じられないので、どうしても普段読んでいる近代的な小説の読者の感覚からするとほったらかしにされてるような不安感がある。

やはり”作者”の不在ということなんですかねえ、作者と読者の一対一の対話、内面的な繋がりみたいなものの稀薄さによる不安感。勉強不足でよく分かりませんが。


ともかくこれは、金庸の小説を読んでいる時にもちょいちょい僕が感じることです。(これが本題)
勿論程度としてはだいぶ軽いですが。でも例えば同じ現代武侠の古龍と比べてもそれは顕著。

具体的にはそれは一種の”中だるみ”として現れることが多いです。ここの末尾の(3)で書いたような。
より根本的なことを言うと、金庸は確かに面白い。一つ一つのシーン、一つ一つのエピソード、それらの趣向の楽しさは抜群。でも・・・・ぶっちゃけ大部分が「余談」みたいなところがある(笑)。エピソードのためのエピソードというか。本当に必要なもの、本当に中核的なものは少ない、あるいは分かり難い、あるいはかいつまんじゃうと大した話ではない(笑)。作品にもよりますが。

だから長い長いと言っても、「壮大」とか「大河ドラマ」みたいな感じはあまりしないんですよね。ていうかあんまり”流れ”てないし、この河(笑)。むしろ池や淵が沢山あって、そこにそれぞれヌシがいるみたいなそういう風景。

・・・・と、ここまでが僕が直観のみで書いた文章



岡崎由美『漂泊のヒーロー 中国武侠小説への道』

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道
岡崎 由美 (2002/12)
大修館書店

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その後図書館から借りて来たこの本の中に、そうした僕の”直観”を説明してくれる、こちらは(笑)実証的な記述があったので補強しておきます。
最初から読めばいいようなものなんですけどね(笑)、でも僕の書き出すモチベーション自体は常に直観というか衝動的なものなので、どうにも。というわけで(1)もちょっと補足してあります。


『水滸伝』のそもそもの構成

これらのリストが作られた時代、『水滸伝』はまだ現在見るような長編ではなく、「花和尚」だの「青面獣」だの、好漢一人一人を一席読みきりで語る銘々伝の段階である。(p.11)


なるほど、それをまとめたものだから、破綻も脱線もしていないのにバラバラに感じたのか。


『水滸伝』の視点、語り手と聞き手の関係

物語は講釈師が聴衆に語りかける形式で行われるから、物語を語る視点は三人称叙述である。(p.209)


これも(”作者”の不在という)僕の直観には沿っていると思いますが、ある意味(水滸伝を)読めば分かることなので、さっさと気付くべきだったか。(笑)


ちょっとゴタゴタしてますが、次”講釈師”としての金庸編でまとめ。


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”講釈師”としての金庸 ?金庸と『水滸伝』まとめ 

文体編ストーリー構造編


金庸の異質性

引き続き岡崎由美『漂泊のヒーロー』から引用。以下すべて。

「武侠小説がこれほど人気のあるわけをよく聞かれます。もちろん原因は様々ですが、ただ最も主要な要因は、武侠小説が中国的な小説で、中国人が中国的なものを好むのは当然だからだろうと思います。」(p.260)


前2回で僕は『水滸伝』について、
1.いわゆる「講談調」の古風な文体が、慣れるとかえって気持ちがいい。
2.基本的には一本のストーリーであるのにも関わらず、エピソード一つ一つが各々勝手に存在しているようで、たまに道に迷っているような気分になる。

という特徴を挙げ、それが金庸を読んでいる時の感覚と共通するものが大いにあるということを書きました。

文体編の補足部分(末尾)に書いたように、実際には金庸/新派武侠は「講談調」で書いたりはしていません。
また『水滸伝』の上記2.の特徴の主な理由である、あちこちの講釈師があっちで一席こっちで一席とバラバラに語り継いだものを後に一本のストーリーとして編集したというような特殊な(しかし伝統的でもある)成り立ちを金庸の作品が持っているわけでもありません。あくまで一人の現代の作家が、一つのヴィジョンで一気に書いたものではあるわけです。

もとが新聞連載小説だったせいか、緻密なストーリー構造とは言いがたい点もある(p.254)


と、これは定評ですが、ただ日本でも歴史/時代系の長編名作の多くは、吉川英治作品などを筆頭に「新聞連載小説」として書かれていて僕も少なからずそれらを読んでいるわけですが、金庸のようなあからさまなバラバラ感を感じさせられたことはないんですよね。

このように明確な理由が見当たらないにも関わらず、なぜこうも古の水滸伝と大して読み味が変わらないのか。(笑)


”現代の講釈師”としての金庸

答えとしてはあっさりしていますが、要は金庸がそう書こうとしているからだと、そういう”味”を出そうとしているからだと、そういうことだと思います。「原因」とか「失敗」とかいうより、「仕様」だと。
それには

1.ヨーロッパ小説の影響を受け過ぎた(当時の)中国文学界へのアンチテーゼ的意図。
2.金庸自身ヨーロッパ小説の影響は十分に受けているが、根っ子のところでは結局中国的伝統的な小説こそが金庸にとっての「物語」である


という2面があるだろうと思います。1.は意識的動機、2.は無意識的動機、みたいな話ですか。

1.は勿論よく言われることですが、2.の根深さ、理解の深さこそが金庸の金庸たるゆえんだろうと。殊更「講談調」にしなくてもそういう味の文章が書け、普通の作家なら研ぎ澄ましてまとめないと落ち着いていられないような一見バラバラなエピソード群を、それもありなんだと鷹揚に包み込んでそういうものとして成り立たせてしまう、それを可能にする、理論以前の自然な伝統・古典文化との一体感
なかなか余人の真似できるものではない。育ちが違うと言ってしまえば身も蓋もないですが。(笑)

ともかくそういう金庸の作品を、それなりに年季を積んだ(はずの)現代日本の小説読みである僕が読んだ時に何を感じるかというと、一言で言うとそれは他に類を見ない「解放感」みたいなもの。

面白いもの秀れたものは沢山あるし、沢山読んだし、そうした数多の他の現代エンターテイメント系作家一人一人と直接比べて「金庸こそが最高だ」なんてことを言う気はないし、言う必要もない。
でも金庸には金庸にしかないものがある。それはそうした多くの作家の作品との対話・格闘の中で自然に磨き上げられた批評性や警戒感、褒めるにしろ感動するにしろ、いずれその枠組の中でそれとの対応で行われることがほとんど定められているその限界、それをまさかという乱暴さ、あっさり感で束の間飛ばしてくれる、そういう力、驚き。

その力の源が『水滸伝』との対比で直観/再確認した金庸の”異質性”、伝統文化・文学との特権的で直接的な繋がりなのではないかなというそういう話です。
それと知らずに行われる近代文学の脱構築、心の準備が無いまま連れて行かれるタイムトラベル。気付いた時は既に脳味噌が飛ばされている、ガードが外されている。


例えば武侠小説の世界で並び称される古龍も、僕は大好きでほとんど天才だなと思っていますが、しかし金庸のような意味での驚きはないんですね。想定内というか。それこそここの”プロフィール”欄に名前を挙げた、夢枕獏や菊地秀行の隣に行儀よく収まっていてもそんなに違和感はない。
そういう意味でやはり金庸は”最高”であるかどうかはともかく、特別であると。特殊、でもいいですが。中途半端に頭を使ったり常識を入れて読むと読み誤る危険が大きいと。そういうものだと思って読むべきだと、そう思いますね。金庸自身は案外天然なんじゃないかと疑ってる部分もあるんですが。(笑)

なにより、金庸の作品には面倒な文学理論を飛び越して、ストーリーテリングを楽しむという物語の最も原初的な快感がある。(p.254)


おじいちゃん、今日もお話聞かせて?と、ともかくもついついそういう気分にさせてくれる、現代の講釈師金庸先生であります。


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