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「仏教」小説としての『天龍八部』 (1) 

天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説 天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説
岡崎 由美、金 庸 他 (2002/03)
徳間書店

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新年あけまして。今イチ気乗りしないんですが、図書館で予約待ちしている人がいてかわいそうなので(笑)、頑張って書いて返しちゃいます。

ということで仏教
この全8巻の大部の小説、色々書きようはあると思いますが、ある意味オーソドックスにタイトルの示す通り(Wiki)の、同時にあんまり正面切って誰も書きそうにない、はたまた前作『連城訣』について、「金庸の”厭世”観/”脱俗”願望は結構本気である」と書いたそのフォローという意味も含めて、このテーマで。(あんまり「総論」じゃない気もするんですけど。)

ま、あくまで我流なので、あまり信用してもらっても困るんですが。


『天龍八部』、(恋)愛、仏教

例によっての盛り沢山な登場人物と複数の主人公(少なく見積もっても段誉、蕭峯、虚竹の3人)がいる凝った構成の『天龍八部』においては、様々なパターンの男女の恋愛が描かれています。
またストーリーの大きな部分を、後述する段正淳の多情が撒き散らした「種」(文字通りの(笑))による混乱とそのときほぐしに当てていることからも、この作品の重要なテーマの1つが「(恋)愛」であるのは大きな異論の無いところだと思います。

そして『天龍八部』の金庸全作中でも際立って濃い「仏教(小説)」性も、最もこの部分に分かり易く出ていると思います。・・・・というのは、ここらへんに関する考え方・感じ方というのは、我々が無意識に依拠している現代西側文化のそれと仏教の、ある意味最も決定的に異なる部分でもあると思うからです。

つまり愛が”煩悩”である、未だ悟り至らぬことを示すそれであるというのはまあ常識的に一応流せると思いますが、そういう修辞的慣用的なレベルを遥かに越えて、より根本的な部分で愛が迷妄であり悪徳であり、その種類を問わず醜悪なものであるという、極端に言うとそういう感受性・思想が、仏教の根幹にはあるわけです。
単に度を越えたものや犯罪的なものや、たまたま不幸を呼ぶものに留まらず、あるいは男女間の(浮ついた)それに限らず、親子でも兄弟でも、対象が何であれ。その精神の働きそのものに、何か根本的に誤った/足りないものがあるという。”良い”(恋)愛なんてものは存在しない。

「仏典にいわく『まさに思うべし、美女は身に膿血を蔵し、百年の後は化して白骨となることを。』」(5巻p.146)


これは直接的には女の容色に惑う男への戒めの言ですが、例えばこのような極論や達観、それをメインでリアルな実感として生きるのが、仏教の基本的なあり方なわけですね。

・・・・勿論派によって色々説き方は違いますが、あまりつつくと別な論考になってしまうので(笑)、とにかくだいたいそういうものだと了解してもらって、先に行かせて下さい。


『天龍八部』における(恋)愛像

具体的に主だった事例、人物別に見て行きましょう。

・段誉の”愛”

対象、王語嫣
序盤に洞窟で目にした美しい玉像への思慕を出発点としつつ、ただただひたすら、王語嫣の「美貌」への盲愛で恋々とし続け、無視されても周囲に本気で眉をひそめられても、自分でも惨めだ女々しい望みはないと自覚しつつも、わずかな交流や接近の切れ端の喜び・期待だけを当てに、しばしば大理国の皇位継承者の立場も放り出して、中国中を付いて回る。
一応最後はコケの一念が通った形になる。一応。

・游担之の”愛”

対象、阿紫
親の仇蕭峯(↑)への仇討ちに燃えていたが、あっさり心折れたところで出会った(というか捕まった)美少女阿紫に一目惚れ。特殊な育ちから倫理観の根本的に欠落した、かつ加虐的な性格の持ち主の阿紫から、全く娯楽目的の無意味な虐待拷問を受け続け、挙句の果てに大火傷と共に顔全体を隠す”鉄仮面”を(溶接で)被せられてしまうが、それでも阿紫の美貌(と、足?)を垣間見える、側にいられる悦びだけに集中し、最後まで犬のように忠実でい続ける。

・阿紫の”愛”

対象、蕭峯
最後までピンと来なかったんですが(笑)、愛しているんですよね?
亡き姉阿朱(後述)に後事を託された蕭峯から、義妹として庇護を受ける。行きがかりで瀕死の重傷を蕭峯に負わされ、その看護期間を通して不可避的に、それなりに情を通わせる。蕭峯は女として見ていないし阿紫にちゃんとしたそういう感情があるのかも謎ですが、とにかくかまって欲しい気にかけて欲しい、独占したいの一心であの手この手で蕭峯にまとわりつき、くだんの重傷もその為に視覚を奪おう(それで側に置こう)という、騙し討ちの結果として受ける。
最後は天下に身の置き所のなくなった蕭峯と、ある意味”添い遂げる”ような形になるが・・・・

・虚竹の”愛”

対象。”夢姑”
少林寺(禅宗)の頑なに忠実な仏弟子であり、基本的には関心が無い、または強い禁忌・抑制を持っている。しかし手の込んだ罠・誘導によって、夢うつつの内に”夢姑”と呼ぶ実はさる王家の姫と光の届かない氷室の底で逢瀬を重ね、肉の悦びに覚醒し、溺れ、やがて他の何よりもそれを待ち望むようになる。
ただし人格的には特に破綻せず、”夢姑”とも今度は地上の日の光の下で再会を果たし、改めて結ばれる。

・蕭峯と阿朱の”愛”

これも行きがかりで蕭峯の戦いに巻き込まれた阿朱が瀕死の重傷を負い、責任(と憐れみ)を感じた蕭峯は助ける為に粉骨砕身する。その恩義と情愛に触れた阿朱は蕭峯に自然な思慕の情を募らせ、またそれらの戦いの過程でそれまでの半生を支えたアイデンティティを根こそぎ失った蕭峯に、(自分と一緒の)新しい穏やかな暮らしの希望を持たせようとする。
蕭峯も徐々にその未来像と阿朱と共にあることにリアリティを感じて行くが、またもや襲った運命の皮肉に、阿朱は自分を蕭峯に殺させることによって蕭峯と生みの父親の両方を救おうとする。目論み通りに阿朱を殺してしまった蕭峯は嘆き悲しむが、そのことによって阿朱はまた、蕭峯の永遠の心の妻となる。


解説は次に


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「仏教」小説としての『天龍八部』 (2) 


天龍八部〈2〉王子受難 天龍八部〈2〉王子受難
岡崎 由美、金 庸 他 (2002/04)
徳間書店

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(1)より。


『天龍八部』における(恋)愛像(つづき)

いやはやよくもおかしな例ばかり集めたと思うかもしれません。
あえてくくるとこんな感じですかね。

段誉の下衆
游担之の狂気
阿紫の奇形
虚竹の露悪
蕭峯と阿朱の偽装


蕭峯と阿朱については、少し説明が必要かもしれません。
二人とも素直な心根の互いへの思いやりに溢れた好人物で、それぞれが示したもの自体に不快感は無いでしょう。ただ逆にこれが”(恋)愛”なのか、他の4人との単純なあるいは公平な比較の上で、「清い」ものだとか言えるものなのかというとそれは疑問だと思います。

内実としては単なる感謝や尊敬や憐れみと言ってそれですました方がいいようなもので、要するに彼らが「清く」いられるのはそれが”愛”未満であるから、渦中に飛び込んでいないからと、そう認識するのが”公平”だと思います。
特に蕭峯の阿朱と阿紫の姉妹に対する感情の違いは、基本性格へのごく一般的な好感の差と、阿朱の”自己犠牲的な死”による「聖別」という特殊事情によるものであって、本質的にはさして差の無い・・・・もっと言えば、同じように気の無いものだと言えると思います。


いずれにしても、こうしたチョイスが僕の悪意や恣意でないことは、読んだ人はご存知だと思います(笑)。何せ”大ボス”段正淳ら長老世代は温存してこれなわけですから、むしろ控え目なくらいで。まあそれらについてはまた後で。
つまりはこれらが、『天龍八部』的な”恋愛”像。


金庸の意図

で、書いた当人の金庸にしても、これは特殊な例について描いたわけではなく、むしろこれがアベレージであり、実相であるという、そういう意味合いをこめてこうした例示をしているのだと思います。

勿論他の作品においては金庸も人並みに「美しい」恋愛を描いたり、あるいは追求の価値のある重要な素晴らしいもの・テーマとして恋愛を取り上げてもいるわけで、『天龍八部』でのこうした悪趣味の羅列に、あえてという意図や作為が無いわけはありません。

ただそうした”作為”の意味合いとして、こうした例示がたまたま「悪い」例失敗例を選んで集めた、「良い」例成功例を排除してということなのかというとそうではなくて、描き出そうとしているのはあくまで”(恋)愛”そのもの、つまりここに描いた全てがThis is (They are) 恋愛であると、そういう構えなのだと思います。
言い換えると恋愛の”悪い面”ではなくて、根底に共通してある”本質”を描こうとしている。

・・・・多少難しいのはこれが日本で言えば「純文学」のような相対的に抽象性を許容されるジャンルであれば、ある恋愛の内実を細かく描くことによって、よりさりげなく読者に自分の観念・感受性を浸透させるような作業も可能なんでしょうが、実際には武侠小説という超エンターテイメントでそんな悠長なことは出来ないので(笑)、こうした奇天烈で極端にも見える例示で露骨に表現するしかないというところはあるかと思います。

とにかく『天龍八部』におけるこれでもかというグロテスクな”恋愛”像の連打によって、金庸は通常の生活感覚から一歩引いた「仏教」的な視点・立ち位置、思想や感受性からは、”恋愛”というものが押し並べてどのように虚しく/醜悪で/重要性の低いものと感じられるか、それを笑わせながら(笑)何とか活写しようとした。

蕭峯の例・振る舞いなどは別にグロテスクなものではないので、あるいは他の4人は人格的に未熟だからそうなるんだという見方も可能かも知れませんが、では金庸全キャラ中随一の好漢とも言われる蕭峯ならどんな立派な恋愛をするかというと、しないわけですね、要するに。
まともな男(人間)は恋愛なんてヤクザなものには関わりあいにならないと、逆にそう言ってるとすら、多少強引ですが作品内コントラストとしては言えなくもない。


勿論”恋愛”というのは一つの例で、ひいてはこの世の人々の狂奔する/情熱を燃やす営みの全てがそうである、無常である、厭悪すべき対象であると、それが大きく言えば仏教の基本的立場・出発点なわけですね。
それを「恋愛」を使って表現しようとしたのか、他の作品より「仏教」的見方をはっきりと打ち出す、その一環として恋愛についてもこういう描き方をしたのか。まあ、後者ですかね。

つまり小説上の体裁としての主役は、やはり蕭峯の救いの無い運命に代表される、”評判”で取り上げた「ダイエットに挫折して飲んだくれる俺。」さんがまとめたような、「民族」や「因果」をめぐる大きな無常観なのでしょう。(余裕があればそれらについても書きます)
ただそれは多かれ少なかれ金庸の他作品でも繰り返し出て来るお馴染みのモチーフなので、僕としてはこの作品で特別に大きくフィーチャーされている、あざとくも華々しい例として「恋愛」を取り上げてみました。


・・・・と、ここまでが原則論的な、あえて言えば小乗仏教的な仏教話。
次はもっと衆生の生(せい)の実際に近付いてみます。(笑)

「仏教」小説としての『天龍八部』 (3) 

天龍八部〈3〉運命の激流 天龍八部〈3〉運命の激流
岡崎 由美、金 庸 他 (2002/05)
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(1)(2)

本館が忙しくて放置してました失礼。新加入選手も確定したし、いいかげんレッズのことも書きたいんですか。
・・・・で、何書いてましたっけ?(笑)


段正淳というキャラ

主要登場人物のほとんどと、血縁(&結縁)を通じて何らか関係を持ち、滅法評判の悪い”天下のセックスマシーン”段正淳。
別に伊達にタネをバラ蒔いているわけではなくて(笑)、つまりはこの複数主人公による物語の背景に存在する「裏の」または「真の」主人公と言ってもいい重要人物だと思うんですが、物語の構造自体があまり説得力を持って完成できてないので、結果的にこの人自身の存在もなんだかわけが分からなくて、単に”女にだらしない人”になってしまっているという悲劇。または喜劇。(笑)

その本来持っていたはずの重要性を、今回の僕の論の脈絡で言えば、「(恋)愛の権化」ということになりますか。見たまんま?いや、そうでもなくて。

つまりここまで書いて来たように、僕の見方ではこの作品で金庸は仏教的な観点から、本質的に悪しきものとして(恋)愛を描いているわけです。ならば誰にも増して恋愛しまくった、ほとんどそれしかしていない(笑)段正淳は最悪かというと、それは少し違うと思うんですね。
むしろ天晴れであると、逆説的に貴い人であると、ここまでやれば、ここまでやってこそだとそういう描き方をしていると思います。

普通に読んでもそれは分かると思います。これだけ好き放題し、実際に恨みや争いの種を蒔きまくった人であるにも関わらず、決して金庸はそれを批判はしていないし(他の”恋人”たちのように)醜悪にも描いていない。(結果的に浮気性ではあるが)「1人1人に対しては、その一瞬一瞬については真剣である、真心で接している」という意味のことを再三書いてますよね。多分あんまり一般読者には通じてませんが。(笑)

あの男女まとめて”皆殺し”の悲惨な「解決」にしても、描写としては拙速でお座なりであまりいただけないと思いますが、そもそもの意図としてはあれによって”浄化”される、仮に罪があったとしても”赦”されるという、そういう意味合いの強いものだと思います。単に因果応報で”裁”かれたというより。


例えば”悪人正機説”

浄土(真)宗の有名な説として、「悪人正機説」というものがあります。

「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」(『歎異抄』)


上の親鸞の言葉が有名ですが、最近の研究ではその師法然等、説自体はもっと前からあったらしいです。とにかく(日本の)大乗仏教を代表する思想の一つですね。

「善人より悪人の方が往生(成仏)しやすい」とはどういう意味か、説明としてはこちらなどが分かり易いので引くと、基本的には

「人間は弱く、罪をおかしやすい。だからこそ、その罪の意識を契機にして(正機)、信仰の道に入ることができる」

「悪事によって人間の無力さ、よわさを悟り、阿弥陀仏の絶対的なちからに思いをいたすとき、小さな我を捨て(他力)、衆生済度の誓願(本願)を心から信じることが可能になる」


というようなこと。中途半端な善=自力志向は、かえって遠回りであるという。

かなり大雑把な解釈ですが、さしずめ段正淳なども、ここでいう「悪人」に当たると言える気がします。あるいはより大きく徹底した「悪」を生きた人、悪の極み。・・・・つまり「悪」たる「(恋)愛」を何ら自己正当化することなく、その時その時無心に全力で行った人。それゆえ、他の誰(の恋愛)よりも仏に、往生に近い。


話戻して

勿論金庸が悪人正機説を唱えているとまで主張しているわけではないですし、知っているかどうかも不明です。(浄土宗そのものは宋代には既に中国で広まっていたらしいですが)
また作中段正淳の色好みや多情が、要らざる不幸の種を蒔いたのも確かなことで、だからこそああいう形で「清算」しなくてはならなかったわけですが。

ただそれでも段正淳の生き様にある種の崇高なものがある、少なくとも王語嫣との薄っぺらい”成就”(あれムカつく)に浮かれる段誉や、特定の相手への執着と期待に空回りする游担之や阿紫、それに観念や幻想としての”恋愛”をなぞるばかりのお上品な蕭峯たちに比べて、行くところまで行ったものの凄みがあり、掴むべき「正機」があると、そう言えるのではないかと思います。
・・・・本来的にはね(笑)。そのはずです。多少僕も論理で補強しながら読んでますが。そういうものとして書かれているだろうと。

挙げた中では相対的には虚竹の「愛」だけは、むしろ”性”と”肉”のその身も蓋も無さ、逆説的な純粋さゆえに、よりプリミティヴではありますが段正淳のそれに近いものがあると思います。何か善悪以前の世界に住んでますよねあの二人は。エデンの園というか。(仏教だってば)
共通しているのは世俗的な意味での道徳や価値、「善」への見切り、嘲笑。一番道徳的な虚竹に一番言い訳の利かない状況・変化を与えているのは、かなり意図的だと思います。

とにかく、殊更(恋)愛を冷徹に露悪的に醜悪に描くことにおいて、またその究極であり逆説として、段正淳の「罪の果ての救い」を、全編を結果的に貫く背景として浮き上がらせるように描いていることに、僕は非常に金庸の底意のようなもの、仏教的な価値観のいつにも増して濃厚な投影を感じるというそういう話です。


伝わったかな(笑)。あんまり自信無いですが。そもそもの”愛=悪”の部分が、ピンと来ない人には全然ピンと来ないでしょうからね。でもそこ説明し始めると・・・・。
要するに諸悪の根源は「執着」であり、そのトップ級の大物が「愛」だということですが。一応それはそれとして、あくまで作品内的な論旨として理解出来るよう書いたつもりですけど。(笑)

さてどうしましょう。出来れば『天龍八部』中に出て来る経典の文言のいちいちについて、それがどのように作中の出来事・内容と対応しているかとかも解釈してみたい気がするんですが。
・・・・つまり「恋愛」以外の仏教性ということですけど。どのみち今手元に本が無いので、ちょっと考えます。

天龍八部〈4〉行路茫々天龍八部〈4〉行路茫々
(2002/06)
岡崎 由美、金 庸 他

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「仏教」小説としての『天龍八部』 (補) 

かなり唐突ですけど、今週の『週刊サッカーマガジン』 (購入)

サカマガ岡ちゃん

の岡田監督のインタビューで、「執着」という仏教の基本概念が面白い説明のされ方をしていたので、強引にここに繰り込んで書き留めておきます。(笑)

サッカーと武侠の交差するブログ、それが赤の陋屋。(嘘です。別々です。)


以下岡田さんの言。

「人間というのは囚われたり執着したりしたら、うまくいかない。(中略)

僕はライフル射撃の日本代表監督である藤井(優)さんと仲が良いんだけど、練習用のレーザーピストルを持たされたことがあった。僕は集中力に自信があるから、絶対に当てると。ところがいつになっても銃口が止まらない。動いてしまうんです。
それを見て藤井さんが『岡田さん、それでは絶対に当たらないですよ』と。本物の集中とは全体視。つまり全体を見ながら、点を見る。そうすると、すっと止まる。当てたいというのは集中ではなくて、執着なんですよ。」


「執着や囚われでは絶対に勝てない。難しい話をすれば、新皮質(学習や論理)で考えながらやっていることなんです。演算速度でいえば、旧皮質(本能行動や情動)で考えるよりも、はるかに遅いんです。
(中略)
スポーツも同じなんです。執着も頭で考えることになる。」


ポイントは、執着=頭で考える=新皮質というグルーピングですね。
欲望や感情=旧皮質がいけないのではなくて、それを新皮質の学習や思考、つまり社会通念やら観念やらで歪めてしまうのがいけない。肥大化させたり不純化させるのがいけない。
それが迷いであるし錯誤であるし、人間ならではの(新皮質的な)悪/罪であるという。勿論悟りや救いの妨げでもあるという。


これを例えば(3)の”段正淳は相対的に往生に近い”論(笑)の脈絡で言うなら、段正淳は底の抜けた色好みで最初から倫理(という新皮質的な歪み)的であることにこだわっていない、不倫の誹りは受けるつもりでいる。
あるいは「1人1人に対しては、その一瞬一瞬については真剣である、真心で接している」という例のアレ、その場その場の気持ちのままに行動し、それらの行動間で結果的に生まれる社会通念的な齟齬、「あちらが”本気”ならこちらは”本気”でないはず」「あちらにもこちらにも”忠実””誠実”なんてことは論理的におかしい」というようなそれに対する配慮を気にしない、囚われない。
・・・・そういう意味で「執着」が少ないのだというそんな話になりますか。

愛がいけないというよりは愛に関する観念・・・・その中には”独占”(忠実)であるとか、あるいは”報い”(こんなに想っているのだから相手も的な)であるとかいうエゴ、また「愛」を最初から一連の形式や物語性の中においてしか捉えないような心/頭の動き全てが含まれるわけですが・・・・がいけない。観念化された愛がいけない。
そして人間の「愛」はほぼ例外なくそれを逃れられない。執着そのものである。強い情動を伴う分、害も大きい。だから避けるべきであるという。


本当かどうかは知りませんし(笑)、必ずしも僕の考えとイコールではないですけど、なるべく引き付けてこじ付けてみるとこんな感じ。
ただ「執着」を道徳的価値的に”悪”であるのではなくて、錯誤であり認知の歪みという”害”がある、だからいけないという説明の仕方は、現代人に通じ易いのは確かでしょうね。

旧皮質的に愛せよ。動物のように、赤子のように。それが仏へ通じる道。(?)
イタいエントリーだなあ。(笑)


ちなみにこうした概念を使って説明された岡田監督の(その箇所での)サッカー論自体は、特に感心しませんでした(笑)。要は特定のスタイルにはこだわらないというだけの話で、普通の話。
まあ言ってみたかったんでしょうね、充電期間に溜め込んだことを。