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金庸の格闘描写の評判 

『書剣恩仇録』より。


『夢の記録』さん

日本の時代小説との違いその一、殺陣。 日本のだと一撃必殺、静から動の変転をいかに見せるかに 力が注がれる。一方、こちらの殺陣は演武という言葉が ふさわしい、連続した舞のようなやりとり。 西遊記の孫悟空がガチガチやりあうのを思い出す。


同感ですがこれは特に金庸がそうなのか、逆に”一撃必殺”派の古龍が例外的なのか。知ってる人がいたら教えて下さい。


『Trivial Journal 2.0』さん

日本のチャンバラよりも、どっちかというと「リングにかけろ」のファイナルブロー合戦の趣きが強い。


印象論としては分かりますが、僕の意見はノーですね。むしろ手続きをちゃんと描きたがる人だと思います。クドいというか(笑)。その上で”ファイナルブロー”で飛ぶ。

(以上、’07.2.21)


武侠ノススメ さん (→閉鎖  現・新版”Kizurizm”

再読して思ったことは、何より格闘描写を読むのが苦痛であるということである。(略)
武器や技がわからないと読めないというのも大きいが、文体がいまいちすっきりしていないのだ。(略)
金庸の文章は意味を追いかけるだけでいっぱいいっぱいになるのに対して、山田風太郎の場合は蛍火の驚愕した顔、切り落とされた腕、左衛門の惨とした顔、そして喋々……映像が浮かんでくるようである


この方の言いたいこと自体はよく分かります。ただちょっと真面目に読み過ぎかなと。「追いかける」必要はそもそもないんだと思うんですよね。”劇的描写”というよりは言葉の遊びなわけで。馬鹿話を文章のマジックであたかもそこにあるように錯覚させてくれる楽しさ。(だから映像化したものをあまり見たいと思わないんですが。)


まあしかし毎度次から次へと呆れるほどけったいな修行プロセスとけったいな武術を考え付くものだと感心しますが、それらが少なくとも作品内では結構な完成度の論理性を持っているのでつい説得されそうになります


以前書いたことの引用ですが。むしろ詐欺師の口上を聞いてるとでも思った方が良い。(笑)

ただ言わせてもらうとカンフー映画などを見ても少なくともフィクション上の中国武術の本領は、むしろ金庸的な”おしゃべり”、半ば自己目的的なやりとりの引き伸ばしにあるのであって、本質に迫ったり決着をつけたりというのはある意味お楽しみの終わりなわけですね。
古龍みたいなのはどちらかというと日本の空手とか剣豪ものとか、あるいはよく形容される”ウェスタン”の早撃ちとかそういう類に近くて、「過程」の描写はなるべく簡潔に、その分を意味付けや抒情性に割くというそんな感じですね。大雑把に言えば勿論風太郎先生も。


書剣恩仇録における点穴の研究

というところで(?)こんな労作も発見。(笑)
アホだこの人。詐欺師金庸の煽りを受けて立ったんですね。すげえ。


金庸『書剣恩仇録』における格闘描写(富山大学卒業論文題目)

おまけ。こんなテーマで論文書けるんだ。楽しいね文学部は。(笑)
ちなみに僕の専攻は経済学と心理学でした。まあいたって不真面目でしたけど。基本独学派。

(’07.3.2)


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カンフーは痛くない?! ?「科学で見る格闘技の真髄」 

スカパーch.741ナショナルジオグラフィックチャンネルより。
面白かったあ。録画しとけばよかった。まあどうせまたやるか。
何かと話題の『金庸の武術描写問題』への一石?!


表題にあるように、最新科学、特に「自動車の衝突実験」(の際の搭乗者への影響)に関する研究のノウハウ、及びPS以降のゲームでお馴染み”モーションピクチャー”のテクノロジーを使って各格闘技の威力の検証と比較を行なった番組。かなり情熱と愛を感じる作りで良かったです。以下結果のダイジェスト。

素手編

1.ボクシング、ムエタイ、テコンドー、空手、カンフー(少林拳)の威力の比較

パンチ力 :ボクシングが最強。力の伝達の合理性・洗練性が抜けている。
キック力 :ムエタイの「首相撲からの膝蹴り」の威力、特に結果的な人体へのダメージが最大。

・・・・どちらについても「時速56キロでの衝突事故」に相当するという結果になってたのが面白かった。逆にそこらへんに限界が?
・・・・またカンフーはどちらの面でも最下位、はっきり言うとミソッカス。(笑)

スピード(1)打撃自体のスピード :カンフーが最速。毒蛇のかみつきの2倍!
スピード(2)敵の動作へのリアクションスピード :テコンドーが最速。

・・・・空手は名前は挙がってないが、打撃力は平均的に優秀。総合的にはテコンドーのバランスの良さが目立つなという感じ。

2.柔術と忍術

・ブラジリアン柔術(ヒクソン登場!)の関節技の破壊力も検証。首関節ならば余裕で殺傷レベル。

・”格闘技”としての忍術も正当に検証。伝説通り、上記の他ジャンル格闘家も遠く及ばない身軽さと平衡維持能力、及び医学的知識に基づいた神経組織の効率的な破壊・打撃能力が明らかに。一撃で麻痺や殺害は十分に可能。


武器編

前提として、あくまで「格闘家が使う武器」として素手編と連続的に論じられていたところに非常に見識を感じました。戦争の”兵器”とは別次元ということでもあります。

1.”棒”の侮れない威力

・バールやパットなど、重い武器は威力はあっても実用性に欠ける。
・棒は軽量で使い易く、威力も十分。
・フィリピンの”狩り棒”。短く正確で、頭蓋骨も砕ける(”犬打ち棒”を連想)。主に二刀流で使う。
・日本の”六尺棒”。より長く、遠心力でスピードもつき、回せば盾にも使える。
・”槍”は棒を細身軽量化し、そのパワーダウン分を金属の穂先で補ったものと考えるべき。

・・・・棒の破壊力は絶大だが、反作用で自らも壊れることが多いのが難点。

2.”棍”系のアンビバレンス

・”棒”を鎖で繋いで射程範囲と耐久性を加味したもの。
・”ヌンチャク”(つまり二節棍)。スヒードは抜群、壊れることもない。しかし鎖部分の存在により操作性が落ち、また反作用を逃がすことによる威力の減退がある。
・”三節棍”。射程の広さと用途の多様さは究極クラス。しかし更に操作が難しい。

3.飛び道具/暗器

・弓矢(和弓)の遠距離攻撃と威力・正確性は出色。実は焦点は近距離にあり、その延長として遠距離を捕らえている。
・(菱形)手裏剣は使い易く、どんな角度・タイミングでも確実に深く突き刺さる。手に持っても使える。
・両者とも遠・短距離には強いが、格闘の主体である中距離に弱いという欠点を持つ。

4.剣と刀

・刀剣は(1?3全ての観点から)非常にバランスの良い武器である。
・”剣”は直線形で細身、諸刃が基本。より古い。
・軽量で敏捷、刺突力は優れているが折れ易い。
・反り身で片刃、峰部分を持つ”刀”は、攻守兼用で頑丈だが、重くなりがち。
・両者の長所を兼ね備え、かつ切断能力もぶっちぎりの”日本刀”は、刀剣系最強のみならずあらゆる(格闘系)武器の中で最も高度なバランスを持ったリーサル・ウェポンと言える。


(金庸/武侠的に)

・カンフーは一撃必殺を基本思想として持っておらず、”当てる”こと、それにより”やり取りする”ことを前提としている。
・だから煩雑さはデフォルトであり、金庸の文体は実にカンフー的中国的だと言えるのではないか。
・当然それには自己目的的な様式美も伴うだろう。手続き主義的というか。
・武侠小説で言う「軽功」「点穴」に相当するものは、日本の”忍術”の技術としてある意味実在することが確認された。起源はどうあれ、中国武術にもそれに類似したものはあるだろうと推測出来る。
・上手く言えないが、素手の格闘と武器を使ったそれとの間には地続きの思想・技術が存在することが今回強く感じられた。加えて言うならば手持ち武器と飛び道具の間にも。
・ここらへん、日本の剣豪小説よりも中国の武侠小説の方がよりリアルというか豊かな感じがする。あるいは日本は全てが”リーサルウェポン”日本刀を中心とする物の見方に傾斜してしまったのか。

・・・・ちなみにカンフー代表の”少林拳”は、武侠小説によると「外家拳」つまり物理的な「剛の拳法」の代表なので、素手編の1.は言い訳が効き難いですね(笑)。逆に武当派→太極拳の「内家拳」系がサンプルとして取り上げられていたら、”忍術”との比較はどうだったのか興味あります。
でもスピードで実際に蛇より速いというのは驚きでした。ならば少なくとも「当てる」ということに関して言えば、よく出て来る虎などの獣を手玉に取る場面とかも満更嘘ではないのかも。それで打撃で倒せるのかというと少し疑問ですが。


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格闘描写の「技」と「心」 ?序 

まず下の表を見てみて下さい。

各武闘派作家の「技」派度、「心」派度の比較表

「技」派 ↑

金庸

夢枕獏

富樫義博『ハンター×ハンター』



菊地秀行『妖魔』シリーズ

鳥山明『ドラゴンボール』

吉川英治『宮本武蔵』≒井上雄彦『バガボンド』 → 古龍

「心」派 ↓


僕がざっと大別してみた、金庸と古龍の中国武侠小説の2大巨頭を両極とする、各武闘派作家の「技」派度、「心」派度の比較表です。
なるべくメジャーな範囲で選んではありますが、それでもラインアップの一般性にやや問題がある(笑)のは、要するに「僕がある程度以上責任を持って語れる人」ということなのでご勘弁を。

まず意味ですが
「技」派とは・・・・格闘の描写及び勝ち負けを、物理的技術的観点に重きを置いて書く人。
「心」派とは・・・・同じく心理的意味的観点に重きを置いて書く人。「正義は勝つ」派というか。
ということです。

「技」派の側から見ると、「心」派はある意味で”描写”をそれ自体としてはしない人たちとも言えるかもしれません。なお古龍の位置だけおかしいのは、こういう分類に収まり切れない、とても独創的な描写をする人だからです。
吉川武蔵と井上武蔵は必ずしもイコールではないかも知れませんが、一応原作とその漫画化作品ということで同じ位置に。

以下各作家の”派”たる理由について解説して行き、ひいては金庸の格闘描写にこめられた意味について考えて行きたいと思います。

・・・・その2(特記事項)編につづく。


(補足)
僕のホームグラウンドであるサッカーのネット評論のジャンルで言えば、前者は試合経過を細かく追って、一つ一つの原因結果について考察する「観戦記」派、後者は起きたことや試合結果を、人間行動や歴史、社会的な意味などの見地から位置付けて行く「エッセイ」派にあたると言えるかも知れません。
ちなみに僕自身はバリバリの「エッセイ」派です。(笑)


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「技」と「力」と「気」と「心」 ?特記事項 

と、その前に、この分類を把握する上で必要と思われる特記事項について書いておきます。(より)


・「技」と「力」 ?日中比較

本来「力」と「技」はそれ自体独立して対比されるべきものかもしれませんが、ここでは省いてあります。
それはまず分類の軸である中国ものの世界では、「技」>>>>>(越えられない壁)>>「力」というのが自明の前提であることによります。どんな馬鹿力も正統的な技術を身につけた武芸者の前では、仇役以前の引き立て役状態です。

日本でも筋肉馬鹿が主役・重要な役を張り続けるというケースはレアで、そういう意味では普遍的なパターン/願望であるのでしょうが、それにしても中国ものではその描写が極端で、技と力、または玄人と素人の間には身分差別に近い深い溝が存在するように感じられます。

直観的にはこれは中国特有の「文明」至上主義、具体的には理屈っぽさ、理論信仰の反映のように思えます。つまり「技」「力」は、「文明」「文化」「野蛮」「自然」の対立図式に対応している。「中華」対「周辺諸国」というか。前者は常に後者より優れている。勝つ。
日本で言うところのいわゆる”柔よく剛を制す”的な技術論は、あくまで「技」=「文明」の枠内での相対比較の話、そこで初めて議論の俎上に上る。


・「力」と「気」「内功」

しかし中国もの/金庸の世界の中で、「力」的要素が(「技」の枠内で)大いに戦いの動向を決することもあって、それが「気」「内功」という概念と組み合わされた時。

「気」や「内功」自体が何かというのは、うるさく言わなければ『ドラゴンボール』で「気」と言われているあれと基本的に同じです。修行によって内側から出て来るある種のエネルギーであり、”増え”たり”大きく”なったりする量的な概念である。
違うのはただの休養や仙豆(笑)によって機械的に回復したりはせず、あくまで努力によって、”気を練る”という一種の瞑想により蚕が繭を紡ぐように(?)自分の中に溜め込まなくてはならない。だから数十年かかって溜めたものを一回の使用で消費してしまったりします。

そして大事なのはその「気」「内功」の力が、一種の擬似筋力として攻撃力や耐久力を決定的に左右することで、「内力」などとも言います。まあこれもドラゴンボールと同じですね。
ここにおいては逆に「力」が「技」の優位に立ち、技術が劣っているまたは全くなくても、内力で大きく優位に立っていればやられることはまずなく(裏技もありますが)、またいい加減な打撃やほとんど触るだけでも大きなダメージを与えることが出来ます。

摩訶不思議ではありますが、直感的にはむしろこっちの描写の方が自然な感じに見えると思います。技だけの非力な者が怪力を寄せ付けないという上の描写よりも。
ここらへんはまあ何というか、中国人なりの建て前(技)と本音(力)みたいなそんな感じ。


・「気」「念」と「心」

「気」というといかにも中国的ですが、もう少し現代的擬似科学的な概念として、「念」という語が日本ではよく使われます。先ので言えば『ハンター×ハンター』や菊地『妖魔』などがその代表。精神力または超自然力の物理的利用という意味で、この両者は(フィクション上では)基本的に同じものと捉えて差し支えないと思います。

問題はこれらと「心」、あるいは精神そのものとの関係で、「心」の力の反映という意味ではこれらの重視は精神面の重視になるわけですが、一方でそれを物質的比喩で使っているという意味では軽視、または現実への直接的適用の断念ともとれるわけです。
実際これらの境界的概念の使い方には、作家の力量及び世界に対する態度が如実に現れるので非常に興味深いところです。使うか使わないかということも含めて。

先取り的に言うと『ハンター×ハンター』の富樫義博の「念」概念の描き方、それにそうした境界概念を用いずに心や人間性を格闘描写の主役に、しかもあくまで技術論的体裁で描き切っている古龍、この二つは天才的な事例だと思います。


・・・・金庸・『笑傲江湖』のアンビバレンツ編につづく。


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「剣術」流と「気功」流 ?金庸『笑傲江湖』のアンビバレンツ 

特記事項

個別解説一番手は、「技」派の筆頭、金庸から。
ネタ本はしばしば最高傑作とも評される、1967年の『秘曲 笑傲江湖』。

秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律 秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律
金 庸、岡崎 由美 他 (1998/05)
徳間書店

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作中で語られるプレ・ストーリーの中に、主人公令狐冲の属する剣術門派”華山派”にかつて存在し、骨肉の争いを生んだ「剣術」流と「気功」流の対立というものが出て来ます。

「二十五年前、わが派の武術には、の二つの流れがあった。」
(中略)
「華山派の武術の重点は、『気』にあるのだ。気功さえ会得すれば、拳法だろうと剣術だろうが、思いのままになる。これがわが派の修行の正道なのだ。ところが、一門の先達の中には、その重点が『剣』にあるとする支流があって、剣術さえものにすれば、内功が平凡でも、敵に打ち勝てると考えていた。正邪の区分は、まさにそこにある。」(2巻146?7)


ここで「気功」「内功」と言われているものが、少なくとも一面で「心」の比喩であるのは既に説明した通りです。

さて引用部分にあるように、作品の基本的な世界観は『気』≒「心」が主/正統であるとなっており、これ自体は特に最後まで否定されません。これだけだとまるで金庸は「心」派のようですが、物語はその後実に複雑で奇怪な深まり方をします。


1.主人公・令狐冲の奇剣士ぶり

この令狐冲という主人公は、颯爽とした気持ちの良い、聡明かつ愛嬌もたっぷりの好男子で、金庸の主人公の中でも屈指のバランスの取れたパーソナリティを持った人気者です。
しかし実は武術家としては逆にとてもバランスが悪く、通例通り腕を上げて無敵化はするものの、その成長過程はかなりいびつで、事実上剣術のみしか取り柄がなく、剣がないと他の武器を取っても素手の格闘でも役立たずに近いという異例の主人公です。

しかもその無敵性をもたらした剣術(独孤九剣)自体も決して正統的なものではなく、上で正道とされた土台としての気功の修練とはほとんど無関係に、ひたすら技術技術の”邪道”的なもの。
主人公に自派の正統性を侵す気はなく、また「土台としての気功の最終的有効性」という世界観そのものも決して否定されてはいないのですが、全てを忘却させる目くるめく純粋技術の快楽・スピード感に、主人公は半ば戸惑いながらも身を委ね、あれよあれよと最後まで勝ちまくります。

実はストーリーそのものが、そもそも「ヘキ邪剣譜」という伝説の究極技術教本をめぐって、武術界の有象無象のみならず上で「気功」流の正統性を熱弁している主人公の師匠までもが密かに狂奔するそういう皮肉に満ちた話なわけですが、そうした元々邪心や欲に駆られた人々の行動よりも、無欲で純真なままある意味心ならずも技術の権化として振る舞う主人公の姿に、純粋技術の抗い難い魅力が強烈な印象として残ります。

2.「気功」流という設定そのものの問題

「剣術」流と「気功」流の対置、及びそれをめぐる師匠の本音(剣術)と建て前(気功)という筋立てが、闘いにおける、ひいてはこの世における「心」の価値・位置のようなテーマをめぐって構成されていることは明らかでしょう。
しかし実際に読んでいて受ける印象としては、単に「剣術」という”技術”と「気功」という”技術”、2種類の技術の対立に過ぎないように見えるところがあったりします。「気功」は「剣術」との対比としてはそれらしく見えはしても、それ自体が「心」の比喩として十分には機能していないようにも思えます。

元々再び既に説明した通り、気/内功は「心」の比喩であると同時に物質化、非精神化でもあるので、これ自体はあり得る話です。問題はその理由または金庸の意図ですが。
後述する(&既に触れた)古龍の、心を格闘描写の中心的な要素として描き切った業績を称える立場などからすれば、要するに金庸は心については描いていない、「気功」でお茶を濁しているだけで描けていないという評価も一つあると思います。そもそもが感情描写、人間描写については平板だったり形式的だったりという傾向のある人ですし。

ただ同時にそれ以上の含意が汲み取れるところもこの『笑傲江湖』という複雑な作品にはあって、それは「剣術」流の生き残りの大師匠がとある行きがかりで主人公に施す剣術指導の内容。具体的には『型を突き詰めて型を無化する』的なそれ。

「すべて自然の成り行きに任せるのじゃ。限界にたどり着くまで行ない、限界にたどり着けば止めよ。」(2巻195)


これだけでは何のことだか分からないかも知れませんが、要するに「型」をやり切る(”限界”まで)ことによって「型」から解放され、その時全ては心のままになるというような状態について語られています。ここでは「気功」の仲立ちすらなしに、「技」「心」が矛盾なく働いています。

つまり金庸は「心」(のようなもの)を無視も軽視もしていないが、その前に「技」、物質性具体性を徹底的に展開する段階があると、そういう世界観で書いているのかなとそういう話です。あくまで予感的な書き方ではありますが。(いずれ本格的な作品論で再考予定)


とりあえずここで押えておいてもらいたいのは、金庸は「気功」≒「心」の正統性をわざわざ言挙げしているような作品においてすら、これ以上ないほど華々しく純粋技術を活躍させてしまう、技そのものの描写への独特なこだわりをもった「技」派の人であるという、そういうことです。
それが”限界”なのか性格なのか、はたまた全てを飲み込んだ上での哲学的こだわりなのかはここでは置きます。(またそうした金庸の格闘描写の特徴については、このシリーズの最後にまとめ的に。)

では続いて同じく”即物派”の夢枕獏について。


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頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ ?夢枕獏の格闘唯物論 

本朝無双格闘家列伝 本朝無双格闘家列伝
夢枕 獏 (1999/11)
新潮社

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何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて、死生(しにいくこと)を期(い)はずして、

頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ


「技」派の2番手夢枕獏の、エッセイ風格闘技原論集『本朝無双格闘家列伝』のマクラとして使われている、日本書紀中のかの”日本最初の相撲/格闘技試合”の当事者の一人「当麻蹴速」(たいまのけはや)の言葉です。(もう一人は野見宿禰)

”頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ”
この言葉の力強さはどうだろう。
蹴速の首の太さや、腕の力こぶ、胸の筋肉の厚みまでが見えてきそうである。(同上)



夢枕獏についてはもう一つ印象的な言葉があって、それはちょっと前の講談社イブニング掲載の『餓狼伝』(夢枕獏原作/板垣恵介作画)中のセリフ。単行本は持ってないので正確なところは覚えてませんが、そこでこんなことが語られていました。

「格闘技で精神修養が出来るなんて、馬鹿馬鹿しい考えだ」

公平の為に僕の読解も含めてより丁寧に言うと、こういうことだったかと

「どんなものでも”精神修養”の手段にはなり得るとしても、基本的にはどこまで行っても他人をぶちのめす技術・手段である『格闘技』が、あたかも”精神修養”に適したジャンルであるかのように語られているのはナンセンスもいいところだ。」


賛否はともかくとして、まことに痛快で明快な言明だと思いました。
格闘技は力だ技だ、モノたるカラダとモノたるカラダの純粋なぶつかりあいだ。
格闘技の物質性と精神性に関する夢枕獏の基本的な立場はこうです。


そんな夢枕獏による格闘描写。
『獅子の門 朱雀編』、とある寺の境内において、潜伏中の蟷螂拳の使い手竹智完に襲いかかる追跡者の古武道萩尾流、久我重明の図。(一部割愛)

右手を内側から久我重明の抜き手に引っかけて、その軌道を外にそらした。
その時にはもう、久我重明の右肘が、顔面に向かって迫ってくるところであった。
頭を沈めて、それをかわす。
足。
拳。
肘。
足。
拳。
拳。
膝。
拳。
至近距離で、目まぐるしい打撃の攻防がやりとりされた。
三秒。
濃密な三秒だった。
どういう隙間も存在しない、固形物のような三秒。


シンプルではありますが安易に象徴化に逃げない、「描写」そのものへの情熱、意志を感じさせる、また肉とモノとカラダと、技と力と、ぶつかり合う一つ一つがビシビシと伝わって来るそういう描写だと思います。足。拳。肘。・・・・のところを音読していると、文字通り「息」が「詰ま」ります。

断わっておきますと”物質””唯物”とは言っても、一方で夢枕獏は非常に精神主義的というか求道的というかそういうところもあって、決して単なる合理主義者でも現実の平面的な描写で事足れりとするそういう作家でも全くありません。言わずもがなですが。むしろ目に見える現実の向こうを描く為に、アプローチとしてまず物質性を徹底的に捉まえるというそういうタイプかと。

格闘描写について言えば情け容赦のない即物性によるシンプルな描写は、逆説的に「人間力」を問うようなそういう面もあります。時に技が本当に技としてのみ存在して、軽佻浮薄にすら見える(笑)金庸との差もそこに求められるでしょう。
ただその「人間力」は単なる”物”に対置される一要素としての”心”などではない、そういうあたかも物質性から逃れる術があるかのように錯覚させる甘っちろいものではない。


次はある種の中間派、独特の”科学的”アプローチで「技」と「心」をバランスよく扱う富樫『ハンター×ハンター』を。


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「念」と”ゲーム” ?『ハンター×ハンター』の「念」理論(1) 

格闘描写の「技」と「心」、その3。富樫義博編。


出世作『幽遊白書』(’90?’94)においては、当初はバトルものの予定ではなかったこともあってか、”霊気”が”レイガン”や”霊剣”になる式の基本的には素朴な、ドラゴンボールと同レベルのありがちな描写で通していた(それでも名作だとは思いますが)富樫義博ですが、準備万端放ったのだろうこの『ハンター×ハンター』(’98?)
ハンター×ハンター
HUNTER×HUNTER [少年向け:コミックセット] / 富樫義博

では、同種の概念「念」をめぐってのちょっと他に類を見ないような精緻な体系性を持った理論を引っさげて登場して来て、正直度肝を抜かれました。

作中のいくつかの描写を見ると、作者が何らか古武術の類を研究した形跡(”水見式”とか、15巻”流々舞”とか)はすぐに見て取れると思うんですが、しかしそういうことよりも何よりもこのある意味必要以上とも言える徹底した体系性を支えているのは、いわゆる”ゲーム”の「戦闘システム」の発想なのだと思います。


『ハンター×ハンター』とゲーム

と、偉そうに言ってはいますが(笑)僕が単行本一気読みの過程でそのことに気がついたのはかなり遅くて、そのものズバリ”ゲーム”の世界である、13巻後半以降の「グリード・アイランド」編になってから。それまでは背景が分からなくて、ただただ富樫義博の天才性に震撼して、自分の理解力に自信をなくしてショボくれていました。(笑)
敏感な人ならかなり早い時期からこの作品の根底に”ゲーム”の発想があるのは分かっていたと思うんですが、僕はちょっとゲーム音痴に近い人なのでどうにも。

ここで”ゲーム”と言っているのは代表的には勿論コンピュータ・ゲームですが、グリード・アイランド編で全面展開されているようなカードゲームから何から、作者が筋金入りのゲーム好きで、子供の頃からカードゲームを自作したり今でも暇があると理想のゲーム・システムの構想を当てもなく考えたりしているということが単行本の随所で語られています。

その作者のゲーム愛の性格には勿論ヴァーチャルや空想の別世界で遊ぶ子供らしいそれも勿論あるわけですが、それ以上に目を引くのはゲームの細々としたルール、設定そのものを考えることに対する情熱・喜び、それによって論理的で包括性の高い体系/ゲーム世界を作り出すことへの興味です。
グリード・アイランド編を見てもよくぞここまでという細かさで、実際あれをちゃんと見たり覚えたりしようという人はどれくらいいるんでしょうか。(笑)

作者が意識しているかは知りませんが、その論理的な情熱は哲学者を越えてほとんど数学者的なレベルの、そういうタイプの知性のように思えます。

それ以前のパートにおいても例えばハンター試験のルールにこめられた様々な3すくみ的なジレンマ設定、クラピカのジャッジメントチェーンに代表される念能力の”縛り”と”効力”の関係、勿論随所に散りばめられたミニ・ゲームっぽいシーンなど、『ハンター×ハンター』の”ゲーム漫画”性を示す要素はいくらでも探せます。


「念」理論と”ゲーム”の「戦闘システム」

本題の「念」理論ですが、あれを「念」そのものについての作者の考え、そこから直接に出て来る理論体系だと思ってしまうと、一体この人は何者なのかと僕のように悩む羽目になるのでやめておいた方がいいです。(笑)

そうではないんですね。あれは新作ゲームの戦闘システムの考案を任されたプログラマーが、前作のシステムやゲーム全体のデザインや長さ、予算など、様々なものを考慮に入れながら、プレイヤーが適度に苦労しつつ楽しめるようこしらえた/でっちあげたシステム、そういう性格のものなんですね。
だから同じく「念」という概念を使っても、違うゲーム/作品なら全く違う理論になり得るでしょう。例えば『FF』という続き物のシリーズの同じく”アビリティ”や”魔法”であっても、ナンバーによってかなり違った理論付けがされているように。

言うなれば「念」”についての”ではなくて「念」”をめぐっての”理論、掘り下げるのではなく取り囲む、意味や真実性ではなくて体系性そのもの、作り話の広がりと辻褄を焦点とする理論なわけです。

・・・・余談ですが案外本物の科学理論の、特に社会的認知にはそういう面も大きくて、必ずしも「実証」や「論証」そのものではなくて(どのみち一般人には分かりませんし)体系の包括性、説明としての魅力がより大きな役割を果たしたりします。”精神分析”なんかはその代表でしょうけど。科学も物語である、ところがある。

実際には『ハンター×ハンター』の作中で語られている「念」理論には、少なからず作者の本気の予感が含まれていることと思いますが、当面それは主題的に語られているわけではない。


(2)につづく


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「念」(ネン)と「燃」(ネン) ?『ハンター×ハンター』の「念」理論(2) 

(1)「念」と”ゲーム”編より。


ではそのゲーム的発想を下敷きにした『ハンター×ハンター』の「念」理論が具体的にどうなっているか、(本題である)”技”と”心”についてのどのような思想で出来上がっているかですが、周到に作り上げられた一つ一つを取り上げていてもキリがないので、最も原理論である『四大行』の構成に表れているそれで代表してみたいと思います。

・・・・実際にはどれがというより体系性そのもの、体系全体が正にその表現だと思うので、まだ読んでなくて興味がある人は是非自分で読んでみて欲しいです。色々含めて決して損することのない傑作だと保証します。(笑)


『四大行』とは

その前にまず「念」とは何かですが、初出の6巻の説明によると、「体からあふれ出すオーラと呼ばれる生命エネルギーを自在に操る能力のこと」とあります。
まあこれ自体は予想の範囲の、至ってありがちな設定ですね。魔法は魔法、アビリティはアビリティ、問題はその後というわけです。

その念の最も基本的な修行には、以下の四つの局面があります。(『四大行』)

纏(テン) ・・・・ランダムに拡散しているオーラを体の周りに留める、身に纏うこと。

絶(ゼツ) ・・・・オーラの放出を完全に絶つこと。

練(レン) ・・・・オーラを練って高める/増大させること。

発(ハツ) ・・・・オーラを発すること、操ること。


とりあえずこれはこういうものとしておいて下さい。


もう一つの『四大行』

ところがストーリー中この”「念」の『四大行』”の前に、発音は同じですが内容は違う、「燃」(ネン)の同じく『四大行』というものが主人公たちに示されます。具体的には

点(テン) ・・・・心を一つに集中し、自己を見つめ目標を定める。

舌(ゼツ) ・・・・その想いを言葉にする。

練(レン) ・・・・その意志を高める。

発(ハツ) ・・・・それを行動に移す。


の四つです。「燃」自体は「心を燃やすこと」「意志の強さ」と説明されます。

さてこの「燃」は何かと言うと、「念」の修行の為の下ごしらえであり、また危険な武器ともなる実際的な力を持つ「念」を、修行の心構えや準備の出来ていない門外漢から隠す為の表皮でもあります。言わば”表”の「燃」に対する”裏”の「念」、日常的な力と非日常的な力のような関係にあります。


二つの『四大行』の関係

ここで僕が面白いなと思ったのは、二つの四大行の前半は違っても、後半は共通していることです。
パッと見では念理論の他の部分の趣味的とも言える緻密さ(血液型よろしく性格類型まで作っている)からすると、いささか不徹底な印象は受けますし、表と裏の言い換え、語呂合わせという面からしても、最後までやってくんないかなと多少気持ちが悪く思います。(笑)

ただこれにはこういう意味があるんじゃないかと僕は思っています。
つまり「燃」と「念」は違う概念であり、違う力である。日常的な次元のそれと、非日常的なそれと。だから基礎的定義的な部分では当然違いが出る。
しかしより応用的運用的な段階に来ると、あらゆる力に必要な要領、または表れる局面は結局同じものになる。・・・・というような。

ちょっとこじつけくさいですかね(笑)。要は面倒だったという可能性はありますし、ストーリー上この「燃」は、主に主人公たちをいったん丸め込んで「念」から遠ざける為に登場している概念なので、本当のことを教えることにしたある段階からは特にそれ以上設定を突き詰める必要がなかったという事情はあるかなと思います。(だから前半だけ言い換えた)
ただ一方で作者の凝り性から、単に放置するともとても思えないので、何らか上の僕の”説”的な呑み込みの仕方はしてるんじゃないかとも強く思います。



(まとめ)

そこまではっきりした呑み込み方はしていなくても、「念」という飛び道具的な概念に”技”以前のこうした整然とした基礎理論を与えていること、そして程度はともかくそれが「意志」(燃・ネン)という、形こそないもののそれ自体は日常的に使われる概念と同型の構造を持っていること、こうした描き方には富樫/ハンター一流の独特のニュートラルな姿勢が表れていると思います。

つまり「念」だの「気」だの「オーラ」だのが登場する格闘系ストーリーの場合、往々にしてある段階から先はそれらの万能性に頼り切って説明もクソもない”必殺技”の粗製濫造に終始する傾向がありますが(後付け的に参照)、富樫ハンターの場合はむしろそれまでにも増して理論性が前面に出て来る。

そういう意味では他との比較ではほとんど科学主義・技術主義的とも言える態度で、大別すれば”技”派かなとも思いますが、一方ではその技術主義は決して”心”/超自然の軽視という方向には向かっていない。むしろ冷徹に粘り強く日常的な知性との接点を探り続ける態度は、どこまで本気かは知りませんが(笑)逆にそうしたあやふやorあやしげなものの実在感を増すことになっていると思います。

・・・・(1)でもちらっと言いましたが、なんか割合まとまった古武術理論の下敷きがあるような気もするんですけどね、どうなんでしょう。


次は同様に「念」と”古武術”の香りを用いながら、違ったニュアンスで格闘ストーリーを作る菊地秀行『妖魔』シリーズを。


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工藤流「念」法 ?菊地秀行『妖魔』シリーズ 

格闘描写の「技」と「心」その4。


かなり”引き”で見ないとそろそろ何の話だか分からなくなりつつありますが(笑)、頑張って最後までやってしまいます。
企画としてはちょっと無謀でしたね。大人しく金庸と古龍の直接比較に絞っておけば。
ただ最初の表自体は割りと気に入っていて、要するにある程度普遍性のある問題だと、その感覚を味わってもらいたかったというそういうことですが。例示として適切だったかはともかく。


工藤流念法とは

菊地秀行の『妖魔』シリーズの主人公、工藤明彦が操る家伝の武術で、物理攻撃をパワーアップし、異界の生物”妖魔”への有力な対抗手段でもある。「念」自体に特定の形はないが、たいていは長年その念を染み込ませた愛用の木刀”阿修羅”を通じて放たれる。
「念」とは何か・・・・は、『ハンター×ハンター』(など)のそれと大同小異なので省略。

数多あるそのテの概念の中でこの「工藤流」で特徴的だなと感じるのは、殊更”飛び道具”や”特殊技”であるというよりは、「工藤流」という古武術の総合的な体系の中に自然当然なものとして含まれているというそういう感覚。
あくまでフィクションではありますが、あたかも古武術全般には元々そういう要素が含まれていて当然であるような、そんな風景も透けて見えます。

で、ある意味それは実際にそうであるのだろうと思って、つまり古の武道家がみんな”念能力者”だったとかそんなことはないと思いますが(笑)、本稿のそもそものテーマである「技」「心」、こうした要素が分離されることなく、どちらがどちらとも言い難い状態で理論化/体系化されている、そうしたことはあるのではないかと思います。
いわゆる現代スポーツにおける、とみに批判の多い”精神論”というのは、分離した後の断片化した一要素としての「心」を強調する立場なわけですね。

・・・・一方で最近では甲野善紀さんによる、伝説の彼方に消えつつあった古武術の「技」たる物理的な部分をあえて特定的に再現した仕事(Wikiなど)が話題になりましたが、まああれはあれで。尊敬しています。

ちなみに『妖魔』シリーズでは、正に”分離”後の現象である科学の恩恵を受けた、ズバリ「超能力者」が登場して工藤流の「念」と戦う場面などもあって、そのニュアンスの違いが面白いです。


工藤流「念」法と『ハンター×ハンター』の「念」

『妖魔』/工藤流においては、『ハンター×ハンター』のような周到な基礎理論は用意されていません。「念」は「念」として固定されて、後は強いか弱いか、木刀に乗せて使うか他の方法を使うか、あるいは直接「念」じて注ぎ込むかというそういう描写があるだけ。万能化・ご都合主義というよくあるパターンに陥っている部分もないとは言えないですし。
そういう意味では平凡かもしれませんが、実際はどちらかというと『ハンター×ハンター』が非凡過ぎるのだと言うべきだと思います。

ただメインである愛刀”阿修羅”を用いた格闘描写はなかなか本格的かつ機知に富んでいて、「念」抜きで普通に優れた現代の剣豪小説として読むことも可能だと思います。
そしてその剣術/武術についてのディテールの豊かさが、結果的に「念」の威力の身も蓋もなさ、説明不足を補って、一定のリアリティを与えることに成功しているとそういうことは言えるのではないかと思います。「剣」の理≒「念」の理、という感じで。

とはいえ「念」が「念」として特権化されていること、それが物理法則には従わないかあるいは確たる法則性を持たないようにも見えてしまう神秘主義、または単に無頓着さ(笑)は、『ハンター×ハンター』の(擬似)”科学性”と比べると僕の分類では「心」派寄りに分類せざるを得ないと、そんな感じです。

・・・・印象としてはこれで結構”科学的”なんですけどね。ただ言語的にこれという説明はちょっと取り出し難い。ここらへんはあえて言語化するモチベーションの大きな源であるだろう、『ハンター×ハンター』の”ゲーム”の戦闘システム性というものの特殊事情が際立つ感じのところだと思いますが。


次は身も蓋もない代表(笑)の『ドラゴンボール』&”気”を。


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「超能力」&「必殺技」と「精神論」 ?特記事項の2 

参考、特記事項の1

ちょっと小休止。
我ながらどうにも分かり難いところがあるので、もう一回概念の整理をしてみます。


前提1:「技術論」と「精神論」

”格闘描写の「技」と「心」”ということで始まったこの企画。
基本的には『「技術」に傾斜した”過程”の逐次的描写に重きを置くスタイル』と、『「精神」に傾斜した”結果”の事後的意味付けに重きを置いたスタイル』のコントラスト(または分布)を示すことを目的としています。
こうこうこうだから勝ったのか、勝つべき人物だから勝ったのか。

前提2:「気」や「念」と「精神論」

「気」や「念」に代表される、格闘もののにつきものの”超”能力的ターム。
それらは確かに「技」の一つではあるわけですが、一面では通常の「技」という次元を越えるものであり、しばしば形勢逆転の道具立てとして用いられる。
そしてそれらの力の根拠としては、用いるものの「心」、精神力が当てられることが非常に多い。だからそうした”超”能力は、話を派出にする飛び道具であると同時に、強弱や勝負の行方に精神性を反映させたいという書き手や読み手の願望実現の手段でもある。


・・・・ここから本題、または新規トピックス。

前提3:「超能力」と「必殺技」

そうした”超”能力とは別に、いわゆる「必殺技」の類も格闘ストーリーにはつきものである。
それらは歴史的由来や科学的根拠が示される場合もあるが、多くは、または展開が進むにつれてエスカレートし、たいていは説明放棄のご都合主義に帰着することが多い。
どちらかというと「必殺技」のくくりの中に「超能力」もあると、そういう分類が妥当な場合が多いように思いますが、ともかく両者は似たような性格を持っている。

前提4?1:「必殺”技”」と「技術論」

当然「必殺技」も「超能力」同様、形勢の逆転に用いられることが多いわけですが、特に”説明放棄”の段階に至った必殺技は、”技”とは言うものの実際にはむしろ通常の「技術論」的文脈の破壊・逸脱であることが多い。

前提4?2:「必殺”技”」と「精神論」

また、でもあるし、だから、でもあるわけですが、「気」や「念」ほどではないにせよ、「必殺技」の類も直接間接に、使い手の「精神」を拠り所・理由付けにしている場合が多い。
あるいは”頑張ればどんな(荒唐無稽な)技も可能だ”という意味で、根底に精神論的願望があるとも言える。


結論。

前提5:「超能力」&「必殺技」と「精神論」

というわけでケースバイケースではありますが、「超能力」も「必殺技」も、共にある種の「精神論」的願望/世界観の、格闘描写における道具立ての一つとして、同一視することが可能である。


・・・・まあ一つの整理の仕方なので賛成反対は別にいいんですが、ともかくこういう枠組で語っていますよとそういうことです。
つまり『ハンター×ハンター』『ドラゴンボール』という名前を挙げた時に、いわゆる”少年漫画/ジャンプ的”な「必殺技」至上主義的格闘描写のことを思わないのは不可能だと思うので、”「気」や「念」の話”という以上の整理がちょっと必要かなと思いまして。

では今度こそ『ドラゴンボール』編。(笑)


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格闘漫画としての『ドラゴンボール』 

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格闘描写の「技」と「心」、その5。

そもそも「格闘漫画」なのかという疑問はともかくとして。(笑)
以下、限りなく単なるドラゴンボール語り。


初代ピッコロ戦・舞空術・スペック

個人的には、『ドラゴンボール』が格闘漫画として本当に面白かった、または実体があったのは、だいたい初代ピッコロ大魔王戦あたりまでかなあと思っています。
勿論その後も楽しく見てはいましたが(アニメメイン派)、それは主にキャラの魅力やお約束への愛着によるもので、戦闘そのものはどんどん抽象的&大味になっていって、一時の緊張感は失われて行ったように感じました。

・舞空術という”飛躍”

その原因またはきっかけとして、まず挙げたいのは「舞空術」の習得&汎用化です。こちらで確認したところ、時期としては2代目ピッコロ(マジュニア)戦あたりということですが、ともかく初代ピッコロ戦は”舞空術以前”最大最後の戦いと位置付けられるわけですね。

舞空術以前においても、ジャンプ力の描写とかは既に人の域を越えていて、空でも飛びそうな勢いの大げささではあったけれど、実際には飛べなかったわけです。それを如意棒の伸縮やカメハメ波の発射反動などでいちいち補うその苦労、その中に創意工夫があり、機知があり戦略性があり、一見お気楽な法螺話の中にも「格闘漫画」としての一定のリアリティがキープされていた。

だからこそ初代ピッコロ戦のクライマックス、カメハメ波の発射反動を利用しての悟空の体当たりパンチによって腹に大穴を空けられ、ついに無敵を誇ったピッコロ大魔王が倒れる描写にも、実にリアルな衝撃力と凝縮された万感の想いが感じられたのだと、そのように思うのですが。
作者自身もそれ以前に随所で(舞空術以前のほぼ唯一の飛行ツールである)筋斗雲を使えなくする設定を登場させて、そうした”縛り”を意識していたフシはありますよね。

「舞空術」そのものは恐らく数あるニューアイデアの一つとして導入されたものに過ぎないんだろうと思いますが、結果的に”格闘家”の世界を”スーパーマン”の世界に変質させる、タガを外す一歩になっ(てしまっ)た面は大きいと思います。
『大げさ』が『荒唐無稽』に”飛躍”してしまった瞬間と言うか。筋斗雲の立場はどうなるという哀しみも含めて。(笑)

・スペックの限界性の問題 ?マジュニア、界王拳、そしてスーパーサイヤ人

初代ピッコロがあれほど恐ろしかった理由は、やはり「魔族」という異種性、それによるスペック/基本性能の違いというのが、当時まだリアルにショッキングであったからだと思います。そりゃ悟空には尻尾が生えてましたし、天津飯には目が3つありましたが(笑)、それでもそれまでは結局は「人類」の範疇の戦い、(通常の意味の)天分と修行の成果の比べ合いのレベルの話であったわけです。(そして勿論戦略と)

・・・・確かに悟空の「大猿」という特例はありましたが、あの制御不能性、別モノ性は、逆に通常モードでのスペックの限界を示す縛りであったとも言えるわけで。

それがピッコロ大魔王戦後からは徐々に崩れて行きます。(年表
印象としてはまずは2代目ピッコロ”マジュニア”の扱い。確かに強いことは強いんですが、お行儀良くも天下一武闘会になんて出て来て悟空たちと”好勝負”を繰り広げて、「魔族」の威光はどこへやら、単なる”肌が緑色のちょっと変わった人”というそんな存在感。(笑)
後の”改心”なんかそれに比べたら大したことではないような気がします。

そして勿論、続くサイヤ人&フリーザとの戦いの中で登場した「界王拳」や「スーパーサイヤ人」というズバリ”スペック拡張技”。
地球を飛び越えて宇宙人たちとの新たな次元の戦いのムードを醸し出す上で抜群の効果をあげたとは思いますが、結果的にその後の次々現れる強敵たちとの戦いの実相を、要するに半ば機械的なスペック拡張競争(”スカウター”なんてのもありました)、後出し的強さの無限インフレに単純化するそうした禁断の一歩でもあったと、これはまあ多くの人が思うところでしょう。

「格闘漫画」としての『ドラゴンボール』の命脈は、事実上これによって尽きてしまった。


(補足)『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』

やはり書いておきましょうか”そもそも『ドラゴンボール』は「格闘漫画」なのか”問題。
つまりその前の出世作『Dr.スランプ』における主人公アラレちゃん、そのギャグ漫画らしい身も蓋もない、リアリティも脈絡もクソもない”最強”さ、その”力”が振るわれる瞬間の不条理な快感、あれを拡張したものが要するに『ドラゴンボール』なのではないかということ。

言い換えると鳥山明先生の本領は”戦い”を描くことではなくて”強さ”の表現なのではないか、そういう意味ではフリーザ、セル、ブウといった敵キャラの造形の恐ろしいまでのキャッチーさも含めて、「格闘」としての実体は失われても毎度馬鹿馬鹿しくもワクワクさせられるキャラたちの(スペック主義的な)”強さ”の表現は申し分なく成功していると、そういう風にも見ることが出来るわけで。

まあ要するに初代ピッコロ戦あたりまでの『ドラゴンボール』の「格闘漫画」としての例外的な充実を懐かしくも惜しむと、そういうことにしてもいいですが。


・・・・しまった、本題に入れなかった。(笑)


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格闘漫画としての『ドラゴンボール』(つづき) 

気円斬

前回
本題、ですがさほど気乗りしない(笑)。「技」か「心」か


通常戦闘について

前回述べたように時期によってニュアンスは違いますが、しょせんアラレちゃんの豪腕一振りとさして変わらない次元で展開される(笑)ドラゴンボールの「格闘」に、”技”というほどのものは本来存在しません。
要するに「速いか」「強いか」(「つおい」と表記した方が正確かも・笑)の見せっこであって、そしてそれを決定付けるのは問答無用のスペックの差。

そのスペックが際限もなく後出し的に拡張していって単調になったという話を前回したわけですが、おかげでなんかある時期からどんどんパンチやらキックやらの一発一発の意味が抽象化していって、何やら神話の神々の戦いの話のような、ゼウスのいかずちかトールのハンマーか、はたまた下野(しもつけ)二荒山神が上野(こうずけ)赤城山神に放った矢かてなもんで、通常の意味での”技”としての特性などはどっかに飛んで行ってしまいます。

見かけはえげつなくてある意味即物的な描写ではあるんですが、実質的には超常スペックを背景とした超常戦闘、通常戦闘に見せかけた”必殺技”合戦に近い、そういう性格のものだと思います。


”必殺技”について

一方でドラゴンボールにはカメハメ波を筆頭とする、そのものズバリの”必殺技”も多数登場しますが、実はさほど印象に残っていないというか、決定的な要因ではないというところがあります。技自体が本当に”必殺”なのは、それを出すか出さないかが展開を決定的に左右するのはかの「元気玉」くらいなもので、後は生命の危険と引き換えにともかく足止めは出来る天津飯「気功砲」や、実力差があってもとりあえず”斬る”ことは出来る(これについてはむしろ世界観が壊れて気持ちが悪いように僕は思うんですが)クリリン「気円斬」とかが目立ったところ。
「太陽拳」とか「魔封波」とか、特殊技はまあ別格で。

他にも色々ありますが、なんかどうでもいいというか扱いが雑というか、なんだよ魔閃光って突然とか、ビッグバンアタックって名前がダサいから使わない方がいいと思うよベジータとか、そんな感じ。
ただだから駄目とかそういう話ではなくて、むしろこれは『ドラゴンボール』の特徴、仕様と、そう言った方がいいんでしょうね。”ジャンプ系バトル漫画”の代名詞的存在ではありますが、ドラゴンボールそのものは必ずしも”必殺技”に全てを収斂させる単純な構造にはなっていない。『リングにかけろ』のようには、『キャプテン翼』(バトル漫画でしょ?これ)のようには。

・・・・ていうかむしろ後年になると”必殺技”使用時の方が運用や戦略の妙が際立つというか逆にリアリティがあるというか、そんな気もするんですが。最初から抽象的、一種の「記号」であるのがはっきりしているのがいいのかなと。


「気」とか、「心」とか

ここらでまとめに入ります。
「カメハメ波」「元気玉」以下、ほぼ全てのドラゴンボールの”必殺技”の元となっているお馴染み「気」については、類例に漏れず気は気だというだけで特段の説明はありません。
効果としても、元気玉やハマった時のカメハメ波のように相手を消滅させる(溶かす?)といういかにも”必殺技”然とした表現の時もあれば、一方で力関係によっては普通に跳ね返されたり効かなかったり、通常の物理攻撃と同様の描写をされる場合もあります。

はっきり言ってここらへんは特に整理も理論化もされてないと思うので、個別のシーンを下手に「研究」するとかえって分からなくなるだろうと思いますが(笑)、要するに「強いものは強い」「『気』合いで勝れば勝つ」というそういう大雑把な感覚(前段落の後者みたいなもの)で作られてるのだろうと思います。

評価としては難しいんですよね。
格闘描写の抽象性や強さの表現の運命論的とも言える問答無用性は、「精神論」や「根性論」のようなそういう土壌にあるものだと思います。
一方で「気」とそこから来る”必殺技”が必ずしもそれ自体としては決定的な要素ではなく、通常攻撃同様戦闘を構成するいち要素としてある意味平準的に使われるのは、むしろ「技」派よりの現実主義的性格だとも言えるかもしれない。

最終的には技術性や物質性をより厳密に、狭義にとって、”「気」の概念によりかかったスーパーマンと超能力のバトルストーリー”という、いささか今更な(笑)レッテルを『ドラゴンボール』に貼り直すことによって、かなり「心」派の極に振れた位置付けを与えてみたんですが。
でもそれ自体としては神秘主義的な馬鹿げたレベルのものだとしても、スペックの差こそが決定要因だという非情さはまったく「精神論」的ではないですしねえ。ううむ。

ま、あんまり気にしないで下さい。(ええー)


次は一転して趣を変えて・・・・にも程がある(笑)吉川英治『宮本武蔵』を。


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宮本武蔵の「技」と「心」(1) 

宮本武蔵〈7〉 宮本武蔵〈7〉
吉川 英治 (1990/01)
講談社

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かなり反則気味ですが、「心」派の宗匠吉川武蔵編については、文庫版(七)(八)の解説における、樋口謹一氏による国民的金字塔吉川武蔵(’35?)とその後のカウンター作品とのコントラストについての評論を、そのまま抜粋して代用することにします。

それは一つには再読してみた吉川武蔵(初読は中学生かなあ)が、今更論ずる意欲の湧かない、いかんせん古臭い、時代と寝た作品に感じられたこと。
そしてもう一つは、こっちの方が重要ですが、その独特の精神主義的スタイルをめぐってその後の作家がそれぞれに意欲的に自分なりの武蔵像を描こうと努力していて、それについての樋口評論がかなり読み応えがあり、はっきり言うと今回の企画で僕がやろうとしてやり損ねた(笑)ようなことをお手本的に成功させている、そういう評論のように見えるからです。

ぶっちゃけ吉川武蔵以外の引用作品は僕は一つも読んでいないので、樋口評論の解釈が正しいのかどうかとか全く責任持てません。ただテーマを扱う手腕と、僕が取り上げたようなテーマが実際に創作に当たる作家たちの中でどのように表現されているか、そこらへんの活写を見る/想像するのが面白いなというそういうことなので、話半分でどうぞ。

まずは「技」派、または「技と心の分離」派の面々。
(つまりそれに対する吉川英治は「心」派、または「技と心の同一視」派なわけですね。代表的には”剣禅一如”という、作中武蔵に語らせている言葉。)



村上元三 『佐々木小次郎』 (’49?)

剣を通して自分を完成させるなどということは、小次郎には、あまり意欲の起きないことであった」


これだけ見ると精神主義の否定のようですがむしろ逆。

「自分が徹し切れるのは、このだけだろうか。それより前に人間としてよく生きる、というほうが大事ではないか」


問題とされているのは剣と精神、技と心の乖離の方。

吉川・武蔵にとって剣と人生は相即するのに対して、村上・小次郎にとって剣と人生は背反する




五味康祐 『二人の武蔵』 (’56?)

作州の平田(新免)武蔵と播州の岡本武蔵(たけぞう)。二人それぞれの師匠はいずれも「邪剣」「殺人剣」「覇道」の剣の持ち主(以下略)


作品自体はこの二人の”武蔵”が後代伝わる”宮本武蔵”として事跡を合成されて行く過程を追います。

この二人に佐々木小次郎がからむ。(中略)
(小次郎)は、「武芸は兎角殺伐なもの」、さればこそ心して、「花やぎ」を求め、「色の剣」を旨とし、(以下略)

これに接して岡本(たけぞう)は、「武芸の巧者よりは人間の味の深さに心惹かれてならぬ」


「心」派の小次郎、「技」派の武蔵。吉川版の逆。
その後様々な行きがかりから、小次郎と岡本の方の”武蔵”は巌流島の決闘に導かれます。

岡本の立場に同情を禁じえない小次郎に対して、自己の原点である殺人剣を無意識裏にふるった岡本は勝った(以下略)


巌流島の勝負に「道」はかかわりをもたない、決め手は「技」のみ。




柴田錬三郎 『決闘者 宮本武蔵』 (’70?)

”決闘者”は勝つための「業の工夫」に生死をかけるが、これを支えるのは天性の「業力」(ごうりき)である。


(武蔵だけでなく)小次郎も業力盛んな(中略)美青年、女は犯すものと花を散らしつづけ(略)
その小次郎も、巌流島直前ある女性を愛して業力を「減らし」ている。


樋口氏はさらっと流していますが、これだけの記述からもどうも僕には柴錬の言う「業力」は、僕がこのシリーズで取り上げてきた「気」「念」と通じる「心」の代替概念、物質的比喩の一種という性格を包含しているもののように見えます。ただの「業」とは違う。(「業」自体も「技」とは区別されてるのかも。)
これくらいの年代になると、要するに僕ら現代の読者/作者同様、「心」を原因・決定因として描くのにはそれ相応の仕掛け・苦心が必要なのかなと。

試合では、「海面すれすれにかくれている岩」の上に突然あがって「姿の巨大さ」で小次郎を「威圧」した武蔵が、長剣「物干竿」より三十センチも長い木太刀で相手を倒す。要は業力の差に支えられた業の勝利である。


従ってこの描写も単なる「技」による「心」に対する勝利ではないのではないでしょうか。
それより一つ上の次元の話。

それが証拠に・・・・

その直後、武蔵は「唯一の弟子」養子の伊織と試合する。伊織の剣は「正しい剣」、沢庵や柳生の奉ずる剣である。それは、武蔵に言わすと、政治にかかずらわって「業が衰え」て剣を捨てざるをえなくなり、「無刀」などという「屁理屈」をこねるものだ。

(その伊織に半ば偶然敗れて)頭への打撃で「業念を喪失」して(中略)「尋常の人間」に堕した武蔵は以後大試合をせず「無為の生涯」で終わる。「五輪の書」以下武蔵の著はすべて伊織の作で、「道」の剣の立場からのものと柴田はする。


「業力」「業念」という形に昇華されない「心」「道」は、やはり剣術においては抽象的で非現実的なものである。
そういう意味で吉川武蔵に対して柴錬は批判的ではあるが、だからといって単なる技術主義ということではない。


・・・・最後はかなり読み替えてしまいましたね。(笑)
だってあんまりおじいちゃんなんだもの。(執筆当時既に京大名誉教授)
次はもう一度樋口氏の文脈に戻って、「総合」派の司馬遼太郎編


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宮本武蔵の「技」と「心」(2) 

宮本武蔵〈8〉 宮本武蔵〈8〉
吉川 英治 (1990/01)
講談社

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(1)より
七巻の解説で紹介された「技」派の面々の次は、八巻の解説より「総合」派の司馬遼太郎。


司馬遼太郎 『(真説)宮本武蔵』 (’67?)

一度短編として書いた『真説』を、新たに中編『宮本武蔵』として書き直した作品。
「技術の小次郎」「精神の武蔵」という吉川英治の構図を踏まえつつ、それを再解釈して別の枠組に組み替えて行く作業。

両極に立つ兵法の対決である。
武蔵から見れば、小次郎の兵法の「特質は技巧主義と速剣主義」で「普遍性にとぼしい」。
小次郎の「流儀の中核」たる燕返しは、速さだけの「けれん」「曲芸」で、「兵法を反射に尽きる」とする「技術至上主義」である。「ときに太刀はゆるやかでもよい、むしろゆるやかなほうがいい場合も多いであろう」と武蔵は考える。


ここ凄え突っ込みどころ満載なんですが、本題から外れるのでまたの機会に。

武蔵にとって「兵法修行の眼目」は「間合いの見切り」である。間合いとは「敵の太刀さきと自分との距離」で、これを「見切ってしまえば敵に負けることはない」。「間合いは一寸が理想」で、このぎりぎりの間合いを見切る「理法」を、武蔵は巌流島で「実証」する


具体的には

三尺一寸二分の「物干竿」より一尺長い四尺一寸八分の木刀を「天秤棒でも肩にかつぐようなかっこう」で構え、小次郎には「木太刀の長さの見当がつかぬ」。しかも、かの「勝つつもりなら鞘を捨てまいに」の一言の「調略」に乗って「怒気」にかられた小次郎は、「(通常兵器による常識的な)間合いのみに気をとられ、武蔵の持っている兵器(うちもの)に注意を払わなかった」。要するに相手の「間合いの感覚を崩す」のに成功した武蔵が勝利する。

以上の絵解きは、たしかに吉川のように「技や力の剣」にたいする「精神の剣」の勝利とするよりは理解しやすい。



・・・・まずは大司馬が、こんなに剣術の細々としたことに興味があったというのが軽く驚きですが。先生も男の子なのねというか。(笑)
更に言うなら見たところこれは結構粋な”趣向”で、確かに吉川の古典を現代化してはいるんですが、さりとて実証研究そのものではなく、吉川も典拠した『五輪書』などの史料には目を通しつつしかし事実というより吉川が描いた小説上の「宮本武蔵」「巌流島」を、想像や虚構が含まれているのは承知であたかも事実であるという”態”で、しかし論理/説明としては吉川のとは違ったより厳しい合理性で書き換えて見せたという、そういう仕事なんだろうと思います。

ある意味ではそれこそこういう『ドラゴンボール考察サイト』とか、ネット上に数多あるそのテの書き物と共通するところの多い仕事かと。オタクーっ。(笑)

それはそれとして上の司馬遼太郎の「絵解き」ですが、(「技」と「心」という視点から)要するにどういうことかと僕なりに解説してみるとこうです。

(1)まず小次郎の技術至上主義の中身を、「速さ」「反射」という形で確定/限定する。
(2)次に武蔵の剣法の真髄として「間合い(の見切り)」を挙げるが、これは小次郎のそれとは違うものの、”距離”という物理概念に根差した武蔵なりの”技術”論(「理法」)である。
(3)一方で「間合い」は距離そのものではなく、それをどう捉えるかという使い手の内面やコンディションに左右される認識作用、”心理”でもある。
(4)巌流島における両者の対決では、小次郎の”心理”を撹乱することによって「間合い」という”技術”で優位に立った武蔵が、かつ武器の長さという絶対単純な物理の裏打ちをも得て勝利を収めた。

・・・・という筋書きかと。

「技」「心」が勝った、わけではないが、「心」という要素をも加味・包含した、より包括的な武蔵の「技」が小次郎の狭い浅薄な「技」に勝ったと、そういうこと。
要は2種類の異なる技術体系の対決だとも、見方によっては心と技の対決だともそうも言える折衷的・総合的なまとめ方。


(まとめ)
気がつくと吉川武蔵そのものについて直接的には全然語っていないわけですが、なんていうか語ることがあまりないんですよね。
ここまで紹介したような吉川武蔵への様々なカウンターも、吉川英治の「見方」に反対だというよりも、むしろ吉川英治の「見方」の不在、はっきり言えば描写や説明の態をなしていないことに対する苛立ちというそういうニュアンスを強く感じます。

読んでいると部分的には、本題に関係ないところではポツポツと具体的だったり面白かったりする描写もなくはないんですが、結局は何も言っていないというか、書くと見せかけて書いていないというか、いつの間にか精神論や社会論の方になし崩しに滑って行って終わっているというそういう感じ。
それはそれで内容的にはありだと思うんですが、いくら何でも別の話じゃないの?という。

まあ根本的なことを言えば「剣豪小説」ではないのでね、「剣豪について書いた小説」ではあっても。力点が最初から違うと言えば違う。五味や柴錬と比べてはという面も。
ただ描いてるからには逃げられない、ところもあるわけで。(ここらへんはこれを”原作”とした井上雄彦『バガボンド』にも微妙なところがあると思いますが、これもまた別の機会に。)


・・・・とりあえず老人いじめ、欠席裁判はこれくらいにして(笑)、ついにラストの古龍編


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ただひたすらに速い剣 ?古龍(1) 

陸小鳳伝奇 陸小鳳伝奇
古龍 (1999/02)
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格闘描写の「技」と「心」の7。ラスト。

香港の金庸と並び称される、台湾武侠のエース古龍の格闘描写の特徴。


速さと技術

宮本武蔵との対照においての佐々木小次郎については、”技巧主義と速剣主義”という形で技術主義・物理主義の一側面として挙げられていた「速さ」ですが、一般にフィクション上では時にそれの度を越した強調が、ディテールの消滅、技術性の否定に繋がっている場合も少なくありません。

分かり易い例で言えばやはり『ドラゴンボール』、レベルの上昇はまず何をおいてもスピードの爆発的向上として表現され、そこに差があるととにかく当たらない、よけられない、そもそも見えない、話にならない。
別な言い方をすれば攻撃が当たるかどうかは徹頭徹尾スピード/速さにかかっていて、そこに打撃の「技術」だとか「間合い」だとか、そういう複雑微妙な要素は存在しない。それがドラゴンボールの格闘世界。

あるいは後でまた述べる西部劇の”早撃ち”なども、しばしばあるレベルを越えてほとんど神秘的な超人の世界に足を踏み入れ、通常の射撃技術のリアリティや駆け引きなどはどこかへ放り出され、「念ずれば勝つ」みたいなニュアンスのものになったりします。


古龍の”剣術”

多種多様な武器・武術や拳法などが活躍する金庸とは違って、古龍の武侠世界は圧倒的にほぼ剣(及び刀)のみで構成されています。(読めた物は限られてますが、多分)
そしてその剣の巧拙・優劣を測る/表現する基準として古龍が用いるのは、ただ一点「速さ」、「どちらの剣がより速いか」です。勝負も一瞬でつきます。お約束のように丁丁発止と渡りあったり、柔が剛を、遅が速を制したりする多彩で饒舌、遊び心豊かな金庸のそれとは全く違います。

真に潔い(笑)ですし、実際シンプルな分鮮烈ではあるんですが、それが古龍なりの格闘理論だ格闘描写に対する哲学だと言ってしまうと、少し違う気がします。
そうではなくてむしろ古龍は実質的には格闘描写をしていない、(上で述べたような)「速さ」の全面的強調によってディテールを無化して、通常の意味での”格闘描写”を回避してしまっている、それが本当のところだと僕は思います。

理由としては一つは本来は(日本で言うところの)純文学を志していた人で、行きがかりで武侠小説なんてヤクザな世界で成功してしまったものの(笑)、必ずしもこのジャンルに愛情を持っていない、ディテールに浸るモチベーションがない。簡単に言うと武術なんて興味がない
ここらへん子供の頃から前身ジャンルを愛読していた金庸とは対照的なんじゃないかと想像しますが、そこから更に単純に知らない、細かいことを書くとボロが出る(笑)、間違っても金庸のようなもっともらしい素敵な大嘘は書けない、そういう事情があるのではないかと。

勿論もっと内的美意識的な理由とかもないことはないんでしょうが、ぶっちゃければこういうことなんじゃないかと、僕は読んでいて感じました。「剣」「速さ」、それに単純化することでガードを固め、他の部分で思う存分自分の表現を行なう。


・・・・”早撃ち”と”早刺し”編につづく。


”早撃ち”と”早刺し” ?古龍(2) 

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西部劇の”(拳)銃”と古龍の”剣”

上の『辺城浪子』(1)の紹介文には、「チャイニーズ・ウエスタン!」などという文字が躍っていますが、確かに古龍の世界にはそういう表現が似合う要素があります。
吹き抜ける風の音が聞こえそうな荒涼とした風景。肩寄せあって生きている自存自衛の閉鎖的な人々。それぞれに過去を背負った口数少ない男たちが、半ば出会い頭に繰り広げる血なまぐさい決闘。(勿論勝負は一瞬)
ちなみに金庸の場合は、「中華ヤクザの出入り」とか言われちゃいます。(笑)

また古龍の”剣”(刀)一筋には別の特徴がありまして、それは「斬る」よりも「刺す」ことに重きが置かれていること。これは同じく”速い剣(刀)”であっても、日本流の『居合い』(斬り)などとは違う点でもあります。
勿論古龍でも普通に斬ることはよくありますが、それはどちらかというと日常的な次元の戦いの場合が多く、剣客どうしが改まって雌雄を決する場合はたいていはいかに速く相手を刺し貫くか、そこに両者の・・・・というか作品世界自体の焦点が暗黙の内に集中して行くというそういう強い傾向があるように思います。

古龍世界最大絶後のヒーロー”小李探花”(『多情剣客無情剣』)の得物が「飛刀」、つまり投擲用の短刀で、刀とはいうものの刺す以外の使い道が無いのが一つの象徴ですが。男の戦いは黙って刺す。

こうした武器観念は中国における刀剣自体の実際の技術体系に由来するというよりは(多少はそれもあると思いますが)、古龍個人の”戦い”に関する生理や美意識に根差しているように感じられます。
冒頭に挙げた「ウエスタン」風味と合わせると、要するに西部劇のガンマンたちが銃を使うように古龍の剣客たちは剣を使っている、銃弾を”撃ち込む”かわりに剣先を”刺し込む”、そういうことなのではないかと思うんですが。


銃と剣の違い ?古龍の格闘描写の不可能性

しかし銃と剣には当たり前ですが、無視出来ない違いがあります。
銃ならば弾は常に真っ直ぐ(厳密には違いますが五感のレベルで言えば)に飛び、何メートル何10メートルの互いの距離をものともせずに一瞬の内に(これも厳密には違いますが)相手に到達し、狙いさえ正確ならば誰が撃っても確実に急所を射ち抜いて致命傷を与えます。通常の装備では基本的に防御も出来ません。シンプルなものです。

刀剣の場合はそうはいきません。距離が離れているならば自分の足で体を運んで腕を伸ばして武器を相手に届かせなければいけませんし、届いたとしても反らしたり抑えたり最悪急所以外を差し出してかばったり、いくらでも邪魔することは出来ます。
言い替えると「狙う」という意思と「急所を刺し貫く」という最終結果の間に、膨大な過程が挟まっているわけです。普通に刀剣本来の限界性を受け入れて使うならともかく、一撃必殺の便利な道具として銃の代わりに使うには、実際には相当な無理があります。闇討ちならまだしも特に決闘では。

そこを敢えて押して”銃的”に剣を使うことによって、古龍の格闘描写は単に「簡潔」というレベルを越えた極端な省略、無描写無説明という特徴を持つことになります。
例えばこんな感じ。以下全て『辺城浪子』から。

弧を描いた刀光が、傅(フ)紅雪の左頚部の大動脈へ斬りこむ。
傅紅雪は避けも受けもしなかった。
いきなり踏み込んだ。
左手の鞘が、がっきと湾刀を遮り、刀身も抜けた。
どすっ。なんぴとにも形容しがたい音。
公孫断自身にすら、何の音か分からなかった。
痛みはなかった。ただ、胃の腑が急に収縮したのを感じ、吐き気を覚えた。
公孫断はうつむいて、おのれの腹に刀の柄を見た。
漆黒の柄。
柄だけを残して、刀身は腹に丸ごと没していた。


”刀身”が”抜けた”後、具体的に要するに何が起きたのかは、公孫断は勿論、傅紅雪や古龍に聞いても分からないだろうと思います。


咆哮とともに突っ込んだセツ大漢の五十三斤の大斧が、一陣の狂風と化した。
花が薙ぎ払われ、刃風に乱れ飛ぶ。そして、ふいに風の唸りが止み、ひらひらと花びらが舞い落ちてきた・・・・・・。
斧を高々と振りかぶったまま、仁王立ちのセツ大漢は微動だにしない。
傅紅雪は斧の真下にいた。刀が漆黒の柄を残して、深々とセツ大漢の心臓を貫いている。


途中の互いの位置関係すらさっぱり分かりません。
次は集団戦闘。


稲妻のような刀光が、練り絹の尾を引いて乱れ舞う。
刃の噛み合う音はなかった。傅紅雪の刀を遮れるものはいない。
聞こえるのはただ、悲鳴、絶叫、刀が肉を割りつけ、骨の砕ける音・・・・・・
いずれも肝を潰し、吐き気をもよおす音ばかりだ。


ちょっと009が加速装置を使った時とかをイメージしてしまいましたが。(笑)
ちなみに刃を折る目的でもない限り、基本的に古龍の剣戟で刃と刃が「噛み合う」ことはまずありません。剣を振るう行為が具体性を帯びるのを、黴菌のように忌避している感じです。


無言で抜き放った剣が、虹の尾を虚空にたばしらせて、傅紅雪の喉を突く。(中略)
傅紅雪は避けも受けもしない。いや、身ごなしさえ目にとまらなかった。
馬芳鈴が見たのは、稲妻のような光だ。
刀光一閃!緋牡丹の花弁が開くように、鮮血が丁霊甲の肩からしぶいた。


相手(丁霊甲)も相当な達人なんですが、作者に抵抗を禁じられているのでいかんともし難いのです。(笑)


「速いから」と言えばそれまでですし、一つ一つは見事な象徴表現ではあるんですが、こうして並べると”作風”として正当化された、ある種の「手抜き」が常態化しているのが分かると思います。

これは余談ですが、よく古龍の(金庸に比べた)”モダン”さを表現する言葉として「映像的/映画的」というような言い方がされるんですが、実際には古龍の描写をそのまま映像化するのは不可能だと思います。
どんな凄い/大げさな技でも(金庸が描くような)、時系列に沿ってそれなりに描写されていれば、後は多少補完しながらワイヤーでもSFXでも何でも使って撮れなくはないわけですが、古龍のはなんかそれ以前。肝心な部分は異次元で行われている(笑)。少なくともワンカットでは絶対シーンが成り立たないと思います。

前回書いたようにこうした描写スタイルの背景には、古龍の言ってみれば武術オンチが存在しているのではないかと僕は疑っているわけですが(笑)、しかし一方ではそれは古龍一流の狙いであり、またそこから他に類を見ない「技」と「心」の独創的で感動的な融合が達成されていると、次にそのことを書きます。


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古龍に苦戦中 

シリーズ格闘描写論

いやあ、古龍難しい。
ほとんど”核”のみで出来あがっているような人なので、「格闘描写」について書いているつもりが気が付くとどうしても「作品論」そのものに拡大して行ってしまって、収拾がつかなくなるんですよね。(前回もちょっと筆が滑ってます。)

その点金庸はいいです。枝葉は枝葉で茂り放題で、簡単に摘み取れる(笑)。・・・・ていうか、ほとんど”核”がないようにすら見えるところのある人ですよね。

そんなことはないんだろうとは思いますが。しかるべき舞台が整わないと本気を出さないだけで。手続きで処理出来てしまうものはそれで処理する、”核”の出番がないならそれはそういうことで、無理に燃えたりはしない。
多少単に腰が重いというか、本気の出し方が分からないような体質的なところも感じなくはないですが。


ただ古龍もですね、改めて読んでいると”核”に見えたのが実は”皮膜”?、”幹”と見せて単なる太目の”枝”?みたいなところも見えて来たり。
”核”が剥き出しになっているというよりも、”核”と”皮膜”の区別のない、金庸とは別の意味で形式的なスタイルなのかなとか思えて来て。

俺騙されてた?あんないかにも素直ないい人に?、みたいな。(笑)
何とか意地でさっさと蹴りつけたいですが。


以上泣き言でした。頑張ります。


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格闘描写の技と心

ちなみにこのエントリーは”古龍編(3)小李飛刀に仕損じなし”を上書きする形で書いています。
つまり(1)(2)はそれなりに書けていると思いますし、論旨も有効だと思いますが、(3)以降はちょっと違うデザインで書き直す必要があるというそういう結論。

いくつか目算は立ってますし、凄く単純な答えなら既に持ってるんですが、どうも単純過ぎて騙されてる気がしてしかたがないので(笑)、色々考えが落ち着くところに落ち着くまで放置。後はよろしく、無意識さん!みたいなそういう感じ。
いずれ「続き」として書くか、「古龍論」として別に書くか、はたまた「金庸と古龍の比較論」にするか。まあ金庸(の格闘描写)自体ももう一度ちゃんと見てみたいと思いますし、古龍も読んでないのありますし。


というわけでしばらく格闘描写論については忘れてもらって、今後の予定としてはまずはまだ読み終わってなかった『完訳 水滸伝』の読み切り&総評、そしてその後に金庸レビューシリーズに復帰というそういう感じ。

僕の鳴り物入りの(笑)紹介で初めて古龍に興味を持った人がいたら、中途半端で申し訳ありません。
先に(2)で『辺城浪子』について紹介してしまいましたが、順番としては紹介し損ねた『多情剣客無情剣』(↑)を先に読んで、その後『浪子』にかかるというのが内容の時系列的にはオーソドックスです。
逆に『浪子』で英雄たちの伝説に少し触れて、その後『多情』で本格的に見ゆるというのもそれはそれでオツな気もしますが。


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