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「竜の封印 ?神の系譜1」西風隆介 

神の系譜〈1〉竜の封印 神の系譜〈1〉竜の封印
西風 隆介 (2000/04)
徳間書店

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西風(ならい)と読むそうです。いかにも何か由来がありそうなPNですが。
筒井康隆・高橋克彦・南山宏と、豪華キャストの推薦者を引っ張り出しての徳間の大プッシュもけたたましい伝奇SFミステリー(?)ですが、本人は割りと飄々とした感じで好感が持てました。1955年生まれとそこそこお年ですが、少年少女の描き方なんて凄く伸び伸びした感じでいいな・・・・とは思いますが、逆にこれは古い描き方か、あるいは距離感があるから出来る描き方なのかなとも少し。売れてんのかね、よく知らん。

ノベルズ版のその”賛”つきの装丁を見て即座に連想しましたが、明らかにウブメでデビューした当時の京極が意識されていて(少なくとも売り手が)、内容的にも彷彿とさせる、あるいはいかにも”京極後”を感じさせる「情報小説」「思弁小説」。(どちらも筒井の評)

・・・・と、なんかネガティヴな紹介になってしまいましたが、普通に楽しいです。
特に京極『榎木津礼二郎』の例の「他人の記憶が見える」能力の可能性、あれを基本的には京極の仮説を引き継ぎながら(多分)、認知神経心理学とやらを踏まえて結構丁寧にフォロー/展開してあるので、京極好きな人も読んでみたらいいと思います。

詳しくは読んでのお楽しみということにしておきますが(笑)、とりあえず僕が思うに他人の「記憶を見る」あるいは「思考を読む」、いずれも十分に想像の範囲内だと思うんですよね。(僕自身そういう素養が無くも無いタイプの人だと思いますし。)
なぜかと言えば、実は人間は日々それをやっているからです。・・・・ただし対象は自分ですが。自分という名の「他人」。

つまり他人をどうこうするより前に、まず自分の「記憶を見」たり「思考を読」んだりしないと日常生活が送れないわけで、当たり前にやってるようで実はこれ自体一種の技術で、成功/失敗もあれば上手い/下手も歴然とある。
そしてこれが上手くなれば、またはそのプロセス・システムを深く明確に理解出来るようになれば、それの転用(”類推”ともいう)で自然かなり他人のそれへのアクセスも可能になるというそういうことです。

勿論その前提として我々が使っている「脳」というシステムの規格性・共通性、そしてそれぞれの脳・・・・言ってみればパソコンを繋ぐネットワークのようなものの存在を想定しなくてはいけないわけですが、そこらへんはネタバレにもなるので本編を読んで下さい。

最後に一言。自分で思ってるほど人は「個性的」ではないのです。
それは忌々しいことでもあり(笑)、一方では孤独ではないという喜びでもあるわけですが。

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水晶球に未来が映るわけ 

chrystalball

『竜の封印』の話の続き。最初に感心したポイント。

水晶球に未来は映るのか。
映る、と言えなくもない。「意識の操作”外”の予測」が見えることは考えられるし、「意識を遥かに越える量の情報の貯蔵庫」とのチャンネルに水晶球がなり得ることは確実に言える。
論理は以下の通り。

・水晶球/透明な球体は、光学的には何も映さない。従ってそれを覗き込んでも本来は何の視覚像も形成できない
・人が何かを見て意識がそれを知覚し(かけ)た時、その裏で脳はその対象を同定/認識する為に忙しく既知の情報から検索作業を行ない、意識に参照材料を提供しようとする。
・水晶球を覗き込む時、何も見えないにも関わらずそれを知らない意識は必死に何かを見ようとする。
・それに応じて脳の方も、「見えない何かに対する参照材料を探す」という不可能な作業を懸命に行なう。
・結果外界(水晶球)から視覚像形成のための手がかりを何も得られない意識は、内界(脳)が提供した参照材料、つまり自分の記憶の中のイメージの方を「見」ることになる。

・・・・まずこれが基本的な構造。

・ここに「未来」を知ろう、見ようとしている人がいる。
・その為に水晶球を覗き込むが、当然何も見えない。
・しかし脳は「未来を見たい」という意識の要求に合わせて律儀に作業を行ない、関連のありそうな情報/イメージを供給し続ける。
・十分な時間・環境下で水晶球を見続けると、供給された情報群は結び付いて組み立てられ、有意味で生き生きとしたヴィジョンに成長し、「未来が見える」。
・脳は意識が通常処理するよりも圧倒的に優れた質・量・幅の情報を有しているので、このように期せずして意識の操作よりも脳の作業の方が主体となるような状況下では、思わぬ含意に富んだあるいは冷徹で客観的な予測力を備えたヴィジョンが形成されることもある。

こんな感じ。なかなか面白いでしょ?
ちなみにこの説に従えば、色や模様付きの、つまり何かが「見えてしまう」水晶球を使うのは無意味だ、インチキだということになりますね。


まあ「未来を見る」というのは分かり易い例でしかないので、より本質的にはこうした(水晶球を覗くというような)一種の感覚遮断、外的刺激の限定を継続的に行なうと、通常は外界からの雑多でかつ(知覚可能な範囲の)決まり切った刺激への反応に右往左往している意識が、自らの脳というより巨大で豊かな情報源と直接繋がれるようになるということです。

本来意識はむしろ外界への反応の為にあり、脳もその準備に向けて用意されているのでそれはシンプルに言えば「脳の誤作動」(作者)であり、ざんない言い方をすればその時その人は”幻覚”や”妄想”に捕らわれているとも言えるわけです。
しかしやり方によっては確かにより深い知見を得るチャンスでもあり、古来様々な宗教・神秘主義体系はそれを知っていて意図的にそのテクニックを活用していた、『汝自身を知れ』というデルフォイの神託はそういう意味だとそれが作者の説くところ。

外的刺激の継続的限定、つまり”孤独”は人を哲学者にするというわけでもありますが。
僕?日常的に脳の誤作動を起こしている孤独な哲学者ですよ、はい。(笑)

(追記)
本書では特に触れられていませんが、いわゆる「想像」というのも限定的な脳の誤作動とそう考えて間違いないように思いますね。幻覚・妄想まではいかないけれど、外的刺激・情報から直には導き出せない、その分を密かに脳から融通している特殊なタイプの思考。

広島?浦和 

広島?浦和(●1?4○)

・立ち上がりの悪い浦和と完成度の低い広島とでソロソロとやってる内に、アクシデント2発(ジニーニョ退場&小村チョンボ)で早々に試合が決まってしまってあらららという。
・ジニーニョのレッドは親切に(?)解釈すると、引っ掛けたプレーよりもその後で蹴りに行ったように見えるのが理由かと。
・中盤でまずきれいにラインを作ってその後機を見てブレイクに行くという、今季の形は一応見えた感じの広島。
・ただそのライン/ブレイクのどちらに比重がかかってるのか、つまりバランスを取ることが目的なのかブレイクの為の予備動作なのか、そこらへんのニュアンスが半々という感じでまだよく分からない。
・同様にそのラインブレイクが、きっちり戦術的合意で行なわれてるのか戸田らの自主判断で行なわれているのか、それも見てて良く分からない。どちらかというと後者っぽく感じるけど。
・ともかく止まった状態から動かすには少し広島の個力はパンチにかける気がするけどどうか。今後ともお手並み拝見。
・浦和は割りとテキトーだけど今のところそれがむしろ懐の深さみたいな出方をしてて、底が知れない。誰かが何とかするという感じ。
・ワシントンはめでたく”おまけ”の地位を得て快適そう。
・相馬は最低。絵に描いたような空回り。逸るのは分かるけど真横にスライディングタックルするなバカ、傷害未遂で刑事告訴するぞ。
・赤と紫って派出でいい。


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浦和?C大阪 

誰か浦和を止めてくれ。
違うな。誰か浦和を止める奴はいなかったのか、具体的には小野とワシントンの加入を。(J’s Goal

単に戦力が分厚くなったという以上の意味合いを持つ人事だったと思いますね、実に得難い巡り合わせの。
・小野の加入によって三都主が普通にいい選手に見えた来た。
・小野と三都主が揃ったことによってワシントンが”難しい選手”じゃなくなった。(既述)
・元々いい選手ではあったが浦和に似つかわしくない(?)高級感で微妙に浮いていたポンテが、小野の加入でピタッと収まった。
・・・・要するに無闇にかき集めていたように見えて、妙に辻褄が合ってしまったという感じ。

もっと簡単にあるいは具体的に言うと、「似たようなテンポの足元の柔らかさが自慢の選手が期せずして集ってしまった」ということで、その結果”ゆったりしたダイレクトパスの交換によるパスサッカー”という、えらく高級感の漂うものが自然に実現してしまって。それほどはっきり『戦術』ではないと思うんですけど。(笑)

いやあ、しかしなかなか壮観でした。そうそう見られるレベルのものではないというのと、多分李さんが目指したのは大雑把に言うとこんな感じのものだったんだろうなというのがあって、二重に感慨深かったです。
まあかなり即興的なので、「王者」時代のヴェルディと李ヴェルディの中間くらいですかね、ニュアンスとしては。話の種に見とくといいと思います。

完成度としてはそれほど高くないというか、はっきり言ってこれといって攻撃の形は見えない、ひたすらボールが動くだけでいつシュート/ゴールが生まれるのか見当もつかないようなところもありますが、とりあえず回してればその内相手が力尽きて紛れが出て来るのも時間の問題というか、今のところそんな感じで結果的に圧勝してますけど。そこらへんの受け身さも李ヴェルディ的。

繰り返しますがここまで趣味的なものが当初から意図されていたとはとても思えなくて、能動的なブレイクがお馴染みトゥーリオの突進くらいしか見当たらない(それはそれで逆にずっパマり)現状にブッフバルトはさぞかしイライラしているだろうなとは思いますが、ここは一つ抑えてもらって(笑)この路線を究めてもらいたいと思います。しょせん他人事ですし。

・・・・いや、でもホント揃えようとしてもなかなか揃わない都合のいい組み合わせですよ。小野がいつまでいるのか田中達也がいつ復帰するか、それによってまたガラッと変わってしまう可能性も大きいですし、しばらくは楽しませてもらいたいです。相馬とか出さないでいいから。(笑)

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浦和についての雑感 

しかしあれだな、李さんが丹精込めて作り上げたチームよりも適当に寄せ集めたチームの方が瞬間クオリティが高いように見えるのは結局最後(もしくは最初)は個人能力だということかな、現実は残酷だということかな。優勝はブラジルだということかな。
まあ小野は凄いということでもあるか。そりゃ李さんも欲しがるさ。


というわけで巨大戦力の浦和ですが、マリなりジュビなり(その他一時的に燃え上がったチームたち)が掻き集めていた時に比べてそんなにガツガツしてないというか、大らかな感じがして個人的にはさほど目障りではないのですよね。

それは一つには元来このチームは物持ちの良さに特徴があるという印象があって(笑)、つまり財政状況の詳しい変遷は知らないんですが昔から割りと人の出入りにはピリピリしていないというか家族的というか、当座役に立とうが立つまいがとりあえず置いておく、来る者拒まず去る者追わず的な振る舞いが結果的に見えて、その余裕が近年の金満雄飛路線の中で今の幸福な編成を束の間生み出したみたいなそういう感じがします。
褒めてるのかけなしてるのかよく分かりませんが。(笑)

例えば初年度から3年で2点くらいしか取ってないのに、気が付けばいつもレギュラー格のFWとして出ていた堀孝史とか。
あるいはこれも初年度に僕が目を付けたただし大学出の有望新人DFで、最近見ないなあどっか消えたのかなと思ってたらオジェック体制(’96年頃)になってから何事もなかったかのように主力選手として復活して来た西野努とか。

かの山田暢之だって、あんな見るからに大層な素質を持った選手がこれだけ長い間はっきりしない存在感でい続ければ、普通は心機一転で一回はどこかに出るものだと思うんですけど。ただただい続ける、モノになるまで、または役に立つ時の為に。(笑)
多分例の桜井様をタダ同然でウチがゲット出来た件も、そういう浦和の大らかな(?)人事体質と無関係じゃないと思います。


近年はすっかり移籍市場独り勝ちの憎まれ役に定着してますが、そういう風に元々殿様なのと、実はそんなに正直スカウテイングが上手い/戦略的なチームにも見えなくて、エジムンドを筆頭に効率の悪いことも沢山している。それこそ以前の在籍時の小野だって、人気に惹かれて入ってはみたものの、若い小野自身の影響力の限界もあって結局は宝の持ち腐れのまま何となく円満に海外に送り出してちゃんちゃんというよく分からない存在に見えました。

だから本当に豪腕化したのはJリーグ実績のある有力選手(+α)を金に糸目をつけずにピンポイントで獲得出来るようになったここ数年ということになっているのかも知れませんが、ともかくそうした無駄も含めてあるいは無駄を恐れず、集めるんだ、抱えるんだという包容力がなんか他のチームの「積極補強」とは違う厚味・余裕を感じさせるんですよね。”ビッグクラブ”の名に相応しいというか。(笑)

だから現在の「余裕」を絵に描いたようなスタイルはその象徴的帰結だろう、一種の”ご褒美”だろうとつい運命論的思考に走ってしまいそうになるんですが。


しかし小野シンジはびっくりしてるんじゃないですかね、行く前と帰った後でのサッカーの体質の変化に(笑)。さてはエメルソンの脱走も実は天啓だったか。(ほら運命論)

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8.記憶の真実(1) 

・・・・いわゆる「虐待の記憶」、及びそれに主な根拠を置く「多重人格」(障害)という現象の信用性を脅かす諸問題。

”悪魔的儀式虐待”(SRA=Satanic Ritual Abuse)の告発/問題

端緒

「一九八二年、儀式と悪魔に関する性的幼児虐待の問題が勃発すると、異常な告発が各地に広がり始めた。」
「多重人格を治療する開業医たちのもとに、悪魔的なカルト教団による虐待を主張する被害者たちが押し寄せると、医師たちは自分の耳を疑った。」


「そこ(学会の未刊行の口頭発表)には、カルト教団が密かに創造した交代人格についての話が、かなりあった。そうした人格はセラピーの妨害をするようプログラムされている。また、患者を薬品で治療するときには、正しい交代人格がそれを服用することを確認しなければならない。カルト教団が誘導した交代人格が、薬を飲ませないよう盗んでしまうからである。」


「一九八九年、彼(ジョージ・ガナウェイ:後掲)のクリニックの患者の半数近くと、北米在住の非常に多くの患者が『人肉嗜食の宴や、少女時代に、儀式の生き贄用の赤ん坊を生む母体として何度も使われたというような、長期間にわたる経験の詳しい記憶を、なまなましく報告した』と、彼は書いている。」


展開・影響

「多重人格は、幼児虐待についての意識を高める運動の風土で栄え、その運動が主張する病因学によって正統化されてきた。悪意に満ちた虐待が存在するとの主張が次第に信用されていくにつれて、多重人格運動はその正当性を認められた気分になった。」


「幼児虐待運動の中に儀式虐待という分派が発生するにつれて、患者たちは次第にカルト教団の恐るべき物語を思い出すようになったのだ。セラピストたちが本能的にその話を信じようとしたのは、衝撃的な事実の暴露を信じることが、過去においては正しい戦略だったからである。しかし語(話?)はどんどん荒唐無稽なものになっていった。」


アト注:歴史のある時点までは『幼児虐待』という概念そのものがSRA同様到底信じ難い話であり、しかしそれを事実として受け入れるという決断をアメリカ社会・医学界はやり遂げたばかりであった。

「運動は二極化し、分裂の脅威にさらされた。おおむね大衆主義的な側にいる一方の側が、『われわれは子供を信じるように命令した!だから、交代人格を信じなければならない!』と叫ぶと、他方が、『やめろ....この話は空想だ!』と反撃する。」
「多重人格運動の分裂は、その人の地位の差におおむね一致した。懐疑派に精神科医が多かったのに対して、圧倒的多数を占め、とかく声を大にして主張しがちな一般人は、信じる側に属していた。」


「この議論の表層には、宗教上の違いが存在することが多かった。信じる側は、自らを保守的キリスト教徒、つまりファンダメンタリストのプロテスタントと称する傾向にあり、一方、懐疑的な側は世俗的な態度を取る傾向にあった。」


「ISSMP&Dは、クラフトを長とする特別調査委員会を編成して、カルト虐待を信じる者たちとカルト虐待に懐疑的な者たちとの間の調停を目指した。クラフトは、調停は不可能だと判断したのかもしれない。とにかく、彼は作業部会の会合を招集もせずに辞任した。」


「ガナウェイは、これとほぼ同様の発言をしている。彼は悪魔的虐待の記憶を無批判に受け入れることは、多重人格の信用性を危うくするのみならず、“幼児虐待の研究一般を危機にさらす“、と考えている。」


以下、<虚偽記憶症候群財団>の項につづく。


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8.記憶の真実(2) 

<虚偽記憶症候群財団>

誕生

「ガナウェイの意見は正しかった。セラピーで取り戻した記憶から多くの奇怪な出来事が出てくる(そして多くの信じられないような理論がそこへ入り込む)につれて、取り戻された記憶への疑惑が高まった。」
「多くのセラピストたちは、クライエントが幼少時に家族から受けた虐待を思い出すようになった後、それと立ち向かうことを勧めていた。(中略)告発された親たちの多くは、眼前の事態が信じられなかった。そうした親たちは、申し立てられた記憶は、セラピーの過程でつくられていった誤りにすぎず、エイリアンによる誘拐と同様に不審なものだと言った。」


「そこで、数ヶ月にわたる熱心な活動の後、一九九二年三月に<虚偽記憶症候群財団>がフィラデルフィアで設立された。」


多重人格運動との対決

「<虚偽記憶症候群財団>は、しばらくは多重人格について、論評を控えていたが、組織設立後数ヶ月もたたないうちに、多重人格運動の側では恐れを抱くようになった。」
「すべてを背後で操る<大金持ちの、大きな(そして罪深い)男>のうわさが持ち上がった。その<男>のことが明るみに出れば、財団は崩壊するだろう、と。」
「その後数ヶ月の内に、応急処置的な取り組みが行なわれたのは、主に訴訟への恐怖があったためだった。」


「虚偽記憶症候群財団は、<虚偽記憶症候群財団専門諮問委員会>を設置した。この委員会には多重人格に懐疑的な人々が直ちに集まった」
「財団の第一回年次大会は、一九九三年四月(中略)開かれた。招待された講師たちは、手厳しい批判を加えながら多重人格のことに言及した。」


「この(↑)発言を受けて、ISSMP&Dの元会長フィリップ・クーンズは、《虚偽記憶症候群財団通信》に丁重な文面の書簡を送り、それ以外の点では真摯に行なわれた学会において、このような発言がなされたことは遺憾だと述べた。」
「しかし、この手紙が財団の会報に載ったことと、パットナムが噂についての情報を求めたこと(割愛)を除けば、一年以上もの間、財団の会報が多重人格について触れることはまったくなかった。」
「しかしその後、激しい非難が起こった....偽りを鋭く指摘しながら。」


科学的・理論的観点

フランク・パットナム(多重人格運動の代表的な精神科医)

「十年近くに及ぶセンセーショナルな申し立てにもかかわらず、こうした(”悪魔的儀式虐待”の遍在という)主張を裏付けるような独立した証拠は、何一つ見つかっていない。」(1992)


英国の調査(1944)

「委員会は、悪魔的虐待の存在が強く主張されたものの、とにかく何の証拠も見つからなかった八十四件の事例を調査した。しかし、委員会の結論は、子供が受けた虐待は、もっとありきたりのやり方で行なわれていた場合がほとんどであるというものだった。」


折衷的な見解

「多重人格運動に加わっていたメンバーのうち、もっと多くの慎重な人々は、セラピーで引き出された奇怪な記憶は、厳密な意味で真実なのではなく、患者が、自分を虐待したのは家族に他ならないという無慈悲な現実から自分を守ろうとする手段だ、と述べた。つまり、虐待は本当だが、空想に覆い隠されているというのだ。」



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『分裂病』 

多重人格ノート。
第9章「分裂病」の項更新。

思いっ切り学史的な内容でした。
でも「多重人格」「分裂病」「ヒステリー」「躁鬱病」「精神分析」という、この分野のビッグタームの関係がまとめて分かって雑学的には意外と面白いかも。

これでやっとこの本半分。

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9.分裂病 

・・・・多重人格(障害)と、分裂病(現・統合失調症)を筆頭とする他の主要な疾病カテゴリー及び理論との精神医学史的関係。


#アウトライン

(1)19世紀後半から20世紀初頭、フロイトらによる精神分析・精神医学の初期においてその中心課題であった”ヒステリー”の目立つ例として、二重/多重人格も大きな関心を集めた。

(2)しかしヒステリー自体がその地位を失うと共に、多重人格も重要視されなくなった(特にフランスにおいて)。その際多重人格を理論的に支える『解離』概念を先駆的に強調・提唱したジャネも、”躁鬱病”の特殊な例として多重人格を軽視するという転向(?)を行なっている。

(3)代わって主役の座に踊り出たのがブロイラーが命名した”分裂病”であるが、その病態としての「分裂」はいわゆる多重人格の「人格分裂」とは根本的に異なるものである。

(4)フロイト精神分析と多重人格は理論的に敵対関係にあり、アメリカにおいては色濃く政治的な理由で多重人格はいったん関心の外に追いやられた。

(5)その後『幼児虐待』というかつてのヒステリーに代わる立脚点を得て、再び多重人格は(アメリカにおいて)大きな注目を浴びることに成功したが、今なお状況は揺れ動いている。




多重人格とヒステリー

「特殊な種類の人格動揺が“交代的人格“であり、これは“二重意識”としても知られている。平凡な生活を送ってきて、急にヒステリーになった女性を取り上げてみよう。何らかの既知もしくは未知の理由から、彼女はヒステリー睡眠におちいり、目覚めると同時にそれまでの生活をすべて忘れる。」(ブロイラー)


「こうした(多重人格的な)ヒステリーの症例を深く究明する必要はない。われわれは、催眠術の暗示によって、まったく同じ現象を実験的に作り出すことができる」(ブロイラー)


「フロイトは『ヒステリー研究』の中で、別々の場所で六回以上この言葉(”第二状態”、多重人格の祖語の一つ)を使っている。」


「実際、フランスにおける多重人格の波は、一九一〇年までに完全に終息していた。これについては簡単に説明がつく。フランスの多重人格は、ヒステリーのしるしのもとに生まれた。多重人格者とはすべてヒステリー患者で、(中略)一八九五年から一九一〇年までの期間に、ヒステリーはフランスの精神医学の中心問題ではなくなった。」
「その結果は?多重人格が拠り所とすべき医学上の場所はなくなったのである。」


多重人格と分裂病

「一九二六年以降、『医学索引』に記載された分裂病の論文の数は、多重人格の論文よりはるかに多い。つまり、一九一四年と一九二六年の間に、逆転が起きて、分裂病が多重人格を圧倒したのだ。」


「ただし、彼(ブロイラー)はこの言葉(”分裂病”)に二重意識のプロトタイプの場合のような、交代的に個人を統制する複数の人格への分裂、という意味を持たせたわけではなかった。彼の意図は、『精神機能の“分裂”』を示すことだったのだ。」


「分裂病患者は、論理と現実に対する感覚が歪んでいるのに加えて、態度、感情、行動の調和が取れない。これに対し、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題ないが、断片化していく。」
アト注:つまり分裂病はある人格の内部の精神諸機能の”分裂”。多重人格はある一つの身体の中に人格が複数あるという”分裂”。一つ一つの人格の精神機能自体は分裂していない。


多重人格と躁鬱病

「彼(ジャネ、後述)は、二重人格とは、ごくありふれた病気の特殊でまれな症例とされるべきだ、と考えたのである。つまり、抑鬱と躁と安定の時期を周期的に交代する患者、『初期のフランスの精神科医が循環病患者と呼んだ者」のことである。


多重人格と精神分析

「精神分析は、アメリカの医科大学の精神医学部門で、長年にわたり優位を占めることとなった。(中略)基本的な商売道具として、フロイトの抑圧はプリンス(アメリカの多重人格運動の草分け)の解離を圧倒した。」
アト注:『抑圧』と『解離』の理論上の問題は後の章で。


「フロイトに対する(多重人格側の)恐怖と嫌悪を理解するのは容易だ。幼児虐待運動のフェミニスト派は、フロイトを軽蔑している。ちなみに、この派は、多重人格には好意的である。いわゆる誘惑理論をフロイトが放棄したことに、ジェフリー・マスンが痛撃を加えたため、性的幼児虐待に関心を持つ者にとって、フロイトは悪玉となった。」アト注:”誘惑理論”と精神分析(と多重人格)
簡単に言うと、フロイトの初期の女性患者による「父親や叔父に誘惑された(性的虐待を受けた)」という訴えを空想である、無意識の現れであると断じることによって精神分析理論は成立した。逆にその種の訴えを基本的に事実と認め、社会問題化することによって今日の多重人格のアメリカにおける隆盛はある。


「次に浮かび上がるのは、負い目から来る罪悪感だ。多重人格の病因学は、初期の(精神分析確立以前の)フロイトの発想に著しく類似しているからだ。記憶からくる苦痛、トラウマの影響。このことを、誰もがフロイトから学んでいる。」


「しかし、時代は変わりつつある。取り戻された記憶への批判が高まるにつれ、臨床家たちは(精神分析確立以後の)フロイトへ回帰している。」
「一九九五年二月には<トラウマ、喪失、解離に関する第一回年次総会。主催・二十一世紀トラウマ学財団>と題する、活気あふれる学会が開かれることになっている。(中略)この学会の主催者の目的の一つは、トラウマの治療を多重人格のモデルから外すことである。」



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Fマリ?浦和戦 

J2に落ちて良かった・・・・なんてあちこちから物が飛んできそうなことを口走りたくなる(笑)ほど楽しい試合でした。
つまりこの試合を利害やジェラシーと無縁の気楽な立場で見ることのできた喜びということですが。(J’s Goal

キリキリ緊迫しつつしかし強豪どうし互いに落ち着きを保って、無闇にテンションを上げて綻びが生まれることも無かった前半。
しかしその終了間際の浦和の先制点をきっかけに、時間の経過と共に徐々に明らかになって来た両者の現在のスケールの差そのままに、あらゆる局面で優位に立った浦和が夢のサッカーで押しまくってあの岡田マリノスを完全に『折って』しまった後半。

惜しむらくはロスタイムのFマリ大島の”追撃”ゴールで、「驚異的な負け試合」ならそれらしく額面通り沈黙していればいいものを、まったく余計なことを。せっかくとめどなく涌き出ていた僕の脳内麻薬の流れが一瞬途切れてしまったではないか。(笑)

ちょいちょい書いているように僕は岡ちゃんを尊敬しているので、別にFマリをそれほど憎んでいたりとかそういうことはないわけです。
ただこの試合に関してはもう一方的に浦和目線で、レッド・ビッグ・ウェーブにノリノリで、行けえやれえ押し潰せえ皆殺しだあと血に酔って喜びまくってました(笑)。・・・・その割りには点入らなかっですが、まあいいです。

勿論岡田マリノスも並々ならぬいい選手の集まったよく訓練されたいいチームです。ただそれはあくまで「人為」のレベルで、言ってみればいちJリーグを勝ち抜く為の効率性というような日常的な地平に自ずと縛り付けられたものなので。
それに対してある種の天啓と幸運に象られた今年の浦和は今正に「天国への階段」を昇りつつあるチームなので、戦いの場が地や人の局面に落ち着いている段階ならともかく、いったん天の局面が顔を覗かせ始めるともう到底人為で対抗出来るような存在ではなくなってしまうのです。


・・・・すいません、飛ばし過ぎました(笑)。僕は血は冷たいですが神経は過敏なので、こう見えて興奮しやすいのです。いったん回路が開かれると脳内麻薬の分泌が止まらなくなるタチなのです。(バレてるか)

いやしかし実際不思議なくらいに圧倒的な勝負でしたね。途中からマリノスの選手たちは技術・戦術以前に”気”を挫かれて、何が起きてるんだろうという不安げな顔でほとんどいいところを出すことが出来ませんでした。
岡田監督は主に攻撃面での何も出来なさを嘆いていましたが、それは守備でも同じでそれほど決定的に崩されてもいないのに、確実に隙を見付けられて狙いのあるパスをばしばし通されてしまっていました。あれは正に「力の差」と言うべき風景で。ワシントンへの対応なんかも、今更分ってるだろうに馬鹿正直にやられ過ぎです。

個別に要因を挙げることは出来るでしょうが、それ以上にやはり僕は上で”スケール”と言ったもの、想定している水準の違いによる動員出来るダイナミズムの大きさの差みたいなものを強く感じてしまいました。
そこらへん名うての現実主義者であると同時に鋭敏な感受性も併せ持った岡ちゃんが感じないはずはなく、会見での陰惨なまでの敗北感漂う表情がすべてを物語っていたと思いますね。

これを受けてどうするのか。「浦和以外に勝てばいい」と割り切るのか、それとも何らか対抗出来るものを自分のチームに醸成することを目指すのか。・・・・実は一番の心配は、次当たるまでに浦和が別ものになっていないかどうかということだったりしますが(笑)。ほんと諸行無常にも程があるんだからサッカーのチームって。天高く舞い上がれ、そして燃え尽きるまで戻って来るな。

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ナビスコ:浦和?FC東京 

ナビスコ:浦和?FC東京2?0

・こちらは逆に(原文ママ)浦和の基盤の強固さを感じさせる試合。
・単に「層が厚い」というだけでなく、メンバーが6人も入れ替わっても揺らがない、むしろかえってクリアに見えた共通感覚の浸透性が。
・Fマリ戦の脳内麻薬に支配される前の時間帯(笑)にも感じてたことですが、強力な前へのベクトルを伴いつつダイレクトでポンポン回すパスの感覚が、チームレベルで保持されているのが感じられました。
・小野とワシントンは本質的にはその上に被せたデコレートで、だから必要があれはFマリ戦のようないきなりのスピードアップも出来るという。
・....単に鈴木啓太が凄いという可能性もありますが。
・バックパスの強弱一つにも次への展開の意図を感じる、優れたリーダーになっているようで。いつの間にか。
・トゥーリオもリーダー。小野はコンダクター?長谷部は斬り込み隊長。ポンテは頼れる兄貴。おまけに重鎮(笑)ワシントンと賑やかな限りですが、それで別に混乱はしていないという。(あ、監督もいた。)

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