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10.記憶以前(1) 

・・・・多重人格とトランス
・・・・多重人格(的な現象)が『記憶』の問題と分かち難く結び付けられる以前。(→タイトル)



”トランス”

「多重人格は西洋に独特なもの、つまり先進工業世界に特有のものであり、これらの地域に限って、しかもわずか過去数十年の間に限って診断されたものである。しかし、これはもっと普遍的なものが、地域的な現れ方をしただけなのかもしれない。その普遍的なものとは、トランスである。」


トランスという概念の性格

「ほぼすべての社会で、人々はトランス状態に入る」


「『トランス』というのは西洋の言葉で、人類学者に用いられるヨーロッパ的概念である。」


「トランスの『実体』が何か、または、トランスとして分類されるような人間の普遍的行動または状態が、実際にあるかどうかということは、まったく未解決のままの問題なのである。」


「一方、それは人間だけではなく、哺乳類全体の特徴なのかもしれない。」
「たぶん、トランスは進化の段階を降下するのかもしれない。」


「私は『トランス』とは、西洋人の目から見たものかもしれないと主張したが、これはもう少し意味を限定して、英語圏の人の目から見たもの、とした方がいいのかもしれない。」
「今やフランスの人類学者は、英国系アメリカ人がトランスと呼ぶものを述べるのにこの単語(元は違う意味を持ったフランス語“transe“)を使っている。」


トランスと精神医学

「一九九二年のICD?10には、『トランスおよび憑依障害』が存在する。DSM??(中略)の(解離トランス障害の)定義はトランス全体ではなく、宗教(実際にはキリスト教)で実践される場合以外のトランスのみを対象とするものである....あたかも『宗教的』という言葉が、異文化にも通じる汚れのない概念でもあるかのようである。」


「われわれは文化的帝国主義というものが、キリスト教の伝道師たちの手から精神科医へ主導権は変わったとはいえ、まだ死滅したわけではないことを理解する。」
「西洋の解離障害をトランスの地域的で特殊な一形態と見なす代わりに、この2つの診断基準は、トランスの方を、西洋の病気である解離障害の亜種と見なしているのである。他の文明の根幹をなす意義深い部分であるトランスを、病理へと変えてしまうとは、ずいぶん乱暴な話だ。」


「解離障害をDSM??に入れることを推薦した委員会の議長デイヴィッド・スピーゲルは、西洋に多重人格があるように、世界のそれ以外のほとんどの場所にはトランスがあると主張して、トランスを加えることを正当化した。」
「だからといって、これは、解離障害というこれまでは非常に珍しくきわめて西洋的な精神病と、トランスを、同等の障害にする根拠にはならない。(中略)解離障害は(何よりも記憶という文脈で)概念化されたものである。これに対し、トランスの概念は、記憶とは本質的に何の関係もない。」


(アト注)
やや分かり難い組み立てになっていますが、要するに2段落目の
『西洋の解離障害をトランスの地域的で特殊な一形態と見なす』というのがむしろ著者が正当・公平と考える視点なわけです。


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記憶以前 

多重人格ノート
イアン・ハッキング「記憶を書きかえる」第10章、『記憶以前』のその1その2
その3か4まで続きそう。長えよイアン兄さん。

基本テーマは”トランス”(状態)。
パッと見、多重人格への端的な興味からは離れた内容ですが、
・支持派/懐疑派双方共通に、必要以上に特殊化されているきらいのある「多重人格」という現象を、人類史的に普遍的な枠組で捉え直す。
・同様に多重人格と「記憶」という要素との癒着関係を相対化する。

という、著者的にはかなりこだわりのある内容についての章みたいですが、読んでてどこに着地するんだろうと常に不安な厄介な章でもあります。

これほど頭のいい人でもこだわると分かり難くなるのねと、ある意味では微笑ましいですが。(笑)

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福岡?浦和 

福岡●0?1○浦和(博多の森)

ジーコ・ジャパンにラモス・ヴェルディ、それに’06レッズを加えた『曖昧ご三家』が今年上半期の僕のサッカー観戦修行のテーマのようです。
純粋主義・理念主義、あるいは当たって砕けろ主義に傾き過ぎた感のある僕のサッカー観の洗い直しというか。

とは言えレッズのは別に原理的に曖昧なわけではなく、巨大戦力の多士済々が、期せずして生ぜしめている曖昧さという面が強いと思いますが。
具体的にはトゥーリオ・鈴木啓太・長谷部らによる”固く熱い”レッズと、小野・ポンテ・シトンらによる”軟らかくスカした”レッズ、2つのチームが融合も衝突もせずに何となく共存し、時と場所により色々な出方をするという。

ポジション柄「堅く献身的なディフェンス」と「柔らかく華麗なオフェンス」という役割分担だと予定調和的な見方も普通に可能だとは思うんですが、なんか違う。
ちなみに監督(ブッフバルト)はどちらかといえば明らかに”固く熱い”側に重心を置いていて、ただ”軟らかくスカした”側にも十分な権利を認めて、それが公共の福祉に反しない限りは(笑)気持ち良く泳がせるに吝かではないというそういう力関係。

この試合は公共の福祉の侵害が目に余った結果ついにモラトリアムが破られて、小野→ポンテ→ワシントンと次々にブッタ切られてテンションがアップして行き、最後はそれまで意識して抑え気味にプレーしていたトゥーリオの満を持しての主役交代、ドカンとヘッド一発で勝利をもぎ取ってチャンチャンという、僕的にはそういうある意味分かりやすい試合。

しかし笑いました。勝つのかよ!エゲツねえなという。何だったんたそれまでのは。
忠実に健闘してマイペースに引きずり込むことに成功していた福岡には気の毒な試合結果でしたが、不運だったのは浦和レッズは2チームいたということで。1チームが相手ならやり切れたかもしれないものを。残念でした。(笑)

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10.記憶以前(2) 

西洋社会における”トランス”の諸相

・催眠(術)

「催眠術は、西洋文化が、トランスというグループの中に組み込もうとする現象の1つである。
催眠術をかけられた人は、トランス状態にあると言われる。」
「催眠術は、実験的調査が可能な、トランスの一形態のようである。」
「催眠術に特別にかかりやすい人というのもいるが、一般に、人に催眠術をかけるのは容易なことである。」


「一八九二年までには、ピエール・ジャネは過去の記憶を取り戻し、それを解決するという、一般的な催眠術療法を提案しつつあった。」
「当初、フロイトはシャルコーの足跡を追っていたが、その後催眠術を拒絶して、記憶に触れるための別の技術を開発した。精神分析は一貫してフロイトに忠実だったが、ラカンが支配的地位を占め、催眠術が最大のタブーだったころのフランスでは特にそうだった。」
「アメリカは、常に大衆運動が力を持ち、権威に対して冷淡な国であるが、(中略)しかし、心理学の研究を支援するために交付される研究費から、催眠術やトランス研究に当てられた金額は、驚くほど少ない。」


・日常とトランス

「西洋の先進工業国の社会では、余暇のための行動か、社会から疎外された行動以外には、トランスの存在する余地はない。」
「霊媒がいる。瞑想がある。祈りがあり、そして音楽が個人と集団の両方で使われ、他の文化の中で観察されたならば、トランスと呼ばれるかもしれない状態をつくり出している。」


「しかし、これらの行動が、製造業やサービス産業に入り込むことは許されない。」
「もしかしたら、昔の組み立てラインについていて解雇された労働者の中にはトランス状態になっていたものもいたかもしれない。(中略)これとは対照的に、ブリティッシュ・コロンビア沖合いのシャーロット初頭にすむハイダ族の織物職人たちは、同じ動作を繰り返す仕事の途中、定期的にトランス状態に入ったが、そうなったときに織り上げた布には、ある種神聖な性質が加わるため、トランスはむしろ珍重されていた。」


「現代のアメリカで、トランス状態が社会的に認められている場所は、家と職場を車で往復する通勤の場面である。」
「彼ら(環境運動家)はなぜ人々が車の相乗りや、公共交通機関を利用しないのかが理解できない。しかし、理由の一つは明らかだ。自分の好きな音楽やおしゃべりや自分で選べる番組によって、トランスに似た状態になることが非常によいものになり得るからだ。」


・ADD(注意欠陥障害)

「現代社会でトランスに似た状態の範囲をつかむためには、最近よく話題になる、子供のときに起こる注意欠陥障害(ADD)のことを考慮する必要がある。」
「《ニューヨーク・タイムズ・マガジン》の夏季キャンプ特集は、ADDの子供を専門に扱うキャンプの広告であふれている。皮肉屋は、問題を抱えた子供の存在自体は否定しないものの、かつては白昼夢を見ることを許されたり、寛容な娯楽によって取り扱われていた多くの子供が、今や冬にはセラピストのもとへ、そして夏にはキャンプへ送り込まれていると言う。」



トランスと多重人格と現代社会

「トランスは、多重人格に近い、潜在的な障害であると宣言されて来た。しかし、逆の説明も可能である。つまり、トランスに入る能力を使用もしくは濫用する方法こそ、多重人格だ、という説明である。」
「われわれは、トランスについてよく知らない上、トランスを病的なものにしたがる。」


「なぜわれわれは、トランスを社会から疎外するのか?」
「産業機構というものが決定的に重要になったからだけではない。昔はそれほど厳格なものではなかったにせよ、トランスに似た行動が除外されるようになったのは、産業化より早い時期のことである。」
「ただし、西欧とアメリカの社会は、おおむねメアリー・ダグラスが企業文化と呼んだものの実例となっている。それらを特徴づけているのは、個人の責任が極度に高いレベルにあるとともに、それに応じて個人の可能性も大きいという点である。」



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「個人」と「責任」 

多重人格ノート更新。
相変わらず「記憶を書きかえる」10章『記憶以前』で立ち往生中ですが、今回の箇所はちょっと面白いかもしれません。

というのは西洋社会における”トランス”状態の歴史の一幕として、近代法で言うところのいわゆる(最近何かと評判が悪い)「責任能力」という概念の起源が覗けるからです。
簡単に言えばそれは中世の神学及び教会法における”魂”に関する尖鋭的な意識に基づくもので、それは当時でも世俗の感性とは少し乖離したものであったらしいと言うこと。

そうは言ってもその”魂”に関するキリスト教の意識が、そのまま今日の我々が立脚している「近代的個人」や「(法と契約に基づく)近代社会」という概念の母体となっているわけで、簡単に虚妄だと言うわけにはいかないわけですが。ゆえある虚妄というか。

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10.記憶以前(3) 

・・・・引き続き西洋社会とトランス。「個人」と「責任」。(と記憶)


ジョン・ロックの「法的個人」と”睡眠者”(スリーパー)

「ロックは、実際には二つのアイデンティティの概念があるため、区別をつけなければならないと考えた。ロックは、自らが法の概念と呼ぶ、記憶と責任に関係するもの「個人(パーソン)」という言葉を選んだ。彼は、ある程度は肉体的連続性に基づく概念をあらわすのに「人(マン)」という単語を選んだ。」


「ロックが唱えた、個人についての法の概念が持つ霊的な力をたどると、我々は少なくとも中世最盛期の十二世紀末から十三世紀にまでさかのぼることになる。
フランスの歴史家アラン・ブーロ?は、「睡眠者(スリーパー)」がこの時期の重要な現象だったことを最近の論文で論じている。これは、ある種のトランス状態に陥った個人をさしているらしく、その後夢遊と呼ばれたものと似た現象である。」


”睡眠者”(スリーパー)

「睡眠者が重要なのは、数が多かったからではなく、それが知的、形而上学的、更には神学的問題に近いものを引き起こしたからである。」


「睡眠者の示す行動は、暴力的なものか、少なくとも禁じられた行動であることが多く、目覚めている時の生活で見せるものとは性格と様式の点で異なるものである。睡眠症状の後で意識を取り戻しても、その時にした行動のことについては、せいぜい混乱した意識があるくらいである。」
「しかし彼らの行動は、意図的行動にしか見えない。このため、当時の形而上学としては、魂が活動していたに違いないということになった。しかしどの魂が?」


「トマス・アキナスの神学の信奉者は、一つの肉体には一つの魂しか存在しないと強く主張する。スコラ哲学的な心理学では、魂は個人の『実体的形相』だった。」
「ブーローの情報によれば、たとえば睡眠者が、通常の状態と睡眠状態のそれぞれに対して一つずつ実体的形相を持つという(中略)少数の反トマス主義者も存在した。」


「これは、責任の問題にとっては重要だ。睡眠者は市民法においては考慮された形跡はないが、教会法では注目されていた
一三一三年の資料によると、もし睡眠者が人を殺しても、罪を犯したという理由で、(正常な状態のときに)その人が、聖職機能から除外されることはないと述べられている。少数派の敗北である。こうして睡眠者は社会的に疎外され、病的なものとされるようになった。」
(アト注)責任能力の免除=存在の実在性の否定。


「支配階級的な哲学によって社会から疎外されると、睡眠者という概念は、直ちに法体系の外に置かれることになった。ブーローは、第二の実体的形相を備えた睡眠者という概念が、魔女の流行の始まりとともに再び現れ、その流行を支える土台の一部として機能したと論じている。」



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