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森勇介すげえ 

J1 第28節 浦和△2?2△川崎F(埼玉)

対面してるのは三都主だったから、抜けるのは当たり前と言えば当たり前なんですが、抜き方がえげつない。

よく「個人で打開」とは言いますが、そうは言っても実際にはまず全体の流れがあって攻撃の組み立てがあって、その中での駒として当てがわれた役割を遂行するというそういう連続性や義務感を身にまといながらでの「突破」なり「勝負」であるわけですよね。
でも森勇介のそれはなんか違って、勿論そういう要素が無いわけはないんですが、それ以上に”森ワールド”というか、ボールが渡った時点から初めて開幕する独自の”劇場”が存在して、そこではそれまでの流れやら組み立てやらの余韻や時間性はどこかに消えてしまって、ただただ森勇介の森勇介による森勇介のための(?)特権的なドリブルショーが無時間的に演じられる。本当に「個人」なんですよね。

とにかく厚かましさが半端じゃなくて、具体的には特に一発で抜けなかった時の『仕掛け直し』が全くもって悠揚迫らぬマイペースで、対面する相手もチームメイトの存在もまとめて無視している感じで、それで思惑どおりに抜き切られた日にゃやられた方にはほとんどレイプされたようなとんでもない屈辱感が残るんじゃないでしょうか。いつもは彼なりの厚かましさが売りの三都主ですが(笑)、2度3度とそれをやられた姿は余りに哀れを誘って、早めに相馬に代えてやったブッフバルトの慈悲(?)には僕からも感謝の気持ちを捧げたいと思います。

・・・・相馬と言えば彼も一般には「強引」で「わがまま」な突破への固執が特徴なわけですが、実際にはあれはむしろ真面目さ、役割や”あるべきプレー”のイメージへの過剰な忠実さによるのであって、”マイペース”というのとは少し違うと思うんですよね。


話戻して森勇介。
李さんに引っ張られてヴェルディの右サイドに置かれていた当時は、攻守ともにとにかくわけが分からない、脈絡が見えない、恐ろしく何にも出来ない選手で、なんでサッカー選手やってんだろうくらいな感じでしたが。その後の仙台・京都という移籍先でもプレーは多少マシになりつつも、今度は突然爆発して暴れ出す稀代のカードコレクターとして鳴らし、例の『警告の多さを理由に解雇される』というJリーグ史に残る壮挙を成し遂げたわけですが。
とにかく名前を見かけるたびに、「まだ現役やらしてもらってるんだあ」というのがまずもっての率直な感想というそういう選手で。

それがここ川崎Fに来ての本格化。”実用化”と言った方がいいかな。(笑)
恐らく時々いる「訳の分からない」日本人選手の中には、一定の確率でこういう言わば”超”日本人的な強靭なエゴ、甲斐性を持った貴重な選手が潜んでいるんでしょうねえ。開花することは稀ですが。上の”マイペース”だって見方を変えれば一種プレーへの責任感とも言えるわけで、日本人には欠けがちなタイプの。田原豊とか元気かな。町田は立ち直れないのかな。

あまり並べたくはないですが(笑)、李頭脳改革以前の石塚だって要するに「訳の分からない」選手だったですよね。
李さんと言うのはいわゆる”桐蔭組”的なポリバレントで分別臭い選手と、こうした森や石塚、桜井、キムヒョンソク、手を延ばして中澤あたりも含めた”スペシャルな”選手の組み合わせが上手かった、それをよく心掛けていたそういう監督だったなと思います。結果的に実用化以前の森勇介を引き受けさせられたヴェルディとしてはエラい迷惑だったわけですが(笑)。まあ不発の時もあると。
オシムも見習って欲しいと、最近の話の流れとしてはそうなりそうですけど。


まあいい試合、面白い試合でした。特に4つの得点シーンにこめられた狡智や機転が。
1点目の浦和ワシントンの体を預けてシュートの間合いを作って軽くプッシュしてコースを狙う得意のプレー、2点目抜け出した川崎マギヌンのキーパーと接触する直前に少しだけ持ち出してPKを誘った狡いという以上に巧いプレー、4点目スルーパスを出した浦和山田も決めたポンテも、どちらも通常のJ水準より一段細かくプレータイミングを把握して少しずつ時間をずらして成功率を高めていました。
3点目は問題の森のぶち抜きクロスにボランチ憲剛が迷わず追い抜いて飛び込むフロンタ定番のプレーですね。

全体として見ると浦和も川崎Fも絶頂時のクオリティではない、微妙にルーズな試合だったと思いますが、要所要所の頑張りと機転で締めるという成熟した、何かセリエAでも見ているような感じの試合でした。定期的に浦和の試合はJを越えてくれるので、見逃せないんですよね。


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哲学者の見る多重人格 

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム 記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム
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お久しぶり多重人格ノート更新。
イアン・ハッキング『記憶を書きかえる:多重人格と心のメカニズム』の”16.心と身体”より。
(1)古典編(2)現代編1(3)現代編2,3部構成まとめてのアップです。
・・・・実際は前2部は7月中にアップ済みだったんですが、告知してなかったので見た人は少ないでしょう。今回改めて。

「哲学者」というと何やら遠い存在のようですが、「心理学/精神医学的専門性」という観点からすれば、むしろ我々一般人の代表という立ち位置ではないかと。・・・・つまりは”門外漢による、直接は治療を目的としない比喩的興味本位的思索”という意味で。僕のこの作業自体も正にそういう面が強いわけですが。
(1)古典編では「多重人格」という衆目を驚かす現象との遭遇と受容の試みが、(2)(3)現代編ではそれを踏まえて「自己」や「個人」という日々我々が興味を持っている概念の、異なる立場による改革・捉え直しの試みが展開されていると、そんなところでしょうか。

特に問題となるのは(2)と(3)、多重人格という”衝撃”を受けて「個人とは(要するに)多くの構成部分からなる存在だ」と多重性・相対性の認識の徹底に至るデネットと、いや、それらの背後に更に「あらゆる自己の中心となる核が存在する」のだと粘り腰(笑)を見せるブロードの対立でしょう。

僕自身はどちらの言うことも分かるように思いますが、『多重人格』という実例のみを材料とする限りでは、デネットの方により大きな妥当性を感じます。
というかデネットのような認識というのは要するに多重人格という現代的な現象、事例群から導き出されるごくごく一般的論理的な帰結を代表するものであって、「強いて完全な統合は目指さない」という近年の治療の現場の趨勢などにもそれは現れていると思います。

またブロードが指摘した交代人格間における技能的な”基質”というようなものは、恐らくは記憶や学習の(長期/短期などの)多重構造や階層性という、より広く認められた概念・理論で当面容易に説明されてしまうものだと思います。
更に僕自身の関心から言えば、ブロードが見出したものは「自己や個人の根底」というよりは、むしろ「人間/ヒト全般の共通層」と言うべきものなのではないかと。結論が先行し過ぎて例の選択を失敗してるよオジさんというそんな感じです。

つまりまあ、一種の超時代的な主張という性格が強いんだと思いますね、ブロードのは。”カントの後継者だ”とは著者ハッキングの言ですが。必ずしも多重人格という実例に密着したものではない。究極的には正しいかも知れないけれど、当面は何とも言えない。
それに対してデネットのは正に多重人格という現象に触発されて導かれたもので、そういう意味での堅実さ、説得性がある。それだけとも言えますが。単なる現象論。


他の部分について言うと、デネットやホワイトヘッドが提示している”大統領””国家”という比喩は、実は10年だか15年だか前に初めて多重人格という現象の存在を聞いた時に、僕自身が咄嗟に思い浮かべた比喩でもあったりします。・・・・勿論僕は日本人なので、実際には”総理大臣”の方でしたが(笑)。国家、複合的な権力機構としての自分。

だから僕は大哲学者ホワイトヘッド並の知性を持っている、なんてことは言いませんが(笑)、要するに自己の本来的多重性や相対性といったことについての哲学的思考をめぐらしているタイプの人にとって、あるいはそうした予感を胸に生きていた人にとって、多重人格という現象は実に華々しくかつ痒いところに手が届く魅力的な比喩、現実からの贈り物であったわけですね。
正に「精神分析」「無意識(の発見)」以来の文化的影響力を持った便利ツール、心理学上の概念だと思います。(迫るものとしては「自己同一性」とか「自己実現」とか。嫌いですけど。)

・・・・本編は実際は内容的にほぼ倍の分量があるのですが、あまりに”多重人格論”から離れて高級過ぎる、哲学史的背景を要求し過ぎるきらいがあるので思い切って割愛しました。むしろ著者が本当に言いたいことはそっちにあるようですが。
ちなみに『心と身体』という章のタイトルの意味は、その全編を読んでもさっぱり僕には分かりませんでした。色々と言いたいことはあったけど詰め込み過ぎてよく分からなくなっている章なんだろうなという感じ。

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哲学者の見る多重人格:現代編2 

・・・・”16.心と身体”の(3)

スティーヴン・ブロード『一人称多数....多重人格と心の哲学』

根底に存在する単一の自己という観念を、デネットが心の底から否定したのに対し、ブロードは、そうした実体の必然性を固く信じていた。」


「多重人格の存在そのものが、形而上学的魂だとか、必然的に統一された自己だとか、超越的なエゴといった観念とは、矛盾するに違いない(ように見える)。」

「しかし、ブロードの議論は逆である。彼は、多重人格という現象そのものが、その多重性の下での統一を要求しているのだ、と主張する。(中略)ブロードは、超越的なエゴが存在するに違いないという結論を下す。」



「ブロードは、根底にある自己というものが存在すると考えているが、この観念を示すもっとも明白なモデルは否定する。」

「発見されるのを待っている
真の個人、つまりずっと前から存在していて、治療の中で明らかにされる、真の個人というものが存在とする考え(をブロードは否定する)

「初期のアメリカの記録者たち(中略)は、
本当の人格について、何らかの理念を持っていたようである。どの交代人格が、真のミス・ビーチャムなのか?彼女を育てよ、そして彼女が発見されたならば、それ以外のものには出て行くように命じよ

「これを踏まえてブロードは、分裂を起こして矯正を必要としているような、
本来の個人というものがあるはずだ、と論じている。」
(アト注)つまり”本当の人格”が隠れているのではなく、”本来の個人”が損なわれているのだという考え。


「真の自己ではなく、あらゆる自己の中心となる核が存在するというブロードの主張は、一人の人間が持つ複数の交代人格は、共通した基本的技能を持っているという観察から始まっている。それらは歩いたり、道路を横断したり、靴紐を結ぶことができる。それぞれの状態のときに、多大な再学習を要するようなまれな多重人格者ですら、普通の技能はほぼすべて保持している。」

「とすれば、交代人格どうしの持つ共通の技術に説明をつけ、共在意識を持った交代人格が相互に影響し合うことを可能にする、
基質のようなものが存在するに違いない。」


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