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金庸先生にくびったけ 

金庸

このあからさまに中国人顔の(笑)おじいちゃんの手による『武侠小説』と称せられる作品群に、今年の夏からこっち、僕の脳味噌は7割方占領されてました。
長編12編、短・中篇3編、ようやく読了。以下大々的に紹介したいと思います。(金庸Wiki)


まず初めにこの”金庸体験”が僕にどんな影響をもたらしたかですが・・・・

一つ。
これまでの読書生活の間に形成された、「小説」なり「ストーリー」の”面白さ”というものに関する暗黙のリミッター、相場が破壊された。ここまでやって/望んでいいんだ!

一つ。
上の内容でもあり結果でもありますが、「ドラマチックな」「ベタな」展開・構成一般に対する僕の忌避感・照れ・躊躇いのようなものが解きほぐされた。やっちまえばいいんだ、やっちまえば。・・・・まとめて言うと「ストーリー」に関する視野が大きく広がった。

一つ。
古代はともかく、近年の中国に対して否応なく醸成された来た僕の悪感情がきれいに拭い去られた。もう二度と”嫌中”には戻れない。金庸先生を生んでくれてありがとう!

一つ。
中国文化の偉大さ・究極性を改めて実感。やはりダテに「中華」は誇っていない。日本文化なんて結局は中国文化の影、あるいは不徹底なものでしかないという面は確かにある。

一つ。
その中国文化の普遍的な”偉大さ”への敬意の一方で、日本文化のローカリティへの”愛おしさ”も同時に深まった。やはりここは東亜の桃源郷であり、神国である。芙蓉であり不二である。ナンバーワンではないがオンリーワン(笑)、そうあるべきだ。

・・・・いや、実際ね、それで丸く収まるなら現代版冊封体制も悪くないんじゃないかと。”リーダー”って柄じゃないよ日本は。ナイーブなのがいいところ。


全体の構成はこんな風を予定しています。
 1.(金庸)武侠小説の基礎知識。
 2.全作品レビュー。
 3.各論。コラム。


詳しくは2の項でやりますが、早速読んでみたいという気の早い人の為に(笑)先に翻訳版の作品リストと最低限の案内を掲げておきます。どの作品とどの作品がどういう関係にあるか。

書剣恩仇録(’55)→飛狐外伝(’60)→雪山飛狐(’57)
 『書剣』のキャラが『外伝』にゲスト出演。発表が後の『外伝』は『雪山』の”前日談”。
碧血剣(’56)→秘曲 笑傲江湖(’67)→鹿鼎記(’69)
 『碧血』と『笑傲』は剣術門派の名前でうっすらと関係している程度ですが、『鹿鼎』は『碧血』の設定と地続きでキャラも年取って登場、『笑傲』のキャラも実在の人物として『鹿鼎』の中で名前が出て来ます。
射英雄伝(’57)→神剣侠(’59)→倚天屠龍記(’61)
 そのものずばり続きもの。
連城訣(’63)
天龍八部(’63)
侠客行(’65)
越女剣(短編集。’61,’61,’70)
 『鴛鴦刀』(’61)という一編が『碧血剣』の後日談的設定。

さてどれから読むべきかですが、僕がランクづけするとこんな感じ。

A:碧血剣、射英雄伝、天龍八部、秘曲 笑傲江湖
・・・・典型性、面白さ、他の作品との関係性で。
B:書剣恩仇録、飛狐(どちらでも)、連城訣、侠客行
・・・・『書剣』は記念すべきデビュー作ですが、色々と中途半端なので発表順命の人以外には薦めません。十分に面白いんですけど「これが金庸だ」と胸を張るには躊躇いが。『飛狐』2編は発表順、時系列順、どちらでもいいと思います。
C:神剣侠、倚天屠龍記、鹿鼎記、越女剣
・・・・前3つは続編であり、また『鹿鼎記』は傑作ではありますが”反・武侠小説”とも言われる上級者用の作品。『越女』は読む必要自体が基本的になし。

でははじまりはじまり。

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武侠小説とは/定義 

基礎知識編の1。


”武侠小説”とは

”武”術を身につけたor”武”芸で身を立てている”侠”客(大義・正義や友情・同情心を優先的な行動原理として、自己犠牲を厭わず生きる人)たちの活躍を描く小説。
中国語圏における広い意味での歴史小説の1ジャンルで、かの『水滸伝』あたりを源流とし、近代においては古派:1920?30年代、新派:1950年代?現在と二度の隆盛期を持つ。金庸は新派の第一人者である。
(武侠小説Wiki)


”侠客”について

基本的には精神のありよう、そういう心意気を持った人への尊称であり、特定の職業を指すわけではなくまた必ずしも武術・武芸が出来るわけではない。”武”と”侠”は元来は別の概念。
例えば日本史の例で言えば、「死罪の運命を承知しながら、困窮する農民の為に百姓一揆の先頭に立つ庄屋や名主」などは、武芸は出来なくとも立派な”侠客”と呼ばれる資格があるでしょう。

同じく日本の例で言うと、”侠”の字ですぐ思い浮かべるだろう”任侠”の徒も、「弱きを助け強きを挫く」(そして素人衆には迷惑をかけない)という矜持を保っていた古き良き時代ならば、”侠客”の名に値したかもしれません。あるいは「富者から奪い貧者に施す」”義賊”の類も、もし実在したならこのカテゴリーの一端を担わせてもいいかもしれません。

武侠小説内の実際の用法としては、必ずしもこういう目立った壮挙をやらなくても、義に厚いという定評のある名の通った武芸者なら、おおむね”侠客”として扱われるようです。


”江湖”と”武林”

”特定の職業を指すわけではな”いと言いましたが、一方ではっきりした社会階層的な特徴もあります。それは
(1)非官吏、反政府の民間人である。(例外もある)
(2)たいていは武術の一門か互助的な結社か、そうでなければ職業的用心棒組織に属している。(”義賊”行為自体は肯定されるが、職業としてはやはり公には認められない。)

(1)は一つには伝統的に中国は汚職大国であり、役人は悪とほとんど決まっているから。
そしてまた(金庸作品における)基本となる侠客たちの最も主要な”義”のテーマが、元・清両異民族王朝を筆頭とする時の抑圧的な/腐敗した王朝に抵抗することに置かれているから。

こうした民間の武芸者・侠客たちの織り成す生活世界をまとめて”江湖”と呼び、その中の特に武術各派(”少林派”などが筆頭)が構成する武術に特化した部分を”武林”と言う。

・・・・ただしこうした人たちの生活実態が細かく描かれることは稀で、何して暮らしてるのか謎な人が多いです(笑)。そこらへんは問わないという、ジャンルの約束事。
(ちなみにちょいちょい出て来る「元手いらずの商売」とはずばりド○ボーのこと(笑))


[参考文献]

武侠小説の巨人 金庸の世界 武侠小説の巨人 金庸の世界
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『男組』とジャッキーチェン 

基礎知識編の2。武侠小説についてのより直観的な説明。


流全次郎

『男組』=”武侠漫画”?!

見る限り誰も指摘していないようなので僕がしますが、日本人に”武侠”もの(小説)とはどういうものかを直観的に説明する上で、作・雁屋哲、画・池上遼一によるかの名作コミック、『男組』ほど相応しいものはないんじゃないかと思います。
ていうか主人公流全次郎の太極拳&八極拳や、強烈な印象を残した敵キャラの”蟷螂拳”など、現代/リアリズム設定の中での中国拳法の奇妙なまでの重要な役割から推察するに、雁屋先生がいずれかの時期の武侠小説に大きなインスピレーションを受けたのはまず間違いないだろうと思います。

そうです、あれです!
あの流全次郎と”五家宝連”との命懸けの兄弟愛・同志愛、”関東番長連合”総長堀田さん(名前だけで涙が・・・・)の分厚い義気、あれこそが「侠客」の世界です。流の勢力基盤が”少年刑務所”という日陰の世界だというのも、いかにも”江湖”っぽいですし。
軍艦島での「謎の師匠」との葛藤とその後の武術の手ほどきなども、非常に典型的なエピソードです。

それぞれに特技を持った多士済済の織り成す、男たち(と女傑たち)のいちいち強烈な(笑)情念の世界。インスパイアどころかオマージュ、あるいはそのものずばり武侠小説の少年漫画への移植の試みだったのかもしれないとさえ思います。

・・・・ただし文体としてはああいうリアリズム的なものを考えてしまうとちょっと違います。基本的に時代ものであり、伝統大衆小説なので、作家によって多少の違いはあれおおむねは様式美、舞台劇的な”お話”の世界です。あちらでは「大人の童話」と言われたりするそうですが。


酔拳

武侠小説=”カンフー映画の小説版”?!
(”文体”問題つづき)

順番としては逆なわけですが。つまり武侠小説を原作とした、あるいはそのような伝統を背景として成立したのが香港を中心とする「カンフー映画」の世界なわけで。
ちなみに”カンフー”とは基本的に素手の武術/拳法のことを指すので、刀剣飛び道具等、あらゆる得物による武術が同じくらい活躍する武侠ものを指す言葉としては、厳密には正しくありません。ずばり「武侠映画」という言葉もありますが、日本人にはほとんど馴染みがないので。

実際のところあちらでの金庸はこちらの司馬遼太郎や池波正太郎ばりの「原作」の大供給源で、TV・映画問わず無数に映像化されていますが(参考)、ほとんど見た人はいないと思うので我々にとっても青春である慣れ親しんだカンフー映画の方の比喩で。
特にジャッキーを挙げているのは「ブルース・リーではない」という意味です、主に。ああいうアメリカナイズされた即物的でスポーティなのを思い浮かべてしまうとちょっと違います。『少林寺』『HERO』ならまずまず。意外と『少林サッカー』も。(笑)

言いたいのは
・ストーリーの中に格闘シーンがあるのではなく、格闘シーンを見せるために、無数の格闘シーンを繋げた/包み込むものとしてストーリーがあるということ。
・格闘シーンにおける中国武術自体の文体、リズム感、空気感、世界観etcが、そうでないパートも含めて全編を貫いている。戦うように、舞うように話が進む。調子の良い大娯楽小説であると同時にポエティック(詩的)でもある。

・・・・2番目の項目は、ジャッキーのある時期までの映画にあるあの感覚です。ブルースは”現実”を感じさせてしまいますからね。
特に金庸は文学史的に意識して伝統に寄ってるので、結構京劇的・ジャッキー的です。かなりアホっぽい面があります(笑)。コメディではないんですが。


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司馬遼+京極+ドラゴンボール? 

db

解析によるとエキサイトの中国語翻訳ページなんてものがリンク元としてあったので、どうやら中国人か中国人の友達のいる日本人にもこのページが目に留まっているらしい。
これはいいかげんなことは書けませんね。書きますけど(笑)。多分。

基礎知識編の3。”作家”金庸について。


「司馬遼太郎」成分

・国民作家。歴史認識の叩き台。
・出身は新聞人。(司馬遼は元・産経記者。金庸については後述。)
・それほど独創的ではないが、十分に柔軟で多面性を持った歴史解釈。穏健な相対主義と、健全な民族主義


「京極夏彦」成分

・輸入文化としての西洋/近代小説の影響を意識的に限定して、文明開花以前のドメスティックな小説(京極なら江戸期の滝沢馬琴とか)の伝統・文体との再接合を意図。
・妖怪変化の如く(笑)、立ち過ぎるほどにキャラの立った多彩な登場人物たち。
・長い。


「ドラゴンボール」成分

・”幻想の中国”仕様。(中国人ではあるが近代人でもある金庸にとっても、中国伝奇世界はある意味十分にノスタルジー、エキゾチズムの対象)
・運命→困難→修行→打開→成長のシークエンス。
・奇想天外な常軌を逸した戦闘力設定。ある意味修行/超人化過程が一番の見せ場。


(金庸という人)

・(本名の)「査」一族という、歴史資料にも出て来るような、本式の知識人階級/家系の出身。
・本土の生まれだが戦中戦後の混乱の中で移住を繰り返し、香港を活動の主な拠点とする。
・本質的には政治評論家で、最初外交官を目指すも学校においても政府に対しても、常に体制側と衝突を繰り返してコースに乗れず、結局断念。
・代わりにジャーナリズムの世界に入り、初め『東南日報』、次いで『大公報』というメジャー紙で政治・文化記事を書き、後者の「新聞小説」欄を埋めるためというきっかけで作家生活をスタート。
・のち『大公報』の左傾化(共産党との癒着)に抗議して退社、自ら『明報』という新聞を主幹し、そこの社説と新聞小説欄を掛け持ちで双方毎日執筆するという、超人的なスケジュールの中で作家生活を送る。
・小説家としては’69年『鹿鼎記』をもって絶筆。以後は香港返還時の準備委員や大学の歴史学の教授などとして活動。


(作家金庸の特徴)

・当初から「作家」であることをさほど大きなアイデンティティの源としていないので、その分思想的にも文学史的にも、一歩引いたジャーナリスティックで客観的なスタンスが特徴。
・上に書いたように知的サラブレッドで、筋目立った豊かな知識・教養を自然な形で持ち合わせている人。
・従ってその作家生活は、ロマン的衝動的自己探求的色彩が薄く、言わば最初から完成された作家が適宜順番にその引き出しを開けていったというような印象を強く受ける。
・文学的な意図としては、既に書いたように一種の古典復興/文芸復興、「過度に西洋化して痩せ細った中国文学を、(民衆的)伝統との再接触で活性化させる」というようなものが見て取れる。その動機となっているのが、くだんの健全な民族主義


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こってり中華 

満漢全席

金庸基礎知識編のラスト。
”満漢全席小説”なんて形容をしている人がいましたが、ボリュームたっぷりゴージャスなのは確かなんですが、さりとてそれほど真っ向から”高級品”という感じでもなく、むしろざっくりかき込める気安い感じが素敵な(笑)金庸先生の魅力を具体的に紹介。


やけくそのように獰猛な娯楽性

一言で言えばこれですが。
教養がどうだ、歴史観がどうだとかは、読んでる時はてんで関係ありません。僕もこと小説に関してはほとんどエンターテイメント系一本の快楽主義的な人ですが、少なくとも日本人のものでこんな下品な(褒めてるんです・笑)のは読んだことありません。

パッと見てすぐ思ったのは、「これマンガやん」ということでした。勿論幼稚だとか下らないということではなく、日本の漫画家が日々編集者から受けている、恐らく小説家のそれとは比べ物にならない苛酷な『面白さ』の要求水準のプレッシャーを、社主でもあるはずの(笑)金庸先生は当たり前のものとして引き受けて実現しているということです。
これには日中の出版事情/歴史/文化の違いが大きく関係しているのだろうと思いますが(それについては各論で)、ともかく”小説”という媒体でここまでマンガ並みの問答無用の面白さ・娯楽性が実現できるというのは、こうして実例を見せてもらうまで思いもよりませんでした。

具体的には
 1.会話/セリフの漫才ばりのトリッキーで攻撃的なユーモア。
(一方で状況・心情説明は照れ臭いくらいに平明)
 2.格闘シーンを筆頭とする、描写&シーンの構成の幾何学的or音楽的なまでの緻密さ、構築性。(しかしテンポはあくまで迅速軽快)
 3.見せ場見せ場また見せ場。「緩急」は見せ場どうしのコントラストでつける。
 4.「ふざけんなよ!」と跳ね起きてしばしば読書を中断せざるを得ない(笑)、馬鹿馬鹿しく意外なストーリー展開。

1.ダイアローグ→2.シーン→3.シークエンス(エピソード)→4.ストーリーと構成要素として小さい順に挙げてみましたが、これは偶然ではなくて基本的に小さい方から大きい方へ、「部分の総和(+α)が全体となる」式の発想で作られているタイプの小説だと思います。
勿論エンターテイメント・ストーリーの基本としての必要十分な「ミステリー」性は踏んでいますが、一部の作品を除いて(後述)いわゆる日本でメジャーな「ミステリー」的な”構成美”のようなものはほとんど意識されていません。”全体”の見映えに”部分”を従属させたりはしないというか、完成度の為の完成度には興味が無いというか。そこらへんが大部ではあっても気楽に読めるところで。いつでも見たまんまを楽しめる。

一つには「毎日連載の新聞小説」という形態によるでしょうが、根本的には作家としての金庸の体質、または小説というものに対する考え方によっているように思えます。(多分後述)


”名物”修行エピソード参考

『ドラゴンボール』にもかの「カリン塔」や「界王星」などでの印象的な修行エピソードが数々ありますが、それでも「強くなりたい悟空(たち)が師匠にお願いして修行をつけてもらう」(または自分でする)という基本は不動なはずです。しかし金庸の悪戯心はその基本さえにも捻りを利かせます。

つまり
 ・本人は修行してるつもりがなかったり、
 ・師匠は修行をつけてるつもりがなかったり、
あまつさえ
 ・本人は強くなりたいとは毛ほども思ってなかったり
という根本的な欠落がありながら、なぜか気が付いてみると独創的な天下無敵の武術を身につけているという、これがむしろスタンダード。その過程の描写が凄い。

まあしかし毎度次から次へと呆れるほどけったいな修行プロセスとけったいな武術を考え付くものだと感心しますが、それらが少なくとも作品内では結構な完成度の論理性を持っているのでつい説得されそうになります。よい子はマネしないようにねという感じです。(笑)
特に言及はされてませんが、恐らくこの部分には作者の相当の情熱が込められているのではないかと思います。考えるの楽しくて仕方がないんじゃないでしょうかねえ。読んでる方は尚更。読み慣れると来た来たという感じです。(笑)

・・・・もう一つ、というより最大の名物であり売りである”格闘/武術シーン”については、書きたいことが沢山あり過ぎるので各論で。これ以上漠然と面白さを説明していても仕方がない気がしますので、ここらで切り上げて次からはいよいよ作品レビューへ。


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シトン in レッズ 

J1第32節 浦和レッズ○3?0●ヴァンフォーレ甲府(埼スタ)
 得点者:ワシントン(後半1分)、山田(後半19分)、ワシントン(後半23分)


ここ数試合、「審判へやたら苛立ちを示すようになる」「シャカリ気になってかえってシュート精度が落ちる」と去年後半のヴェルディでの時とウリ二つのような悪い症状を見せていて、どうも根底には肉体的精神的スタミナの問題があるようだし、満更ヴェルディだけが悪かったわけでもないんだなと僕に意地悪な悦びを味あわせてくれていた”浦和の”シトンさんでしたが。(笑)

今日も前半からパッとせず、ついには2回連続PK外し(しかも両方ともガッチリキャッチされるという屈辱的なもの)という大失態をやらかして、これはいよいよ瀕死かと思いきや。

どっこいそこはヴェルディとレッズの違いですね。ピッチに立っている限り嫌でもチャンスボールは出て来るし、何よりもワシントン一人瀕死でもあちこちでそれぞれにそれぞれの選手がちゃんとキャラを立てて勝手にゲームを進行させてくれるので、ヴェルディの時のように自分一人の世界にはまりこむ無駄な暇もなく、何だかんだとその内の2つをどかんどかんと決めて結果今日もやったぞワシントン、さすがだぞ最強ストライカーというそんな感じで大団円。
まあ甲府も緩かったしね。

正直”意地を見せた”というより”帳尻を合わせた”というニュアンスの方を遥かに大きく感じますが。レッズの復元力・・・・というより「半自動的な反攻力」(僕命名)がなかったら、取り返しのつかない失態には違いなかったはずですが。
悪い流れの中でも何気ないパス回しが一つ一つチクチクと攻撃的で、何だかんだと相手を休ませないんですよね。キツいよ、あれは。

”頼りになるけど頼りにならない”というシトンの微妙な感じはもうレッズ・ファンにも伝わってしまっていると思いますが(笑)、まあしかし、守られてますよね。幸せですよね。よかったねシトンさん。


色々いるけどどこにも特に重心がかかっていない。勝者のメンタリティはあるけど、”タスク”をこなしてるというよりはそれぞれが勝手にやりたいことをやって、それが全体として上手く補い合っているという、不思議な構造のチームですよね今年のレッズは。
監督、トゥーリオと強力な「リーダー」はいるんだけど、じゃあそのリーダーシップの元に結集しているのかというといやそれも別にという。仲良いんでしょうかね(笑)、不思議。

讀賣ヴェルディ川崎は、意外と「”一枚岩”のモロさ」みたいなものがありましたが。単一原理の浅さというか。
今なんかは単一原理でかつ一枚岩でもないから、悲しいもんですが。

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金庸全作レビュー:予備作業 

初めに翻訳版全13冊を、発表順に3つの時期に区切ってみることにしました。
(参考)(Wiki)

1.デビュー?確立期

書剣恩仇録(’55)
碧血剣(’56)
雪山飛狐(’57)
射英雄伝(’57)

2.盛期

神剣侠(’59) ・・・・射英雄伝の続編。
飛狐外伝(’60)
倚天屠龍記(’61) ・・・・射英雄伝、神剣侠の続編。
連城訣(’63)
天龍八部(’63)

3.自在期

侠客行(’65)
秘曲 笑傲江湖(’67)
鹿鼎記(’69)
越女剣(短編集。’61,’61,’70)


1.デビュー?確立期

書剣恩仇録(’55)でデビューして、日本でもPS版のゲームが出てたりする、初期の代表作にして屈指の人気作射英雄伝(’57)で完全に作風を確立するまで。

後の時期と比べた特徴としては、サービスなのか自信が無いのか、大義名分やら”教訓”やら、何かの時にとってつけたような後付けの小理屈が顔を出して、それが構成や結末のつけ方に少しギクシャクした感じを与えていること。まだ外聞を気にしている時期というか。
金庸自身の自我はとっくに確立していたはずだと思いますが、なまじもののはずみの余技の作家業なだけに(笑)、読者や文壇(?)への微妙なはばかりや媚びがあったのかなと思います。

一応人並みにスタイル的な試行錯誤のようなものもなかったことはないようですが、それも「やろうと思えば全部出来るけど、どれをどれくらいやったらいいんだろう」というかなり贅沢なレベルの話のように思います。苛烈な評論家である(後述)自分基準の満足不満足は別にして。


2.盛期

射英雄伝(’57)で確立した作風を基本に、自信を持ってそれぞれのテーマを展開しまくった時期。もう完全に読者も世間も文壇の常識も、”金庸ワールド”の方に引きずり込んで迷うところがありません。
この時期最後に位置付けた天龍八部(’63)は、3?4人の全く違うタイプの主人公をそれぞれに念入りに造型して、当時(中国”宋”代)の中華世界全域の国際性も華やかに、壮大で多彩な人間絵巻からタイトルにある仏教思想(『天龍八部経』)の精髄まで浮かび上がらせんと企図し・・・・てちょっと風呂敷を畳みきれなかった感もある(笑)意欲作ですが、ともかく作者自ら「集大成」を意識した作品であるのは間違いないでしょう。というわけで、ここに一つ区切りを。


3.自在期

天龍八部(’63)で一応やり切った金庸のその後。もう好き勝手。

侠客行(’65)は抱腹絶倒のかなり冗談のきついとぼけた作品。秘曲 笑傲江湖(’67)はこれでもかという、金庸娯楽テクニック大爆発の華麗な作品。”反・武侠小説”鹿鼎記(’69)は『武侠小説』のお約束をことごとくぶち壊して相対化した上で、それでもなお武侠の楽しみを追求してやり遂げたアクロバティックな作品。越女剣(’70)は・・・・おまけ。ミニマムにはこんなもんという、ある意味では(金庸)武侠小説の”使用前”をあからさまにする、貴重な作品集と言えないこともないですが。


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