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赤い書き初め 

今年もレッズとの浪漫飛行と、ラモスとの八十八か所巡り(?)の二本立てで行く予定ですので、どちらのサポ様にもどうか生温かくご寛恕のほどを。
天と地と。恋と情と。心とカラダと。(最後のはどうだろう)

でも未だにレッズ本スレどころか浦議も見たことのない人。


オジェック監督3バック継承(報知)

浦和のホルガー・オジェック新監督(58)が昨季J1最少失点を記録した「赤い牙城」の3―5―2システムを継承することを5日、明らかにした。「4バックへの変更?ノーだ。浦和は勝利者。成功している方法を急に変えることは選手を不安にさせるだけ」と、1月まで務める国際サッカー連盟(FIFA)技術委員として、第5回フットボールカンファレンスで講演を終えたオジェック氏は語った。
「プレシーズンや親善試合でじっくり見る機会はある」と話したが、闘莉王、坪井、堀之内で形成した鉄壁守備陣に信頼を寄せている。この日、スタッフ会議を済ませたオジェック氏はブッフバルト前監督の遺産を継承する


まあ内容的には何も驚くようなものではないですが。オジェックもドイツの人ですし、前回の監督時代にも正に鉄壁&鉄板的な3バックで成功しているわけですし。

ただ同じ”3バック”とは言っても3?5?2と3?6?1(3?4?3)はかなり性格の違うシステムだと思いますし、そして何より2006年のレッズの成功はその3?6?1の方の性格と不可分のものだったと思うので、そこらへんをある程度自覚しておいてもらわないと危険かなと、継承するにしても自分の色を出すにしても。

一方で本来「継承」というものは、無難なようでいてある意味一から作るより遥かに難しいところがあると思いますが(誰かの考えというものは結局その誰かのものでしかない)、幸いあれほど安定した憎々しい(笑)強さを誇ってはいても、’06レッズは決して完成度が高くも厳密でもないチームだったので、そういう意味ではそれほど神経質にはならなくていいので楽と言えるかなと。

ともかく時間が無いぞ!オジェック。

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’06レッズの”2” 

誰のせいでもなく(笑)書くタイミングを逃しつつあるので、急ぎでまとめてみます。
ともかくも’07チームの始動前に。


「がっちりしたシンプルな骨組」と「南米系のテクニシャン」(2/16)

この段階ではまだ「相補性」という、言わば通常のチーム作りの手法の範囲の観点で見ていたわけですね。(それも別に嘘ではないですが)

「硬く熱いレッズ」と「軟らかくスカしたレッズ」(4/12)

ここでは更に進んで「二重性」「並存」「交替」というような、よりリスキーで複雑な構造を見て取っています。それゆえのポテンシャル、可動性。
(補足)
似てますが同時期にこんなことも考えていました。
『Jで一番気の強い選手たち』(都築、闘莉王、鈴木啓太、長谷部)と
『Jで一番巧い選手たち』(小野、三都主、ポンテ、ワシントン)の集まり。
そりゃ強いわと。


・・・・以上を最も中心的な二重性として置きつつ、その周辺。

「テキトー」と「懐の深さ」(3/20)

二重性が持たらす柔軟性。単一原理でないタフさ。

「縦へのベクトル」と「パス回しの感覚」(3/31)

戦術/技術レベルで見た二重性。


「勝者のメンタリティ」と「勝手さ」(11/23)

ある意味最も’06レッズの稀有なところ。偶発的な偉大性。

「個人レベルでの意外性」と「チームレベルでの意外性」の二段構え(12/3)

同上。狙って作れるチームじゃない。

「体質としての柔軟性」と「チーム作りの不徹底性」の混在(12/3)

その”狙ってなさ”の表現。
謎の名監督、「仕切れる天然ボケ」(笑)ギド・ブッフバルト。


「都築正GKのレッズ」と「山岸正GKのレッズ」(Before/After 4/29)

多分にイメージ的、象徴的なものですが。
でも’06レッズが序盤の目に見える娯楽性を出し惜しみ(?)するようになったのは、ちょうどこの正GKの不慮の交替劇と時期的に重なっているように思うんですよね。
天高く舞い上がる(そしてちょいちょい戻って来ない)都築と、どっしり地に腰を据えて動かない山岸と。
いわゆる”キックの精度”(の差)が具体的にどれだけ影響しているのかは微妙ですけど。無くはない、くらいか。


おまけ

「現実のJ2」と「夢のJ1」(2/16)

僕的立ち位置。(笑)


「出国前小野」と「帰国後小野」のそれぞれの時代のサッカーの違い(3/23)

旧オジェック時代?エメ/達2トップ的な電撃カウンターサッカーと、”ゆったりしたダイレクトパスの交換によるパスサッカー”のあんまりなギャップ。


「人為」と「天国」(3/27)

まあなんつうか。有限と無限。


・・・・後半に続きます。ちなみに一回も名前を出したことはありませんが、堀之内のプレーにもいたく感動しておりました。いい意味で、最高の意味での”優等生”。真面目で賢くて何が悪い。

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リンク『金魚雑記』 

全然忘れてはいませんが、更新の順番待ち(気が多いもんで)で放置気味のこのブログをブックマークして下さっているブログを解析で発見しました。

『金魚雑記』さん
http://jinyuhutong.blog57.fc2.com/
ありがとうございます。

しかしブログの説明文を読むと”「神雕侠侶」について考察するブログ”とのことなので、影響を排除するために僕の方が書き終わるまでは中心部分は読めませんね。(笑)
次の次の次か。まだ先だな。

語りますよお?僕も。「神雕侠侶」は。一番好き、ないしは一番思い入れありますから。
ていうか客観的に見て一番の問題作なんじゃないかと思いますけどね。異色作というか。

・・・・しかしつらつらと『金魚雑記』さんのようなブログやそこの掲示板なんかを見ると、結構ディープなシーンが既に形成されている気配を感じてびびります。俺なんかが能書き垂れていいのかなと。
多くは僕の見ていない映像版をきっかけとしてたりもするみたいですけどね、2chの海外テレビ版のスレッド数なんかを見ても。

まあ僕は僕で、半端にリサーチなんかせずに蛮勇を奮っていくという今まで通りの方針で行くつもりですが。多分その方が面白いものが書ける可能性も高いでしょう。
ではまた。近い内に。


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「現実」のレッズと「形而上」のレッズ 

ヴェルディのことを考えてると頭が豆腐になりそうなので、こっちの”宿題”を片付けちゃいます。(前編/『’06レッズの”2”』)

”形而上”のコントラストとしては「形而下」の方がいいのかもしれませんが、言い出しっぺの(笑)石塚さんの用語法(コメント欄)を尊重する形で。”現実”の方に(”現実”と”理想”のように)合わせるのは無理、ということはこれから書くことで分かると思います。
・・・・まあ”言い出しっぺ”とは言っても勝手に引き取って自説を展開するだけなんですが、合ってるかどうかはともかく、理解はしてもらえるだろうと信じてます。(笑)

一言で言えば、一人浮かれてる僕を尻目に(笑)、ある種世論として定着している、「’06レッズは強いだけで退屈」という言い方に対する一つの回答です。


現象だけ見ればレッズがゴージャス・パス・サッカーを前面に展開していたのはだいたい5月のGWくらいまでで、以後は堅い堅い守備と強靭な精神力、及びピンポイントの個人技でしぶとく確実に勝ち点を積み重ねていく、そういうある意味よくあるかわいくないチームだったわけです。(たまには爆発もしましたが。)

ただそうなってからも実は僕のレッズ像はほとんど変わらなくて、それはそういう目の前の1試合1試合の”退屈な”戦いと同時進行で、常に僕の頭の中(形而上)には”ゴージャス”レッズが存在し続けていたからです。
トチ狂ってる?深情け?現実逃避?いやいや。逃避するくらいなら素直に寝ますって僕は。

ポイントはその「形而上」と「現実」との関係、遊離の性格の問題で。
つまりあるサッカーチームの「現実」から目を逸らす時(おいおい)、その”逸らす”方向としては大きく分けて2つ、『過去』『未来』にあるだろうと思います。
昔は良かった、またはあの時ああしてればというのと。もう一つはこのチームがこうしてこうなると行く行くはこうなるはずだ、なって欲しいなみたいなのと。『追憶』『夢』というか。(詩人だなあ)

でもね、違うんですよレッズのは。非現実なんだけど現実なんです、過去でも未来でもなくて現在なんです。
どういうことかというとつまり
1.やろうと思えば(何かきっかけがあれば)、今目の前の”退屈な”チームがそのまま瞬時に”ゴージャス”ヴァージョンに変化(へんげ)出来る。#過去ではない
2.更に上はあるかも知れないとしても、序盤のレッズが一度は達成して見せたパス・サッカーのクオリティは、既にして脳を焼き尽くすレベルの十分に理想的な夢のサッカーだった。#未来の約束ではない

なんて言いますかねえ、’06レッズの「現実」と「形而上」は存在と非存在ではなくて、同時並行の二重存在、言わば中盤以降、常に僕は二重写しにレッズを見ていたというそんな感じで。ここらへんは継続的に見ていないとなかなか分からないところでしょうが。

まあ感触を忘れない程度には、以後もたまにその二重性は一致する瞬間(試合)がありましたしね。一方で終盤?天皇杯のレッズの崩れっぷりは、夢を見るのも困難なレベルのものでもあったわけですが。


要するに滅多に本気を出してなかった、と言ってしまうとあんまりなんですが。(笑)
ゴムボールねえ、なるほど。(書き足しました?)
多分石塚さんがコメント欄の時点で意味していたのは、「レッズを見ること」(現実)と「レッズについて考えること」(形而上)くらいのことだったんじゃないかなと想像しますが。

もう一つくらい書くか、それともいい加減茨の新シーズン(だよなあ)に頭を切り換えるか。どうしよう。


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『碧血剣』総評 

の、再読改訂版。


碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/04)
徳間書店

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『書剣』での”禊(みそぎ)”終了後の、真のデビュー作?!

正直前回デビュー作『書剣恩仇録』についてこんなこと(旧派武侠のラスト作)あんなこと(プレ武侠小説)を書いていた時点では、いいのかまた思い付きでそんなこと書いて、後で恥かかないかと心細い思いをしていたんですが、『碧血剣』を再読してみてその直観に間違いはなかった、少なくとも自分内では印象に一貫性はある、修正の必要はないとちょっと安心しました。

その一方で『射英雄伝』について書いた「『書剣恩仇録』でのデビュー時から、素直に延長していけばある程度書かれることが予測できるタイプの作品」という評価については、多少修正の必要があるというかあまりにも何の気なしに書き過ぎたなというそういう反省があります。
要するに『射』の集大成性、最大公約数性を強調するための記述だったわけですが、スタイル的には、作品の系譜的にはむしろこちらの第2作『碧血剣』の延長戦上にあるというのが素直な読みだと思います。文体的にも、馬鹿正直タイプの少年主人公の成長・冒険ストーリーという意味でも、また明らかに黄蓉の前身である男装好きの爆裂ファザコン小悪魔美少女夏青青の存在を見ても。

そう言えば『碧血』も『射』もどちらも「商報」系の掲載ですね。『碧血剣』が読者に好評だったので、似たようなのを一つということで、主人公の性格に”合わせ鏡”を付け加えて、脇役も豪華にして政治性の中身にも捻りを加えてと、パワーアップ版の”同工異曲”が『射』であると、そんな連載時の流れがあったのかも知れないなと想像しますが。

ともかく”プレ武侠”『書剣恩仇録』と”ポスト武侠”『鹿鼎記』に挟まれた、言わば金庸の「本体」の作品群の始点に位置する実質的なデビュー作、これが僕の推奨する(笑)『碧血剣』の位置付けです。


楽しきかな金庸

楽しい。とにかく楽しい。
ぶっちゃけあまり好きな方の作品ではない『書剣恩仇録』や『射英雄伝』と格闘を続ける内に少し忘れかけていた、金庸の楽しさ、自分がどんなに金庸が好きかということを思い出させてもらいました。

それが何かということですが、やれ鋭い歴史認識だ尋常でない豊かな教養だ、伝統中国小説の再発見者にして近代武侠小説の文学的地位の確立者だと金庸に捧げられる賛辞は数々ありますが、結局のところ僕が魅了されるのはそれら全てを背景にして尚、・・・・いやもっとはっきり言えば踏み台にして、ありゃ?何?と常に予想を裏切って突如飛び出すあっけらかんとした軽味、馬鹿馬鹿しさ、悪ふざけ、その跳躍力の途轍もなさ、無責任な楽しさなのですね。なーんてね、とか言われてる感じです。ちゃんちゃんという。

それらが所謂”作品的価値”かと言われると俄かには答え難いんですが(笑)、逆にそこらへんを見ないと意外と金庸は古臭かったりお子様向けだったり、現実にそういう評価があるようにそういう面も多いわけです。金庸が馬鹿だとは誰も思わないでしょうが、金庸作品があえて読むに値しないという評価は十分ありうると思います。
人類の叡智、中国四千年の知恵(笑)を振り絞っての悪ふざけ。大人だから分かる稚気の価値、頭のいい人にしか出来ない馬鹿。根底には「真面目になってもしょうがないよ」という”無常観””達観”があるんでしょうけどね。

構築主義的な作家ではあるのだけれど、本当に面白いのは壊れる瞬間、乱心する瞬間という変な人。


『碧血剣』の軽味

『碧血剣』自体について言えば、特徴的なのは自由さ、自然さ、そこから来る全般的な軽やかさというものが挙げられると思います。
それは一つは

・緊張のデビュー作『書剣恩仇録』で長年たまっていたものをとりあえず吐き出して日の光に当てて、整理整頓や再認識をひと通りすまし、かつその成果が世間に受け入れられた

という解放感と自信、それで得た自由。そしてもう一つは

・とはいえ初期(第2作)であるので、まずはオーソドックスに自分が書きたいと思う理想的・典型的な武侠小説の実現に素直に邁進している

という自然さ。

後者は特に、後の『侠客行』や『鹿鼎記』のような、”趣向”として意図的に「軽さ」を追求しているものとの比較において明らかだと思います。


・・・・一瞬『書剣恩仇録』への評価との差別化が分かり難く感じるかもしれませんが、簡単に言えば『書剣恩仇録』は”無雑作””無作為”『碧血剣』は”無邪気”ということです。態度として”無邪気”であるだけで、作品の構成的に未整理、無雑作なわけではない。むしろリラックスして分かり易く書けている。
ちなみに僕が第一稿で行なった「ビートルズで言えば割とあっさり出来ちゃったサージェント・ペパーズ」

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
ザ・ビートルズ (1998/03/11)
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という比喩は、元々『書剣』=早過ぎた『ホワイトアルバム』に引っ掛けて言っただけで大した意味はなかった(笑)んですが、(ビートルズが)「ひととおり世間に受け入れられた後の、闊達で無邪気な創造性の爆発」という意味でなら、一応比喩としてまだ生かせるかなと。

各論へつづく)


『雪山飛狐』総評(1) 

雪山飛狐 雪山飛狐
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/02)
徳間書店

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レビュー第3弾。
いずれどうなるか分かったもんじゃないですが、だいたいこんなパースペクティブで書いてます。はい。

さて『雪山飛狐』ですが、一巻ものと短いですが、意外に難物。むしろ無視してしまった方が流れとしては書きやすい。(笑)
一言で言って意義付けが難しいんですね。読み応えがあるないという意味では遥かに疑問の残る『越女剣』は、上の参考エントリーでも書いたように”金庸武侠の下書き”みたいな見方が実際出来ると思うんですが、『雪山』は・・・・。はっきり言って、バイオグラフィ的には存在しないものとしても全然支障が無いような。
いや、面白いは面白いんですけどね。

それについても一応僕なりの仮説を立ててみたので、後ほど。


”嵐の山荘”ミステリー?

『書剣”ホワイトアルバム”恩仇録』、『碧血”サージェントペパーズ”剣』にちなんで『雪山』もビートルズで例えてみると・・・・うーん、『イエローサブマリン』かな、ちょっと無理矢理だけど。
つまり一度はやってみたかった”嵐の山荘”ミステリー、一度はやってみたかった映画のサントラということで。

ただし”嵐の山荘”ミステリーとは言っても、別にそれによる「密室性」が主題になったりはしてませんけどね(笑)。あくまで雰囲気作りのレベル。
あえてミステリーということで言うならば、”複数の語り手による過去の事件の説明のズレが生み出す謎”という意味で、少し「叙述トリック」的なところはありますが。

いずれにしてもこれは一種のシャレ、若い時から西洋小説も好んで読んでいたという現代中国人金庸さんが、せっかく書き手に回ったのでちょっとやってみた同窓会的な趣向ではないかと。
伝統中国小説にも多分似たような趣向はあったんじゃないかとは想像しますが、そのテのミステリーを読んだ経験のある人には、明らかに欧米&日本の西側のそれの臭いが漂っているのは感じられると思います。

一方でその密室性/閉鎖空間性を前提に、「食料を捨ててしまうことで自分諸共ゲストを(飢えによって)皆殺しにする」というえげつない殺人手段が、個人的な怨恨ではなくて恩人への義理という動機によって、しかもいかにも当たり前のものとして計画されるというのはいかにも中国的、武侠的だと思いますが。他の小説ジャンルではなかなか説得力を持たせるのは難しいでしょう。


胡斐という”主人公”

ところでこの『雪山』の実質的主人公が、回想エピソードの中の胡一刀と苗人鳳の好敵手二人であることは論を待たないと思いますが、そこで問題になるのが書名にもあるように表向きの主人公である、”雪山飛狐”こと胡斐の位置付け。
ぶっちゃけ「主人公」としては随分落ち着かない扱いですよね。一巻ものなのにさんざん待たされて(しかもその間の話題の中心は自分ではない)登場した挙句、一応かっこいいところを見せて速攻で恋なんかもしますが、でもラストはアレですし。(笑)

ところがその一方で、妙に示唆的な細かい描写だなと思うところも僕にはあります。例えば

雪山飛狐と名乗るだけあって、普段ならば聡明で臨機応変な胡斐(p.316)

あるいは

胡斐は普段から悪人を徹底的にやっつける方である。(p.326)

といった記述。

”普段””普段”って、それを具体的に見せるのが作品てものでしょうが、そんな主人公の性格を全部作者が説明してしまって終わりってそれどうなの?金庸先生と、筋としては突っ込まなくてはいけないところだと思います。
特に前段部分は、なまじ「狐」と「聡明で臨機応変」との結び付きがイメージ的に魅力的なだけに、そこ見たいそこと、それこそ油揚げの臭いだけかがされた狐のような気分になります。(笑)

勿論あっさり言ってしまえば長さ的に書くスペースが無かったということでしょうが、ではならばなぜそんな構成になってしまったのかという。
そして何より不思議なのは、そういうストーリーテリングの定石的にはまずい書き方をしながら、実際に作品を読んで僕が金庸の説明に説得力を感じなかったかというと、実は感じたということです。(だから僕の”難癖”にピンと来なかった人も多いでしょう。)


(2)につづく。


『雪山飛狐』総評(2) 

(1)より。


『飛狐外伝』との関係

周知の通り、後に『飛狐外伝』においてこの『雪山飛狐』の言わば”前日談”が語られることになります。
「胡一刀と苗人鳳」の関係も含めて、飛狐シリーズの内容的なことについてはそちらの方で一緒に語ろうかと思ってますがそれはともかく。

なぜ明らかに駆け足の不十分な記述でありながら、(ラストを除けば)『雪山飛狐』の描写にそれなりの説得力が感じられるのか。それは、実は『雪山飛狐』の背後に既に『飛狐外伝』が存在していたからではないかと。
よく「書かないところまでちゃんと考えてから書け」(それによって厚味やリアリティが生まれる)と言いますが、その通り、金庸先生はちゃんと考えてあって、それであの程度の記述でも説得力が生まれたんですね、いやあさすが。

・・・・ではなくて(笑)。いや、そうなんですけど。
つまりですね、僕が思うに『飛狐』ストーリーは、最初から『雪山』と『外伝』両方を含めた、ひょっとしたらそれ以上の広がりを持ってまとめて構想されていたのではないかと。だから本来ならそういうものとして四巻ものなり何なりの規模でちゃんと展開されるはずが、諸般の事情で一巻分のスペースしか取れずに、それで無理矢理書く為の方便or動機付けとして”嵐の山荘”ミステリーという趣向に手を出したというそんな感じなのではないかと。


『射英雄伝』のとばっちり?

そこで冒頭に予告した「仮説」ですが。
次作ご存知『射英雄伝』は、スケール的にも完成度的にも、前3作と比べて頭一つ二つ抜けた押しも押されぬいきなりの「決定版」的な作品になります。技術的内容的には、何回も言っているようにそれまでの作品にも既に最初から十分なものはあったわけですが、何というか製作ベースが違うというかプロダクションが違うというか代わったというか、そんな感じ。気合が違う。

言わば書かれる前から代表作たることを運命付けられていたエリートで、だから尚更その前の『雪山』が味噌っかすに見えてしまう(笑)というか無い方が流れ的にすっきりするというか。”嵐の山荘”云々が技法的にその後に影響を与えたようにも見えないし、起・承・転・結の「転」にすらなっていない。

で、実際味噌っかすだったんではないかと。
つまりどういうことかと言うと、『飛狐』の構想と差のない時期に『射』の構想も出来上がっていて、こりゃ凄いということで(新聞の)連載開始時期も優先的に決まってしまって、それまでの場繋ぎとしての限られたスペースで『雪山飛狐』は書かれたのではないかと。それでバタバタと圧縮して書かれたのがあれで、でも内容的には十分面白いのでこれはこれでちゃんと世に出してやろうということで、後に書かれた”残り”の部分が『飛狐外伝』。

どうでしょう、この説。勿論何ら確証はありませんが。(笑)
よくよく見てみるとあの鬼の『神』の次作が今更『外伝』というのもどうも肩透かしですし、しかもそのすぐ後に『倚天』が来るわけですから、要するに『射』三部作の谷間に便利遣いされた幸薄い作品だと、そうまとめて『飛狐』ストーリーは考えていいのかもしれないですね。面白いのに。かわいそう。


・・・・なんか意外と当たり前のことを書いたような気もしてきました。(笑)
まあ今回はこんなところで。さくさくと次の”エリート”様の方へ行きましょう。
注目度が高いだろう”ラスト”問題は、面倒なので『外伝』レビューに先送り。実はまだ何も考えてません(笑)。分かんないよあんなの。まあなんかひねり出すつもりですが。


’07レッズ始動 

闘莉王、阿部合流 浦和が始動(スポニチ)

昨季リーグ戦、天皇杯の2冠を獲得したJ1の浦和が27日、さいたま市内の練習場で始動し、J1千葉から移籍した日本代表MF阿部も合流し、オジェック新監督の下で今季の初練習を行った。(中略)昨季得点王ワシントンらブラジル人3選手は休暇などのため遅れて合流予定。この日帰国した闘莉王は午後の練習から参加した。
 浦和は2月11日にオーストリアのザルツブルク遠征に出発。帰国後、同16日から鹿児島県指宿での合宿に入り開幕に備える。


何よりも闘莉王がちゃんといることを確認してひと安心。(笑)
去年はシーズンが終わるやいなや、出てく出てくと騒いでましたからね。三都主が抜けたダメージを天皇杯で骨身にしみたばかりですし、この上闘莉王の存在感がなくなるのは。阿部加入で、逆に混乱の可能性だって見えるわけですし。

ぶっちゃけあれです。終盤怪我しっ放しだったのが逆に良かったんじゃないかと思うんですけど。あれで移籍どころじゃないような感じに本人の周囲的にもなったんじゃないかと。密かに。商品価値的にも。
しかしわざわざザルツブルグに顔出しに行くのか。大変ねえ。V旅行?(笑)


浦和、新加入・阿部に“3人分”の期待!背番号は「22」(サンスポ)
レッズ愛だ!阿部「ベンツ売る」(デイリー)


見出しだけでお腹一杯になりそうですが。阿部クンね。

まあどう言いつくろったったって「少数精鋭補強」なんて補強としては失敗ですよねやっぱり。ヴェルディのファンには言わずもがなでしょうが。
”目玉”があろうがなかろうが、補強というのは一定のペースで粛々と毎年やり続けることに何よりの極意・効能があるわけで。ここ数年沢山獲ったからいいだろくらいに思ってるのかも知れませんが、そんな言い訳が通用するのもせいぜい今年のみ、今年ちゃんと成果を出さないと(出しても?)確実に報いは来ますよね。長年の蓄積が水泡に帰する可能性だってある。

というわけでレッズにも、阿部にも、それから去年だけで見ればほぼ無駄な補強だった相馬崇人にも、何やら最初から大きな負荷がかかってるような息苦しい感じのスタートですが。今年だけはとにかく結果を出さないと。結果を。内容やら何やらは出しながら作ってくしか。

でも何で海外じゃなくてレッズなんだろうと、ジェフサポに助太刀して今更訝ってみたりしますが。レッズのイメージも必要以上に落ちちゃったし、悪運背負って来たんじゃないだろうなあキミと心ないことを言いたくなったりして。

それでも大ギドなら全部まとめて包み込んでくれるんじゃないかというような甘い期待も抱けるんですけど、さてオジェックの真面目さがどう出るか。


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『射英雄伝』編にあたって 

ホームグラウンドとする汎用ブログでの軽い気持ちでの企画からの流れで、ここまで割りと当てもなく書いて来ましたが、金魚雑記さんとの出会い(笑)でどうやら自分の立ち位置、方向性が見えて来た気がするので、今後に向けての施政方針演説(?)的なものをいくつか。


1.僕はテクスト読みである(らしい)

自分的には自然に書いていただけでそれほど何かスタイル的な意識はなかったんですが、jin yuさんに言わせるとそうした安楽椅子探偵的な(?)面が際立ってるらしいので(笑)、そういう自意識で行くことにします。自分が何者かを決めるのは自分ではなくて他人である。(多分)

具体的には、既に読んでいる

(1)金庸の原典(翻訳版)
(2)標準的な参考書3冊
・『きわめつき武侠小説指南―金庸ワールドを読み解く』(徳間書店)
・『武侠小説の巨人 金庸の世界』(徳間書店)
・『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』(神奈川大学評論ブックレット)

の自分なりの読みを元に、そのタコ坪の底から(笑)解釈と想像を極限化させて、嘘かホントかは知らずとにかく一つの一貫した包括的な金庸像、作品の展開史を描き出してみるとそういうことです。やり切ってみる、ということが重要で、むしろこれはこれで一つのストーリー/お話であると、そういう風に考えていただけると。

ネット等巷の個別の情報や、過去の他の人の研究についてはたまたま耳に(目に)入っちゃったもの以外はあえて求めずにいく予定ですので、失礼や解決済みの問題への無用な言及などありましたら、笑って許してやって下さい。(事後の指摘は歓迎)


2.既読者、愛好者を対象とする

実は既に『雪山飛狐』編はあからさまにそうなっちゃってるんですが、元々は金庸を特には知らないだろう自分のブログの読者向けに書き始めたものなので、『書剣恩仇録』編と『碧血剣』編も基本的にそういうスタンスで書いています。ネタバレは極力しない&初読のガイダンスとしての作品の相対的性格付けがメイン、内容を知らないと分からない踏み込んだ作品論には手を出さない。

それで良くなった部分も中途半端になった部分もあるかと思いますが、専用ブログに移ってから色々と気分も欲求も変わって来たので、これからはもう、思い切ってそういう(↑)方針で行くことにします。・・・・まあ、そんなに変わらないような気もするんですが、いくつかは書けなかったことが書けるようにはなるでしょう。

というわけでそうですねえ、『神』まであげてひと段落した頃くらいですかねえ、いずれそういう基準で『書剣』と『碧血』も書き直したいという希望を持っています。
結構読み返すと恥ずかしい部分が(笑)。具体的には特に『書剣』の(その3)と『碧血』の(その1)。そこらへんはちょっと内容に踏み込めない苦しさが出てると自分で思います。


3.『射』ファン<(または”王道”金庸ファン)と『神』ファンの仲立ちを目指す

いかにもありそうなことだなとは思うんですが、金魚掲示板を自分の書き込みのついでにチラ見しただけでも、結構厳然と根深い溝がこの両者にはあるようで、微妙に胸が痛みます。
僕自身は熱烈な『神』ファンですが、あえてどちらが悪いかと言えば『神』が悪い、または例外的な作品なのだと思いますが。

ある意味では、金庸というペンネームの”作家”は『神』において、そのペンネームの下での読者との約束を破っているとまで言えるんじゃないかと僕は思うんですが、それはそれとして、それを前提として、それでも『神』を理解して欲しい、出来れば愛して欲しい、不要な対立はなくなって欲しいとそう願うわけです。

かなり思い切った書き方をする予定なので下手すると逆に溝を深めてしまうかもしれないですが(笑)、少なくともそれが「どういう”溝”なのか」を理解する助けにはなりたいと、そう思っています。


では次回からいよいよ本編へ。
今日はこれだけ?と憤慨するかもしれない人(約1名・笑)のために予告編をかましますと、大筋として次の3つの観点を重ね合わせて、『射英雄伝』を読み解いていく予定です。
 1.少年郭靖の”成長”ストーリー
 2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー
 3.東邪・西毒・南帝・北乞(+中神通)の四方位(人)が象徴する、中国的道徳/価値観の”曼荼羅”ストーリー

・・・・これだけで分かる人には結構分かっちゃうと思いますけどね。
勿論麗しの黄蓉もそれなりに”活躍”させるつもりですが(笑)、色々な意味で割りと補助的な存在だと僕は見ています。


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ムムム・・・・ 

オジェック監督は“まるでオシム”(デイリー)

J1浦和のホルガー・オジェック新監督(58)が30日、日本代表のイビチャ・オシム監督(65)も顔負けの“考えて走るサッカー”を選手にたたき込んだ。浦和は昨季、オシム・ジャパンに7人の代表選手を送り込んでおり、クラブでもオシム流を体現できれば、脅威の“赤い日本代表”へと進化することになる。

過去、FIFAの技術委員を務めた名将同士は、クラブと代表の違いこそあれ目指すサッカーは同じだった。(中略)千葉、代表でオシム戦術の核となったMF阿部が「似た練習なのかなと思いました」といえば、日本代表DF闘莉王も「代表に似てる?そういうところも多い」と認めた。


ムムム。
ギドより神経質に、生真面目になることは予測していましたが、こういう色ですか。
むしろもっとセーフティな方向に流れるんじゃないかと思ってたんですが。
”ドイツ”より”FIFA”という感じか。あるいは”カナダ”(注・元代表監督)、後発アングロサクソンの一生懸命/ハードワーク命のサッカー。


昨季は守備的戦術に不満を見せたこともあった闘莉王も「今年はもうちょっと楽しくできる」と、チームの進化を確信した。


あんだけ好き勝手やってて「楽しく」なかったんかい、闘莉王。
まあ闘莉王とか中澤とかは、常に何かしら不平不満をエネルギーに大きな仕事をするタイプだとは思いますが。

ていうか最近は「楽しい」「攻撃的」なサッカーというのはオシムみたいなのがデフォなの?


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