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赤い書き初め 

今年もレッズとの浪漫飛行と、ラモスとの八十八か所巡り(?)の二本立てで行く予定ですので、どちらのサポ様にもどうか生温かくご寛恕のほどを。
天と地と。恋と情と。心とカラダと。(最後のはどうだろう)

でも未だにレッズ本スレどころか浦議も見たことのない人。


オジェック監督3バック継承(報知)

浦和のホルガー・オジェック新監督(58)が昨季J1最少失点を記録した「赤い牙城」の3―5―2システムを継承することを5日、明らかにした。「4バックへの変更?ノーだ。浦和は勝利者。成功している方法を急に変えることは選手を不安にさせるだけ」と、1月まで務める国際サッカー連盟(FIFA)技術委員として、第5回フットボールカンファレンスで講演を終えたオジェック氏は語った。
「プレシーズンや親善試合でじっくり見る機会はある」と話したが、闘莉王、坪井、堀之内で形成した鉄壁守備陣に信頼を寄せている。この日、スタッフ会議を済ませたオジェック氏はブッフバルト前監督の遺産を継承する


まあ内容的には何も驚くようなものではないですが。オジェックもドイツの人ですし、前回の監督時代にも正に鉄壁&鉄板的な3バックで成功しているわけですし。

ただ同じ”3バック”とは言っても3?5?2と3?6?1(3?4?3)はかなり性格の違うシステムだと思いますし、そして何より2006年のレッズの成功はその3?6?1の方の性格と不可分のものだったと思うので、そこらへんをある程度自覚しておいてもらわないと危険かなと、継承するにしても自分の色を出すにしても。

一方で本来「継承」というものは、無難なようでいてある意味一から作るより遥かに難しいところがあると思いますが(誰かの考えというものは結局その誰かのものでしかない)、幸いあれほど安定した憎々しい(笑)強さを誇ってはいても、’06レッズは決して完成度が高くも厳密でもないチームだったので、そういう意味ではそれほど神経質にはならなくていいので楽と言えるかなと。

ともかく時間が無いぞ!オジェック。

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’06レッズの”2” 

誰のせいでもなく(笑)書くタイミングを逃しつつあるので、急ぎでまとめてみます。
ともかくも’07チームの始動前に。


「がっちりしたシンプルな骨組」と「南米系のテクニシャン」(2/16)

この段階ではまだ「相補性」という、言わば通常のチーム作りの手法の範囲の観点で見ていたわけですね。(それも別に嘘ではないですが)

「硬く熱いレッズ」と「軟らかくスカしたレッズ」(4/12)

ここでは更に進んで「二重性」「並存」「交替」というような、よりリスキーで複雑な構造を見て取っています。それゆえのポテンシャル、可動性。
(補足)
似てますが同時期にこんなことも考えていました。
『Jで一番気の強い選手たち』(都築、闘莉王、鈴木啓太、長谷部)と
『Jで一番巧い選手たち』(小野、三都主、ポンテ、ワシントン)の集まり。
そりゃ強いわと。


・・・・以上を最も中心的な二重性として置きつつ、その周辺。

「テキトー」と「懐の深さ」(3/20)

二重性が持たらす柔軟性。単一原理でないタフさ。

「縦へのベクトル」と「パス回しの感覚」(3/31)

戦術/技術レベルで見た二重性。


「勝者のメンタリティ」と「勝手さ」(11/23)

ある意味最も’06レッズの稀有なところ。偶発的な偉大性。

「個人レベルでの意外性」と「チームレベルでの意外性」の二段構え(12/3)

同上。狙って作れるチームじゃない。

「体質としての柔軟性」と「チーム作りの不徹底性」の混在(12/3)

その”狙ってなさ”の表現。
謎の名監督、「仕切れる天然ボケ」(笑)ギド・ブッフバルト。


「都築正GKのレッズ」と「山岸正GKのレッズ」(Before/After 4/29)

多分にイメージ的、象徴的なものですが。
でも’06レッズが序盤の目に見える娯楽性を出し惜しみ(?)するようになったのは、ちょうどこの正GKの不慮の交替劇と時期的に重なっているように思うんですよね。
天高く舞い上がる(そしてちょいちょい戻って来ない)都築と、どっしり地に腰を据えて動かない山岸と。
いわゆる”キックの精度”(の差)が具体的にどれだけ影響しているのかは微妙ですけど。無くはない、くらいか。


おまけ

「現実のJ2」と「夢のJ1」(2/16)

僕的立ち位置。(笑)


「出国前小野」と「帰国後小野」のそれぞれの時代のサッカーの違い(3/23)

旧オジェック時代?エメ/達2トップ的な電撃カウンターサッカーと、”ゆったりしたダイレクトパスの交換によるパスサッカー”のあんまりなギャップ。


「人為」と「天国」(3/27)

まあなんつうか。有限と無限。


・・・・後半に続きます。ちなみに一回も名前を出したことはありませんが、堀之内のプレーにもいたく感動しておりました。いい意味で、最高の意味での”優等生”。真面目で賢くて何が悪い。

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リンク『金魚雑記』 

全然忘れてはいませんが、更新の順番待ち(気が多いもんで)で放置気味のこのブログをブックマークして下さっているブログを解析で発見しました。

『金魚雑記』さん
http://jinyuhutong.blog57.fc2.com/
ありがとうございます。

しかしブログの説明文を読むと”「神雕侠侶」について考察するブログ”とのことなので、影響を排除するために僕の方が書き終わるまでは中心部分は読めませんね。(笑)
次の次の次か。まだ先だな。

語りますよお?僕も。「神雕侠侶」は。一番好き、ないしは一番思い入れありますから。
ていうか客観的に見て一番の問題作なんじゃないかと思いますけどね。異色作というか。

・・・・しかしつらつらと『金魚雑記』さんのようなブログやそこの掲示板なんかを見ると、結構ディープなシーンが既に形成されている気配を感じてびびります。俺なんかが能書き垂れていいのかなと。
多くは僕の見ていない映像版をきっかけとしてたりもするみたいですけどね、2chの海外テレビ版のスレッド数なんかを見ても。

まあ僕は僕で、半端にリサーチなんかせずに蛮勇を奮っていくという今まで通りの方針で行くつもりですが。多分その方が面白いものが書ける可能性も高いでしょう。
ではまた。近い内に。


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「現実」のレッズと「形而上」のレッズ 

ヴェルディのことを考えてると頭が豆腐になりそうなので、こっちの”宿題”を片付けちゃいます。(前編/『’06レッズの”2”』)

”形而上”のコントラストとしては「形而下」の方がいいのかもしれませんが、言い出しっぺの(笑)石塚さんの用語法(コメント欄)を尊重する形で。”現実”の方に(”現実”と”理想”のように)合わせるのは無理、ということはこれから書くことで分かると思います。
・・・・まあ”言い出しっぺ”とは言っても勝手に引き取って自説を展開するだけなんですが、合ってるかどうかはともかく、理解はしてもらえるだろうと信じてます。(笑)

一言で言えば、一人浮かれてる僕を尻目に(笑)、ある種世論として定着している、「’06レッズは強いだけで退屈」という言い方に対する一つの回答です。


現象だけ見ればレッズがゴージャス・パス・サッカーを前面に展開していたのはだいたい5月のGWくらいまでで、以後は堅い堅い守備と強靭な精神力、及びピンポイントの個人技でしぶとく確実に勝ち点を積み重ねていく、そういうある意味よくあるかわいくないチームだったわけです。(たまには爆発もしましたが。)

ただそうなってからも実は僕のレッズ像はほとんど変わらなくて、それはそういう目の前の1試合1試合の”退屈な”戦いと同時進行で、常に僕の頭の中(形而上)には”ゴージャス”レッズが存在し続けていたからです。
トチ狂ってる?深情け?現実逃避?いやいや。逃避するくらいなら素直に寝ますって僕は。

ポイントはその「形而上」と「現実」との関係、遊離の性格の問題で。
つまりあるサッカーチームの「現実」から目を逸らす時(おいおい)、その”逸らす”方向としては大きく分けて2つ、『過去』『未来』にあるだろうと思います。
昔は良かった、またはあの時ああしてればというのと。もう一つはこのチームがこうしてこうなると行く行くはこうなるはずだ、なって欲しいなみたいなのと。『追憶』『夢』というか。(詩人だなあ)

でもね、違うんですよレッズのは。非現実なんだけど現実なんです、過去でも未来でもなくて現在なんです。
どういうことかというとつまり
1.やろうと思えば(何かきっかけがあれば)、今目の前の”退屈な”チームがそのまま瞬時に”ゴージャス”ヴァージョンに変化(へんげ)出来る。#過去ではない
2.更に上はあるかも知れないとしても、序盤のレッズが一度は達成して見せたパス・サッカーのクオリティは、既にして脳を焼き尽くすレベルの十分に理想的な夢のサッカーだった。#未来の約束ではない

なんて言いますかねえ、’06レッズの「現実」と「形而上」は存在と非存在ではなくて、同時並行の二重存在、言わば中盤以降、常に僕は二重写しにレッズを見ていたというそんな感じで。ここらへんは継続的に見ていないとなかなか分からないところでしょうが。

まあ感触を忘れない程度には、以後もたまにその二重性は一致する瞬間(試合)がありましたしね。一方で終盤?天皇杯のレッズの崩れっぷりは、夢を見るのも困難なレベルのものでもあったわけですが。


要するに滅多に本気を出してなかった、と言ってしまうとあんまりなんですが。(笑)
ゴムボールねえ、なるほど。(書き足しました?)
多分石塚さんがコメント欄の時点で意味していたのは、「レッズを見ること」(現実)と「レッズについて考えること」(形而上)くらいのことだったんじゃないかなと想像しますが。

もう一つくらい書くか、それともいい加減茨の新シーズン(だよなあ)に頭を切り換えるか。どうしよう。


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P・D・ウスペンスキー『奇蹟を求めて』 

奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)奇蹟を求めて―グルジェフの神秘宇宙論 (mind books)
(1981/02)
P.D.ウスペンスキー

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多重人格ノートの新作兼、『私の頭の中の消しゴム』で僕が書き殴った、「”人格”と”魂”」の話のフォロー。
いや、書いてから思い出したんですよ。そう言えばあそこにもあんなこと書いてあったなと。何せ結構な昔に読んだ本だったもので。


グルジェフという人

まずこの本の性格から説明しますと、ゲオルギィ・イワノヴィッチ・グルジェフという高名な(いわゆる)”神秘思想家”の言行録を、その一番弟子とも目される著者ウスペンスキーが書き留めてまとめたものです。
グルジェフ自身の手になる著書もいくつかありますが、仕掛けの多い相当に捻った書き方になっているので、一般にグルジェフ思想を学ぶにはこの本が最適とされています。(グルジェフWiki)

僕自身がグルジェフの名を知ったのは、ご多聞に漏れず(?)キング・クリムゾンのロバート・フリップ(Wiki)経由で(あんまりいいのがなかったけどここらへんとか参照)、プログレ/フリップ自体をどちらかというといかがわしく(笑)思っていた僕は「ああ、またなんかこけおどし言ってる」くらいにしか聞いてなかったんですが、ひょんなことからこの本を読んでみたらえらく面白かったので驚きました。
”ハマる”ほど理解は出来なかったんですけどね当時は。その後自分なりに色々知識なり人生経験なり(笑)を積み重ねていく中で、後追い的にじわじわと、ああ、グルジェフが言っていたのはこういうことかなと認識が進んでいる最中というそんな感じ。

まああんまり僕にグルジェフ自身について聞いたりしないで下さい(笑)。答える任にはありません。他に『グルジェフ・ワーク』『注目すべき人々との出会い』の2冊を読んでいます。なぜかそういう趣味の友達に渡された、未翻訳の原稿のコピーなんぞも持ってますが。やだよこんなの訳すの。


グルジェフの「人格」論

膨大かつ複雑かつ非体系的なグルジェフ思想の中で、Wikiにも書いてある宇宙論的な部分などは正直手に負えないというか、はあそうですか、あなたが言うなら某か真実なんでしょう、重大なことなんでしょうと、そんな感じで受け止めるしかないんですが、広い意味で「心理学的」な部分についてなら僕にも何とか対応可能です。

その具体的な内容については次回以降に譲りますが、一言で言うと”多重人格”という症例、及びそれが示唆する人間観、世界観と通じるものが非常にある理論だと思います。だからこそその洗礼を受けて、副次的に僕のグルジェフ理解も進むことになったわけですが。
多重人格が打撃を与えた「人間」や「人格」や「心」に関する、我々近代人の情緒的で誇大妄想的な思い込み、それを剥ぎ取った後に存在している秩序、そういうものについてグルジェフは語っていたわけでしょう。

ここで注意したいのはグルジェフの立ち位置で、つまりロシア/中央アジア出身の20世紀前半に活躍したさすらいの神秘思想家グルジェフは、近年の北米を中心とする20世紀後半に巻き起こった多重人格”ブーム”(及びそれに対する反動)とは基本的に無縁なわけで、そうしたあらゆる”政治”や”影響”とは関係のないところで端的な”事実”として自らの「人格」論を語っています。
それだけに読む側には新鮮であり、衝撃的であり、汲むべき独自の価値もあると、そういう風に言えるのではないかと思います。

ただしグルジェフは同時代の心理学全般には、最終的にとても批判的ですがかなり通じていたようで、用語法自体はそれらを意識し、ある意味での理論的連続性はあると想定して読んでいいようです。参考までに代表的な心理学者/精神医学者とグルジェフの活躍時期を重ねてみるとこんな感じ。

シャルコー 1825?1893
ウィリアム・ジェームズ 1842?1910
パブロフ 1849?1936
フロイト 1856?1939
グルジェフ 1872?1949
ユング 1875?1961
エリクソン 1902?1994
スキナー 1904?1990
マズロー 1908?1970
『失われた私』(”シビル”) 1973

・・・・面白くなってついつい沢山挙げちゃいましたが。(笑)
シャルコーは特に催眠術の実践的治療家として知られる精神分析の祖の一人。
ジェームズはある意味グルジェフ同様、「外」の視点から心理学を研究した哲学者。
エリクソンは『アイデンティティ』の、マズローは『自己実現』の教祖。
パブロフとそれを元にしたスキナーの”条件付け””行動主義心理学”は、グルジェフと(知らず)同調的に、また多重人格の先触れ的に、「人格」幻想を攻撃した思想。
『失われた私』は現代多重人格運動の先駆的名著。

ま、こういう時代の人です。
次回まずはグルジェフの自己論、(多重)人格論から。「人格と魂(グルジェフの場合は”本質”)」についてはその後で。


・・・・しかしエリクソンとスキナーとマズローってほとんど同時代なんだなあ。意外。すげえライバル関係だ。(独り言)


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何百何千の<私> 

ちょっと長いですが、まずはグルジェフの言葉の衝撃力を伝えたいので網羅的に抜粋。太字部分は原典、色付き部分は僕です。一部勝手に段落を変えています。

話のたびにG(グルジェフ)は、人間内部の統一の欠如の問題に言及した。

G?人間の重大な誤りの一つで、しかも覚えておかなければならないのは、<私>に対する錯覚だ。
 我々の知っている人間、つまり<人間機械>、<為す>ことの出来ない人間、全てが<偶然起こる>ような人間、このような人間は永続的な単一の<私>をもつことはできない。彼の<私>は、彼の思考や感情、気分などと同じようにすばやく変わり、それゆえ彼は、自分を常に全く同一の人間であると考えることにおいて非常なまちがいを犯している。実は、彼は、常に違った人間であり、一瞬前の彼ではないのだ。



あらゆる思考、気分、欲望、感覚が<私>を主張する。そしてどの場合にも、この<私>は当然全体、つまり、人間の全体に属しており、それゆえ思考や欲望や嫌悪もこの全体から表現されると考えられている。
が実は、このような推測にはいかなる根拠もない。人間の一つ一つの思考や欲望は、全体から全く切り離され、独立して現れ、そして生きるのだ。全体は物理的には物として、抽象的には概念としてのみ存在するという単純な理由のために、決して自己を表現することはない。



人間は一個の<私>を持ってはいないのだ。そのかわりに何百何千というバラバラの小さな<私>があり、それらはほとんどの場合互いに他の存在を全く知らず、接触もなく、それどころか互いに敵対的、排他的で、比較さえ出来ないのだ。
一分ごとに、いや瞬間ごとに、人間は<私>と言ったり考えたりしている。そしてそのたびに彼の<私>は違っている。あるときは思考であり、あるときは欲望、またときには感覚、ときには別の思考という具合に果てしなく続くのだ。


複数の<私>たちの世界。

複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。



もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。



それぞれの小さな<私>は、自己を全体の名で呼ぶことも、全体の名において動くこともでき、賛成も反対もできるし、別の<私>ないしは全体が取り扱わなければならない約束や決定をすることもできる。これは、なぜ人々が決意はよくするのにそれを実行することはほとんどないかを説明している。
ある人が翌朝から早く起きようと決心したとしよう。一つの<私>、あるいは複数の<私>のグループがこれを決心する。ところが起床は、この決定に真向から反対しているか、これについては全く何も知らない他の<私>の仕事だ。当然その人はその朝も寝坊するだろう。そして夜になるともう一度早起きを決意するのだ。
(中略)
どんな小さな<私>にも小切手や約束手形(注・比喩)を振りだす権利があり、人間つまり全体がそれを支払わなければならないというのは人類の悲劇だ。人々の生活全体が、しばしば小さな偶発的な<私>の約束手形の支払いに振りまわされているのだ。


”東方の教え”の比喩。

ある教えでは、人間は召使いは沢山いるが主人も執事もいない家に例えられている。召使いたちは自分の仕事を全部忘れており、誰も自分のすべきことをしたがらず、みなわずかの間でも主人になりたがっているという有り様だ。
この種の無秩序の中で、この家は重大な危険におびやかされている。それからのがれる唯一の道は、もっと分別をわきまえた召使いたちが集まって、一時的な、つまり執事代理を選出することだ。



・・・・さてあなたはどう感じましたか?(笑)
現時点での僕の解釈及び解説は次で。


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何百何千の<私>:解 

『何百何千の<私>』。最低限引っかかるだろうところを。


(抜粋1)より

<人間機械>、<為す>ことの出来ない人間、全てが<偶然起こる>ような人間


グルジェフ思想/人間観のベース。
人間はデフォルトでは「意識」やら「自由意志」やらと呼べるほどのものは持っていない、「機械」的存在であるという。そしてその根本原因の一つとして、今回のテーマである人間内部の統一の欠如があるわけですね。(だから”ワーグ”を通じてそれを達成して、「意識」や「自由意志」を獲得する。)

これについて細かく説明はしませんが、補助線としては前のエントリーの生没年表で名前を挙げたパブロフ?スキナーの「条件付け」「行動主義」という思想・理論が参考になるかなと。要するに・・・・お前らみんな自分が思ってるずっとずっとパブロフの犬だぞ?とグルジェフは説いていると、そういう理解で大きな間違いはないと思います。
実際パブロフ(学派)は例の”餌とベルとヨダレ”のシンプルな条件関係の延長線、連鎖で言語や思考も含めた人間の高次の精神活動も全て説明できるとしていますし、行動学派の中心的な主張は正に「人間は意識なんて持ってない」(ただの刺激?反応マシンだ)というものでした。

こういう流れとグルジェフの直接的な関係は分かりません。年代的にも知ってはいたと思いますが、基本的にはグルジェフは遥か古代から連綿と続いている神秘・宗教思想の総括的継承/伝達者(”東方の教え”の比喩の項参照)であるという風に自らを位置付けています。ただし逆にグルジェフの元に、そちらの学派の人たちが後に参集したという事実はあるようです。


(抜粋3)より更に抜粋

人間は一個の<私>を持ってはいないのだ。そのかわりに何百何千というバラバラの小さな<私>があり、瞬間ごとに彼の<私>は違っている。


いいかげん、”多重人格”そのものには慣れた人にとっても、「何百何千」「瞬間ごと」という表現の極端さにはギョッとさせられるかもしれません。
ただこれは”ビリー・ミリガンは24(25)個の人格を持っていると思っていたけど本当は240個だった”という風に(笑)そのまま考える必要はないと思います。

例えば上の「意識」「意志」の問題にしても、要するに要求水準の違いであると、そう言って言えなくはないのだと思います。少なくとも犬や猫より人間が意識的なのは確かなわけで、つまり同じ意識性のレベルを見てそれを「意識」だと呼ぶ価値があると見るかないと見るか。これはよく「動物は思考(感情)を持っているか」といった設問でも問題になるところですが。
言ってみれば人間が犬猫を見ているような視点でグルジェフは人間を見ていると、そう想像してみると分かり易いだろうと思います。

「私」「人格」についても同じことで、統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるかによって、24にもなれば240にもなると。そこまで極端ではありませんが、実際現代の多重人格治療の現場でも、治療者・研究者によって同じ患者を対象としても見方は変わることがよくあります。
・・・・ただしグルジェフの本意は、そもそも”?人”と数えるに足るような統一性/一貫性を持った「私」を現状人間は形成出来てはいない。だから要するに有象無象だと、数える気にもならんが何百何千だと、そういうことなのでしょうが。

再び補助線を引くと、こういう2つの現象が既に知られています。
1.”ポップアップ”現象
極度に混乱した多重人格者が、長年の観察者にも全く判別できないような物凄い頻度で人格を交代させ続ける現象。
2.高機能自閉症者の”仮面の人物””顔”(ドナ・ウィリアムズ)
継続的な「アイデンティティ」の拠り所というよりも、場当たり的な対応・適応のツール、外界の刺激に対するその都度の「反応」という、よりグルジェフ的イメージに近い「人格」の例。
・・・・どちらも病的とされる状態の話なので、いわゆる”健常者”のそれとすぐに直接的に接続するのは難しいですが、参考にはなるだろうと思います。

(この項つづく)


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何百何千の<私>:解(つづき) 

何百何千の<私>:解


(抜粋4)より

人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。


これは面白い。「人格」が「交代」するというよりも、その時々その人の中で優位に立っている/活性化している諸要素(思考、気分、欲望、感覚など)を、その都度<私>と名付けて一体化するというそういうイメージですね。(なおこの”一体化”についてはグルジェフは『自己同一化』として別に重要な理論として説いてますが、煩雑になるので今回は割愛。)

これに対応するのが(抜粋2)の

全体は物理的には物(つまりカラダ)として、抽象的には概念としてのみ存在するという単純な理由のために、決して自己を表現することはない。


の部分。統一した/一貫したワタシは、概念としてのみ、機能としてのみ実在し、物理的構造的には実在しない。または表現されない。

・・・・何やらデカルトの”コギト”やらフッサール/現象学の”超越論的主観性”やら、その他諸々哲学的議論の迷路に入り込みそうな箇所ですが、それについて少なくともそういう脈絡ではグルジェフはそれ以上説いていないようなのでストップ。
むしろ問題はここらへんの関係が凡人と覚者で違うのか、それとも共通の構造なのか、内部的統一性を獲得すると変わるのか、そこらへんが重要であり興味深いところですが。

ともかくここでは通常の心理/精神医学的「多重人格」論との描写、論法の違いに留意すべきだと思います。


(抜粋6)
・・・・は、あらゆる理論的立場やグルジェフのような思想への懐疑を越えて、いち生活者として誰もが心にチクリと突き刺さる箇所だと思います。(笑)

なぜ人々が決意はよくするのにそれを実行することはほとんどないか


うるせえな。分かってるよ。”人類の悲劇”。ごもっとも。朝令暮改。短気は損気。女心と秋の空。男の下半身は別人格。
心当たりがあり過ぎるだけに非常に魅力的な説明に感じてしまいますが、どうでしょう。(笑)


キリがないのでこんなところで。
後はおのおの自分で考えるなり、グルを見つけて師事するなり好きにして下さい。
次からいよいよ「人格と魂」の話グルジェフ版。


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「人格」と「本質」 

いよいよ一方の本題。


繰り返しになりますが、僕が”「人格」と「魂」”として『消しゴム』について書いた時点では、グルジェフとのすり合わせは(少なくとも意識的には)全くやっていなかったので、齟齬とかは気にせずにニュートラルにお読み下さい。勿論どう違うのかという話も後で書きます。
ついでに言いますと、「人格」と「魂」という用語法自体は『消しゴム』or『消しゴム』の字幕翻訳者のもの(笑)であって僕は乗っかっただけなので、そこらへんあまりストレートに受け取らないでくれると。まあそれほど大きな違和感はないですけど。

ではグルジェフの言葉に行きます。今回も太字は原典、色付きは僕の指定。


「人格」と「本質」

人間は二つの部分から、すなわち本質人格とから成り立っていることを理解しなければならない。本質彼自身のものであり、人格は<彼自身のものではない>あるものだ。<彼自身のものではない>というのは外からきたものということであり、彼の学んだもの、考えたこと、記憶や感覚の中に残っている外的な印象のあらゆる痕跡、学んだ言葉や動作、模倣によってつくられた感情、これら全ては<彼自身のものではない>もの、すなわち人格である。



小さな子供はまだ人格をもっていない。彼は真にありのままだ。つまり彼は本質なのだ。彼の欲求、好み、思考、嫌悪はありのままの彼の存在を表現している
しかし、いわゆる<教育>が始まるやいなや人格が形成され始める。人格は、部分的には他人による意識的な影響、すなわち<教育>から生じ、また部分的には子供が他人を無意識的に模倣することから生じる。まわりの人々に対する<反抗>や、<彼自身の>、すなわち<真実の>ものを人々から隠そうとすることも、人格の形成においては大きな役割を演じている。



本質とは人間の内なる真実であり、人格は虚偽だ。しかし人格が成長するにつれて、本質は次第に自己を表現する事がまれになり、また弱くなり、そして本質は非常に初期の段階でその生長をやめ、それ以上生長しないということもしばしば起こる。
(別章)
私は、家族に尊敬されている父親とか、種々の思想ではちきれんばかりの教授連、有名な著作家、大臣クラスの重要な官吏たちをたくさん知っているが、彼らの本質はだいたい十二歳で発達を停止している。でも、これはそんなに悪い方ではない。時には本質のある側面が五、六歳で発達をやめ、それですべてが終わってしまうということも起こるのだから。



本質人格と並行して生長するケースもあるにはある。そのようなケースは、とりわけ文化生活という環境のもとでは非常にまれな例だ。絶え間ない闘争と危険に満ちた困難な条件のもとで自然に近い生き方をするものの方が、その本質が発達する可能性は大きいのだ。
一般に、このような人々の人格ごくわずかしか発達しない。彼らは自分自身のものはたくさんもっているが、<自分自身のものでない>ものはわずかしか持っていない。



「人格」と「本質」の役割/関係

自己修練における非常に重要な瞬間は、自分の人格本質を識別し始める時点である。自分の中の真の<私>、すなわち個体性はその本質からのみ生長することができる。個体性は、生長し、成熟した本質だとも言える。



一般に、人間の本質は原始的で野蛮であるか、あるいは単に愚かであるかのどちらかだ。本質の発達は自己修練にかかっているのだ。

前に言ったように、教養の低い人々の場合には、本質は教養のある人よりも高度に発達している。それなら彼らは進化の可能性にもっと近づいているべきだと思うかもしれないが、現実にはそうではない。なぜなら、彼らの場合、明らかに人格が十分発達していないからだ。つまり内的生長、自己修練の為には、本質のある程度の強さとともに人格のある程度の発達も必要なのだ。



「人格」と「本質」の分離

人は通常生きていくうえで自分が置かれたあらゆる状況に対して、それぞれ一定の役割(人格)を持っている。しかし、彼をほんのわずかでも違った状況においてみると、もう適当な役割を見つけることが出来ず、ほんの短時間ではあるが彼は自分自身(本質)になる

人間は自分のレパートリー(人格)の外(本質)に出ると、つまりたとえ一時的にでも自分の決まった役割から何かによって押し出されると、非常な居心地の悪さを感じ、何とか普通の役割のひとつに戻ろうと必死の努力をする。通常の役割に戻るとすぐにすべてはまたスムーズに運び、ぎこちない感じは消えてしまう。これが人生の有り様だ



東洋のスクールでは、人格本質を分離させうる方法や手段が知られている。そのために彼らは時には催眠術や特殊な麻酔薬を使ったり、ある種の肉体運動を行なったりする。もし人格本質がこれらの何らかの手段で分離されれば、いわば二つの存在が彼の内部に形成され、違った声で話し、全く異なった好み、目標、興味をもつようになる



・・・・(「人格」と「本質」の分離実験)につづく。


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「人格」と「本質」の分離実験 

”「人格」と「本質」”(の最後の項目)のつづき。ちょっとえげつないかも。


《人格と本質の分離実験》 ?グルジェフによる

被験者A
・壮or中年の、社会的地位のある人物。
・普段は饒舌で、「自分」「自分の家族」「キリスト教」「当時の戦争」「頻出する”スキャンダル”への嫌悪」などについてよく喋っていた。

被験者B
・若者。
・不真面目な道化者と周囲からは見られている。
・議論の為の議論が好きなまぜっ返し屋。


”分離”後の被験者Aの観察

何かを熱心に話していた二人のうち、年長者の方が話の途中で急に黙りこみ、前方をまっすぐに見ながら椅子の中に沈みこんでいくように思われた。(中略)年長者の方はまるで縮んだボールにでもなったかのように身動きもせず坐っていた。

「彼に何を考えているのか聞いてみなさい」とG(グルジェフ)が静かに言った。
「私?」と彼は、まるで目が覚めたかのように頭をあげた。
何も」彼は謝るように、あるいは驚かされたかのように弱々しくほほえんだ。
「あのね、ちょうど今あなたは戦争について話していたんですよ。つまり我々とドイツの間に平和がくると何が起きるだろうということについてね。あなたはまだ同じように考えていますか」と一人が言った。
「そんなこと知りませんよ」と彼は確信のなさそうな声で言った。「本当にそう言いましたか」
「ええ、もちろん。あなたは、みんながこれについて考える義務があり、誰も考えないでよい権利はないし、・・・・(中略)と言ったばかりですよ」
「本当ですか」と彼は言った。「何て奇妙なことだ。私はそんなこと何一つ覚えちゃいませんよ」
「でも今はそれに関心があるのですか」
「いいえ、全くないですね」
「あなたは今起こっていることの成りゆきやロシア、ひいては全文明に対するその影響については考えていませんか」
彼は残念そうに頭を振った。
「私はあなたが何を話しているのかわからないんですよ。そんなことには全然興味がないし、それに何も知らないんです


つづき

「それならあなたは前に家族について話したでしょう。もし家族の方が我々の考えに興味を覚えてワークに加わったとしたら、あなたはずっとやりやすいのではないですか」
「ええ、たぶんそうでしょうね」と、またはっきりしない声で言った。「でもどうしてそんなことを考えなくちゃいけないんです
「もっともです。でもあなたは、あなたと家族の間に広がりつつある、あなたの言葉によれば深い裂け目を恐れているといいましたね」
返事はなかった。
「いまはそれについてどう思っていますか」
「そんなことはこれっぽっちも考えちゃいません」
「もし何が欲しいのかと聞かれたら何と答えますか」
彼はまた驚いたような目つきで言った。「何も欲しくありません
「とにかく何か考えてごらんなさい、何が欲しいのです」
彼のかたわらのテーブルの上に飲みかけのお茶があった。彼は何か考えこむようにそれを長い間見つめていた。彼はまわりを二度見まわしてから、またお茶のカップを見、それから我々が互いに目を見合わせるほど真剣な声と抑揚で言った。
ラズベリー・ジャムが少しばかり欲しい



同様に被験者Bの観察

若い方の男は話を聞き、それから彼自身話し始めた。我々は互いに目を見合わせた。彼の声が違っていたのである。
彼はある自己観察を、はっきりと、簡潔かつ明瞭に、余計な言葉や無節制でおどけた調子は全然まじえずに語った。それから彼は黙りこみ、煙草を吸いながら明らかに何かを考えている様子であった。


(上の被験者Aへの質問中、”ラズベリー・ジャム”発言の後に)

「なぜあなたたちは彼に質問しているのです」と、ほとんど聞きとれないほどの声が部屋の隅から聞こえてきた。(中略)
彼が眠っているのがわからないのですか
「あなた自身もですか」と誰かが聞いた。
私はその反対に目が覚めました
「あなたが目を覚ましたのになぜ彼は眠ってしまったのですか」
「わかりません」



総括

彼らは二人とも、次の日には何も覚えてなかった。Gは次のように説明した。
すなわち、最初の人(被験者A)の普通の会話、驚き、動揺の原因形成しているものはすべて人格の中にある。それで、彼の人格が眠っているときには実際は何一つ残っていない
もう一人(被験者B)の方の人格には非常な話好きの性癖があるが、それでもその背後には人格と同じだけ、しかもそれよりよくものを知っている本質があり、人格が眠りこむときには本質が代わってその部署につく、しかもその部署に対してはもともと本質の方がずっと正当な権利を持っているのである、と。


「しかし、もし彼(ちなみに被験者B)がそれを覚えていないとしたら、観察は何の役に立つのですか」と誰かが聞いた。
G?本質が覚えている。人格は忘れる。でもそれは必要なことなのだ。というのは、そうでないと人格は何もかも歪めてそれを全部自分のものだと思いこむにちがいないからだ。



考察は次回。


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『碧血剣』総評 

の、再読改訂版。


碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/04)
徳間書店

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『書剣』での”禊(みそぎ)”終了後の、真のデビュー作?!

正直前回デビュー作『書剣恩仇録』についてこんなこと(旧派武侠のラスト作)あんなこと(プレ武侠小説)を書いていた時点では、いいのかまた思い付きでそんなこと書いて、後で恥かかないかと心細い思いをしていたんですが、『碧血剣』を再読してみてその直観に間違いはなかった、少なくとも自分内では印象に一貫性はある、修正の必要はないとちょっと安心しました。

その一方で『射英雄伝』について書いた「『書剣恩仇録』でのデビュー時から、素直に延長していけばある程度書かれることが予測できるタイプの作品」という評価については、多少修正の必要があるというかあまりにも何の気なしに書き過ぎたなというそういう反省があります。
要するに『射』の集大成性、最大公約数性を強調するための記述だったわけですが、スタイル的には、作品の系譜的にはむしろこちらの第2作『碧血剣』の延長戦上にあるというのが素直な読みだと思います。文体的にも、馬鹿正直タイプの少年主人公の成長・冒険ストーリーという意味でも、また明らかに黄蓉の前身である男装好きの爆裂ファザコン小悪魔美少女夏青青の存在を見ても。

そう言えば『碧血』も『射』もどちらも「商報」系の掲載ですね。『碧血剣』が読者に好評だったので、似たようなのを一つということで、主人公の性格に”合わせ鏡”を付け加えて、脇役も豪華にして政治性の中身にも捻りを加えてと、パワーアップ版の”同工異曲”が『射』であると、そんな連載時の流れがあったのかも知れないなと想像しますが。

ともかく”プレ武侠”『書剣恩仇録』と”ポスト武侠”『鹿鼎記』に挟まれた、言わば金庸の「本体」の作品群の始点に位置する実質的なデビュー作、これが僕の推奨する(笑)『碧血剣』の位置付けです。


楽しきかな金庸

楽しい。とにかく楽しい。
ぶっちゃけあまり好きな方の作品ではない『書剣恩仇録』や『射英雄伝』と格闘を続ける内に少し忘れかけていた、金庸の楽しさ、自分がどんなに金庸が好きかということを思い出させてもらいました。

それが何かということですが、やれ鋭い歴史認識だ尋常でない豊かな教養だ、伝統中国小説の再発見者にして近代武侠小説の文学的地位の確立者だと金庸に捧げられる賛辞は数々ありますが、結局のところ僕が魅了されるのはそれら全てを背景にして尚、・・・・いやもっとはっきり言えば踏み台にして、ありゃ?何?と常に予想を裏切って突如飛び出すあっけらかんとした軽味、馬鹿馬鹿しさ、悪ふざけ、その跳躍力の途轍もなさ、無責任な楽しさなのですね。なーんてね、とか言われてる感じです。ちゃんちゃんという。

それらが所謂”作品的価値”かと言われると俄かには答え難いんですが(笑)、逆にそこらへんを見ないと意外と金庸は古臭かったりお子様向けだったり、現実にそういう評価があるようにそういう面も多いわけです。金庸が馬鹿だとは誰も思わないでしょうが、金庸作品があえて読むに値しないという評価は十分ありうると思います。
人類の叡智、中国四千年の知恵(笑)を振り絞っての悪ふざけ。大人だから分かる稚気の価値、頭のいい人にしか出来ない馬鹿。根底には「真面目になってもしょうがないよ」という”無常観””達観”があるんでしょうけどね。

構築主義的な作家ではあるのだけれど、本当に面白いのは壊れる瞬間、乱心する瞬間という変な人。


『碧血剣』の軽味

『碧血剣』自体について言えば、特徴的なのは自由さ、自然さ、そこから来る全般的な軽やかさというものが挙げられると思います。
それは一つは

・緊張のデビュー作『書剣恩仇録』で長年たまっていたものをとりあえず吐き出して日の光に当てて、整理整頓や再認識をひと通りすまし、かつその成果が世間に受け入れられた

という解放感と自信、それで得た自由。そしてもう一つは

・とはいえ初期(第2作)であるので、まずはオーソドックスに自分が書きたいと思う理想的・典型的な武侠小説の実現に素直に邁進している

という自然さ。

後者は特に、後の『侠客行』や『鹿鼎記』のような、”趣向”として意図的に「軽さ」を追求しているものとの比較において明らかだと思います。


・・・・一瞬『書剣恩仇録』への評価との差別化が分かり難く感じるかもしれませんが、簡単に言えば『書剣恩仇録』は”無雑作””無作為”『碧血剣』は”無邪気”ということです。態度として”無邪気”であるだけで、作品の構成的に未整理、無雑作なわけではない。むしろリラックスして分かり易く書けている。
ちなみに僕が第一稿で行なった「ビートルズで言えば割とあっさり出来ちゃったサージェント・ペパーズ」

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド
ザ・ビートルズ (1998/03/11)
東芝EMI

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という比喩は、元々『書剣』=早過ぎた『ホワイトアルバム』に引っ掛けて言っただけで大した意味はなかった(笑)んですが、(ビートルズが)「ひととおり世間に受け入れられた後の、闊達で無邪気な創造性の爆発」という意味でなら、一応比喩としてまだ生かせるかなと。

各論へつづく)


『雪山飛狐』総評(1) 

雪山飛狐 雪山飛狐
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/02)
徳間書店

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レビュー第3弾。
いずれどうなるか分かったもんじゃないですが、だいたいこんなパースペクティブで書いてます。はい。

さて『雪山飛狐』ですが、一巻ものと短いですが、意外に難物。むしろ無視してしまった方が流れとしては書きやすい。(笑)
一言で言って意義付けが難しいんですね。読み応えがあるないという意味では遥かに疑問の残る『越女剣』は、上の参考エントリーでも書いたように”金庸武侠の下書き”みたいな見方が実際出来ると思うんですが、『雪山』は・・・・。はっきり言って、バイオグラフィ的には存在しないものとしても全然支障が無いような。
いや、面白いは面白いんですけどね。

それについても一応僕なりの仮説を立ててみたので、後ほど。


”嵐の山荘”ミステリー?

『書剣”ホワイトアルバム”恩仇録』、『碧血”サージェントペパーズ”剣』にちなんで『雪山』もビートルズで例えてみると・・・・うーん、『イエローサブマリン』かな、ちょっと無理矢理だけど。
つまり一度はやってみたかった”嵐の山荘”ミステリー、一度はやってみたかった映画のサントラということで。

ただし”嵐の山荘”ミステリーとは言っても、別にそれによる「密室性」が主題になったりはしてませんけどね(笑)。あくまで雰囲気作りのレベル。
あえてミステリーということで言うならば、”複数の語り手による過去の事件の説明のズレが生み出す謎”という意味で、少し「叙述トリック」的なところはありますが。

いずれにしてもこれは一種のシャレ、若い時から西洋小説も好んで読んでいたという現代中国人金庸さんが、せっかく書き手に回ったのでちょっとやってみた同窓会的な趣向ではないかと。
伝統中国小説にも多分似たような趣向はあったんじゃないかとは想像しますが、そのテのミステリーを読んだ経験のある人には、明らかに欧米&日本の西側のそれの臭いが漂っているのは感じられると思います。

一方でその密室性/閉鎖空間性を前提に、「食料を捨ててしまうことで自分諸共ゲストを(飢えによって)皆殺しにする」というえげつない殺人手段が、個人的な怨恨ではなくて恩人への義理という動機によって、しかもいかにも当たり前のものとして計画されるというのはいかにも中国的、武侠的だと思いますが。他の小説ジャンルではなかなか説得力を持たせるのは難しいでしょう。


胡斐という”主人公”

ところでこの『雪山』の実質的主人公が、回想エピソードの中の胡一刀と苗人鳳の好敵手二人であることは論を待たないと思いますが、そこで問題になるのが書名にもあるように表向きの主人公である、”雪山飛狐”こと胡斐の位置付け。
ぶっちゃけ「主人公」としては随分落ち着かない扱いですよね。一巻ものなのにさんざん待たされて(しかもその間の話題の中心は自分ではない)登場した挙句、一応かっこいいところを見せて速攻で恋なんかもしますが、でもラストはアレですし。(笑)

ところがその一方で、妙に示唆的な細かい描写だなと思うところも僕にはあります。例えば

雪山飛狐と名乗るだけあって、普段ならば聡明で臨機応変な胡斐(p.316)

あるいは

胡斐は普段から悪人を徹底的にやっつける方である。(p.326)

といった記述。

”普段””普段”って、それを具体的に見せるのが作品てものでしょうが、そんな主人公の性格を全部作者が説明してしまって終わりってそれどうなの?金庸先生と、筋としては突っ込まなくてはいけないところだと思います。
特に前段部分は、なまじ「狐」と「聡明で臨機応変」との結び付きがイメージ的に魅力的なだけに、そこ見たいそこと、それこそ油揚げの臭いだけかがされた狐のような気分になります。(笑)

勿論あっさり言ってしまえば長さ的に書くスペースが無かったということでしょうが、ではならばなぜそんな構成になってしまったのかという。
そして何より不思議なのは、そういうストーリーテリングの定石的にはまずい書き方をしながら、実際に作品を読んで僕が金庸の説明に説得力を感じなかったかというと、実は感じたということです。(だから僕の”難癖”にピンと来なかった人も多いでしょう。)


(2)につづく。


『雪山飛狐』総評(2) 

(1)より。


『飛狐外伝』との関係

周知の通り、後に『飛狐外伝』においてこの『雪山飛狐』の言わば”前日談”が語られることになります。
「胡一刀と苗人鳳」の関係も含めて、飛狐シリーズの内容的なことについてはそちらの方で一緒に語ろうかと思ってますがそれはともかく。

なぜ明らかに駆け足の不十分な記述でありながら、(ラストを除けば)『雪山飛狐』の描写にそれなりの説得力が感じられるのか。それは、実は『雪山飛狐』の背後に既に『飛狐外伝』が存在していたからではないかと。
よく「書かないところまでちゃんと考えてから書け」(それによって厚味やリアリティが生まれる)と言いますが、その通り、金庸先生はちゃんと考えてあって、それであの程度の記述でも説得力が生まれたんですね、いやあさすが。

・・・・ではなくて(笑)。いや、そうなんですけど。
つまりですね、僕が思うに『飛狐』ストーリーは、最初から『雪山』と『外伝』両方を含めた、ひょっとしたらそれ以上の広がりを持ってまとめて構想されていたのではないかと。だから本来ならそういうものとして四巻ものなり何なりの規模でちゃんと展開されるはずが、諸般の事情で一巻分のスペースしか取れずに、それで無理矢理書く為の方便or動機付けとして”嵐の山荘”ミステリーという趣向に手を出したというそんな感じなのではないかと。


『射英雄伝』のとばっちり?

そこで冒頭に予告した「仮説」ですが。
次作ご存知『射英雄伝』は、スケール的にも完成度的にも、前3作と比べて頭一つ二つ抜けた押しも押されぬいきなりの「決定版」的な作品になります。技術的内容的には、何回も言っているようにそれまでの作品にも既に最初から十分なものはあったわけですが、何というか製作ベースが違うというかプロダクションが違うというか代わったというか、そんな感じ。気合が違う。

言わば書かれる前から代表作たることを運命付けられていたエリートで、だから尚更その前の『雪山』が味噌っかすに見えてしまう(笑)というか無い方が流れ的にすっきりするというか。”嵐の山荘”云々が技法的にその後に影響を与えたようにも見えないし、起・承・転・結の「転」にすらなっていない。

で、実際味噌っかすだったんではないかと。
つまりどういうことかと言うと、『飛狐』の構想と差のない時期に『射』の構想も出来上がっていて、こりゃ凄いということで(新聞の)連載開始時期も優先的に決まってしまって、それまでの場繋ぎとしての限られたスペースで『雪山飛狐』は書かれたのではないかと。それでバタバタと圧縮して書かれたのがあれで、でも内容的には十分面白いのでこれはこれでちゃんと世に出してやろうということで、後に書かれた”残り”の部分が『飛狐外伝』。

どうでしょう、この説。勿論何ら確証はありませんが。(笑)
よくよく見てみるとあの鬼の『神』の次作が今更『外伝』というのもどうも肩透かしですし、しかもそのすぐ後に『倚天』が来るわけですから、要するに『射』三部作の谷間に便利遣いされた幸薄い作品だと、そうまとめて『飛狐』ストーリーは考えていいのかもしれないですね。面白いのに。かわいそう。


・・・・なんか意外と当たり前のことを書いたような気もしてきました。(笑)
まあ今回はこんなところで。さくさくと次の”エリート”様の方へ行きましょう。
注目度が高いだろう”ラスト”問題は、面倒なので『外伝』レビューに先送り。実はまだ何も考えてません(笑)。分かんないよあんなの。まあなんかひねり出すつもりですが。


’07レッズ始動 

闘莉王、阿部合流 浦和が始動(スポニチ)

昨季リーグ戦、天皇杯の2冠を獲得したJ1の浦和が27日、さいたま市内の練習場で始動し、J1千葉から移籍した日本代表MF阿部も合流し、オジェック新監督の下で今季の初練習を行った。(中略)昨季得点王ワシントンらブラジル人3選手は休暇などのため遅れて合流予定。この日帰国した闘莉王は午後の練習から参加した。
 浦和は2月11日にオーストリアのザルツブルク遠征に出発。帰国後、同16日から鹿児島県指宿での合宿に入り開幕に備える。


何よりも闘莉王がちゃんといることを確認してひと安心。(笑)
去年はシーズンが終わるやいなや、出てく出てくと騒いでましたからね。三都主が抜けたダメージを天皇杯で骨身にしみたばかりですし、この上闘莉王の存在感がなくなるのは。阿部加入で、逆に混乱の可能性だって見えるわけですし。

ぶっちゃけあれです。終盤怪我しっ放しだったのが逆に良かったんじゃないかと思うんですけど。あれで移籍どころじゃないような感じに本人の周囲的にもなったんじゃないかと。密かに。商品価値的にも。
しかしわざわざザルツブルグに顔出しに行くのか。大変ねえ。V旅行?(笑)


浦和、新加入・阿部に“3人分”の期待!背番号は「22」(サンスポ)
レッズ愛だ!阿部「ベンツ売る」(デイリー)


見出しだけでお腹一杯になりそうですが。阿部クンね。

まあどう言いつくろったったって「少数精鋭補強」なんて補強としては失敗ですよねやっぱり。ヴェルディのファンには言わずもがなでしょうが。
”目玉”があろうがなかろうが、補強というのは一定のペースで粛々と毎年やり続けることに何よりの極意・効能があるわけで。ここ数年沢山獲ったからいいだろくらいに思ってるのかも知れませんが、そんな言い訳が通用するのもせいぜい今年のみ、今年ちゃんと成果を出さないと(出しても?)確実に報いは来ますよね。長年の蓄積が水泡に帰する可能性だってある。

というわけでレッズにも、阿部にも、それから去年だけで見ればほぼ無駄な補強だった相馬崇人にも、何やら最初から大きな負荷がかかってるような息苦しい感じのスタートですが。今年だけはとにかく結果を出さないと。結果を。内容やら何やらは出しながら作ってくしか。

でも何で海外じゃなくてレッズなんだろうと、ジェフサポに助太刀して今更訝ってみたりしますが。レッズのイメージも必要以上に落ちちゃったし、悪運背負って来たんじゃないだろうなあキミと心ないことを言いたくなったりして。

それでも大ギドなら全部まとめて包み込んでくれるんじゃないかというような甘い期待も抱けるんですけど、さてオジェックの真面目さがどう出るか。


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『魂』と『本質』 

”「人格」と「本質」””「人格」と「魂」”、併せた解。


まずおさらいとして、僕の『魂』の定義を抜粋してみますと

『人格』の背後or奥底or前提にあって、より必然的で永続的で、その人がその人である「本体」を担うもの

『人格』の偶然性の背後に感じられる、その人がその人である本体性一貫性かたち


と、あります。そしてその中身の例(候補)として、

・”輪廻”の究極的主体
・”前世”の経験・記憶・人格(の残滓)
・集合的無意識や人類的情報プールからその人用に型取られた素材
・DNA等受精卵の時点で持っている遺伝情報
・胎児期にホルモンや母体の経験/感情によって決定的に形成される何か
・乳・幼児期に刻み付けられる親や周囲の世界からの臨界的影響
・ともかくも”ものごころ”つく前のその人
・ともかくも”自我の目覚め”前のその人
・現在のその人(の『人格』)を形成したある決定的な経験or時期以前のその人


などと挙げています。

僕の『魂』もグルジェフの『本質』も、ともに(一方の)『人格』の偶然性や表面性との対照として、何らか必然的深層的な何かを意味しようとしているのは同じですが、反面無視出来ない違いもあります。


<構造>と<機能>の違い

<実体>と<現象>、あるいは<もの>と<こと>などでも可。

つまり僕の『魂』という説明が、何らか『魂』という”もの”、実体、存在、構造を主に示そうとしている、予感しているのに対して、グルジェフの『本質』はそれが何かは気にせずに、ともかくそういう現象について、「本質」として機能している”こと”についての論だということです。
言わば名詞と動詞の違い、仮にグルジェフのそれが名詞的に把握出来たとしてもそれは形のない機能を便宜上文法上そのように語っただけ、動詞が転じて動名詞になったようなものだとそういうことです。

分かり難いでしょうからさっさと具体的な話に移ると、つまり僕の例示中の「DNA」やら「胎児(期)」やら「乳・幼児(期)」やらの”生物学的な”説明がその”実体”性の最たるものです。”物質”性というか。
また並べるだけ並べて決定はしていないものの、そのどれかが選択されることによって『魂』の発達・完成の時期が一律で決め得る、物理的・生物学的に確定し得るような可能性も僕の説明は含んで示唆しています。
(イメージ的には「輪廻する魂」や「前世の人格」などは、実は非常に”実体”性の濃い説明であると思います。そういう”もの”、そういう”ひと”。)

それに対してグルジェフは、その『本質』として機能しているものが何に由来し、どんな(生物学的)構造や基盤を持っているかについては特に触れていません。
また発達時期についても、「十二歳」までの場合もあれば「五、六歳」の場合もある(抜粋3)、要するに人それぞれだとオープンに設定しています。更にここは非常に大きな違いかもしれませんが、僕の『魂』がいずれにせよタイムリミットつきなのに対して、グルジェフの『本質』は原則的には(彼の”ワーク”によって)いつまででも発達・発展可能だとされています。逆に言えば、生物的に特定できるような類のものではないということかも知れません。


違いの理由

僕が例示の中心に生物学的知見を置いたのは、まずは出発点が「アルツハイマー」(や「多重人格」)という正に生物学的医学的現象であったからであり、また元々個人的に、人間の発達に関して割りと生物学主義的な早期完成説の立場に重きを置く人だからでもあります。(つまり生物的なシステムが固まる割りと早目のある時期以降、人は根本的にはほとんど変わる可能性を持っていないとする立場。)

しかし同時に『魂』という現代ではかなりキワモノという面もある言葉に一定の具体性と信頼性を補強して、それによって”『人格』と『魂』”の相関関係/ダイナミズムの説明をスムーズにしようというそういう意図も強くありました。
目的はあくまで二項関係の展開とそれによる多くのことの説明可能性なのであって、”実体”の確定自体に重点はなかったわけです。

それが例えば

実際にはこれは定義そのものであって「中身」の特定にはあまりそぐわない概念


という、多分その時は何が言いたいのか分かり難かったろう注釈(言い訳ともいう)であったわけですね。あるいは

・ともかくも”ものごころ”つく前のその人
・ともかくも”自我の目覚め”前のその人
・現在のその人(の『人格』)を形成したある決定的な経験or時期以前のその人


という最後の方に繰り出した一種の”操作的定義”は、グルジェフが『本質』について行なっている純・機能的説明と同じような性格を持った説明だとも言えると思います。


結論

というわけでそんなに僕とグルジェフは違うことを言っているわけではないと思いますが、構造なのか機能なのか基準がフラフラしている僕のに比べてグルジェフの説明は遥かにすっきりしていてインパクトがあるなと思ったので、お客様により美味しいものを食べていただこうと(笑)補足的に提供してみたわけです。

グルジェフが<構造>面について考えていないことはないとは思いますが、”神秘思想”と括られる中でもグルジェフは例えば「アストラルボディ」がどうしたとか「霊界」がどうしたみたいな”実体”論的議論には全くと言っていいほど参加しない人なので、ここらへんはやはりこの人のポリシー、説明のスタイルなんだと思います。あくまで論理的・言語内的説明の範囲で説明できることについてのみ語るという。

まあともかくこうした二項の関係性で考えてみると、結構読解の糸口が見えそうに感じるものがあるんじゃないかと思いますが。恥ずかしながら(笑)僕の”愛”論なんかはその一例ですが。
今のところ特に正解があるわけではないので、理論的洗練は各々が自分の都合に合わせてすればいいのさというそういう感じ。


次でラスト。


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『射英雄伝』編にあたって 

ホームグラウンドとする汎用ブログでの軽い気持ちでの企画からの流れで、ここまで割りと当てもなく書いて来ましたが、金魚雑記さんとの出会い(笑)でどうやら自分の立ち位置、方向性が見えて来た気がするので、今後に向けての施政方針演説(?)的なものをいくつか。


1.僕はテクスト読みである(らしい)

自分的には自然に書いていただけでそれほど何かスタイル的な意識はなかったんですが、jin yuさんに言わせるとそうした安楽椅子探偵的な(?)面が際立ってるらしいので(笑)、そういう自意識で行くことにします。自分が何者かを決めるのは自分ではなくて他人である。(多分)

具体的には、既に読んでいる

(1)金庸の原典(翻訳版)
(2)標準的な参考書3冊
・『きわめつき武侠小説指南―金庸ワールドを読み解く』(徳間書店)
・『武侠小説の巨人 金庸の世界』(徳間書店)
・『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』(神奈川大学評論ブックレット)

の自分なりの読みを元に、そのタコ坪の底から(笑)解釈と想像を極限化させて、嘘かホントかは知らずとにかく一つの一貫した包括的な金庸像、作品の展開史を描き出してみるとそういうことです。やり切ってみる、ということが重要で、むしろこれはこれで一つのストーリー/お話であると、そういう風に考えていただけると。

ネット等巷の個別の情報や、過去の他の人の研究についてはたまたま耳に(目に)入っちゃったもの以外はあえて求めずにいく予定ですので、失礼や解決済みの問題への無用な言及などありましたら、笑って許してやって下さい。(事後の指摘は歓迎)


2.既読者、愛好者を対象とする

実は既に『雪山飛狐』編はあからさまにそうなっちゃってるんですが、元々は金庸を特には知らないだろう自分のブログの読者向けに書き始めたものなので、『書剣恩仇録』編と『碧血剣』編も基本的にそういうスタンスで書いています。ネタバレは極力しない&初読のガイダンスとしての作品の相対的性格付けがメイン、内容を知らないと分からない踏み込んだ作品論には手を出さない。

それで良くなった部分も中途半端になった部分もあるかと思いますが、専用ブログに移ってから色々と気分も欲求も変わって来たので、これからはもう、思い切ってそういう(↑)方針で行くことにします。・・・・まあ、そんなに変わらないような気もするんですが、いくつかは書けなかったことが書けるようにはなるでしょう。

というわけでそうですねえ、『神』まであげてひと段落した頃くらいですかねえ、いずれそういう基準で『書剣』と『碧血』も書き直したいという希望を持っています。
結構読み返すと恥ずかしい部分が(笑)。具体的には特に『書剣』の(その3)と『碧血』の(その1)。そこらへんはちょっと内容に踏み込めない苦しさが出てると自分で思います。


3.『射』ファン<(または”王道”金庸ファン)と『神』ファンの仲立ちを目指す

いかにもありそうなことだなとは思うんですが、金魚掲示板を自分の書き込みのついでにチラ見しただけでも、結構厳然と根深い溝がこの両者にはあるようで、微妙に胸が痛みます。
僕自身は熱烈な『神』ファンですが、あえてどちらが悪いかと言えば『神』が悪い、または例外的な作品なのだと思いますが。

ある意味では、金庸というペンネームの”作家”は『神』において、そのペンネームの下での読者との約束を破っているとまで言えるんじゃないかと僕は思うんですが、それはそれとして、それを前提として、それでも『神』を理解して欲しい、出来れば愛して欲しい、不要な対立はなくなって欲しいとそう願うわけです。

かなり思い切った書き方をする予定なので下手すると逆に溝を深めてしまうかもしれないですが(笑)、少なくともそれが「どういう”溝”なのか」を理解する助けにはなりたいと、そう思っています。


では次回からいよいよ本編へ。
今日はこれだけ?と憤慨するかもしれない人(約1名・笑)のために予告編をかましますと、大筋として次の3つの観点を重ね合わせて、『射英雄伝』を読み解いていく予定です。
 1.少年郭靖の”成長”ストーリー
 2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー
 3.東邪・西毒・南帝・北乞(+中神通)の四方位(人)が象徴する、中国的道徳/価値観の”曼荼羅”ストーリー

・・・・これだけで分かる人には結構分かっちゃうと思いますけどね。
勿論麗しの黄蓉もそれなりに”活躍”させるつもりですが(笑)、色々な意味で割りと補助的な存在だと僕は見ています。


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ムムム・・・・ 

オジェック監督は“まるでオシム”(デイリー)

J1浦和のホルガー・オジェック新監督(58)が30日、日本代表のイビチャ・オシム監督(65)も顔負けの“考えて走るサッカー”を選手にたたき込んだ。浦和は昨季、オシム・ジャパンに7人の代表選手を送り込んでおり、クラブでもオシム流を体現できれば、脅威の“赤い日本代表”へと進化することになる。

過去、FIFAの技術委員を務めた名将同士は、クラブと代表の違いこそあれ目指すサッカーは同じだった。(中略)千葉、代表でオシム戦術の核となったMF阿部が「似た練習なのかなと思いました」といえば、日本代表DF闘莉王も「代表に似てる?そういうところも多い」と認めた。


ムムム。
ギドより神経質に、生真面目になることは予測していましたが、こういう色ですか。
むしろもっとセーフティな方向に流れるんじゃないかと思ってたんですが。
”ドイツ”より”FIFA”という感じか。あるいは”カナダ”(注・元代表監督)、後発アングロサクソンの一生懸命/ハードワーク命のサッカー。


昨季は守備的戦術に不満を見せたこともあった闘莉王も「今年はもうちょっと楽しくできる」と、チームの進化を確信した。


あんだけ好き勝手やってて「楽しく」なかったんかい、闘莉王。
まあ闘莉王とか中澤とかは、常に何かしら不平不満をエネルギーに大きな仕事をするタイプだとは思いますが。

ていうか最近は「楽しい」「攻撃的」なサッカーというのはオシムみたいなのがデフォなの?


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