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 2007年02月 

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金庸先生の執筆環境 

本編は鋭意準備中(笑)ですが、そのための読み直し中に気が付いたこと。
いや、別にレア情報でも何でもないですが、『雪山』で話題にしたこととも大いに関係ありそうなのでメモ。


かの『武侠小説の巨人 金庸の世界』

武侠小説の巨人 金庸の世界 武侠小説の巨人 金庸の世界
(1996/08)
徳間書店

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の68ページに載っている「金庸作品総覧」という記事なんですが、そこの”掲載誌”の項を見てあれ?と。抜き書きしてみますと

『書剣恩仇録』(1955) 新晩報
『碧血剣』(1956) 商報
『雪山飛狐』(1957) 新晩報
『射英雄伝』(1957) 香港商報
 ?ここまで”大公報”時代
 ?ここから”明報”時代
『神剣侠』(1959) 明報
『飛狐外伝』(1960) 武侠与歴史
『倚天屠龍記』(1961) 明報


金庸Wikiなどで大雑把に「大公報」と「明報」の二つで書いていたような知識でいましたが、よく見ると結構色々あるようで。


新晩報 (『書剣恩仇録』『雪山飛狐』)

上海のメジャー紙「大公報」の娯楽面。金庸先生は主に香港支社で勤務。
ちなみに「明報」にも”晩報”があるようなので、要するに(新)”夕刊”みたいな意味かと字面から推測。金庸先生も、最盛期には「朝刊の続きを夕刊で書く」というアクロバット連載(笑)を敢行していたとおっしゃってましたし。

商報 (『碧血剣』)

てっきり「新晩報」同様、「大公報」内の出版物かと思ったら、こちらのサイトによると独立した別の新聞らしいです。

香港商報 (『射英雄伝』)

特にそう書いてはありませんが、商報の香港版でしょうね。
香港のWikiでは現在は左翼系と分類されていて、左傾化して金庸先生に逃げられた(笑)「大公報」ともども、多分商報も併せて要するに”政府系新聞”という共通点はあるかも。

明報 (『神剣侠』『倚天屠龍記』など)

金庸先生が独立して起こした自分の新聞。

武侠与歴史 (『飛狐外伝』)

日本語で言えば「武侠と歴史」ですよね?確か。とぼしい漢文の知識からすると。(笑)
新聞じゃないような感じがしますが。武侠専門紙?明報内の出版物?

・・・・ともかく色々あるということで。


で、パッと見ますと、まず「大公報」勤務時代においては

新晩報で『書剣恩仇録』?『雪山飛狐』を書き継ぎつつ、前後して
商報香港商報で『碧血剣』?『射英雄伝』を書くという二系統の流れが見えますね。

「明報」に移ってからは

ホームグラウンドで『神剣侠』?『倚天屠龍記』の本流を書きつつ
横っちょで『飛狐外伝』も書くというこれまた二段構え。

執筆環境を一系統しか想定していなかった僕は、単純に発表順の一つの流れの中から、内容的に二系統の流れを見出してみたわけですが、勘としては悪くないけど要するによく見れば誰でも分かることのようでした。(笑)

面白いのはその後の流れを決定付けた”代表作””王道”の『射英雄伝』が、商報系のサブグラウンドで書かれていることで、こうして見ると「金庸の王道は『射英雄伝』である」というよりは、色々な可能性を持っていた金庸ワールドが、「『射英雄伝』のヒットによって王道を定められた」とそう考えた方が実態に近いのではないかとそんな感じ。


それでも『神』が異色であるには違いないと思いますけどね。金庸先生の意図として特にそうではなかったとしても。「結果的に異色」というのが僕の説ですが。まあ後で。(笑)


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グルジェフの<私>と「人格」 

軽く脳味噌がヘタってますが、何としても今週中にケリをつけるぞとラスト稿。

何百何千の<私> の ”<私>”

「人格」と「本質」 の ”「人格」”

はどういう関係にあるのか。現代の精神医学的現象としての「多重人格」(解離同一性障害)を考える上で、どういう意味を持ち得るのか。
実は僕も書きながら考える感じなんですが。


まずグルジェフの<私>という言葉の定義ですが、”解”編でも書いたように、抜粋4のこの箇所が非常に核心的かなと。

複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。


時々で変わるその中身が何であれ、ともかくもその時
 <私>として働いているもの
あるいは
 <私>と名付けられているもの
が<私>である。
間違いがないと言えば間違いがないですが、無意味と言えば無意味なかなり抽象的な定義。

それに対して「人格」は、「人格」?「本質」という二項からなる概念的枠組のいち構成要素であり、「本質」が”自分のもの”つまり自分の中にある元からあるものによって成り立っているのに対して、「人格」は”自分のものでない”つまり外から来たものによって成り立っている。
「本質」が僕の言う「魂」に比べれば抽象的/機能的定義であるように、「人格」も特定の何かを指しているわけではありませんが、<私>の定義の究極的な抽象性に比べれば、それなりに具体的/構造的な定義かと。

思い切り分かり易く整理すれば
 <私>という機能の構造論が「人格」?「本質」である
あるいは
 <私>は「人格」と「本質」によって成り立っている
と言っても多分大きな間違いではないですが、なんというかグルジェフには鼻で笑われそうな(笑)猪口才な細工という気が。基本的にはそれぞれの文脈、それぞれの論の目的に応じて別々に考えるべき話だと思います。そんなに”体系”としての全体性/整合性を追求はしてない。”説法”ですからね基本的に。



一方の現代の心理学/精神医学(及び常識)の方ではどうなっているかと言うと、

まず「人格」の機能としては、
1.その人がその人であるアイデンティティの源、あるいは別名。
2.人間関係、社会生活を営むためのペルソナ(仮面)
という二面が何となく割りと緩い定義で一緒くたに考えられていた/使われていたところに、”多重人格”という衝撃的な現象が一世を風靡して、1.の用法がある種後退した。そして2.の側面を中心として、ある意味では初めて意識的で厳格な定義づけの動きが一般化した。

そして現在”多重人格”という現象を視野に入れて、あるいは多重人格を考えるor治療する目的の下にどうやら共通化している「人格」の定義としては、

特定の(時期や状況における)記憶を背景にした自己意識に基づいた、思考・感情や行動のパターンの集積


といったものがあげられるのではないかと思います。
上ではわざわざ”特定の”という断りが入っていますが、つまり記憶に十分な一貫性/統一性があれば思考・感情や行動のパターン、つまり「人格」にも一貫性/統一性がもたらされ、単一の「人格」を持った”正常な””健康な”人間とめでたく(?)認められるわけです。
言い換えれば多重人格とは記憶の病であると、そういうことになります。

ちなみにこの記憶への注目の背景には、
1.多重人格者が社会生活を送る上で最も端的に困難を訴える側面である。
2.伝統的な心理臨床において、多くの場合、記憶の分断・障壁を取り除くという方法で治癒・人格統合が達成されて来た。
3.多重人格者(等)の脳において、実際に強度のストレスによる(記憶を司る)海馬の萎縮が認められることが多い。(という最近の知見)

といった事情が存在します。

(つづく)


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グルジェフと現代心理学 

承前。タイトル変わってますが気にしない。
以上の基本を踏まえて両者の比較、すり合わせ。


(共通点)

1.「人格」の機能・定義

グルジェフ:社会的な要素の集積によって後天的に形成された、社会的な自己
現代心理学:社会行動・適応の為のペルソナ

・・・・多重人格という現象により単一性の幻想が破られ、「アイデンティティ」という伝統的な意味合いが後退したことによって、結果的に両者が接近。


(相違点)

1.「本質」という概念

グルジェフ:生来の部分の成長したものとしての「本質」概念を、「人格」と対置。
現代心理学:今のところそれに相当する概念はない。

・・・・「人格」概念が変容した(グルジェフ的なものに近づいた)のだから、論理的にいずれそういう概念が心理学の方でも発展してくることはあり得るかも。「単一性」幻想が覆い隠していた何か。

参考:ポスト単一「人格」時代のアイデンティティ基盤

(1)”本来の”人格

多重人格障害の治癒をめぐって、伝統的に患者/治療者双方が、まず素朴に追い求めるもの。”偽の””かりそめの”人格ではない、”本来の””オリジナルの”人格。
たいていは「ある年齢で外界から身を引いて成長を止めた(子供の)人格」というイメージをとる。

*感覚的には、同様に成長度合いの年齢的な個人差が語られるグルジェフの「本質」概念とも重なるようにも思えるが、グルジェフのそれは特に病的現象ではなく、「人格」と共にちゃんと時を刻みながらそれでも成長したりしなかったりするという質的な概念なので少し違う。何らか関係がありそうには思えるが。

(2)結果としての単一性

”オリジナル”人格の追求というものは、あたかも「神」や「真理」を追い求めるがごとき、果てのない/当てのない無限の検証作業になってしまう危険がある。
またそれは”多重人格”がすこぶる例外的で異常な現象である、あるいは本来「単一」である人格が「分裂」するという劇的なイメージで考えられていた時代の思考法とも言える。

現在は多重人格は割合ありふれた、誰にも十分に起こり得る現象であり、また「障害」という顕著な形では表われなくとも誰の中にもある程度の多重性は存在し、それが緩く統合されているのがいわゆる「正常な」状態であるというような考え方が主流になっている。

だから”本来”がどうであれ、今現在or将来的に何らかの形で一定の統一性が保たれることが目標であり、アイデンティティも言わば既成事実の追認的に、総体として考えていくというのが1つの方向性。
極端な場合は、明らかに独立性を持った複数の人格が個人の中に並存していても、そのことをその個人が全体として受容し、また対社会的にも大きな実害ある分裂が表われなければそれで良しとすることもある。それが自分(たち)だと。


2.「人格」及び「意識」概念の厳格性

単一であれ複数であれ、基本的に一般心理学や現代の常識的人間観においては、「人格」というそれなりにまとまりを持った主体が”あり”、それが「意識」的「意志」的に活動を行なうことによって人間の生活が成り立っているという視野の元にある。
しかしグルジェフの場合はむしろ”ない”こと、人間(<私>)が外界や他者やあるいは生理的欲求などの生物的規定性に影響されるままに、「無意識」的「無意志」的に”反応”するだけの機械的存在であることを基本に、人間について語っている。

前にも書いたように(”統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるか”)これはある程度は言葉遣いの問題で、最終的にどちらの記述法が説得的包括的、また実用的に事態を説明出来るかで用語の使用権は決まって来るのだと思う。いわゆる「実証性」の問題も、こうした”競争”に含み込まれるような形で存在するものなのではないか。証拠を証拠たらしめるのは枠組だ。

それはそれとしてあえて公平な(?)立場から両者のすり合わせを試みてみると、グルジェフが言っている『強い私』のようなもの

もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。


が我々の普通言う「人格」であり、現れては消える『弱い私』は無視して事態を単純化抽象化することによって、常識的な枠組は成り立っていると、そういう見方も可能かと。(実際多重人格者の「人格」を数えたりそれらと交渉する場合、そうした意図的単純化はしばしば行なわれる)
グルジェフの場合はむしろ『弱い私』の方に基準を合わせて、そうした微細なレベルも含めたある意味ではより包括的な枠組で理論を組み立てていると、そういう言い方も出来るのではないか。

まあどちらかと言えば「心」や「人間」といったロマン的概念とは一線を画しながら活動する自然科学者や、あるいはその影響下にある行動主義的or生理学主義的な心理学者と似たタイプの存在であると、そういう感じもします。・・・・ただし、そうしたタイプの学者に欠けている全体的な洞察力やイメージの喚起力をも、グルジェフは兼ね備えているように思いますが。


まだまだ書くべきことや書きたいことは沢山ある気がしますが、とりあえず今回はこれで終わり。


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郭靖の”成長”と『射雕英雄伝』(1) 

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岡崎 由美、金 庸 他 (1999/07)
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予告通り、以下の3つの観点から語っていきます。
 1.少年郭靖の”成長”ストーリー
 2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー
 3.東邪・西毒・南帝・北乞(+中神通)の四方位(人)が象徴する、中国的道徳/価値観の”曼荼羅”ストーリー

そして結論から言うと、それぞれのストーリーの「達成度」は
 1.90%
 2.70%
 3.50%
くらいかなというのが僕の見立て。・・・・ま、立てたのも解いたのも自分ですけど。(笑)

ではスタート。



1.少年郭靖の”成長”ストーリー 達成度90%


郭靖は”成長”しているのか?

まずは引用から。

岡崎 金庸先生が(『書剣恩仇録』の)後に書かれた作品では、多くが、未熟な少年がだんだん大人になっていきますよね。
金庸 そう、成長していくのね。
岡崎 その過程が、とても詳しく、精緻に書かれています。

(『きわめつき武侠小説指南』 p62)


ごく平凡な少年郭靖が、世間の裏表を知り、さまざまな人生の師に出会って自己形成していくさまは、武侠小説の『ウィルヘルム・マイスター』という趣がある。

(『武侠小説の巨人 金庸の世界』 p80)


実を言うと僕は、上のような解説を読んで初めて、「そうか、郭靖は成長しているのか」と気が付いた人だったりします。

勿論ストーリーの「型」として、『射英雄伝』が主人公郭靖の武術的人間的”成長”物語になっているのは明らかなわけですが、その具体的な様子がどうも僕には型だけのがらんどうなものに見えて、むしろ「成長しない」ことを金庸先生はあえて書いたのかなと疑っていた部分があったのです。ああも(↑)はっきりおっしゃっているからには、今となっては僕の深読みのし過ぎは明らかですが。(笑)


”教養小説”(ビルドゥングスロマン)としての『射英雄伝』

なぜ僕がわざわざそんな穿ったことを考えたかには、一つの”文学史”的な背景があります。
それは引用の後段の『ウィルヘルム・マイスター』という作品に代表される、「教養小説」というジャンルをめぐる少しこみいった議論です。

教養小説(ビルドゥングスロマン)とは

(多くの場合幼年期から成年にかけて)主人公の精神的、心理的、または社会的な発展や精神形成を描く小説のことである。発展小説形成小説ともいう。ドイツでこのような型の小説が育まれてきたため、英語でもしばしばドイツ語での表記(Bildungsroman)が使用される。
(Wiki)


・・・・要するに「主人公の成長を描いた小説」なわけですが、じゃあ逆に主人公の成長を描”かない”小説はあるのかというと、あるわけですね。というか、ある時期までの西洋文学において「成長」などというのはほとんどテーマとして存在していなかった。(らしいです)
典型的には”ギリシャ悲劇”で、そこにおいて事件はただ起きる、「運命」の、「予言」の通りに。主人公たちがどう行動しようとしまいと。そこに「個人」の「自由意志」やら「内面」やら、それらに根差した「成長」などという要素の入り込む余地は全くない。

そもそも今日言うところの「内面」というものは、キリスト教という信者に内省や神との対話を要求する宗教の発展によって初めて(ヨーロッパにおいて)意識されるようになったらしいですが、その後のルネッサンス/宗教改革による「個人」や「自由」の意識の向上、また科学/啓蒙思想の発展による「進歩」や「進化」という思想の一般化、それにより「自由な個人の内面的な成長」をメインテーマにする小説形式が可能になったと、そう僕は理解していますが。

だから小説形式的にはある意味で復古主義者である金庸先生のことだから、郭靖の「成長」も何らか「」(カッコ)つきのものなのではないかと気の利いた疑問を呈するつもりでしたが空振りでした。(笑)
結論、『射英雄伝』は郭靖少年の”成長”を描いたビルドゥングスロマンである。


(2)へ。


郭靖の”成長”と『射英雄伝』(2) 

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1) 射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1)
金 海南、岡崎 由美 他 (2005/07)
徳間書店

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(1)より。


”空っぽの器”としての郭靖

「教養小説」という文学史上の概念は、現代においてはより一般的なものとして、ストーリーの基本構造として、実際には特に意識されることもなく使われていることが多いのですが。

更に教養小説について

主人公の精神が外部の世界や周囲の人間関係、さらに文化的環境との接触、交渉によって、ある一定の調和した人格形成をする過程を描いた魂の発展・調和小説である。迷いのなかに、内省する魂の発展を通して、その時代の人格的理想像を描きあげていく小説である。
(南坊義道『現代創作入門』)


結局(小説における)”成長”をめぐる、ここらへんのこだわりが僕に余計な深読みをさせた原因なわけです。つまり・・・・郭靖に「内面」はあるのか、発展する「内省する魂」というほどのものがあるのか、ということ。

確かに郭靖はストーリーの進行に従って様々なことを吸収し、考え方も時々に変わって行くわけですが、それら全部ひっくるめてどうも何か薄っぺらなような、郭靖自身は何も実質的な変化は最初から最後まで起こさずに、ただ「郭靖」という名の”空っぽの器”の中身が時々で入れ替わっているだけに見えてしまう部分があるんですよね。
変化が起きない、というよりも、変化すべき実体がそもそもないというか。

言わばその「郭靖」という名の空っぽの器の、”中身”を注ぎ替えて行くのが黄蓉を筆頭とする郭靖が道々出会う人々というわけで。


(参考)阿部敦子さんの”郭靖の2段階報仇説”

『きわめつき』204ページより。なかなか見事な分析だと思います。

1段階目

彼女(郭靖の母親)は幼い郭靖に大きくなったら父の仇を討つべしと教え聞かせます。(中略)郭靖は当然のようにその名(段天徳)を胸に刻み成長していきます。
しかし、実際に段天徳にめぐり合ったときの郭靖の様子から、仇討ちはかれにとって、その他の社会的ルール同様、疑問なく従うべき規範ではあっても、内側からかれを律するものではなかったような印象を受けます。


2段階目

ついに郭靖自身も、心の底からの憎しみに煮られる思いを味わうときがきてしまいます。江南七怪がひとりをのぞいて東邪に惨殺されてしまったのです。
師の仇を討つべし。このときばかりは郭靖の動機も完全に自発的なものでした。義務として仇討ちに臨んだのではなく、自らの激しい怒りに突き動かされて、東邪を殺さざるをえない衝動を感じたのです。


・・・・このパースペクティヴで言うならば、郭靖は郭靖なりに変化しているということになりますね。それは郭靖という一人の人格の内面が変化したというよりも、最初には存在しなかった内面的動機や「自発性」が、ある時点で生まれたという形で。

なるほどなと感心しつつも、基本的には僕はこれはかなりな深読みの類だと思います(お前が言うな)。金庸がこういう意図を持って描き分けていたとは思えません。
こういう指摘自体は肯定するでしょうが、この二つの”報仇”の性格の違いをさほど重大なものとしないような、基本的には単なる「型」の違い、”器”の中身の違いに帰着させるようなそういうより遠い視点からの、割合平坦な筆致で郭靖の半生を書いている。意図的な変化があるとすれば、「仇討ちやら武芸やらにそもそもどんな意味があるのか」という、作中でも明確に書かれているそっちの大きな価値観の方。

ともあれこうした阿部さんの”深読み”のモチベーションとして、『射英雄伝』という作品における郭靖というキャラの描写に対する、僕同様の違和感、物足りなさみたいなものが原文の行間から伝わって来たんですが気のせいでしょうか。(笑)


(3)へ。


郭靖の”成長”と『射英雄伝』(3) 

射雕英雄伝〈2〉江南有情 射雕英雄伝〈2〉江南有情
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/08)
徳間書店

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(2)より。

郭靖の空白性、あるいは受動性。それは作者金庸が主人公特性として意図的に付与している部分、必然的にそうなっている部分と、たまたまそうなってしまった部分と両方あると思いますが、まずは前者について。


郭靖の”主人公”特性

郭靖ファンのみなさん、今度は褒められる番(?)です。(笑)

劉邦と郭靖

司馬遼太郎『項羽と劉邦』より。
項羽と劉邦〈下〉 項羽と劉邦〈下〉
司馬 遼太郎 (1984/09)
新潮社
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”空っぽの器”というキャラ特性(のプラス面)について、僕が今まで読んだ小説の中で一番はっきりと描いていたのは司馬先生のこの作品。

知勇兼備の何でも出来ちゃうスーパーマン項羽ではなく、なぜ「何にも出来ない」劉邦が中国を統一し、漢王朝の祖となることが出来たのか。
それは自分では「何にも出来ない」からこそ、逆に「何でも入る」大きな空っぽの”器”として様々な人材を、人々の思いを受け止めて受け入れて、活かすことが出来たから。

信長よりも秀吉が、秀吉よりも更に家康が天下人として相応しかったという日本史上のテーゼも、そういうことかもしれませんね。頼朝も尊氏もそういうところがありました。俗に「大器」というように、大将というものに最終的に求められるのはそういう”入れ物”的な資質なのかもしれません。

少なくとも武芸が出来る点では郭靖は劉邦よりマシ(笑)ですが、郭靖もまたそういう美点を持ったキャラとして描かれているのは明らかだと思います。そしてまた往々にして、ヒーロー物語の主人公格というのはそういうタイプが定番です。”キレ者”タイプは仇/ライバル役(もしくは参謀)と相場が決まっている。日本の少年マンガなどを見ても。

だから靖さんがぼんやり(by黄蓉、5巻175p)なのは仕様ではあるわけです。とりあえず。


中神通・王重陽と郭靖

これは金庸がそういうつもりで書いているということではなくて、偶然だがある程度の必然性を持ってそう見えるということ。この二人はある意味似た本質を持ったキャラである。

まず王重陽がどういうキャラかというと、武林の泰斗、東邪・西毒・南帝・北乞の四方位の真ん中に位置する最高位者。武功と精神修養を矛盾なく両立させられた真の天才(by老頑童)。
ただし物語の始まりの時点で既に故人で、具体的な人となりについては回想の中で間接的に窺えるのみ。

ここで注目すべきは、実在の人物をモデルにしつつも王重陽というのが定義のみで曖昧な、特徴のはっきりしない人物であること。
言うなれば東邪”ではなく”、西毒”ではなく”、南帝”ではなく”、北乞”ではない”という形で、消極的にのみ性格付けられる存在であること。故人であること、”不在”をある意味でのキャラ特性として備えているとも言えるかもしれません。

勿論その偏りの無さが正に「最高位者」たるゆえんなわけですが、キャラ立ちがいいとは間違っても言えないわけです。故人という扱いについては一応「実在の人物だから描きにくい」というのが表の理由になるのかもしれませんが、ぶっちゃけ描きようがないから殺しちゃったというのがホントの理由ではないかと邪推する次第。(笑)

その積極的特徴の弱さというのは郭靖も同じだと思いますが、その郭靖は王重陽亡き後の武林の中心を担って行く存在であると、ストーリーの最後にはなって行くわけですね。
・・・・あの2回目の”華山論剣”の勝者は少しややこしくて、強い弱いで言えば西毒・欧陽鋒になるんでしょうが、何せ同時に正気も失っているわけで、会のもう一つの目的である「対蒙古防衛戦に向けての武林の盟主決定」には不適格。となると岳父・東邪と師匠・北乞の後ろ盾を受けて、成長度こみで郭靖が”中神通の後釜”に選ばれたとそう読んでいいでしょう。

というわけでここで、「最高位者」と「主役」が、「無個性/中庸」と「空っぽの器」が重なって来るわけですね。
王重陽のキャラ設定と郭靖のストーリー上の機能設定が、偶然ながら予定調和的に一致していると、そう思います。不在の王。空虚な中心。偉大なる消極性、受動性。


『侠客行』の”のらいぬ”と郭靖

郭靖の「受動性」がある程度意識的なものだというのは、同じ金庸作品である『侠客行』の主人公”のらいぬ”と比較すると分かり易いかなと思います。

つまり”のらいぬ”もお人好しの「ぼんやり」さんということなら郭靖に負けないどころか凌ぐものがありますが(笑)、しかしキャラとしての機能の仕方はだいぶ違う。
郭靖のぼんやりが基本的に翻弄される/流される方に機能するのに対して、”のらいぬ”は逆にそのあまりのぼんやりさで、謝煙客のような煮ても焼いても食えない江湖の古強者をキリキリ舞いさせ、どんな知恵者にも解けなかった「侠客島」の秘伝の謎もそれと知らずに解いてしまいます。

・・・・流されていることに気付いてはいる郭靖と、気付きすらしない”のらいぬ”のぼんやりの過激度の違いと言うか。(笑)
ともかく同じような資質が郭靖の場合とは違い、むしろ積極的な特徴として表現されているところが面白いと思います。

これは執筆時期を考えれば、郭靖を筆頭とする広い意味でのぼんやりのっぺりとした「主人公タイプ」のキャラたちの特徴を逆手に取った、僕言うところの(笑)”自在期”ならではの変化技なんだろうと思いますが、逆に言えば同じ特徴をこういう風にも描こうと思えば金庸先生は描けるわけで、やはり基本的には承知で、そういうものとして『射』の段階では描いていたと、そう言えるのではないかと思います。


・・・・ただし”失敗”してそうなってるのではないかと思えるところもあって、それについては2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー編で説明したいと思います。


映画『グリーン・デスティニー』(転載) 

グリーン・デスティニー グリーン・デスティニー
チョウ・ユンファ (2007/01/24)
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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BS2でやってた、アカデミー外国語映画賞を獲ったとかいう”武侠映画”。(公式)


く、く、くだらない。逆にびっくりして最後まで見てしまいました。
”武侠”ってやりようによってはこんなになっちゃうのか。
このおっさん、なんで目丸くして突っ立ってんだろうと思ったら、そうか”「点穴」された”というそういう描写だったのね。(笑)

ワイヤーアクションなんかもわざとらしいし使い過ぎだし、作りとしてはバリバリ”A級”なのに結果として現代カンフー/武侠映画全体のパロディみたいな感じになっちゃってて、かなり見てて恥ずかしい。
米中合作のせいかラブシーンだけ妙にアメリカ的で変だし、こんなのに「外国語映画賞」を寄越すのは一瞬東アジア人に喧嘩売ってんのかユダヤ資本の陰謀かと思いますが、『ラストサムライ』みたいのも含めて要するに単純に『SHOGUN』
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の昔から何も特にあちらのアジア理解は進んでいないと言うだけのことで、基本的には間違いなく好意なんでしょうね。

あー脱力。逆に我々アジア人がどんなに真剣に、切なる思いであちらの文化を注視しているか理解しているかを知ったら、きっと驚くでしょうね。自分たちはどんなに他者に関心を持たずに暮らしているのか。


それはともかく。
予備知識なしに見ましたが、色々と錯綜した奇妙な印象を与える映画で。パッと見るだけで金庸ファン的には無数の連想が走ります。

青冥剣(”グリーン”デスティニー)・・・・血剣』
イェン(チャン・ツィー)の”愛に飢えたキレっ放しの美少女”というキャラ
・・・・同じく『碧血剣』のキャラ”夏青青”。
そのイェンの実家出奔&場末の食堂で無理な高級品を注文するエピソード。
・・・・『射英雄伝』のキャラ”黄蓉”の同様のエピソード。

新疆(ウイグル)の砂漠地帯の生活と中原との対比。・・・・『書剣恩仇録』
そこの盗賊ロー(チャン・チェン)が飼っている猛禽・・・・が、(ワシ)ならば『射英雄伝』

清朝が舞台で、既に”武侠もの”という半フィクション世界がある種の追憶的憧れとして共有されている時代というポスト武侠設定・・・・『鹿鼎記』

などなど。


さぞかし作り手にそういうオタクがいるんだろうとまずは思いますが、ところが不思議なのはストーリーそのものには特にどれを下敷きにしている形跡も見られないことで、だから「オリジナルで面白い」というよりも、むしろ金庸らによる”洗練”前の未整理で素朴な臭いが感じられたんですが。


そこで見終わって、スタッフ関係をリサーチリサーチ。

原作:ワン・ドウルー「クラウチング・タイガー、ヒドゥン・ドラゴン」

検索するとワーッとゲーム関係が出て来る出るところに出れば有名な作品らしいですが、あんまり具体的な情報はなし。
そこでワン・ドウルー(Wang Du Lu)の方で見てみますと、色々書いてますが重要なのはその活躍年代。1909年生まれの1977年没。
これを金庸の1924年生まれと重ねるとなるほどなという感じ。
現代武侠ものの隆盛には立ち会っているけれど、基本的にはそれより少し前の人ということで。

脚色のワン・ホエリン、ツァイ・クォジュンの方はほとんど情報が無かったのでかなり当てずっぽうですが、要するにそういう
・微妙に古典的な武侠小説を元に、
・「金庸世代」の若いスタッフがディテールにアイデアを借用、散りばめて、
・かつアメリカ人プロデューサー(ジェームズ・シェイマスら)による視点で薄めて/一般化して
作った作品・・・・ということでいいのかな。間違ってたら指摘して下さい。


まあ何というか、多分究極的な狙いとしては武侠版の『パルプフィクション』みたいな”ポスト”映画にしたかったのかなと思いますが、どうにも中途半端で。
相変わらず意味もなく喋りが邪悪で素敵(笑)なチャン・ツィーの魅力くらいしか僕には見るべきものがなかったです。(上半身がめくれそうになるシーンが・・・・)

普段は普通なんですけど、演じ出すとホント性格の悪さが光り輝きますよねこの人は。そういう意味でまさに”女優”。アイドルでもモデルでもない。


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郭靖・楊康の”合わせ鏡”と『射英雄伝』(1) 

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (2) 射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (2)
金 海南、岡崎 由美 他 (2005/07)
徳間書店

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2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー編 達成度70%


”金庸キャラ萌え禁止”説?

いや、萌えますよ、萌えますけどね。(笑)
基本的には萌えるか萌えないかは読者の勝手でもあるわけですし。

ただどんなに萌えキャラが大集合していたとしても、本質的に金庸作品は”キャラ小説”ではないと思います。それは同じく榎木津やら中禅寺やらの、立ちまくったキャラの活躍する例の京極堂シリーズ
邪魅の雫 邪魅の雫
京極 夏彦 (2006/09/27)
講談社
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が、それでも”キャラ小説”ではない、少なくともそれは作者(この場合は京極夏彦)にとって不本意であるだろうというのと同じように。

同系で比較して言うと例えば古龍(武侠)や島田荘司の御手洗シリーズ(名探偵もの本格ミステリ)などなら、かなりの部分”キャラ小説”といってもいいところがあるんじゃないかと思います。
それらの登場人物たちは、言わば一人の人間として作者に興味を持たれている、愛されている。彼らの心の内を覗いて彼らの生き様を辿ることは、ほぼ作品自体と等価の重みを持っている。ライティングプランはライティングプランとして。

それに対して金庸や京極の場合は、キャラはあくまでキャラである。彼らは作者が指すチェスの駒であり、彼らの「個性」も「人間性」も、ゲーム全体を構成するルールの1つとして付与されているものに過ぎない。そうして出来た”駒”に愛着や好み、使い易さなどが生じることは当然あるでしょうが、だからと言って象牙の駒が突然血肉を伴った人間になったりはしない。駒のためにゲームを作ったり変えたりはしない。

半ば行き当たりばったりで二転三転する長期連載の週刊漫画などに慣れた僕たちにとっては、ある意味キャラが全てであり、「キャラが勝手に動き出す」というようなことはむしろその作品の”成功”を意味したりするわけですが、ある種の作家にとってはそうではない。あるいはストーリーそのものやライティングプランはより重要であり、キャラの「個性」やら「人間性」やらは、それらとの比較的厳格な関係において初めて決まり、意味を持つ。

・・・・勿論全ては相対的な話ですが。金庸は金庸なりに「キャラを重視している」とも発言していますし。ただ逆に”重視”してこれかよとも僕などは思うわけで。
結局は資質の問題で、逆にキャラに溺れ(られ)る人は構成や全体像が甘くなる傾向があるのも常なわけですね。どんなに暴れさせてもどこかちんまり収まる、ある程度以上には踏み込まない。金庸の場合は。

(2)へつづく。



補足:”%”の意味

うっかり書き忘れてたのでここで。(2/26)

1.少年郭靖の”成長”ストーリー
の達成度が”90%”だというのは、これだけイチャモンつけといてどうしてという感じかもしれませんが、ともかく作品内の企画としてはきっちりたっぷり展開されているのでという、言わば客観的な評価です。僕の個人的こだわりではなく。
”90%”の読者は満足しているだろうという意味でもあるかもしれません。(笑)

2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリーの達成度が”70%、3.価値観の曼荼羅ストーリーが同じく”50%”であるというのも同様の基準の評価です。


郭靖と楊康の”合わせ鏡”と『射英雄伝』(2) 

射雕英雄伝〈3〉桃花島の決闘 射雕英雄伝〈3〉桃花島の決闘
岡崎 由美、金庸 他 (1999/09)
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(1)より。

”合わせ鏡”としての郭靖と楊康

いわゆる南宋の金に対する「靖康の恥」に由来するネーミングからも明らかなように、郭靖楊康というのは最初からセットで構想されたキャラだと思います。単によくあるライバルではなくて、”人間の二つの面を表わす”象徴的なキャラとして。素朴と洗練。田舎と都会。賤と貴。無欲と名利。などなど。

二人の基本性格は互いへのコントラスト(それもかなり類型的な)で定義されているので、そういう意味では不自然というか不自由というか、独立性がないというか。そのままでは血が通わないというか。
それでも楊康は言わば人間の「本音」の部分を担っていたので、全く評判は悪かったけれど(笑)それなりには”血”は通っていたと思います。誰だって一国の王子の座を捨てるのは嫌に決まっている。しかし「建て前」を担わされた郭靖は・・・・。

子供の時はそうでもなかったと思うんですけどね。愚鈍は愚鈍なりにキャラは立っていたし、コジンを助けた時の剛直な行動力みたいなのも、プロフィールとして上手く出来ていたと思います。ただ中原に出て来てから(楊康に会ってから?)は、終始欲求や行動原理の見え難い、取ってつけたようなただの善人みたいになっちゃって。

『ドラゴンボール』で言えば子供の時はちびの怖い者知らずの孫悟空だったのが、大人になったらカカロット・・・・にはならずに、なぜか優等生の孫悟”飯”の方になっちゃったみたいな。しかも頭の悪い(笑)。そして楊康もベジータにはなれなかったと、それは次の話。


変化・成長出来なかった郭靖と楊康

あるいは最初の”合わせ鏡”プランから抜け出せなかった、動かし切れなかった金庸先生。

唐突ですが僕は『ドラゴンボール』の悟空とベジータの関係が大好きなんですね。純朴主人公とヒネ者ライバルとの定型構図としては、最高度に成功したものだと思います。
何よりあのダイナミズム、特にベジータの変化の仕方と、基本性格は変わらないまま最終的に獲得する屈折した「人間味」

ベジータ

は、ほとんど涙モノだと思います。

注意すべきはこれはさして計画的なものではなくて、つまり”ベジータ”というキャラは最初からいたわけではなく、ヤムチャ→天津飯→(新)ピッコロと続く”厭味な仇役”の「指定席」に、言わばたまたま順番が巡ってきて坐っただけの1キャラだということです。
その後も「指定席」そのものはストーリーの都合上誰かが常に座り、それぞれにキャラは立っていましたが、ある意味2代目主人公孫悟飯を押しのけるほどの大きな存在感を獲得するまでに育ったのはベジータだけなわけです。

勿論その背景には(主人公と同じ)”サイヤ人”という特権的な要素などがあるわけですが、とにかく初期プランにこだわらずにベジータが生まれ育つことを許されたゆえの、悟空との素晴らしきライバル関係だったわけです。

ここらへんは日本式の連載漫画のスタイルに負うところが大きいので直接の比較は難しいですが、それにしても郭靖と楊康の関係はショボいよなと、思わざるを得ません。
「最終的に楊康は改心しない」というコンセプト自体は、殺伐とはしてますがそれはそれでリアリスティックで悪くないと思います。ただそれにしてももう少しカラめて交わらせて、それぞれに動いて変化がないと、「あるところに浮き世離れしたいい人がいました。またあるところに小心翼々とした俗人がいました。いい人は頑張りました。俗人は落ちぶれて死にしました。」というだけの話じゃないかという感じすらします(笑)。結局”親の代の因縁”以外、何の関わりもないじゃないかこの二人は。

ある意味一番哀れを催すのは、楊康では”悪”すらも足りなくて、同系の欧陽克を新たに出さざるを得なかったように見えてしまうところです。何の為に出て来たんでしょう、楊康って。
引きで見れば一応コントラストにはなってますけど、まあ何というか計画倒れなところの多い”合わせ鏡”だなとそんな風に思います。それなら郭靖を単独で、楊康のテリトリーを犯すことを気にせず、もっと自由に描いてあげれば魂も入ったろうにと。自分で設定したルールに自分で縛られてしまったのかなとか。

当初の構想から、執筆開始時点では既に形だけ残った設定と割り切ってたりしたのかなとも、少し思いますが。泣くな楊康、リベンジは息子がちゃんとしてくれたから。(笑)


「東邪」「西毒」「南帝」「北乞」と『射英雄伝』(1) 

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (3) 射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (3)
金 海南、岡崎 由美 他 (2005/08)
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3.東邪・西毒・南帝・北乞(+中神通)の四方位(人)が象徴する、中国的道徳/価値観の
”曼荼羅”ストーリー編
 達成度50%

実は僕がこのことに特に注意を向けるに至ったのは、PSのゲーム版(amazonにもないや)
PS射英雄伝

をプレー中のことだったりします。
ゲームということでどうしても早足で単線的にストーリーが進む中で、なんかいかにも4人の扱いが雑だなあ、よくよく考えればこの設定はかなりのすぐれもので、極端に言えば郭靖も楊康も、ついでに(笑)黄蓉もうっちゃっちゃって、全然別の面白いストーリーが作れる、それくらいのポテンシャルを持ったものじゃないのかなと今更気付いたわけです。

実際にそれをするには、今の倍くらいの分量または「外伝」の類が必要でしょうけどね。
また次の『神』は、”西毒を中心とした4人の外伝”という読みも出来なくもないものだと思いますけど。
それはともかく。


四方位+1の由来

作中にある直接的な手がかりとしては、北乞・洪七公のこの言葉くらいしかなかったように思います。
(2巻152ページ)

南帝の強さには、おまえの父親(東邪)やわしとて一目も二目も置いている。
特に南の火は西の金を制す、と言ってな、西毒・欧陽鋒にとっては天敵じゃ。


これは明らかに(陰陽)五行説「相剋」という概念を下敷きにしていますね。
詳しくはここなどを参照ですが、簡単に整理すると

 東邪(青龍) ”木”・・・・「木剋土」
 西毒(白虎) ”金”・・・・「金剋木」
 南帝(朱雀) ”火”・・・・「火剋金」
 北乞(玄武) ”水”・・・・「水剋火」
 中神通    ”土”・・・・「土剋水」

と、なります。
()内は四方を守護するとされる聖獣”四神”を当てはめたものですが、それぞれの動物のイメージがかなりそれぞれのキャラクターにマッチしているように見える(水中に潜む青龍、猛り狂う白虎、優雅な朱雀、剛毅な玄武(亀))ので、これもそのまま下敷きとして使われているんでしょうね。

ただしこの「相剋」関係をそのまま使うと、「木剋土」つまり東邪が中神通に勝ってしまって、せっかくの華山論剣の決着がパアになってしまうので(笑)、まず間違いなく金庸はこの体系/関係性を最後までは考えてないでしょうね。単なるハッタリ、もしくはにぎやかし。元ネタではあるんでしょうが。

・・・・というようなことは150%、既に誰かが研究して書いてることと思いますがそれはそれとして。

こうした五行(または四神)図式とそれぞれのキャラ造型との関係ですが、特に根拠はないですがほぼ同時並行ちょい図式先行くらいかなというのが僕の感触。

図式をそれほど理論的に運用するつもりはなくて、それぞれのキャラはキャラとして描きたい内容があってそれを体現する形で作られたんでしょうが、最終的にこの形に落ち着いたのはやはり図式による。
・・・・つまりキャラメインの思考なら3人でも5人でも良かった(実際老頑童もいるし)のが、”4人”にまとめられたのは図式に従ったもの。例えば南帝の印象の薄さは数合わせで加えられたキャラだったからかなとか。


(2)へつづく。


おい、ブルズカップ 

45分×3の3チームリレーマッチ?(ザルツブルグ×浦和×バイエルン)
そんな変則レギュレーションだったのか。知らんかった。

スカパーが生中継すると聞いて舞い上がって、慌てて前倒しで新サッカーセット申し込んじゃった俺の立場はどうなる。しかも”J2ライブ”(1580円)で見られたのに、間違ってわざわざ”JリーグライブDX”(2980円)なんか申し込んじゃって。

・・・・はあ、もったいない。でもどうしても見たかったんですよ、新監督/新チームの初戦。ギドの時も実はたまたま(プレシーズンマッチ)見てるというのもあって。
しかしなんか、少女のようにウルウルキョドキョドしてるレッズの新シーズンです(笑)。別に比べてヴェルディに文句があるということではなくて、要するに新しい若い恋人に我を失っている中年オヤジというそんな感じなだけですけどね。

何せケ○の穴のシワの数まで知ってるからなあ、ヴェルディは。盛り上がるにはそれなりの舞台設定が必要。顔見ただけで勃つ若い衆が羨ましい。(少しだけね)


そんな感じでスポ新情報にも細かく反応する3連発。

小野 鮮やかボレーで先制弾演出!(スポニチ)

浦和が9日、さいたま市内で法大と練習試合(40分ラ3本)を行い、5―0で勝利。MF小野が鮮やかな右足ボレーでFW永井の先制点を演出するなど、今季初の対外試合で存在感を示した。
山田とともに3―6―1のトップ下で先発した小野は2本目の16分、山田が落としたボールにきれいに右足で合わせた。ゴール前で永井が押し込み得点を“奪われた”が、学生相手に1本目を無得点で終えた嫌な流れを断ち切った。


離脱していた小野の復帰もさることながら、『3?6?1』というところになにげに反応。目下のところ割りと細かく前チームを引き継いでいるようで。
ぶっちゃけ引き継いで欲しいのか大胆にスクラップ&ビルドして欲しいのか、複雑なところなんですけどね。メンバー見渡すと(特にワシントン)どうしても3?6?1に思考は戻って来てしまうのは確かなんですが。

オジェック自体への期待感が中途半端なのが態度の決まらない原因ですね。信用出来るのか出来ないのか。スカパーで見た「FIFA技術委員長」としてのフットボールカンファレンスの講演内容は、当たり前過ぎて何の参考にもならなかったし。
・・・・ああ、でもシステムは固定派っぽいこと言ってましたね。試合中にちょこちょこ変えるのは良くないと。


長谷部開幕アウトも…右ひざじん帯炎痛み引かない(報知)

右ひざ負傷でリハビリ中の浦和MF長谷部誠(23)が、開幕戦の横浜C戦(3月3日、埼玉)に間に合わない可能性が高くなった。10日に負傷後初めてスパイクを履いて調整を行ったが、「まだ痛む。今(練習が)できていないと(開幕は)難しい」と明かした。


困ったことではあるんですが、阿部のスムーズなチーム合流のためにはすんなり席が空いてある意味いいかなという考え方も。長谷部ならタイプ的に、復帰後しばらくは”スーパーサブ”的起用も可能ですし。・・・・ああ、でも相馬的なテンパリ方しそうな気もするな。(笑)

お大事に。


浦和オジェック監督がブルズ杯Vに執念(日刊)

浦和オジェック監督が、ザルツブルク、バイエルンと対戦する13日のブルズ杯優勝へ執念を見せた。
チームとともに11日に渡独予定だったが、同日にバイエルン?ビーレフェルト戦が行われることを知り、視察のために急きょ1日前倒し。この日、渡独した。ブルズ杯は3チームが45分ずつ戦う、交流の色が濃い大会。だが闘将にとっては違うようで山道(やまじ)強化部長は「彼は負けず嫌いだからね。(勝つために)少しでも見ておきたいんだろう」と話した。


ここにちゃんとレギュレーションについて書いてあるのに気付かないくらいの舞い上がり具合(笑)。やったれ!オジェック、皆殺しだあ!とそれしかメッセージ受け取れませんでした。


・・・・ただーし、総じて言えば期待より不安の方のハラハラドキドキが大きいんですけどね。いいさいいさ、壊れたら一緒に泣くさ。


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「東邪」「西毒」「南帝」「北乞」と『射英雄伝』(2) 

射雕英雄伝〈4〉雲南大理の帝王 射雕英雄伝〈4〉雲南大理の帝王
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/10)
徳間書店

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(1)より。


四方位+1の機能

そしてこれらの作品の中での位置、役割ですが、基本的には『素朴な正義感溢れる少年郭靖に、世間の複雑さや価値観の多様さを教える』というのが機能でしょうね。
メインの”成長”ストーリーの舞台装置。誰か楊康にも教えてやれよという感じもしますが。(笑)

・・・・ああ、でも楊康には郭靖と逆方向の教えが必要な気がするから、それには中神通の不在が痛手になるか。そう考えると随分奥深い設定になりますが、多分気のせいでしょう(笑)。ていうか丘処機、気付いてるかどうか知らないけど、あんたの弟子はちゃんとあんたの「力ありきの思想」を受け継いでると思うぜ?(かといって馬じゃなあ。)

話戻して。
ただし単にその為に作られたというには余りにこの”脇役”陣は豪華&魅力的過ぎるので、何らか独立の意義付け・イメージが金庸の中にはあったんだろうと思います。それを僕は(価値観の)”曼荼羅”と漠然と表したんですが。
そういうものを全面展開する気があったかというとそれはちょっと疑問。「?サーガ」とかにしないと無理ですよね。だから”計画倒れ”だった『郭靖と楊康の”合わせ鏡”』とは違い、これは最初から基本的にこの程度のものだったのだろうと。

ただ一方である意味で凄く金庸が本来的に言いたい、表現したい観点・感覚ではあって、理論化は不十分でもそれぞれの描きこみ自体はかなり熱入れてやったのではないか。
それのミニチュア版、普及版が『郭靖の成長』であり、『郭靖と楊康の合わせ鏡』であるとも言えるし、またそっちに熱を入れ過ぎて(笑)郭靖と楊康の関係の描写がお座なりになったとも言えなくもないかなと。

”曼荼羅”を幻視しつつ郭靖の「教育」にあえて専心したのか、それとも教育装置に思わず金庸の脳の中身が漏れ出て(笑)命が注がれてしまったのか。これも同時並行やや前者優位くらいが僕の感触。
ていうか僕自身がその”曼荼羅”の可能性/予感に魅惑されてしまっているので、それでこんな潜在的な”ストーリー”をわざわざ3つ目として並列してみたわけですね。1・2・3が段階的に完璧に組み合わさった夢の『大・射英雄伝』というか。

*後に金庸は『天龍八部』で、こちらはかなりメイン要素として”価値観曼荼羅”的なものの織り上げにチャレンジするわけですが、先取りして言うとそんなに成功しているようには僕には見えませんでした。


(参考)金海南による”4人”の基本性格

自分でもやってみようかと思ったんですが、それほど気の利いたこじつけが浮かばなかったので(笑)こちらで代用。(ただし少なくとも”東邪”についてだけは、『神』編で娘の黄蓉とそれに楊過を合わせた3人の比較としてかなりリキ入れてやる予定なので、お楽しみに。)
まあ今回の僕の”説”としては、上で言った「青龍・白虎・朱雀・玄武」の”四神”との重ね合わせというあたりで勘弁して下さい。

4巻の訳者あとがきより

東邪と西毒 ?”悪”をめぐって

東邪・黄薬師
この世の悪と偽善を容赦できない性格で、それがあまりに強烈であるため、自分の心の中に潜む悪と偽善に気がつかない。

西毒・欧陽鋒
悪になりきろうとするあまり、自分の中の善なる要素に気がつかない、または気がつこうとしない人間である。

南帝と北乞 ?”欲”をめぐって

南帝・段皇帝(一灯大師)
皇帝でありながら凡夫と変わらない嫉妬の念に苦しめられている。

北乞・洪七公
乞食でありながらおいしいものに目がない美食家。


代用しといてナンですが少々つっこみ。
まず東邪と西毒ですが、西毒の「悪になりきろうとする」、しているという基本定義はなかなかのものだなと思いました。後半はそこから自然に導かれるものですが。ただ東邪の方はやや説明不足というか、むしろ悪ではなく”偽善”への憎しみに焦点を絞った説明が必要なのではないかと。
ていうか別に悪は憎んでないと思います。そうではなくて・・・・とまあこれは『神』編で。

次に南帝と北乞ですが、こちらはややだから?という感じ。南帝は確かに女難にケチをつけられましたが、あれはたまたま不幸にしてそうなったのであって、南帝個人が”性格”として特に嫉妬深いとは言えないと思います。
一方の北乞も、食いしん坊の美食家ではありますが、それは作中では特徴ではあっても”欠点”や”偏り”という風には見えないと思います。例の「自ら指を食い取った」エピソードが具体的に語られれば印象も変わるんでしょうが。(そう言えばここは金庸の隠された「構想」が感じ取れる箇所ですね)

・・・・とはいえこれは金海南氏の読みの問題と言うよりは、単に金庸がそれほど十分には書いていない、完成度の高い”図式”にはなっていないというそういうことだと思います。だから僕も解釈を断念したわけで。
ていうか南帝って中神通・王重陽とカブりますよね。さっさと出家してれば(笑)彼があの位置にいてもおかしくはなかったような。


『射英雄伝』総評 

射=英雄伝〈4〉雲南大理の帝王 射=英雄伝〈4〉雲南大理の帝王
岡崎 由美、金 庸 他 (2005/09)
徳間書店

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『射英雄伝』という作品

最後にまとめ、または位置付け的なことですが。
実はそんなに言うべきことがなかったりして。
そもそもゲーム版をやりながら1(郭靖)2(郭靖と楊康)4(四方位)の”倍々構造”を幻視するまでは、あんまり書くことないなあと途方に暮れていたところがあったりします。

一言で言えば『書剣恩仇録』でのデビュー時から、素直に延長していけばある程度書かれることが予測できるタイプの作品ですよね。よりちゃんと書いてみた『書剣恩仇録』というか。
僕の持論に従って言うと、「最初から完成されていた作家金庸」が、完成し損ねた『書剣恩仇録』(以降)の経験を踏まえて、改めて完成してみた作品というか。

第2の集大成。だからこそ第1期のラスト作。(すると第1の集大成『書剣』は第”0”期か?)

勿論完成度や慣れ以外にも『書剣』との違いはあって、それはキャラの重視、人物造型・描写の丁寧さ、懲り方。”熱意”と言ってもいいですが。
今回僕は色々とイチャモンをつけてきましたが(笑)、それはそれとして、稀に見る魅力的なキャラクターたちが大挙活躍するスーパー痛快武侠群雄ストーリーなのは間違いないでしょう。

世に数多ある小説の中で普通に見れば、あるいは金庸自身が次作『神』以後に見せたいくつもの”究極”や”至高”と比較したりしなければ、問題なく大傑作だと思います。


『射英雄伝』の”第1期”性

もう気に留めてる(覚えている)人も少ないでしょうけど(笑)、一応言い出したことなので。
「第1期性」、つまり『とってつけたような後付けの小理屈が顔を出して、それが構成や結末のつけ方に少しギクシャクした感じを与えている』性について少し。

実はこの作品の一番”難解”な部分、考えオチな部分は、『射英雄伝』というタイトルではないかと思います。・・・・特に日本人にとっては。ワシ()って変換できねえよというグチは別にしても。(笑)

第5巻の訳者あとがきによると、その由来はまず毛沢東のこの詞。

江山はかくのごとく嬌多く。無数の英雄を引き競いて腰を折らしむ。

惜しむらくは秦の始皇と漢の武帝はやや文采をかき、唐太宗と宋太宗も、すこしく風騒におとる。

一代の天驕ジンギスカーンはただ弓を彎げて大(ワシ)をるを識るのみ。


そしてそれを(国民的背景として)踏まえての第1巻のあとがき。

「射英雄」というのが、一本の矢で二羽の鷲を射た郭靖のことであるのは言うまでもない。


「毛沢東の詞」についてはなるほど中国人読者にとっては常識なのかもしれないと納得するしかないですが(ホントかな?)、”「射英雄」が郭靖のことである”のは、本当に”言うまでもない”のかはちょっと疑問が残るんですが。
先代「射英雄」ジンギスカーンと郭靖の二重写し、あるいは直接的にはジンギスカーンのことで、それをわざわざタイトルにしてむしろ”皮肉”のニュアンスをこめて「英雄」と呼び、終盤の郭靖の無常観的悟りを際立たせるという、そういう読みの方が入り組んではいても素直なんじゃないかと僕は思いますが。

ぶっちゃけ鷲を射たエピソード自体、僕には大して印象的なエピソードではなかったですし(鷲がかわいそうとしか思わなかった)、ここらへん、やはり中国人であるのだろう(違ってたら教えて下さい)、訳者金海南氏との感覚・背景の違いを強く感じました。
そしてそういう文脈に従って、jinyuさんがおっしゃるような”国民英雄”的な郭靖/射の読み方というのもあるのかなと思います。

で、問題は金庸自身の意図ですが、他ならぬタイトルにしているからには、何かしら大々的に訴えているには違いないわけですよね。
出典のドメスティックさ自体本質的にはコスモポリタン作家であるだろう金庸にしてはどうだろうとも思いますが、それはそれとして作品の造型としても、かなり無理矢理ラベリングしている感は否めません。郭靖の冒険物語を気持ちよく読んでいたものを、強引に性格付けされて水をぶっ掛けられて引き離されたというか。鳩が豆鉄砲食らったようなジンギスカーンの気持ちがよく分かるよというか(笑)。要らないんじゃないの?or もっとさりげなくすべきなんじゃないの?こういうゴタクはという。

それが”第1期の特徴”、限界だとまとめてもいいんですけど(笑)、なんかもっとシンプルにこの人の癖なのかなという感じもして来ました。・・・・つまり僕の金庸読書体験には、だいたい一定のパターンがあるように思うんですよ。以下のような。
 (1)オープニング・・・・もったいぶっててちょっとタルい。
 (2)前半・・・・だんだんノッて来た、やっぱり面白いや。
 (3)中盤・・・・危なげなく面白いんだけど延々同じクオリティ、テンポで続くのでちょっと飽きる。
 (4)後半・・・・と思ったらなんだこの爆発の仕方は。突き抜けっぷりは。やっぱすげえや。
 (5)エンディング・・・・え?こんな終わり。何かもっともらしいだけでうまく誤魔化されたような気がする。

一種の「口上」みたいなものかなと思うんですが、オープニングとエンディング(とそれに象徴されるパッケージング)の分別臭さはデフォルトとしてあきらめるしかなくて、中盤の余裕綽々ぶりに文句を言うのは贅沢としても、真の本領はその”分別臭い”人が秘めた破壊性・熱情を剥き出しにする後半部分・・・・みたいなそういう全体像。
古龍とかはここらへん、ほとんど紛れがないですけどね。どこ切ってもちゃんと血が出る。金庸には流れてない瞬間がある。でも核は負けないくらい熱い。

とりあえず終わり。


守備型と攻撃型のターンオーバー 

浦和“ターンオーバー制”明らかに(スポニチ)

オジェック流の“ターンオーバー制”がベールを脱いだ。ブルズ杯(13日)に参加する浦和は12日、バイエルンMの練習場で紅白戦を行った。オジェック監督は戦力を均等に保ちながらDF闘利王を中心とした守備型、FWワシントンを軸とした攻撃型の2チームを編成した。

注目は守備型チームのDFラインで1度も試していない4バック。トップ下に小野、阿部を右サイドに置く新型布陣となった。「(攻守の)バランスをとりながらプレーしたい」と阿部。闘利王は「全然、大丈夫」と豪快に笑った。一方、攻撃型チームはFWにワシントン、ポンテのブラジル人コンビ。ボランチにMF鈴木を置き、守備面のバランスを保った。


へえ。

”ターンオーバー”というと「同じ力を持った2チーム」か「リーグ(メイン)用の主力組とカップ(サブ)用の準主力組」とかしか思い浮かばなかったんですが、こんなのもあるんですね。Jリーグの日常からストレートには出て来ない発想。
基本的に外国人監督を招く楽しみというのは、こういう舶来思想(笑)やあちらの現実を覗かせてくれるところにあると思います。上手く行ったり行かなかったりはしますが、その微妙な違和感そのものが楽しい。

もういいかげん古い話ですが、ジーコへのある意味一番の不満はそれでした。徹頭徹尾の刺激不足。
そりゃ”違和感”はあったけど、あれは「別の現実」というより単なる個人的空想でしょう。酒場のオッサンのサッカー論。それでいいんだったら俺にやらせてくれ。

ともかく何かしらオジェックがこの(浦和レッズの監督という)プロジェクトにピチピチと意欲的なのが伝わって来ます。優勝チームを引き継ぐなんてのは、失うものばかり多くて必ずしも魅力的な仕事ではないような気もするんですが、しばらく現場を離れていた”飢え”みたいなものもあるんでしょうね。
あんまり頑張り過ぎてレッズ特有の懐の深さが失われないかなと、心配なのはそこらへんですけどまあお手並み拝見。


というわけでブルズカップですが。

感想は・・・・分からん!そのひとこと。しまいに眠くなりました。
結果(1?3,0?3)から目を背けるわけじゃないですけど(笑)、コンディション差はあり過ぎるはレベルが分かり難いわ慌ただしいわで。何よりも感じたかった”新監督の息吹”がほとんど感じる余裕が無くて残念でした。

初戦だから見えるものというものもあると思うんですけどね。多分これは”初戦”じゃないんだな、うん。(やっぱり背けてる?)
強いて言えば川勝さんが再三指摘していたように、ラインが高めorフラット気味というか全体的に前がかりというか、やっぱりちょっと生真面目な感じ。

まあ小野が元気で良かったですよ。山田が本当に自信をつけている、自分を確立しているのも感じられましたし。ちょっと年ですけど、代表に選ばれてしかるべき選手ですよね。あとトゥーリオの鼻っ柱はこれで少し折れて大人しくなるのかなとか。(笑)


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黄蓉はお母さん? 

射雕英雄伝 (第5巻) 射雕英雄伝 (第5巻)
岡崎 由美、金 海南 他 (1999/12)
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まずは黄蓉”おノロケ”名場面集を。(笑)

(1)2巻118?119

郭靖は黄蓉の手を握ると、頭をあげ、まるでそこに江南六怪がいるかのように話し出した。
「師匠たちの恩が山より重いことはよく分かっています。でも、でも、阿蓉は、絶対に小悪魔ではありません。阿蓉は、とてもいい娘、とても、とても・・・・・・」
郭靖はなにかもっと適当な言葉をさがそうとしたが、「とてもいい娘」以外の言葉が出てこない。黄蓉ははじめは面白がって聞いていたが、そのうちに涙がこみあげてきた。
(中略)
「八月の中秋節には、必ず嘉興の煙雨楼で会えるわ。私が『とってもいい娘』だって言いたいなら、その時にしなさいよ」
黄蓉が笑いながら言った。


(2)同143

ということは「逍遥遊」拳法は「降龍十八掌」の威力には遠く及ばないということである。しかし黄蓉はそのことがかえってうれしかった
「それでいいのよ、わたしの方が強くなったら靖さんは面白くないわ」


(3)5巻173

「(前略)さいわい靖さんがぼんやりで、欧陽鋒みたいに気がつかないから、うまく隠れられたけど、そうでなかったらもう隠れるところがなかったわ」
郭靖は、自分をほめているような、けなしているような黄蓉の言葉を聞いて、照れくさそうに笑った。


(4)同180?181

「なにがそんなに楽しいんだ?」
郭靖が不思議そうにたずねると、黄蓉は笑って言った。
「靖さん、すごい贈り物をあげるわ」
「なんだい?」
「サマルカンド城!」
そう言って黄蓉は郭靖の耳もとになにかをささやいた。郭靖はあっと叫んだ。



天衣無縫、傍若無人、神算鬼謀の天才美少女の世評も何のその、黄蓉が郭靖に示す情愛というものは、単に優しいとか甘いとかいうよりほとんど母性的な類のものだと思います。私のかわいい坊や。

(1)ならば普通に”ほだされた”描写、あるいは”姉さん”くらいの範疇にまだ収まっていると思いますが、(2)になるともう既に”母”の領域、張り合う気持ちなどハナからなく、ひたすらかわいい息子の成長と面目が立つことのみを願う無償のそれ。与えるのが嬉しくて仕方がない。
郭靖は穏やかな気質ではあっても基本的にはモンゴルのマっチョな「男らしさ」の規範を内面化した硬骨漢ですから、少しでも女側に張り合う気持ちがあるなら、女が「女」としての所有欲(「母」ではなく)を剥き出しにするなら、容易には受け入れないはず。

それは(3)の郭靖がモンゴルの将軍としてそれなりに男を上げ、最早少年とは言えない自負を備えてからも同じで、この時点では実は探って行けば内心忸怩たるものがなくはなかったりするのかも知れませんが、少年時代までに刻まれた”母”の刻印の力は強力で、さすがにかつてのようなへらへら笑いではなく苦笑いではありますが、気持ちよく降参しています。

(4)は・・・・最早ヒモ男と貢ぎ女の様相を呈してますね!お前らの”純愛”の正体見たり!
というのはまあ冗談ですが。(笑)

でもある意味満更冗談ではない部分もあって、つまりこの二人のもらう(郭靖)あげる(黄蓉)関係というのは宿命的なもので、要するに

何でも入る大きな空っぽの器

としての郭靖と、恵まれた天分と博覧強記のパパの薫陶、そして桃花島での閉居生活から、

溢れんばかりの満タンの桶(?)

である黄蓉との、得難い組み合わせ。
別に郭靖ばかりがもらいっ放しで得しているわけではなく(してるけど)、逆に郭靖だからこそ黄蓉のあげるものを全て受け止められるのだということでもあるわけですね。
父親以外の批評は容易に受け付けないだろう黄蓉の自尊心は、郭靖という本格的に外の世界に出て最初に出会った「他人」に完璧に受け止めてもらったことで多いに満足したはず。(この二人はそこで完結しちゃったとも言えますが。)


黄蓉でもう一つ興味深いor不思議なのは、コジンの件や黄薬師の江南五怪殺しの濡れ衣の件で郭靖から遠ざけられてしまった時に見せた、決してキレない、申し訳程度にしかスネたり恨んだりせずにすぐ理解を示す、妙に大人な対応
そうして後陰ながら郭靖を支える姿、あるいは誤解に凝り固まった柯鎮悪を厳しく優しく世話する、ほとんど「成熟した大人の女」と言えそうな黄蓉の姿は、健気で胸を衝かれると同時に、多少の出来過ぎ感も感じなくはなかったりします。

これは見方によってはご都合主義的、または男性作家特有の甘え、願望であって、言うなればキャラ造型の失敗である可能性も十分あると思いますが、禁断の後出しジャンケンではありますが(笑)後の『神雕剣侠』での”肝っ玉母さん”郭夫人の姿を重ね合わせれば、あるいは一貫した洞察の元に描かれたキャラである可能性もあるかなと。

「金庸も甘えている」という可能性も含めて(笑)、結論としてはまとめて『黄蓉はお母さん』ということでいいんだと思いますけど。はい。


やっぱりね 

闘莉王屈辱6失点、浦和最下位転落…ブルズ杯(報知)

浦和の日本代表DF田中マルクス闘莉王(25)が、13日のブルズ杯2試合(45分×2本)で6失点を喫する人生最大級の屈辱を味わった。調整不足と慣れない人工芝に苦しみ、ザルツブルクの控えFWに競り勝てず、チームは最下位に転落。


勿論コンディション&コンビネーション不足は明らかでしたが、それにしてもというやられっぷりでした。

「相手はしっかりと大きな選手が起点になって、闘莉王ですらやられた」とMF小野伸二も衝撃を隠さなかった。


前のエントリー「トゥーリオの鼻っ柱はこれで少し折れて大人しくなるのかな」と冗談めかして書いてますが、なんというか今までJ/アジアレベルで、おおむね”気合”で何とかしていた部分をしっかり衝かれたという、そういう感じは確かにありましたね。

中澤も代表復帰するそうですし(笑)、一緒に心と頭を入れ替えて頑張ってもらいたいものです。


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『射英雄伝』の評判(ブログ編) 

一応書き終ったところで気合入れてググってみました。
基本的にそんなにきっちり小説版の感想を書いている人って少ないみたいだなあと若干の孤独感を噛み締めつつ、まずはブログ編。


朱聡のスリ技(『「射」三部作』他金庸小説を読んで さん)

江南七怪ってどれも個性的でおもしろいですね。
でも2巻になって活躍してる人が結構限られてくる、名前だけで武術はおろかセリフがない人も多いみたいで段々怪物じみた人が増えるにしたがって影が薄くなってきますよね。


これは僕も思いました&悲しくなりました。(笑)
登場時の丘処機との酒楼での華々しいデモンストレーションはなんだったんだという。
十分怪物だったのに、しまいには街の腕自慢と大して変わらない扱いじゃないかという。(笑)
ひどいインフレだぜ一人少年ジャンプかよ金庸先生という。

思えば郭靖は既に韓小榮ネエさんに仕込まれていたので、すんなりと黄蓉母さんのかわいい坊やになれたのかなという感じもします。(笑)
このブロガーさんの実況中継的な(出版当時)感想の書き方は、新聞連載という元々の形態にふさわしいよなあとか思いました。僕のはちょっと結果論的ですが。


金庸武侠小説「射英雄伝」(Wilderlandwander さん)

西のトールキン、東の金庸と呼ばれるほどの人気作家


へえ、トールキンと呼ばれてるんですか、知らなかった。
あんまり「神話」性はないような気がするんですけどね。
『この作品は冗談です』とデカデカと銘打ってるようなそんな感じ。

一つの戦いが決着しないうちに突然次の戦いが始まったり、多少落ち着かない感じもあります。


そういえば最初はこんなことも思ったような気がしますが(笑)、すぐに慣れてしまいました。
しょせん冗談ですからね。(笑)


射英雄伝読了(語楽道 さん→移転

神侠侶ではとんでもないわがままで楊過の腕までとってしまった郭芙でしたが、第一部を読んでそのキャラクターが母親の若い頃そっくりだったのでこの親にしてこの子ありだなと納得しました。
その母親黄蓉にも楊過・小龍女は何度も引き離されていたし、ひどい親子でしたね。
夫の郭靖はこの世のものとも思えぬ誠実な人間だったのに。


『神』を先に読むと意外とこんな感想かもしれないというのと、「わがまま」「誠実」という概念のむしろノーマルな使い方を再確認させられたというそんなストレートな感想。(笑)


『射英雄伝』第五巻 金庸(備忘録 さん)

やはり初期作品だからかゴチャゴチャ度が足りない。


ああ、そうかもしれないですね。
僕が幻視した「夢の『大・射英雄伝』」ももっとゴチャゴチャしています。(笑)
初期だからというより、何かまとめようという気持ちがすごく勝っている感じがしますね『射』は。
そういう冷静な金庸先生はそれほど面白くない。もっと悪ノリを!


『射英雄伝』の評判(サイト編) 

ちなみに順番はGoogle検索順位によります。結構深い方に面白いものが眠っていて、どうもあんまり横の連絡が出来ていないジャンルみたいだなとか思いましたが。


『射英雄伝』の登場人物について 浪里白跳(《Tian Liang》 第94号)

どの登場人物もその個性を際立たせている性格のため、何らかの暗い過去がある。そのきっかけとなったのは、生活の中でごく当たり前に起こる些細な感情に端を発することばかりで、登場人物の多さから、まさに機微の幕の内弁当とでも言うべき、一つの作品の中に多くの種類の機微がちりばめられている。


そうですね。ここらへんはまあ金庸の人物造型の計画性というか、僕の言う「チェスの駒」性というか、基本的にそれぞれの差異を総覧するように、見比べてナンボみたいな描き方ですよね。単品ではなく。(つまり幕の内)

楊康を正義の侠客へと変身させることができなかった訳は富貴を捨て去ることができなかったこともあるが、最大の理由は18年間自らを息子として育ててくれた金の皇太子・完顔洪烈を裏切ることができなかったことであろう。18年間自分の事を育ててくれた父を「自らの民族を滅ぼそうとする民族の仇だ。そして、見ず知らずの男が、実はお前の父親だ。だから、育ててくれた親を殺せ」と言われて納得できるだろうか


もう少し楊康に比重を置いた描き方をすれば、だいぶ全体の印象は変わったでしょうね。単なる使い捨ての仇役に見えてしまうところがちょっと。そっちの部分を追求した次作『神』によって、『射』そのものも救われたのではないかとか思いますが。


射雕英雄伝(全4巻)(まお飯店 さん)

こちらの楊康評はしごくあっさりしています。(笑)

金国の王子完顔洪烈に育てられ富に目がくらみ周囲の期待を裏切り続ける


中国語原典で読んでいる方のようで、「文章も王度盧より昔風で少し硬いかな」などという記述もあり、何となくここらへんが中国(語)人読者の平均的な感じ方なのかなとか思いました。


射英雄伝:読了(夢の記録 さん)

ひさしぶりの金庸、しかし中身はキャラクター小説だった。主人公もヘタレで場の雰囲気に流されやすいダメ人間、まあラブコメなのでしかたない


こう考えてしまえば単純でいいですね。(笑)
ちなみにここで「キャラクター小説」と言っているのばあくまで「武侠小説」との対比なので、僕の(キャラ小説ではないという)論とは直接の関係はないと思います。

トリックスターの周伯通が便利になりすぎたせいでバランスが崩れたような気がする。


実はこういう部分はあると思いますね。『神』も含めて。老頑童だからいいかと許されてますが。
ついでに洪七公も頼れるオジサン過ぎますね。逆に欧陽鋒の悪に救われるというか。
しかしこの人、一般的にはちょっと浮いたというかマイナーなエピである「段皇帝のくだりなんかは良い」とわざわざ挙げるとは、どんだけ陰惨ドロドロが好きなのか(笑)。”金庸”読みというよりは”武侠”読みという感じなんでしょうね。


射英雄伝 全5巻(たくせんの小部屋 さん)

中国文化全般の研究サイトの人。「以下はDVDを見て書いた」というあらすじによると

中国人にとって射英雄といえばチンギスハーンをさす。この物語はチンギスハーンに見込まれた郭靖の物語である。


さらっと核心的な記述が。やはりそうだろうと思います。金海南の解説は少々独善的。
僕は割りと”皮肉”というニュアンスで見ていましたが、こういう風に(郭靖も含めた)「剛毅朴訥なチンギスハーン的な”英雄”の物語」とまずは読むべきなのかも。その後でそれに対する反省、相対化というそういうバランス。文脈。


と、収まったところで、次にこの「射英雄」問題、「共産党批判」問題をまとめてあるところを。


『射英雄伝』の評判(サイト編):追加 

大事なところを忘れていました。
前に紹介した『金庸の武侠小説』改め『金烏工房』さんによる感想。

この周伯通、一見すればやはり好々爺として描かれている北丐・洪七公とキャラクターがかぶっているような気もするが、洪七公=シリアスなシーンではちゃんとシリアスに決める(第3巻、丐幇の幇主の地位をヒロインの黄蓉に譲るシーン等)・周伯通=シリアスなシーンでも笑いを取るといったように、ちゃんと書き分けが出来ている。


む、やっぱりこの人鋭い&僕と少し似た着眼点を持ってらっしゃる。

老頑童・周伯通の位置というのは気にし出すと結構気になるんですよね。なまじ東西南北の”4人”が一応図式化されているだけに。
見た目的にいうとまず確かに洪七公との類似性は感じますね。どちらも”主人公サイド”だし、汚くて気のいいおっちゃんだし(笑)。僕はそこから洪七公の方のキャラ不足、出来過ぎの善人性(3項め)みたいなものを見てしまったんですが、なるほどこう見れば描き分けそのものは出来てるのか。
図式の方との関連で言うと、”中神通・王重陽の義兄”ということで何か特別な位置は与えられないか、(武術以外についての)「無欲」、中神通の「中庸」にも通じる(頑童としての)「イノセンス」という共通性でくくってとか一応考えてはみたんですけど。太陽(中神通)と惑星(東西南北)と彗星(老頑童)とか。

結論としては・・・・考え過ぎたら負けかなと(笑)。4人の図式自体未完成なんだから、周伯通も要するに何らかの理由で描きたいから描いたというそれだけのことだろうと。
あ、でもやっぱり郭靖とも義兄弟というのは気になるなあ、王重陽/周伯通/郭靖の”主人公ライン”、宇宙を照らす兄弟星、3連恒星(考えるな考えるな)

特に今回はガイドブックに、主人公の郭靖が特に才能のあるわけではない平凡な少年で、努力を重ねて成長していく物語という感じの解説があったので、友情・努力・勝利みたいなストーリーを期待していたのだが、蓋を開けてみればくきっちり今までのパターンを踏襲していたので、少しガッカリした。


”パターンを踏襲”というのは専らこの方の読んだ順(翻訳順)という意味合いが大きい(実際は初期の作品ですから)ので、言いかがかりでは?という気もしないではないですが(笑)、要は「成長」感が淡白と感じたということですよね、やっぱり


『射英雄伝』の”共産党/毛沢東批判” 

射雕英雄伝〈5〉サマルカンドの攻防 射雕英雄伝〈5〉サマルカンドの攻防
岡崎 由美、金 庸 他 (2005/10)
徳間書店

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金庸ロードショーさんの

”金庸を斬る!武侠小説を斬る!”

 射雕英雄伝に見る共産党批判

より。
面白いサイトだなあ、やっと少し僕と通じるところのあるスタンスの人がいたなと思ったら2002年で更新停止中。がくっ。
僕は最後までやりますよ、意地でも。何年かかっても。(笑)


「当サイトの文章等を勝手に利用することは禁じます」とのことなので、一応抜粋は控えて早速本題に入りますと、”四川人”さんによる上の年表を元にした推理を見ると、『射英雄伝』の最初の掲載時(’57年)に、言われているような「共産党」や「毛沢東」への、チンギスハンになぞらえた当てこすり的な批判の意図、またはそれを当然のこととして受け止めるような読者の雰囲気があったとは確かに考え難い気がします。
Wikiにあるように、金庸が反旗を翻したのは文化大革命後の共産党/毛沢東であって、共産革命自体には当初は自らも外交官として寄与しようというようなそういう姿勢を見せていたわけですし。

で、jinyuさんによる(コメント欄)と’57年当時の実際の作品タイトルは『大漠英雄伝』であって、それが’72年以降の10年間に渡る金庸自身の手による改訂作業(『武侠小説の巨人 金庸の世界』)の過程で『射英雄伝』に変わったと。ここまではいいですね。
問題はその意味、意図ですが。

まず年代的には’72年からというのは微妙ですよね。『射』そのものの改訂がいつ行われたかまでは分かりませんが、’72年というのは文革が終わるか終わらないか(文革Wiki)、終わっていてもまだ十分に余韻の残っている時期で、意識しないのは難しい。
だから”射英雄”という言葉がチンギスハーンと毛沢東(の詞)を中国人読者に強くダブらせて印象付けるものであるなら、ストーリーの内容とからませて遠回しにせよ批判・相対化する意図が入っていてもおかしくはない。

一方で『大漠』『射』というタイトル自体の問題ですが、まず”チンギスハーン”を連想させるという意味ではこの二つに大きな差はないのではないかと思います。
数ある北方異民族の侵入の中でも、「元」を建てたという意味でも”世界史的な壮挙”という意味でも、チンギスハーン=蒙古というのは別格で、つまり『砂漠の英雄の話』ならそれがチンギスハーンの話だというのは、特別な注釈抜きで基本的に中国人には通じたのではないかと思います。・・・・”壮挙”、好きでしょ?中国人(笑)。大きいもの偉大なものは善悪利害を超えると考える民族でしょう?

ていうかそれで通じないようなら、タイトル変更の意味が大き過ぎて作家のケジメ的にまずいですよね。

問題はそれが『射』になると何が変わるのかですが、そこで出て来るのが例の「毛沢東の詞」で、つまりチンギスハーンの連想に更に毛沢東の連想が加わると。ここを指して「『射英雄伝』は毛沢東批判の(底意のある)書である」という、中国人好みの定義付けが生まれるわけですね。


さてどうか。
政治と文学についての金庸自身の基本的な態度としては、

政治状況というものはめまぐるしく移り変わるものであり、直截的な当てこすりにはあまり意味がない。(中略)なりふり構わぬ権力闘争は古今内外の政治の基本的状況であり、過去数千年の間このようであったし、恐らく以後数千年たってもやはり同じであろう。

(『秘曲 笑傲江湖』あとがき)


というものです。ちょっと金庸作品を読めば金庸がそんな野暮な作家でないのはすぐ分かりますし、だいたい政治主張をしたければ既に金庸には政治評論という別のフィールドがあるわけですからね。

ただ金庸も人間ですし、「文化大革命」の猛威への恐怖や複雑な感情というのは当事者には到底きれいごとではすまないことだったでしょうから、作品を改定する際に、内容に大きな変更を加えないで済む範囲で、言わばついでに出来るのであれば、ちょっとそれへの復讐や攻撃の意図を含ませたとしてもむしろそれは自然なことなのではないかなと思います。

というわけで現時点での僕の推論・結論としては

1.執筆時点では特に毛沢東/共産党批判を意識したりはしていなかった。
2.ただし改訂時のタイトル変更に、作中のチンギスハーンと毛沢東との連想を強化するような、そう読み取られても特に不本意ではないような、そういう意図はうっすらと含ませていた可能性は十分ある。

というものです。


(追記)
改訂時に例えば具体的なモンゴルエピソードの追加やエンディング部分の修正などの大きな変更があったりするとだいぶニュアンスが変わって来ますが、そこらへんはどうなんでしょうね?>jinyuさん


『書剣恩仇録』の評判(その1) 

図書館に行ったら『神』が借りられていたので、代わりに『書剣恩仇録』を借りて来て読み直しました。うーむ、色々とまた違う感慨が。
というわけで前にも言ったこちらの書き直しを先にやりますが、並行してリサーチも。デビュー作ということでなんだかんだ初金庸の人が多いようで、武侠小説全般論的なタイプのが多かったです。


まずは紹介済みのところから

『まお飯店』さん

陳家洛も霍青桐と客絲麗の間で優柔不断ぶりを見事に発揮してくれますが、気持ちはよくわかります


あ、珍しい意見(笑)。滅法評判の悪いこの主人公ですが、今回の読みで僕はそれなりの納得感を得たところがありました。どうしても許せないところもありますが。


『夢の記録』さん

巻を置くあたわざる傑作、とはこのことかと思う。大興奮の一巻。


『射』を”ラブコメ”と一刀両断した人の評価だけに面白いですね。変にまとまらずにひたすらシーンが流れる、戦いが続くところが逆に良かったんでしょう。僕も今回そういう無雑作な良さを再発見したクチ。


次からは新顔さん。

『僑忠的香港奇遇』さん

金庸を読むには先ずこの作品から…とは私は思わない。理由はこの作品の導入部分が結構読み辛いからである。作者は新聞連載の中恐らくどの様に話を展開させて行けば良いのか判っていなかったのだろう


お、僕ばりに大胆な(笑)。でもそんな感じですよね実際。

当作品は金庸の第1作でこの作品の中に以後の金庸作品での特徴が全て語られていると言っても過言ではない。つまり、得体の知れない拳法、武侠達の友情・矜持、どうしようもない運命の流れ、物語の根幹を成す何かしらの謎と云ったものが詰め込み過ぎか、と思われる程にこの物語には抛り込まれている。


勿論ここも同感。おっと思ったのは”どうしようもない運命の流れ”を挙げているところ。僕も「ギリシャ悲劇」(の運命論)との比較なんぞをやってますが、金庸のハチャメチャさの隠れた本質なのではないかと思いますね。登場人物が個別に分からず屋というよりは、そうなるように、こじれるようになっている。そういうあきらめ。


『ファンタジア領』さん

そもそもこの手の作品では、まずは各登場人物のお披露目をかねたエピソードを積み重ね、それぞれの魅力をじゅうぶんに引き出した後、一個所に集めるのが定石ではないか。
ところがこの作者にかかれば、そんなまどろっこしい手続きは一切省かれてしまう。一人ずつどころか、なんとこの第1巻で、主要登場人物一覧全員、当然、紅花会が誇る幹部14人も、いきなり総登場してしまうのだ。。(中略)それぞれの人物に見せ場を作り、キャラクターをきっちり描き分けているのがまたすごい。


結局この作品については「ネタを並べ立ててるだけで慌ただしい」的な評価が一般的で、僕もその立場で一回論じてみたんですが、「にも関わらず凄い」あるいは「そういうものとして成り立っている」という見方も可能なのではないかなとそっちの方に今は思考が流れています。


『司書の駄弁者』さん

主人公の陳花洛、いまいち優柔不断で大義名分に弱いところなど「水滸伝」の宋江そのままだ。


ああ、なるほど、こういう比較はありでしょうね。金庸先生が「この人はね、中国の伝統的な知識分子です」きわめつき武侠小説指南)と言っていた部分ですね。

彼の乾隆帝に対する言動やラストでのウイグル王女カスリーに対する仕打ちは、「滅満興漢は他のすべてに優先する正義である」という前提なしにはちょっと受け入れられないものだろう。


うーん、なんつうか簡潔なまとめですね。こういうのが僕は出来ない。その分展開のケレンで補おうというスタイル。(笑)


ゼロックス前夜(昼だけど) 

逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ・・・・

でも逃げたい!というくらい自信の無い’07レッズの開幕状況。(笑)
まあ別に練習見てるわけでもないですけどね。正念場のシーズン、色々と苦しい&慌ただしい感じで。

望ましいシナリオとしては
・オジェックスタイルの為のキャンプでの特にフィジカル的にハードな練習が
・開幕時には当座ハンデとなるが夏場以降とかに効いて来る
・少なくともACLへの備えとはなる
・去年のスタイル、バランスは、継承しようとしても結局出来ないので
・開幕時にはどちらかというと再構築前の下り坂のチーム状態として結構ヤバい感じ
・それを底力で何とか許容範囲の取りこぼしで抑えつつ
・ACLも含めたハード日程の中で監督の直接的意図を越えて自然的な秩序を形成し
・やがて去年ともまた違ったでもレッズならではの奥行きのある完成形を見せる
なーんてね。

要するに最初は駄目だろうと予防線を張りまくっているわけですが。(笑)
真面目な話出るウミはバンバン出しちゃった方がいいと思いますけどね。またぞろ「悪いながらも勝つ」とか、この時期に、しかも例年勝者に不吉な(笑・去年は違ったけど)ゼロックスでやらない方がいい。


浦和MF小野左サイドで甦る/練習試合(日刊)

浦和MF小野伸二(27)が左サイドに緊急コンバートされた。鹿児島合宿中の21日、鹿屋体育大との練習試合で離脱中のMF相馬に代わって3?5?2の左サイドで出場。正確な技術で攻撃を展開し、先制点の起点となるなど高い順応力を見せた。同位置は、日本代表での02年W杯以来。今季J最初の公式戦となる24日のゼロックス・スーパー杯G大阪戦でも先発濃厚で、左サイドを駆けめぐる。


『三都主の後釜』という意味でなら、むしろ奇策でも何でもなくて第一候補だと思いますけどね。浦和の、または近年の三都主の職能は”ウィング”ではなくて”サイドのプレーメーカー”で、また去年は実にそれが効いてましたから。
ただ小野の体力がもつのかというのと、そもそも去年のチームの面影を追っていいのかというそこが疑問。


浦和正GKはゼロックス杯当日決定(スポニチ)

浦和の正GK決定が24日のゼロックス・スーパー杯当日まで持ち越された。鹿児島・指宿キャンプを打ち上げたが、オジェック監督は山岸と都築の争いについて「まだ分からない」と語った。


これは単純にもったいないので何とかしたい。日本のGK事情で、いくらトップクラブと言えども互角のキーパーを本当に二人揃えるのは贅沢というもので。
まさか山岸が代表クラスのキーパーになっちゃうとは。オシムなんていかにもキック、フィードを重視しそうですが違うんですね。それ以前に守る方の絶対能力でお眼鏡に適う選手が少ないんでしょうが。


日曜日はなんちゃって東京ダービーもあるし、すぷりんぐはずかむって感じ?


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映画『マッスルモンク』 

マッスルモンク マッスルモンク
アンディ・ラウ (2005/02/04)
ビデオメーカー

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スカパーch728ミステリーチャンネルにて。

中国(香港)/カンフーものということで録画してみましたが、アホな邦題、「カルマが見える元修行僧の現男性ストリッパー」というブッ飛んだ主人公の設定ということで、どんなキワモノかと思ったら大感動作でした。
”カンフー映画”性は実は薄いんですけど、意外や意外『カルマ』『因果応報』という仏教思想を大胆に単純化しつつも正面から取り上げた宗教映画(?)であり、かつその大きな「運命」とのコントラストが切なさを増す大人の純愛映画でもあるという。そして基本は大エンターテイメント。凄い。

やはり金庸さんを生んだ文化だなと。ちょっとこじつけ臭いですが。(笑)


正直『カルマ』のストレート過ぎる解釈、それから”食物連鎖”という自然現象の必然性を無視しかねない、あまりにも一つ一つの生き物の”死”を重大に考え過ぎる物の見方には、真面目に言ってしまうと疑問が残りますが、まあいいのかな。意気込みや良しという感じです。
どちらかというと武侠小説でもお馴染みの『報仇』の無限の連鎖の問題、それを断ち切る勇気、みたいなことを問うた作品と捕らえた方がいいかも。「仏教」は引き合いに出されただけで。

しかし感情豊かですねえ、中国人は。正直ちょっと引け目を感じてしまいます。
とてもここらへんで日本人が太刀打ち出来るように思えません。本質的にそうなのか、昔は違ったのか、それは分かりませんが。
仕方がないのでせいぜい頑張って評論でも書きましょう。(笑)


あと何回も放送するようなので、視聴環境にある人は是非どうぞ。


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スッカラカンのケ 

2007ゼロックススーパーカップ 浦和●0?4○G大阪(国立)(J’s Goal)

まるで自分が見た悪夢を公衆の面前で上映しているような。


ほぼ危惧通りの浦和のチーム状態でしたが、まだ”底”ではありません。これからもっと悪くなると思います、というか悪くなってもらわないと困ります
とにかくさっさと「新チーム」をスタートさせましょう。去年の続きじゃなくて。

”打倒浦和”の意気込みもあるんでしょうが、ガンバのフレッシュ感には正直感心しました。長期政権でよくもここまで。勿論、ならではの蓄積も満載ですし。

対する浦和はだらだら天皇杯の決勝まで戦った(勝ちはしましたが)流れのまま、休養も切り換えもリフレッシュも何も出来ないまま、生真面目な新監督のハードトレーニングと準備不足の浮ついたイベント試合(ブルズ杯)でしかも惨敗した混乱と疲労を引きずりつつ、どうにも盛り上がらない気分でとりあえず手癖(足癖?)で試合をやっちゃったという感じ。

そもそもその天皇杯も含めた、あるいは場合によっては優勝戦線まで含めた去年の終盤戦全体が、一回出来上がったチームの余韻と惰性だけで戦っていたわけで。
どっかで区切りか、少なくとも新たな燃料の投下が必要だった。せめて入って来たのが阿部じゃなくてバレーの方だったら。例えばの話ですが。


仮にチームの作り手のギドが続投なら、”余韻”も”惰性”も、一つの永続する夢の一部として、シリーズ物ストーリーの楽しさの一部としてプラスの要素にも、膨らませたり展開させたりする材料にもなり得たでしょうけど。いずれ長期シリーズのマンネリはある程度は避けられないとしても。

でも作り手は変わってしまった。これは新しいシリーズまたは新作なので、そこでは改めて厳しく中身が問われる。今まで作品の一部として許されていた弛みも許されなくなる。同じ要素が同じようには機能しなくなって来る
増してやあれほどユニークな、再現性の極度に少ない、一回性の奇跡みたいなチームだったわけですから。

そこへ来て肝心の「新監督」の名前がオジェックというどこかで聞いたようなもので(笑)。新鮮味というはったりや無限の期待感のランデブー期間の助けを借りられない以上、純粋に手腕で事態をコントロールして精神面/集団的無意識も含めた全てを勢いつけて動かして行かなくてはならない。これは辛いよ。


成功しているチームの管理者として、継続・安定を求めた浦和のフロントの判断は常識的には大きな間違いでも非難されるべきものでもないでしょうが、間違ってないことと正しいこと、成功することは往々にして別のことなので。
少なくとも僕なら違うタイプの選択をしたと、珍しく自信を持って言えます。(実は滅多にフロント批判はしない人。もっとうまくやれる自信がない場合が多いから。)

まあ、単に監督としてテクニカルに問題がある可能性もありますが(笑)。方向性ではなく。この守備どうよ。
ともかく僕としては早くウミが出切ることを望みたいです、蓄えの尽きない内に。それかさっさと目に見える方向転換を。(でも多分これはオジェックはやらない)


・・・・案外この『ターンオーバー』(2/14)なんかがいいきっかけになるんじゃないかなと思ってますが。”ベストメンバー”だとどうしても去年の面影が。早く来い来いACL?


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業務連絡 

『射英雄伝』レビューをファイル整理して、一つ一つを短くしました。(全5回→全10回)
それからその新しい(その4)で、コメントしそびれていた各”ストーリー”の「達成度」の意味についてちょっとだけ書き加えています。

『書剣』レビューの書き直しは部分的には書き上がってるんですが、オリジナルとの接合の意外なめんどくささとサッカーシーズン開幕の煽りで(笑)、完成が遅れています。
まあ週の前半の内にはという感じ。


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