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『書剣恩仇録』レビュー改訂完了 

カテゴリートップ


あー、しんどかった。
改訂はある意味いちから書くよりしんどいというのはほんとのことですね。
金庸先生もゴチャゴチャ改訂ばかりやってるくらいならむしろ新作を・・・・(笑)

オリジナルの論旨を極力裏切らないようにしつつ、新しい印象を付け加えようと苦吟してバランスを考えた結果、

 1.根本であった(その1)はそのまま残す。
 2.(その2)(その3)の批判点は踏まえつつ、それに弁護を書き加える。
 3.褒めていた(その4)は2の”弁護”の一部として吸収する。


という方針で(その2)?(その4)を全面的に書き換えて、そこに更に

 4.(その5)としてまとめを付け加える。

という形で決着。


まあ満足度としては75%くらいですけど、嘘はないですよ。恥ずかしかった部分も消せた・・・・と思います。(笑)
一緒に借りて来ちゃったので、多分次は『碧血剣』の再読・書き換えをやっちゃうと思います。ちゃんと辻褄合うかな。


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『書剣恩仇録』の評判(その2) 

若草モノ騙り さん

物語の展開は基本的に、主人公陣営が恩を仇で返されたり、情けを無惨で報いられたりするというもの。
やくざだが英雄好漢という設定上そうなるのだろうが、これも義の国・中国のお国柄だろうか。


恩と仇の連鎖。
いくらでも広げられそうなテーマですけど、一言で言えば感情的なんだと思いますね。(笑)
濃厚な感情と、善い/悪いの判断が分かち難く融合しているというか。
揃いも揃って恋愛中の男女みたいなものかと。どっちに転んでもいちいち大げさ。(笑)


また、この登場人物たち、全くもって他人の話を聞かない


よく聞く感想ですね。
上に付け加えるならば、善悪の判断がある意味マニュアル化されていて、それが常に激情とセットになっているものだからスイッチ一つでオートマティックに発動する/行動化されるという。
・・・・まあ根本的には格闘場面を出すためというか、議論の代わりに格闘があるというか、要するに様式の問題でしょうが。


きれい組 スタッフルーム さん

この本のいいところは、出てくる女の人が邪魔にならないことです。ほとんどの女性が、武術の達人で自分の面倒は自分で見れるわけです。カッコイイ!ひとの足手まといになってばかりいる女性が出てくると、本でも映画でもついイライラしてくるHanaは、こういう本や映画が大好きです。


妙なところからの引用ですが。(笑)
でもこの感想かなりツボ。というのもこれは僕もものごころついて以来、ジャンルを問わずあらゆる冒険系のストーリーを見る時に感じていたイラだちで、”お約束”が理解出来ない年齢の頃は「そんな女なんで助けるんだよ?ほっといて先行けよトリトン!」とか結構本気で憤慨していました。(笑)

まあ弱いのも力及ばないのもそれはしかたないんですけどね、わざわざ余計なことしてピンチを招くのが。そういう場合、たいていは過信や見栄や功名心が理由ですし。(いかん、ついマジに論じてしまった)
ていうか同性でも感じるんですねえ、やっぱり。


金庸の格闘描写の評判 

『書剣恩仇録』より。


『夢の記録』さん

日本の時代小説との違いその一、殺陣。 日本のだと一撃必殺、静から動の変転をいかに見せるかに 力が注がれる。一方、こちらの殺陣は演武という言葉が ふさわしい、連続した舞のようなやりとり。 西遊記の孫悟空がガチガチやりあうのを思い出す。


同感ですがこれは特に金庸がそうなのか、逆に”一撃必殺”派の古龍が例外的なのか。知ってる人がいたら教えて下さい。


『Trivial Journal 2.0』さん

日本のチャンバラよりも、どっちかというと「リングにかけろ」のファイナルブロー合戦の趣きが強い。


印象論としては分かりますが、僕の意見はノーですね。むしろ手続きをちゃんと描きたがる人だと思います。クドいというか(笑)。その上で”ファイナルブロー”で飛ぶ。

(以上、’07.2.21)


武侠ノススメ さん (→閉鎖  現・新版”Kizurizm”

再読して思ったことは、何より格闘描写を読むのが苦痛であるということである。(略)
武器や技がわからないと読めないというのも大きいが、文体がいまいちすっきりしていないのだ。(略)
金庸の文章は意味を追いかけるだけでいっぱいいっぱいになるのに対して、山田風太郎の場合は蛍火の驚愕した顔、切り落とされた腕、左衛門の惨とした顔、そして喋々……映像が浮かんでくるようである


この方の言いたいこと自体はよく分かります。ただちょっと真面目に読み過ぎかなと。「追いかける」必要はそもそもないんだと思うんですよね。”劇的描写”というよりは言葉の遊びなわけで。馬鹿話を文章のマジックであたかもそこにあるように錯覚させてくれる楽しさ。(だから映像化したものをあまり見たいと思わないんですが。)


まあしかし毎度次から次へと呆れるほどけったいな修行プロセスとけったいな武術を考え付くものだと感心しますが、それらが少なくとも作品内では結構な完成度の論理性を持っているのでつい説得されそうになります


以前書いたことの引用ですが。むしろ詐欺師の口上を聞いてるとでも思った方が良い。(笑)

ただ言わせてもらうとカンフー映画などを見ても少なくともフィクション上の中国武術の本領は、むしろ金庸的な”おしゃべり”、半ば自己目的的なやりとりの引き伸ばしにあるのであって、本質に迫ったり決着をつけたりというのはある意味お楽しみの終わりなわけですね。
古龍みたいなのはどちらかというと日本の空手とか剣豪ものとか、あるいはよく形容される”ウェスタン”の早撃ちとかそういう類に近くて、「過程」の描写はなるべく簡潔に、その分を意味付けや抒情性に割くというそんな感じですね。大雑把に言えば勿論風太郎先生も。


書剣恩仇録における点穴の研究

というところで(?)こんな労作も発見。(笑)
アホだこの人。詐欺師金庸の煽りを受けて立ったんですね。すげえ。


金庸『書剣恩仇録』における格闘描写(富山大学卒業論文題目)

おまけ。こんなテーマで論文書けるんだ。楽しいね文学部は。(笑)
ちなみに僕の専攻は経済学と心理学でした。まあいたって不真面目でしたけど。基本独学派。

(’07.3.2)


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浦和?横浜FC戦 

フルシーズンレッズファンとしての僕のデビュー戦?

J1 第1節 浦和 ○2?1● 横浜FC(埼玉)


今年の目標は勝つこと。唯一無二。去年後半の陰口を地で行ってやればいいのさと、そんな感じでひとつ。
特にACL勝ちたいですねやはり。そしてその先の”クラブワールドカップ”を庶民の夢として。「先」ってのがいいですね、「先」ってのが。切なくて。


現状考えられるほぼ理想的な開幕戦だったのではないかと。
高木監督が作ったほとんど”静謐”と言ってもいいくらいの堅実で端整な横浜FCというチームの戦いっぷりに助けられて、自分たちの現状、今出来ることと出来ないことを、一つ一つ確認しながら選り分けながら、少しずつギアをトップに上げ・・・・切る前に萎んじゃった感はありましたが(笑)、ともかく有意義な90分間の試運転でした。

あのまま1?1で終わってしまっても、結果に批判は集まるでしょうが僕的には十分だった気がしますが、その上更に、あ、ここで出たかの永井のお馴染み不思議な一発(笑)で、「やはりレッズだ」という’06年版的な愉快かつ憎々しい勝ち点2も上乗せ。
ただこれを実力だとは思わない方が安全だと思いますね。前チームの余韻というのはしばらくは残るものですよ。でも当てにしてると確実に消える。おまけだと考えて身を引き締めるべきで。

ゼロックスの惨敗を承けて、山田暢久のトップ下→右WBへの異動を象徴とする、そんなに意識してはいないと思いますが夢の3?6?1から現実の3?5?2(一部怪しかったですが)へのモード転換を行なっての再始動。
まあ現状これですかねえ。これといってパッとはしなかったですが、フワフワせずに地力をきっちり出すには良かったようで。去年田中達也復帰後に3?5?2に修正した時は、何かと3?6?1への重力がかかって落ち着かない感じで気が付くと戻ってましたが、今回はそんなこともなく。

山田には今更な仕事させてほんと申し訳ない感じですけどね。地味に、かつ遅まきながら、凄い選手になったと思います。ヒデや俊輔も含めても、ここ10年くらいで最高の、むしろ唯一国際的な水準の「トップ下」と言える、そういうプレイスタイルを実行できる日本人選手だと思います。「司令塔」じゃなくてね。
でも逆に入団時にあのまま本人の希望通りに真ん中やらせてもロクなものにならなかったろうし、周りもついて来れなかったろうし、ここらへんは巡り合わせですね。今のレッズ、31歳の山田暢久だからこのプレーが出来る。基本的に怪物ですから、体力的にはまだまだイケるとは思うんですけど。

一方で相馬にとってはラッキーか。去年のチームにそのまま「入って」行くのは大難事だったと思いますが、今の再構築途中の、しかも”足し算型”(参考)のチームなら本領は発揮しやすい。一人去年を引きずらずにフレッシュな存在として、救世主/牽引者にだってなり得る。
ただポンテがどうかなあという。変態性をうまく発揮する余地があるかなあという。ポンテじゃなくても出来るプレーばかりすることになりそうだなあという。


なお当分の間オジェックの言うことと僕の言うことは全く合わないだろうと思います。オジェックの文脈とチームに実際に起きていること(と僕が考えること)はずれ続けるだろうと。オジェックはオジェックで頑張ってもらいたいと思いますが、その思惑を越えたところ、それと現実やチームのポテンシャルの合流するところに何か均衡点があるだろうと。そこにおいて「強さ」という意味では去年のチームに負けず劣らない(あるいは越える)ものを獲得する可能性はあるだろうと、そう思ってますが。

やっぱりねえ、あのバイン擁する典型的過ぎるくらい典型的なカウンターサッカーのチームを作った人が、この一回出来上がった複雑の極みなチームを更に作り変えて、「攻撃的な」「積極的な」別の何かを作れるまでのものを自分の中に持っているとは思えないんですよ。三つ子の魂というか。
あるとすればいちかばちか4バックにしてからですかね。もう全然別にする。

何となくカルロス・ケイロス的看板倒れの予感があるんですが。ベンゲルの後に来た。優秀な人には違いない。でも意気込みと本当に出来ること/得意とすることとのギャップが。
そこをむしろレッズの底力で支えて、守って、そして成功しましょうという感じ。


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カンフーは痛くない?! ?「科学で見る格闘技の真髄」 

スカパーch.741ナショナルジオグラフィックチャンネルより。
面白かったあ。録画しとけばよかった。まあどうせまたやるか。
何かと話題の『金庸の武術描写問題』への一石?!


表題にあるように、最新科学、特に「自動車の衝突実験」(の際の搭乗者への影響)に関する研究のノウハウ、及びPS以降のゲームでお馴染み”モーションピクチャー”のテクノロジーを使って各格闘技の威力の検証と比較を行なった番組。かなり情熱と愛を感じる作りで良かったです。以下結果のダイジェスト。

素手編

1.ボクシング、ムエタイ、テコンドー、空手、カンフー(少林拳)の威力の比較

パンチ力 :ボクシングが最強。力の伝達の合理性・洗練性が抜けている。
キック力 :ムエタイの「首相撲からの膝蹴り」の威力、特に結果的な人体へのダメージが最大。

・・・・どちらについても「時速56キロでの衝突事故」に相当するという結果になってたのが面白かった。逆にそこらへんに限界が?
・・・・またカンフーはどちらの面でも最下位、はっきり言うとミソッカス。(笑)

スピード(1)打撃自体のスピード :カンフーが最速。毒蛇のかみつきの2倍!
スピード(2)敵の動作へのリアクションスピード :テコンドーが最速。

・・・・空手は名前は挙がってないが、打撃力は平均的に優秀。総合的にはテコンドーのバランスの良さが目立つなという感じ。

2.柔術と忍術

・ブラジリアン柔術(ヒクソン登場!)の関節技の破壊力も検証。首関節ならば余裕で殺傷レベル。

・”格闘技”としての忍術も正当に検証。伝説通り、上記の他ジャンル格闘家も遠く及ばない身軽さと平衡維持能力、及び医学的知識に基づいた神経組織の効率的な破壊・打撃能力が明らかに。一撃で麻痺や殺害は十分に可能。


武器編

前提として、あくまで「格闘家が使う武器」として素手編と連続的に論じられていたところに非常に見識を感じました。戦争の”兵器”とは別次元ということでもあります。

1.”棒”の侮れない威力

・バールやパットなど、重い武器は威力はあっても実用性に欠ける。
・棒は軽量で使い易く、威力も十分。
・フィリピンの”狩り棒”。短く正確で、頭蓋骨も砕ける(”犬打ち棒”を連想)。主に二刀流で使う。
・日本の”六尺棒”。より長く、遠心力でスピードもつき、回せば盾にも使える。
・”槍”は棒を細身軽量化し、そのパワーダウン分を金属の穂先で補ったものと考えるべき。

・・・・棒の破壊力は絶大だが、反作用で自らも壊れることが多いのが難点。

2.”棍”系のアンビバレンス

・”棒”を鎖で繋いで射程範囲と耐久性を加味したもの。
・”ヌンチャク”(つまり二節棍)。スヒードは抜群、壊れることもない。しかし鎖部分の存在により操作性が落ち、また反作用を逃がすことによる威力の減退がある。
・”三節棍”。射程の広さと用途の多様さは究極クラス。しかし更に操作が難しい。

3.飛び道具/暗器

・弓矢(和弓)の遠距離攻撃と威力・正確性は出色。実は焦点は近距離にあり、その延長として遠距離を捕らえている。
・(菱形)手裏剣は使い易く、どんな角度・タイミングでも確実に深く突き刺さる。手に持っても使える。
・両者とも遠・短距離には強いが、格闘の主体である中距離に弱いという欠点を持つ。

4.剣と刀

・刀剣は(1?3全ての観点から)非常にバランスの良い武器である。
・”剣”は直線形で細身、諸刃が基本。より古い。
・軽量で敏捷、刺突力は優れているが折れ易い。
・反り身で片刃、峰部分を持つ”刀”は、攻守兼用で頑丈だが、重くなりがち。
・両者の長所を兼ね備え、かつ切断能力もぶっちぎりの”日本刀”は、刀剣系最強のみならずあらゆる(格闘系)武器の中で最も高度なバランスを持ったリーサル・ウェポンと言える。


(金庸/武侠的に)

・カンフーは一撃必殺を基本思想として持っておらず、”当てる”こと、それにより”やり取りする”ことを前提としている。
・だから煩雑さはデフォルトであり、金庸の文体は実にカンフー的中国的だと言えるのではないか。
・当然それには自己目的的な様式美も伴うだろう。手続き主義的というか。
・武侠小説で言う「軽功」「点穴」に相当するものは、日本の”忍術”の技術としてある意味実在することが確認された。起源はどうあれ、中国武術にもそれに類似したものはあるだろうと推測出来る。
・上手く言えないが、素手の格闘と武器を使ったそれとの間には地続きの思想・技術が存在することが今回強く感じられた。加えて言うならば手持ち武器と飛び道具の間にも。
・ここらへん、日本の剣豪小説よりも中国の武侠小説の方がよりリアルというか豊かな感じがする。あるいは日本は全てが”リーサルウェポン”日本刀を中心とする物の見方に傾斜してしまったのか。

・・・・ちなみにカンフー代表の”少林拳”は、武侠小説によると「外家拳」つまり物理的な「剛の拳法」の代表なので、素手編の1.は言い訳が効き難いですね(笑)。逆に武当派→太極拳の「内家拳」系がサンプルとして取り上げられていたら、”忍術”との比較はどうだったのか興味あります。
でもスピードで実際に蛇より速いというのは驚きでした。ならば少なくとも「当てる」ということに関して言えば、よく出て来る虎などの獣を手玉に取る場面とかも満更嘘ではないのかも。それで打撃で倒せるのかというと少し疑問ですが。


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『碧血剣』各論(1) 

碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺 碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/05)
徳間書店

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(総評)より。


ある主人公の半生

幼年時代

明朝悲劇の功臣である父・袁崇煥を早くに失い、その支持者たちによって構成された愛国秘密結社”山宗”の希望の星として大事に守られ、英才教育を受けて育つ。

少年時代(前半)

”山宗”の瓦解により武林の名門”華山派”に引き取られ、人里離れた高山の修行場でひたすら武芸の修行に打ち込む。3人しかいない第一世代の弟子の一人としてその奥義の全てを伝授され、また併せて”鉄剣門”の筆頭弟子木桑道人、既に故人である伝説の剣客”金蛇郎君”の武芸をも会得。若くして当代随一の実力者となる。

少年時代(後半)

満を持して山を降りる。主な目的は
・父の仇を討つ。(今上帝崇禎を殺す/倒す)
・関外満清族の中華侵入を阻止し、漢族国家を立て直す。
・その一助として、華山派の師穆人清も参陣している李自成の農民反乱を助ける。
の三つ。

しかし実際にやったことは
1.超絶トラブルメイカー美少女”夏青青”の尻拭い(と、なし崩しの恋愛ごっこ)
2.くだんの”金蛇郎君”の秘められた過去の謎解き(と、その一環としての宝探し)
3.焦家一党と”仙都派”の喧嘩の仲裁
4.ふと思い立って満清族の皇帝ホンタイジ暗殺を試みるが失敗。囚われて親父の顔で逃がしてもらう。
5.そうこうしてる内に上記李自成が都を落としに迫って来たので、居合わせたついでにちょっと内応。
等々。ちなみに数字は優先順位です。印象順位というか。番外として”木桑道人の碁の相手”というのも挙げるべきかもしれません。

少年時代の終わり?青年時代以降

気が付くと中華が居づらくなって来たので、飲み屋で知り合ったガイジンから小耳に挟んだ噂話を頼りに、仲間を引き連れて一旗挙げに国外脱出。


・・・・多少デフォルメ入ってるのは勘弁。悪意がこもっているように見えるのは気のせいです。(笑)
でもホント何もしてませんよね気が付くと。袁承志って。泰山、いや華山鳴動、小猿一匹。



袁承志というキャラクター

ほぼ余談なので読み飛ばしてくれても構いませんが。いくつか確認事項。


・袁承志は馬鹿ではない。

こんな(↑)調子なので、どうも郭靖(『射英雄伝』)や張無忌(『倚天屠龍記』)あたりと一緒くたにボンクラ系主人公の一人として認識される傾向がありますが(笑)、実は賢いんですよね袁承志は。翻訳ですが早い時期に”怜悧”などという形容が進呈されています(1巻p.98)。これはかの黄蓉などとも共通する形容詞で、手元の辞書によると「かしこいこと。りこう。利発」とか。
”怜悧”。見よこの涼やかな字面。・・・・いや、単に僕が好きなだけですけど(笑)。漢字っていいなあ。

・袁承志は若様である。

言わすもがなと言えば言わずもがななんですけど。
大功ある将軍、しかも科挙出身の教養人である袁崇煥の遺児で、みんなに大事にされてお坊ちゃまもいいとこ。陳国公の次男陳家洛(『書剣恩仇録』)とどっちが格上なのかはよく分かりませんが、ともかく筋目としては郭靖なんかではなくてそっちに近いタイプ。(にも関わらず印象は山猿っぽいですが)

・郭靖との同型性

こっからは僕の主観。
一つは幼年時代と少・青年時代との対比。多少オツムの差はあれどどちらも子供の時は骨っぽくて、果敢な行動力があって、いかにも”原石”という感じでした。さぞかし行く末はと思いきや、出来上がったのはなんか常に他人任せ成り行き任せのただの人の好いアンちゃんで。
腕白猿小僧時代→正義感の強い直球少年時代→スーパーサイヤ人になって微妙に邪悪味も加えた青年時代→巨大な使命感と自己犠牲、裏腹の変わらない理屈無用の戦闘マニア性をしぶとく併せ持った味のある壮年時代と、見事に一貫性とそれぞれの時代なりの精彩を表現し切った鳥山悟空という実例を知っている僕(ら)には何とも物足りなく思えますが、『碧血』『射』と2回繰り返してるからには金庸的にはこの描写でOKということなんでしょうね。

もう一つはいいかげん耳にタコの”成長”、あまり変わらないという問題。ただし袁承志の場合は「変わるまでもなかった」という感じですが。
立派な血筋と恵まれた天分、幾人もの優れた師匠の教えを受け、にも関わらず結果的には大してやることがなかった(笑)というそんな態で。ちょいちょいとそのたびちょっと頑張れば十分。元々馬鹿じゃないしぃ。お勉強(武術の稽古)だけはちゃんとやりましたよ僕という。

関連して郭靖との似て非なるところを言ってみると、同じく「父の仇を追う」宿命を授けられながらも、父の顔も知らずまた要するに私怨であって、いずれ復讐という行為の意味を深く考えざるを得なかった郭靖に対して、父親の記憶への自然な愛着を持ち、またその父親が同時に重要人物でありその仇を討つことが国家的大事と結び付いていて、取り立てて大きな疑問なく人生の目標を手にすることが出来た袁承志。
描写の問題とかは置くとして、設定的に郭靖と比べても袁承志の葛藤やそれによる成長とかは浅くならざるを得ないところがあるわけですね。

・・・・実際問題としては、ほぼ純分量的に話はほとんどそんな次元までは行ってないわけですけど。さわりだけというか。さすがにこれではマズイということで(笑)、『射』では金庸もそれなりに頑張ったんだと思います。


で、結論ですが。袁承志大好き!(爆)
いやあ、素直でおっとりでいられるならそれが一番ですよ。無駄な苦労はしばしば人の魂を腐らせる。
人生腹六分だよ。ねえ?袁承志。

さっさと行きます。(笑)


『碧血剣』各論(2) 

碧血剣〈3〉北京落城 碧血剣〈3〉北京落城
岡崎 由美、金 庸 他 (1997/06)
徳間書店

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(1)より。


「歴史小説」としての『碧血剣』

ことほどさように実は色々起きているようで、史実の出来事以外にはこれといって特に何も起きていない『碧血剣』のストーリー。
戯れにこれ自体を史実だとしてみた場合、その性格づけとしては「李自成・呉三桂の乱 こぼれ話集」みたいなものになるのではないかと。”裏話”にも少々足りない気が。(笑)

以下は例の”武術描写”の件では、少々ネガティヴな引用の仕方をしてしまった現・新版”Kizurizm”のきつりさんの言。

物語のカタルシスを追求すれば史実に反してしまうが、歴史を変えることはできないのである。その枠組みでどれだけお話を作るかがやはり歴史小説の肝なのだと思うが、金庸氏はおそらくその難しさを理解してこれ以降の話はあまり史実とリンクさせないようにしたのではないか。(中略)現にこの作品以降、『鹿鼎記』まではあまり深くリンクはしていないように思えるし、あるいは主人公の目的に歴史を改変するようなものはなくなっているのである。

『武侠ノススメ』アーカイヴ


太字強調は僕。
おっしゃるとおりだと思いますね。金庸自身の言も引いてみると、こんなことを言っています。

私の小説の中に歴史的な題材を取り入れて、歴史小説を書くというのは、イギリスの作家のスコットとフランスの大デュマの影響をかなり強く受けています。(中略)基本的な歴史的事実に違反しなければ、ある程度までは自分の想像を入れることはできる

(『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』 神奈川大学評論ブックレット)


挙げられた中では大デュマの『三銃士』くらいしかまともに読んでませんが。あれを参考にすると”史実を背景にした法螺話”ということで、バランス的には『碧血剣』とも重なる気がします。
だからどのみち「歴史小説」とは言っても、いわゆる司馬遼太郎的なそれではないわけでしょうけど。むしろ現代日本での普通の用語法で言えば”歴史伝奇小説”、史実を背景とするタイプの伝奇小説で。

私の小説は『水滸伝』の方に近いからね。『三国志演義』は比較的歴史性が強いです。歴史を語る部分が多い。

『きわめつき武侠小説指南』


決定打とも言える分かり易い対照ですが、さりとて(『碧血剣』が)「史実と虚構の緊張感が上手く演出されていない」という結論には変わりがない(笑)ですね。
(歴史)伝奇小説なら尚のこと、このバランスが命。狭義の歴史小説の場合、極端に言えば史実を順番に並べてそれに自分なりの意味付けと、それから定番の”目撃者としての虚構の一般人”の2,3人も付け加えれば(笑)それで一応作品として成り立つわけですけど。一方で優れた歴史伝奇小説になると、どれだけ途方もない馬鹿話に仕上がっても、でもなぜかそれこそが本当に起きたことに思えて仕方がなかったりします。

そういう緊張感はハナからないですね。あくまで「武侠小説」であって「伝奇小説」という意識で書いているわけではないと言えばそれまでですが。ていうか日本の(伝奇小説)が特殊なのかも。


「歴史小説」という強迫観念

再びきつりさん。上の引用の”(中略)”として隠した箇所です。

このあたり、歴史小説のほうが武侠小説より上と考えているふしがある氏としては挫折であったのではないかと推察されるのであるが。


次は僕が初読後の第一稿で書いたこと。ちょっと長い。

プロローグとエピローグ

『碧血剣』の全体の構成は大まかにこうなっています。

プロローグ(第一章?第二章途中)

ボルネオ島ブルネイ国(当時中国の勢力圏、一種の桃源郷的位置付け)からの訪問者張朝唐主従が、(子供時代の)袁承志一派の旗揚げ騒動に巻き込まれ、救われてブルネイに帰るまで。

本編(第二章?第二十章途中)

袁承志が成長して一人前になり、明末清初の大混乱の渦の中に飛び込み、苦闘する過程。

エピローグ(第二十章残り)

顛末の結果を見届けようと再び中国本土を訪れた張朝唐と再会した袁承志が、時を経ても何ら変わらぬ中国のありようとその中で悟った人の世の無常に胸を衝かれ、張朝唐の勧めに従い海外に新天地を求め中国を脱出するまで。


読んでみると分かりますが、さして長くもないこのストーリーにあえて付されたこのプロローグとエピローグは、感覚的には唐突または拍子抜け感の源になりかねず、内容的にもあってもなくても成立するようなそういうものだと思います。本編部分の、運命の子袁承志が名前の通り亡き父の志を承けて立ち上がり、奮闘し、やがて夢破れる話をちゃんと書けばそれで十分だと思います。ただでさえ、金蛇郎君の回想エピソードが大きな部分を占める二重構造になっているわけですし。

それでもそれらには一定の効果・意味はあって、つまり「本編」のみなら純度の高い、血湧き肉踊る奇想天外荒唐無稽な少年冒険ロマンになっているものを、プロローグとエピローグが視点を複層化することによって俄然「歴史小説」性が高まる、歴史や文明というものの意味を考察・反省したそういう小説ですよという体裁が整えられるということです。・・・・かなり急ごしらえではありますが。

ここらへんは照れなのか打算なのか、本編のノリノリの武侠ロマンだけではどうしても終わりに出来なかった、作家金庸のこの時期特有の何らか自意識的問題があるのだろうと思います。後代の読者からすれば余計なことを、ちゃんと書けてるんだからもっと自信を持てよという感じですが。


・・・・まあそういうことです。(笑)


まとめて言うと、きつりさんもおっしゃってるようにコンプレックスなのか何なのか、この時点での金庸は武侠小説を”ちゃんと”「歴史小説」にしなければという強迫観念が割りとはっきりあって、それでこんな風な細工もしてみるんだけどどうも上手くいかない。
それで徐々にそういうことは意識しなくなって、(別系統の『雪山飛狐』飛ばして)次の『射英雄伝』ではまだ意味深なタイトルをめぐる不透明なんかも残りますが、以後はもうかなり自由に書くようになって変なぎこちなさや史実と虚構の分立が目立つ散漫さなどが顔を覗かせることはなくなったと、そういう筋書き。

ラストです。


『碧血剣』各論(3) 

碧血剣〈3〉北京落城 碧血剣〈3〉北京落城
金 庸、岡崎 由美 他 (2001/09)
徳間書店

この商品の詳細を見る

(2)より。


それでも大好き!『碧血剣』

アホだ。
しょせん僕はそれほど金庸をマジに受け取ってないということかも知れません。何かを教えてもらおうとは思っていないというか、既に知っていることを舐め回して遊んでいる秘密クラブの会員的というか。
まあこの作品に関しては、元々ひどくガードの甘い作品なので、あえて攻めるのも味気ないというかむしろ乗ってあげて一緒に弾けるのが上策というか。ネチネチ攻めたり、脳を緊張させて読むのが上策の作品も後にはあります。

意味はない、気持ちがいいだけ。ルースィー・イン・ザ・スカーイ・ウィズ・ダアーイモンということでひとつよろしく。


(おまけ)女性キャラ番付

というわけで(?)のお気楽企画。微妙にリンク(?)。
結構駒も揃ってるので、金庸の女性キャラ造形の原型的なものを一覧するにもいいでしょうとか一応言っておきますけど、実際にはセクハラ大会。(笑)

1位 何鉄主(何守)

やはりどちらかというと旧名がいい。字も簡単だし。南方イ族”五毒教”という、地理的にも道徳規範的にも、中華世界の周縁部分からやってきたトリックスターにして悪の天使(笑)。無益な殺生がだ?い好き、だって楽しいんですものホホホ。あらきれいな血しぶき、明日はきっと晴れですわ。
金庸の全女性キャラの中でも屈指の魅力だと思いますが、「付き合いたい」というのともちょっと違うんだな。むしろこの得難い率直さや柔軟性、本質的な部分での明るさは、”女友達”として至宝級。お近付きになれれば人生の果実の半分くらいは手にしたも同然。
逆にうっかりその気になられた場合が問題ですが、まあ気の済むまでどうぞと好きにさせるかな。飽きたらまた友達に戻りましょう。

2位 阿九(ナニ公主?)

お忍びで盗賊に身をやつす今上崇禎帝の皇女。正に男サイドからの妄想系”お姫様”。
エロい。とにかくエロい。片腕でも全然OKですが、重心が不安定なので出来ればもう一本も行っときたい。行くよ?いいかい?
後の(かなり)『鹿鼎記』での厳格な尼さん師匠ぶりとは、「浮き世離れ」という共通項はあっても今イチ結び付きにくいんですが。愛しい袁承志の前ならトロけるのかな。
気が付くと1位も2位も隻腕系ですけど、深い意味はありません。(笑)

3位 夏青青(温青)

情け無用喧嘩上等の凄まじいカラミ女ぶりですが、少なくとも嘘はないからねこのコは。阿九の美貌を見て素直に「負けた」と思うところとかもかわいい。
ただひたすらに欠落を埋めようと、ワタシにかまってと、”愛を求める気持ち”というものの実相を感動的なほどあからさまに体現しているキャラですが、金庸の視線としてはそうした”愛”を結局はまとめて切って捨てる仏教哲学的なそれと、そうした達観を元にある種「かわいい動物」を見るような温かさとがごちゃまぜになっている感じか。かわいいよ夏青青。でもあっち行ってくれ。

4位 焦宛児

父を支えて家業を助ける健気なしっかり者。乱れるところを見てみたい?
こういう学級委員タイプは僕のろくでなしぶりを笑って愛してくれるパターンと、毛嫌いして寄ると触ると揉めるパターンと割りとはっきり二分されるので、ちょっと試してみないと分かりません。

5位+ 温儀(夏青青の母親)
5位? 安小慧

似たような感じ。普通の女。温儀の+分は不幸による味の濃さ。(笑)
どちらも人生の選択(男の選び方)を割りと成り行きの”情”で決めている感じですが、考えても別にアタシにそれ以上何もないしぃと無意識に身のほどを弁えているといるようなところも。
そういう平凡な女温儀が怪傑金蛇郎君の運命の女だというのは微妙にはまりが悪い感じもしますが、ある意味(娘の)夏青青同様に元々の欠落の大きかった人ですからね、金蛇さんは。穴があったら埋めてみたいてなもんで。どのみち金庸のカップリングは縁と義理が8割方ですし。魂というより。

7位 何紅薬(若い時)

恐怖のカルト集団五毒教の掟を破ってまで身を捧げた金蛇郎君にぼろ雑巾のように(笑)使い捨てられたかわいそうな女(ヒト)・・・・の、はずなんですが、どうにも自業自得、独り相撲の感が。根本的に自己中心的だからでしょうね、ハナから相手の姿なんぞ見えていない。皮算用が外れただけじゃんという。
猫と美人には滅法甘い僕ですが、これはパスかな。心を開いても何も返って来そうにない。

8位 安大娘(笑)

安小慧のおっかさん。酒が入るとちょっと女になるのが怖いので、陽が高い内に帰ります。

9位? 孫仲君
10位? 帰二娘

悪夢の師弟コンビ。順位は若い順。(笑)
言っちゃうよ?だから女は!って。ノータイムで差別だ!と返って来るだろうけど、気にしない。
こんな女(帰二娘)を女房にしてる時点で、”神拳無敵”帰辛樹の人間の底も知れようというもの。「尻に敷かれてる」のではなくて、本質的な部分での自信の無さを既成事実的に補ってもらってるんでしょう。嫌な共犯関係だ。
孫仲君夏青青の違いが分かり難いという人もいるかもしれませんが、『贅沢』(前者)と『飢え』(後者)の違いという感じでどうですか?


番外 ジャクリーヌ

軍隊に随行して来た通りすがりのホルトガル女。(しかし名前が・・・・)
素材的にはかなり上位に来ると思いますが、ほぼ”白人版何鉄主”という感じでなんか卑怯なのでスルー。まあその天然のお姫様っぷりも併せて、”何鉄主と阿九の間”ということにしてもいいですが。
ちょっと金庸の「闊達な」「現代的な」タイプの女性キャラのネタバレという面も。要するに、実は中国人ではないみたいな。


・・・・以上、クレーム等は受け付けます。(笑)


(終わり)



碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣
金 庸、岡崎 由美 他 (2001/07)
徳間書店

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碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺 碧血剣〈2〉ホンタイジ暗殺
金 庸、岡崎 由美 他 (2001/08)
徳間書店

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『碧血剣』の評判/総論 

(否定派)

金庸ロードショー さん

この作品、表面上の主人公の袁承志、負けません。強すぎます。失敗らしい失敗もない。金庸作品中の主人公の中でも異例中の異例の存在かもしれない。その意味で、魅力に欠ける。ほぼ完璧な主人公なんて退屈以外の何者でもない

 ストーリーは素直な展開と言っていいだろう。あまり毒がないと言う点では、武侠小説の入門書として、まず読むのだったら、それなりに楽しめるかもしれない。ただ、あっと驚く展開がない。そして主人公に危機が迫るシーンもない。山あり谷ありの、谷の部分がない。駄作だとは思わないが、面白い作品とも思わない。


まずは典型的であり、もっともでもある否定的意見。


(中間派)

一億総ハヤカワ化計画 さん (本体こちら。多分)

読んでる最中の盛り上がりに比して、あの終り方はないんでないというのがあったりした。これも後輩が反論していわく、「歴史小説」としての影を忍ばせるならば、それもまた当然の帰結であったのだ、という。そういえば、二巻でもポルトガルの干渉などについて、ちらりと触れるエピソードがあった。ホンタイジ暗殺や、暗君の死、更にはそれを行なった反乱軍や武将の顛末など。これらを書き記す為に作られたものだと言われれば、この「納得いかない、なんでいい奴が死なないといけないんだ」も、「それが史実だからだ、それを伝える為に書いたんだ」と言われれば、なるほどの納得なのだ。


サイトタイトルを見れば分かるように、基本SF読みである筆者さんによる『碧血剣』の「歴史小説」性への素朴な疑問、葛藤。(笑)
実際には半フィクションという「歴史小説」の宿命の問題と、『碧血剣』そのものの問題が混じってると思いますが、”後輩”氏のありそうで見かけない弁護の仕方がちょっと面白いですね。あるいは当時の金庸の意識、義務感というのもこんな感じだったのかなという。

本当のところこの件に関して筆者さんは納得してないと思いますが(笑)、”読んでる最中は盛り上がってる”そうなので(中間派)。


きぃず ほめぱげ さん

面白いしテンポがいいけど、その分記憶に残らないのかなぁって感じ。ただ、読んでいる間は時間忘れる程面白いのは確か。


忘却の二つの顔。正に”(中間派)”。短所と長所は裏表。


(肯定派)

金烏工房 さん(本館

ストーリー展開はまるでロールプレイングケームのようである。今時ゲームでも珍しい素直なストーリーで、読んでいて思わずうれしくなってくる。


ね?ノリノリキャッキャ。やはりこの作品はパッパラドラッグ系。
さすが分かってらっしゃる。(笑)


へきけつけんってなんですか?(元サイト不明)

「その後彼らは新天地を求めて新たな旅に出た」っていう明るい終わり方がいいですね。あの仲間感がたまらなく好きです。


と思ったら、あの結末まで全肯定ですかあ、負けたあ。(笑)
確かに少年少女コミューンみたいな雰囲気はありますよね。呑気さが袁承志に相応しいというか。
一番浮き世離れしていた阿九が本土に居残って、かえってちゃんと年をとるという。


ダイエットに挫折して飲んだくれる俺。 さん

むしろ後期作品に見られがちな荒唐無稽な描写が少なく、自分にとってはこちらの方が好みでした。


具体的に何をおっしゃってるのかはよく分からないんですが(武術の内容?)、感覚的には僕の「とにかく素直で良い」という印象とも重なる気が。

物語の方は、射雕英雄伝と共通点が多いように感じたのですが、


軽く援護射撃ですが(笑)、この記述だけで早とちりは。
ただ上と合わせると、やっぱり感覚的なレベルで「小じんまりとした射雕英雄伝」的な愛すべき作品と、この方も感じたのかなと想像します。


新潟?浦和戦 

生放送の時は寝ちゃったので再放送で。

J1第2節 新潟 △2?2△ 浦和(ビッグスワン)

多分来月からはJ2ライブにするので今の内に書けるものは書いておこう。
ていうかやっぱ旧Jリーグセットの方が良かったなあ、しまった。ブルズカップなんかにつられてる場合じゃなかった。


・うーん、これは。これは。
・勝ち点だけが取り柄の試合で勝ち点を失ってしまったとは。
・たまたま気を抜いたというより、芯がしっかりしてないから消耗が激しくて緊張感を保ち切れない、”気を抜く”誘惑に抗し切れないというそういう結果か。
・小野と永井は変わらず調子が良いけど、「中心選手が小野と永井」って、いかにも弱そうなチームで。(笑)
・それはともかく小野は頑張って上下動を繰り返してあちこちに顔を出すのだけど、その頑張りは効果という点でどうなのかという。
・なるべく高い位置で、むしろ敵中の頭痛の種として脅威を与えて欲しい、穴埋めではなくて骨組として存在していて欲しい。でないと少なくとも「三都主の代わり」という役割は。
・小野のカバーリング自体は効いてはいたんですが、出来ればそれは他の人に。
・同様に阿部も”頑張って”はいるのだけど、その頑張りがあまり積極的な要素にはなっていないというか後追い的というか。
・代表の時と同様、鈴木啓太とカブり気味というか。
・それにつけても闘莉王のパスのメッセージ性は凄いなと。引き換え阿部は・・・・みたいな比較は酷ではあるのだけれど。

・勝ち切ってればシラを切り通す、マンペイライマンペイライで押すのもテではあるのですけどね、分けちゃったから。
・この試合の内容、個々のプラス材料に明るさを見出すのは、どうも「まだ大丈夫まだ大丈夫」(マンペイライじゃないの?)と言いながら一緒にズブズブ沈んで行くそういう姿勢に感じますがね。
・いや、監督はそれでいいんですけどね。”サポ”もいいのかもしれないですけど。
・気になったのはフジテレビ739『プロサッカーニュース』で語られていたオジェックの評判、「必要以上にピリピリし過ぎる」「選手は勿論、エンゲルスも監督の考えが分からなくて発言を控えている」というそういう話。
・勿論結果が悪ければこういう話は出て来やすいんですが、僕自身の印象からもなるほどなと思ってしまうところが多くて。
・とにかく曖昧、かつ閉塞的。
・例えばギドは初戦から何がやりたいのかはっきり分かった、細部を吹き飛ばす強烈な「縦への意志」みたいなものが感じられた。
・逆にオジェックは細部の話に終始しているのではないかと。うまくメッセージが発せていないのではないかと。

・つい印象が重なるのが”桐蔭ヴェルディ”で。
・一人一人が平均して無駄に上手い。勿論レベルは一つ二つレッズが上ですが。
・ともかくその上手さがブレーキになって生殺しになっているのではないかと、崩壊を覆い隠しているだけではないのかと。
・かといってどうすればいいのか、改めてメンバーをスキャンすればするほど分からなくなる。なんか・・・・バランス悪いぞ気が付くと。
・4バックはやり難いし、そもそもサイドのスペシャリスト自体足りないし、分かり易い配り屋タイプのトップ下も、オーソドックスな2トップを組む為のFWも足りない。
・少なくともまた全員を活かす方向で考えるのは難しそう。特にワシントンとポンテ。
・結局つい去年型の3?6?1に戻ってしまいそうになるんですが。
・ACLでは評判が悪かったようですが、今まで見た中では相馬のプレーに一番新たに中心となる可能性を感じてるんですけどね。
・うーん、正直今レッズの監督はやりたくない
・やるならむしろGMにしてもらって、半分くらい取り替えたい。
・どのみち「攻撃的にしたいから」オフト→ギドはありでも、「攻撃的にしたいから」ギド→オジェックというのはないんじゃないのかな。

・マンペイライ?


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金庸と『水滸伝』 ?(1)文体 

吉川幸次郎/清水茂の『完訳 水滸伝』

完訳 水滸伝〈1〉 完訳 水滸伝〈1〉
(1998/10)
岩波書店

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をボチボチと読んでいます。ちなみに『神』はようやく図書館が”捕獲”してくれたので(笑)、明日にでも取りに行きます。ついでに『漂泊のヒーロー』も。
で、元祖武侠『水滸伝』、全10巻中まだ2巻の途中ですが、なんか非常に分かるというか、「これが、こうなって、金庸かあ」みたいなのが見える気がしたので、ちょっと書いておこうかと。

とりあえずどういう話かと言いますと、やたら牛肉を食べる人たちの話です。(笑)
いや、ほんとよく食う。金庸を読んでいても牛肉(主に生)が重要な酒のつまみだというのは分かるんですが、『水滸伝』は他に無いのか、中国は食用の牛肉が雀やゴキブリばりにそこらにゾロゾロ歩いてるのかというくらいそればっかり食ってます。ていうか食うことと飲むこと以外に関心があるように見えません。
しかし中国本土(関内)に牧場ってありましたっけ?あるのかもしれないけど風景として思い浮かばない。


文体について

元々原典がそういうものなわけですが、吉川/清水版の『水滸伝』の翻訳は、「講談調」という文体で書かれています。具体的にはこんな感じ。

さてこの八句の詩は、宋朝は神宗のみかどの御世、苗字は召、おん名は尭夫、道号を康節先生と申す大学者の作にて、唐の末つかた五代の頃、天下の兵馬たえ間なきを歎かれしもの。そもそもその頃といえば、朝(あした)は梁の世、暮(ゆうべ)は晋の世、まさにこれ「朱李石劉郭、梁唐晋漢周、あわせて十五の天子、五十年の大騒動」というわけでございましたが、やがては自然に天道一めぐり、かの甲馬営の陣屋にて、太祖武徳皇帝さまのご降誕となりました。


これは「引首」(まくら)と題された序章の冒頭で、この前に”八句の詩”があるわけですが、詩の部分は僕は以後もほとんど読み飛ばしてるので(笑)割愛。
ちなみに会話部分はこんな感じ。

さてその時、史進、
「こりゃいったい、どうしたものだろう。」
といえば、朱武たち三人の親分、土下座して、
「あにき、あなたは堅気の人、われらのせいで太郎さまを巻きぞえにしてはなりません。縄を取って来て、われら三人を縛りあげ、出て行って褒美をもらって下さい。(略)」
史進、「それはだめだ。そんなことしたら、わしがあなたたちをおびき寄せ、捉まえて褒美をもらうことになる。わしは天下のもの笑いになるばかり。死ぬならあなたたちといっしょに死に、生きのびるならいっしょに生きのびる。(略)」


見ての通り、いわゆる「古文」というほどではないですが普段読んでいる「小説」の文体からするとかなり古めかしくて不自然で、正直最初は感情移入できなくて途方に暮れました。やっぱ北方謙三のにでもすれば良かったかなと。(笑)
でも我慢して読んでたら10ページくらいでカチッとスイッチが入ったように焦点が合って、後はスーイスイ。思わず受験生時代の栄光が脳裏に甦ったことはこれまでといたします。(というのが決まり文句)


いや、実際気持ちいいんですよこれが。内容以前にこの文体が。ヒラヒラフラフラ舞うように、どこにも重心がかかっていなような中心がどこにあるのか分からないような頼りない感じが逆に。それでいてトントンやたら調子良く進むところも。
その文体が何に由来するかとかそういう文学史的な話はちょっと手に余りますが(当然誰かがやってるでしょうけど)、感じるのは金庸の文体との共通性で、なるほどこういう伝統を近代小説に移し替えるとああなるのかと。

結論的に言うと凄く上手くやってるなと思います。さすがに言われるだけのことはある。
実際にただ金庸を読んでいると、くだんの無中心性無重心性が、しばしば無感情性として感じられることがあるわけですけど。中心の不在=「作者」の不在=いわゆる「人間」的感情の不在みたいなそんな感じですかね。それをめぐってキャラの評判の上下(笑)や作者自身の作風の変遷とかもあるわけですね。

ただ作業としては実によく出来たものであると。ほとんど何も媒介物なしに直接移植しているように見えるんですけど、少し変わってはいてもちゃんと近代的な「小説」として読めますよね。
そして更に言うと、金庸を読む楽しみの何%かがこの見慣れない文体の快楽であったことに改めて気付いたと、そういうことです。

まあ”旧派武侠”を読んでないので、どこからが金庸個人の作業なのか正確には分かりかねますけど。


(ストーリー構造編)につづく


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浦和?甲府 

J1第3節 浦和 ○2?0● 甲府(埼スタ)

結果的には妥当な試合。



以下ほぼ雑談。

ある監督が「攻撃的なチームを作る」といった時、たいていの場合実際に行われるのは、手持ちの人材(+α)を、システムなり運用なりでワンアイデア的に編成し直してぶつけると、要するにそれだけのことであるのが多いと思います。
例は枚挙に暇がないですが、近年のヴェルディで言えばオジーが就任してすぐに作った、エムボマのポストプレーを足がかりに桐蔭組を中心とする東京移転以降の人材たちを総決算して作ったあれとか典型。

去年J1を騒がせた大木ヴァンフォーレとかも大きく言えばその範疇(”バルサ方式”というワンアイデア)で、例えば今監督が変われば自然な継続はそう簡単ではないというかチャラにしてしまった方が話は簡単というか、つまり意気込みはともかくとして”根”としてはそう深いものではないだろうと思います。
甲府自体について言えば、むしろその前の松永監督が作ったフラット4?4?2できれいなサイド攻撃を行なうあのチームの方が、「攻撃的なチーム」の方向付けという意味ではより根本的だったと思いますが。

それはともかく一方でより根っ子から監督の意識的作業として「攻撃的なチーム」を作るという場合も確かにあって、一番最近の成功例としては勿論西野監督のガンバ。
あの選手どうしの繊細な距離感・ポジショニングの合理性に基づいたパスサッカーは、確かに西野監督(と下部組織の伝統)が”作った”もので、一朝一夕では出来ずにかつそう簡単に消え去るものでもないでしょう。

ただその前に僕的にほとんど初めてこういう作業の存在を意識させてくれた人はいて、それがジュビロとレッズで仕事したご存知ハンス・オフト。
やっとJ(1)に辿りついてとどまって、ある意味それだけで何もなかったジュビロに日本サッカー史に残る鮮烈なパス・サッカーの基礎を作り上げ(”収穫”は後の人・笑)、また歴代スピードFWを擁してカウンター・スタイルの代名詞的なチームだったレッズを、真逆に近いポゼッション・スタイルへ歩み出させた。在任時は常にその頑固さに悪評の方が多かったりするんですが。(笑)

ちなみにそのオフトを継いだ(またもや”収穫”だ!)ギド・ブッフバルトですが、彼自身は特に「攻撃的」でも「守備的」でもなかったと思いますね。
この前も言った強烈な『縦への意志』みたいなものが唯一に近い最大の特徴で、それが一番分かり易く出るのは勿論カウンター/速攻時ではあるんですが、でもパス回し大会をやっている時にもしっかりその影響力は及んでいて、それがレッズのパス回し大会がヴェルディの悪い時(実際にはたいていの時(笑))ほどにまったりしたりは決してせず、具体的にはそのポゼッションが「中盤」というよりは「より高い位置」で、自己目的化せずに常に相手に襲いかかるぞというそういう迫力を維持出来た理由の一つだと思います。

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金庸と『水滸伝』 ?(2)ストーリー構造 

文体編


ストーリー構造について

むしろストーリー”無構造”についてみたいな話なんですけどね。

『水滸伝』そのものについては、小学生くらいの頃にかの横山光輝漫画版
横山水滸1
水滸伝〈1〉 (1977年) / 横山 光輝

を途中まで読んでいたので、あらかた、少なくとも今読んでいる完訳版2巻や3巻の範囲でならストーリーは知っているわけです。ゆくゆくどうなるかも耳情報としてならだいたい。

にも関わらず読んでいると非常に頼りないというか、闇夜を進んでいるような気分になります。
それはつまり、この話はどこへ進んでいるのか、そもそもどこかへ向かっているのか進んでいるのかいないのかというそういう感覚です。(笑)

これは恐らくは水滸伝の、or”講談”スタイル特有の、各パート・エピソードと「全体」や「本筋」とのゆる?い関係によるのだと思います。別に破綻しているわけでも、”?サーガ”みたいに分量的に凄まじく脱線しているわけでもないので、あくまで感覚的なもの、語り手の意識的なものなのだと思いますが。
進んでないわけではないんだけど、中心や軸との緊張感のある繋がりが感じられないので、どうしても普段読んでいる近代的な小説の読者の感覚からするとほったらかしにされてるような不安感がある。

やはり”作者”の不在ということなんですかねえ、作者と読者の一対一の対話、内面的な繋がりみたいなものの稀薄さによる不安感。勉強不足でよく分かりませんが。


ともかくこれは、金庸の小説を読んでいる時にもちょいちょい僕が感じることです。(これが本題)
勿論程度としてはだいぶ軽いですが。でも例えば同じ現代武侠の古龍と比べてもそれは顕著。

具体的にはそれは一種の”中だるみ”として現れることが多いです。ここの末尾の(3)で書いたような。
より根本的なことを言うと、金庸は確かに面白い。一つ一つのシーン、一つ一つのエピソード、それらの趣向の楽しさは抜群。でも・・・・ぶっちゃけ大部分が「余談」みたいなところがある(笑)。エピソードのためのエピソードというか。本当に必要なもの、本当に中核的なものは少ない、あるいは分かり難い、あるいはかいつまんじゃうと大した話ではない(笑)。作品にもよりますが。

だから長い長いと言っても、「壮大」とか「大河ドラマ」みたいな感じはあまりしないんですよね。ていうかあんまり”流れ”てないし、この河(笑)。むしろ池や淵が沢山あって、そこにそれぞれヌシがいるみたいなそういう風景。

・・・・と、ここまでが僕が直観のみで書いた文章



岡崎由美『漂泊のヒーロー 中国武侠小説への道』

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道
岡崎 由美 (2002/12)
大修館書店

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その後図書館から借りて来たこの本の中に、そうした僕の”直観”を説明してくれる、こちらは(笑)実証的な記述があったので補強しておきます。
最初から読めばいいようなものなんですけどね(笑)、でも僕の書き出すモチベーション自体は常に直観というか衝動的なものなので、どうにも。というわけで(1)もちょっと補足してあります。


『水滸伝』のそもそもの構成

これらのリストが作られた時代、『水滸伝』はまだ現在見るような長編ではなく、「花和尚」だの「青面獣」だの、好漢一人一人を一席読みきりで語る銘々伝の段階である。(p.11)


なるほど、それをまとめたものだから、破綻も脱線もしていないのにバラバラに感じたのか。


『水滸伝』の視点、語り手と聞き手の関係

物語は講釈師が聴衆に語りかける形式で行われるから、物語を語る視点は三人称叙述である。(p.209)


これも(”作者”の不在という)僕の直観には沿っていると思いますが、ある意味(水滸伝を)読めば分かることなので、さっさと気付くべきだったか。(笑)


ちょっとゴタゴタしてますが、次”講釈師”としての金庸編でまとめ。


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”講釈師”としての金庸 ?金庸と『水滸伝』まとめ 

文体編ストーリー構造編


金庸の異質性

引き続き岡崎由美『漂泊のヒーロー』から引用。以下すべて。

「武侠小説がこれほど人気のあるわけをよく聞かれます。もちろん原因は様々ですが、ただ最も主要な要因は、武侠小説が中国的な小説で、中国人が中国的なものを好むのは当然だからだろうと思います。」(p.260)


前2回で僕は『水滸伝』について、
1.いわゆる「講談調」の古風な文体が、慣れるとかえって気持ちがいい。
2.基本的には一本のストーリーであるのにも関わらず、エピソード一つ一つが各々勝手に存在しているようで、たまに道に迷っているような気分になる。

という特徴を挙げ、それが金庸を読んでいる時の感覚と共通するものが大いにあるということを書きました。

文体編の補足部分(末尾)に書いたように、実際には金庸/新派武侠は「講談調」で書いたりはしていません。
また『水滸伝』の上記2.の特徴の主な理由である、あちこちの講釈師があっちで一席こっちで一席とバラバラに語り継いだものを後に一本のストーリーとして編集したというような特殊な(しかし伝統的でもある)成り立ちを金庸の作品が持っているわけでもありません。あくまで一人の現代の作家が、一つのヴィジョンで一気に書いたものではあるわけです。

もとが新聞連載小説だったせいか、緻密なストーリー構造とは言いがたい点もある(p.254)


と、これは定評ですが、ただ日本でも歴史/時代系の長編名作の多くは、吉川英治作品などを筆頭に「新聞連載小説」として書かれていて僕も少なからずそれらを読んでいるわけですが、金庸のようなあからさまなバラバラ感を感じさせられたことはないんですよね。

このように明確な理由が見当たらないにも関わらず、なぜこうも古の水滸伝と大して読み味が変わらないのか。(笑)


”現代の講釈師”としての金庸

答えとしてはあっさりしていますが、要は金庸がそう書こうとしているからだと、そういう”味”を出そうとしているからだと、そういうことだと思います。「原因」とか「失敗」とかいうより、「仕様」だと。
それには

1.ヨーロッパ小説の影響を受け過ぎた(当時の)中国文学界へのアンチテーゼ的意図。
2.金庸自身ヨーロッパ小説の影響は十分に受けているが、根っ子のところでは結局中国的伝統的な小説こそが金庸にとっての「物語」である


という2面があるだろうと思います。1.は意識的動機、2.は無意識的動機、みたいな話ですか。

1.は勿論よく言われることですが、2.の根深さ、理解の深さこそが金庸の金庸たるゆえんだろうと。殊更「講談調」にしなくてもそういう味の文章が書け、普通の作家なら研ぎ澄ましてまとめないと落ち着いていられないような一見バラバラなエピソード群を、それもありなんだと鷹揚に包み込んでそういうものとして成り立たせてしまう、それを可能にする、理論以前の自然な伝統・古典文化との一体感
なかなか余人の真似できるものではない。育ちが違うと言ってしまえば身も蓋もないですが。(笑)

ともかくそういう金庸の作品を、それなりに年季を積んだ(はずの)現代日本の小説読みである僕が読んだ時に何を感じるかというと、一言で言うとそれは他に類を見ない「解放感」みたいなもの。

面白いもの秀れたものは沢山あるし、沢山読んだし、そうした数多の他の現代エンターテイメント系作家一人一人と直接比べて「金庸こそが最高だ」なんてことを言う気はないし、言う必要もない。
でも金庸には金庸にしかないものがある。それはそうした多くの作家の作品との対話・格闘の中で自然に磨き上げられた批評性や警戒感、褒めるにしろ感動するにしろ、いずれその枠組の中でそれとの対応で行われることがほとんど定められているその限界、それをまさかという乱暴さ、あっさり感で束の間飛ばしてくれる、そういう力、驚き。

その力の源が『水滸伝』との対比で直観/再確認した金庸の”異質性”、伝統文化・文学との特権的で直接的な繋がりなのではないかなというそういう話です。
それと知らずに行われる近代文学の脱構築、心の準備が無いまま連れて行かれるタイムトラベル。気付いた時は既に脳味噌が飛ばされている、ガードが外されている。


例えば武侠小説の世界で並び称される古龍も、僕は大好きでほとんど天才だなと思っていますが、しかし金庸のような意味での驚きはないんですね。想定内というか。それこそここの”プロフィール”欄に名前を挙げた、夢枕獏や菊地秀行の隣に行儀よく収まっていてもそんなに違和感はない。
そういう意味でやはり金庸は”最高”であるかどうかはともかく、特別であると。特殊、でもいいですが。中途半端に頭を使ったり常識を入れて読むと読み誤る危険が大きいと。そういうものだと思って読むべきだと、そう思いますね。金庸自身は案外天然なんじゃないかと疑ってる部分もあるんですが。(笑)

なにより、金庸の作品には面倒な文学理論を飛び越して、ストーリーテリングを楽しむという物語の最も原初的な快感がある。(p.254)


おじいちゃん、今日もお話聞かせて?と、ともかくもついついそういう気分にさせてくれる、現代の講釈師金庸先生であります。


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格闘描写の「技」と「心」 ?序 

まず下の表を見てみて下さい。

各武闘派作家の「技」派度、「心」派度の比較表

「技」派 ↑

金庸

夢枕獏

富樫義博『ハンター×ハンター』



菊地秀行『妖魔』シリーズ

鳥山明『ドラゴンボール』

吉川英治『宮本武蔵』≒井上雄彦『バガボンド』 → 古龍

「心」派 ↓


僕がざっと大別してみた、金庸と古龍の中国武侠小説の2大巨頭を両極とする、各武闘派作家の「技」派度、「心」派度の比較表です。
なるべくメジャーな範囲で選んではありますが、それでもラインアップの一般性にやや問題がある(笑)のは、要するに「僕がある程度以上責任を持って語れる人」ということなのでご勘弁を。

まず意味ですが
「技」派とは・・・・格闘の描写及び勝ち負けを、物理的技術的観点に重きを置いて書く人。
「心」派とは・・・・同じく心理的意味的観点に重きを置いて書く人。「正義は勝つ」派というか。
ということです。

「技」派の側から見ると、「心」派はある意味で”描写”をそれ自体としてはしない人たちとも言えるかもしれません。なお古龍の位置だけおかしいのは、こういう分類に収まり切れない、とても独創的な描写をする人だからです。
吉川武蔵と井上武蔵は必ずしもイコールではないかも知れませんが、一応原作とその漫画化作品ということで同じ位置に。

以下各作家の”派”たる理由について解説して行き、ひいては金庸の格闘描写にこめられた意味について考えて行きたいと思います。

・・・・その2(特記事項)編につづく。


(補足)
僕のホームグラウンドであるサッカーのネット評論のジャンルで言えば、前者は試合経過を細かく追って、一つ一つの原因結果について考察する「観戦記」派、後者は起きたことや試合結果を、人間行動や歴史、社会的な意味などの見地から位置付けて行く「エッセイ」派にあたると言えるかも知れません。
ちなみに僕自身はバリバリの「エッセイ」派です。(笑)


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「技」と「力」と「気」と「心」 ?特記事項 

と、その前に、この分類を把握する上で必要と思われる特記事項について書いておきます。(より)


・「技」と「力」 ?日中比較

本来「力」と「技」はそれ自体独立して対比されるべきものかもしれませんが、ここでは省いてあります。
それはまず分類の軸である中国ものの世界では、「技」>>>>>(越えられない壁)>>「力」というのが自明の前提であることによります。どんな馬鹿力も正統的な技術を身につけた武芸者の前では、仇役以前の引き立て役状態です。

日本でも筋肉馬鹿が主役・重要な役を張り続けるというケースはレアで、そういう意味では普遍的なパターン/願望であるのでしょうが、それにしても中国ものではその描写が極端で、技と力、または玄人と素人の間には身分差別に近い深い溝が存在するように感じられます。

直観的にはこれは中国特有の「文明」至上主義、具体的には理屈っぽさ、理論信仰の反映のように思えます。つまり「技」「力」は、「文明」「文化」「野蛮」「自然」の対立図式に対応している。「中華」対「周辺諸国」というか。前者は常に後者より優れている。勝つ。
日本で言うところのいわゆる”柔よく剛を制す”的な技術論は、あくまで「技」=「文明」の枠内での相対比較の話、そこで初めて議論の俎上に上る。


・「力」と「気」「内功」

しかし中国もの/金庸の世界の中で、「力」的要素が(「技」の枠内で)大いに戦いの動向を決することもあって、それが「気」「内功」という概念と組み合わされた時。

「気」や「内功」自体が何かというのは、うるさく言わなければ『ドラゴンボール』で「気」と言われているあれと基本的に同じです。修行によって内側から出て来るある種のエネルギーであり、”増え”たり”大きく”なったりする量的な概念である。
違うのはただの休養や仙豆(笑)によって機械的に回復したりはせず、あくまで努力によって、”気を練る”という一種の瞑想により蚕が繭を紡ぐように(?)自分の中に溜め込まなくてはならない。だから数十年かかって溜めたものを一回の使用で消費してしまったりします。

そして大事なのはその「気」「内功」の力が、一種の擬似筋力として攻撃力や耐久力を決定的に左右することで、「内力」などとも言います。まあこれもドラゴンボールと同じですね。
ここにおいては逆に「力」が「技」の優位に立ち、技術が劣っているまたは全くなくても、内力で大きく優位に立っていればやられることはまずなく(裏技もありますが)、またいい加減な打撃やほとんど触るだけでも大きなダメージを与えることが出来ます。

摩訶不思議ではありますが、直感的にはむしろこっちの描写の方が自然な感じに見えると思います。技だけの非力な者が怪力を寄せ付けないという上の描写よりも。
ここらへんはまあ何というか、中国人なりの建て前(技)と本音(力)みたいなそんな感じ。


・「気」「念」と「心」

「気」というといかにも中国的ですが、もう少し現代的擬似科学的な概念として、「念」という語が日本ではよく使われます。先ので言えば『ハンター×ハンター』や菊地『妖魔』などがその代表。精神力または超自然力の物理的利用という意味で、この両者は(フィクション上では)基本的に同じものと捉えて差し支えないと思います。

問題はこれらと「心」、あるいは精神そのものとの関係で、「心」の力の反映という意味ではこれらの重視は精神面の重視になるわけですが、一方でそれを物質的比喩で使っているという意味では軽視、または現実への直接的適用の断念ともとれるわけです。
実際これらの境界的概念の使い方には、作家の力量及び世界に対する態度が如実に現れるので非常に興味深いところです。使うか使わないかということも含めて。

先取り的に言うと『ハンター×ハンター』の富樫義博の「念」概念の描き方、それにそうした境界概念を用いずに心や人間性を格闘描写の主役に、しかもあくまで技術論的体裁で描き切っている古龍、この二つは天才的な事例だと思います。


・・・・金庸・『笑傲江湖』のアンビバレンツ編につづく。


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「剣術」流と「気功」流 ?金庸『笑傲江湖』のアンビバレンツ 

特記事項

個別解説一番手は、「技」派の筆頭、金庸から。
ネタ本はしばしば最高傑作とも評される、1967年の『秘曲 笑傲江湖』。

秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律 秘曲 笑傲江湖〈第2巻〉幻の旋律
金 庸、岡崎 由美 他 (1998/05)
徳間書店

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作中で語られるプレ・ストーリーの中に、主人公令狐冲の属する剣術門派”華山派”にかつて存在し、骨肉の争いを生んだ「剣術」流と「気功」流の対立というものが出て来ます。

「二十五年前、わが派の武術には、の二つの流れがあった。」
(中略)
「華山派の武術の重点は、『気』にあるのだ。気功さえ会得すれば、拳法だろうと剣術だろうが、思いのままになる。これがわが派の修行の正道なのだ。ところが、一門の先達の中には、その重点が『剣』にあるとする支流があって、剣術さえものにすれば、内功が平凡でも、敵に打ち勝てると考えていた。正邪の区分は、まさにそこにある。」(2巻146?7)


ここで「気功」「内功」と言われているものが、少なくとも一面で「心」の比喩であるのは既に説明した通りです。

さて引用部分にあるように、作品の基本的な世界観は『気』≒「心」が主/正統であるとなっており、これ自体は特に最後まで否定されません。これだけだとまるで金庸は「心」派のようですが、物語はその後実に複雑で奇怪な深まり方をします。


1.主人公・令狐冲の奇剣士ぶり

この令狐冲という主人公は、颯爽とした気持ちの良い、聡明かつ愛嬌もたっぷりの好男子で、金庸の主人公の中でも屈指のバランスの取れたパーソナリティを持った人気者です。
しかし実は武術家としては逆にとてもバランスが悪く、通例通り腕を上げて無敵化はするものの、その成長過程はかなりいびつで、事実上剣術のみしか取り柄がなく、剣がないと他の武器を取っても素手の格闘でも役立たずに近いという異例の主人公です。

しかもその無敵性をもたらした剣術(独孤九剣)自体も決して正統的なものではなく、上で正道とされた土台としての気功の修練とはほとんど無関係に、ひたすら技術技術の”邪道”的なもの。
主人公に自派の正統性を侵す気はなく、また「土台としての気功の最終的有効性」という世界観そのものも決して否定されてはいないのですが、全てを忘却させる目くるめく純粋技術の快楽・スピード感に、主人公は半ば戸惑いながらも身を委ね、あれよあれよと最後まで勝ちまくります。

実はストーリーそのものが、そもそも「ヘキ邪剣譜」という伝説の究極技術教本をめぐって、武術界の有象無象のみならず上で「気功」流の正統性を熱弁している主人公の師匠までもが密かに狂奔するそういう皮肉に満ちた話なわけですが、そうした元々邪心や欲に駆られた人々の行動よりも、無欲で純真なままある意味心ならずも技術の権化として振る舞う主人公の姿に、純粋技術の抗い難い魅力が強烈な印象として残ります。

2.「気功」流という設定そのものの問題

「剣術」流と「気功」流の対置、及びそれをめぐる師匠の本音(剣術)と建て前(気功)という筋立てが、闘いにおける、ひいてはこの世における「心」の価値・位置のようなテーマをめぐって構成されていることは明らかでしょう。
しかし実際に読んでいて受ける印象としては、単に「剣術」という”技術”と「気功」という”技術”、2種類の技術の対立に過ぎないように見えるところがあったりします。「気功」は「剣術」との対比としてはそれらしく見えはしても、それ自体が「心」の比喩として十分には機能していないようにも思えます。

元々再び既に説明した通り、気/内功は「心」の比喩であると同時に物質化、非精神化でもあるので、これ自体はあり得る話です。問題はその理由または金庸の意図ですが。
後述する(&既に触れた)古龍の、心を格闘描写の中心的な要素として描き切った業績を称える立場などからすれば、要するに金庸は心については描いていない、「気功」でお茶を濁しているだけで描けていないという評価も一つあると思います。そもそもが感情描写、人間描写については平板だったり形式的だったりという傾向のある人ですし。

ただ同時にそれ以上の含意が汲み取れるところもこの『笑傲江湖』という複雑な作品にはあって、それは「剣術」流の生き残りの大師匠がとある行きがかりで主人公に施す剣術指導の内容。具体的には『型を突き詰めて型を無化する』的なそれ。

「すべて自然の成り行きに任せるのじゃ。限界にたどり着くまで行ない、限界にたどり着けば止めよ。」(2巻195)


これだけでは何のことだか分からないかも知れませんが、要するに「型」をやり切る(”限界”まで)ことによって「型」から解放され、その時全ては心のままになるというような状態について語られています。ここでは「気功」の仲立ちすらなしに、「技」「心」が矛盾なく働いています。

つまり金庸は「心」(のようなもの)を無視も軽視もしていないが、その前に「技」、物質性具体性を徹底的に展開する段階があると、そういう世界観で書いているのかなとそういう話です。あくまで予感的な書き方ではありますが。(いずれ本格的な作品論で再考予定)


とりあえずここで押えておいてもらいたいのは、金庸は「気功」≒「心」の正統性をわざわざ言挙げしているような作品においてすら、これ以上ないほど華々しく純粋技術を活躍させてしまう、技そのものの描写への独特なこだわりをもった「技」派の人であるという、そういうことです。
それが”限界”なのか性格なのか、はたまた全てを飲み込んだ上での哲学的こだわりなのかはここでは置きます。(またそうした金庸の格闘描写の特徴については、このシリーズの最後にまとめ的に。)

では続いて同じく”即物派”の夢枕獏について。


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