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頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ ?夢枕獏の格闘唯物論 

本朝無双格闘家列伝 本朝無双格闘家列伝
夢枕 獏 (1999/11)
新潮社

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何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて、死生(しにいくこと)を期(い)はずして、

頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ


「技」派の2番手夢枕獏の、エッセイ風格闘技原論集『本朝無双格闘家列伝』のマクラとして使われている、日本書紀中のかの”日本最初の相撲/格闘技試合”の当事者の一人「当麻蹴速」(たいまのけはや)の言葉です。(もう一人は野見宿禰)

”頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ”
この言葉の力強さはどうだろう。
蹴速の首の太さや、腕の力こぶ、胸の筋肉の厚みまでが見えてきそうである。(同上)



夢枕獏についてはもう一つ印象的な言葉があって、それはちょっと前の講談社イブニング掲載の『餓狼伝』(夢枕獏原作/板垣恵介作画)中のセリフ。単行本は持ってないので正確なところは覚えてませんが、そこでこんなことが語られていました。

「格闘技で精神修養が出来るなんて、馬鹿馬鹿しい考えだ」

公平の為に僕の読解も含めてより丁寧に言うと、こういうことだったかと

「どんなものでも”精神修養”の手段にはなり得るとしても、基本的にはどこまで行っても他人をぶちのめす技術・手段である『格闘技』が、あたかも”精神修養”に適したジャンルであるかのように語られているのはナンセンスもいいところだ。」


賛否はともかくとして、まことに痛快で明快な言明だと思いました。
格闘技は力だ技だ、モノたるカラダとモノたるカラダの純粋なぶつかりあいだ。
格闘技の物質性と精神性に関する夢枕獏の基本的な立場はこうです。


そんな夢枕獏による格闘描写。
『獅子の門 朱雀編』、とある寺の境内において、潜伏中の蟷螂拳の使い手竹智完に襲いかかる追跡者の古武道萩尾流、久我重明の図。(一部割愛)

右手を内側から久我重明の抜き手に引っかけて、その軌道を外にそらした。
その時にはもう、久我重明の右肘が、顔面に向かって迫ってくるところであった。
頭を沈めて、それをかわす。
足。
拳。
肘。
足。
拳。
拳。
膝。
拳。
至近距離で、目まぐるしい打撃の攻防がやりとりされた。
三秒。
濃密な三秒だった。
どういう隙間も存在しない、固形物のような三秒。


シンプルではありますが安易に象徴化に逃げない、「描写」そのものへの情熱、意志を感じさせる、また肉とモノとカラダと、技と力と、ぶつかり合う一つ一つがビシビシと伝わって来るそういう描写だと思います。足。拳。肘。・・・・のところを音読していると、文字通り「息」が「詰ま」ります。

断わっておきますと”物質””唯物”とは言っても、一方で夢枕獏は非常に精神主義的というか求道的というかそういうところもあって、決して単なる合理主義者でも現実の平面的な描写で事足れりとするそういう作家でも全くありません。言わずもがなですが。むしろ目に見える現実の向こうを描く為に、アプローチとしてまず物質性を徹底的に捉まえるというそういうタイプかと。

格闘描写について言えば情け容赦のない即物性によるシンプルな描写は、逆説的に「人間力」を問うようなそういう面もあります。時に技が本当に技としてのみ存在して、軽佻浮薄にすら見える(笑)金庸との差もそこに求められるでしょう。
ただその「人間力」は単なる”物”に対置される一要素としての”心”などではない、そういうあたかも物質性から逃れる術があるかのように錯覚させる甘っちろいものではない。


次はある種の中間派、独特の”科学的”アプローチで「技」と「心」をバランスよく扱う富樫『ハンター×ハンター』を。


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大分?浦和戦 

J1第4節 大分 △2?2△ 浦和(九州石油ドーム)

レッズはナビスコがないのでのんびり失礼。


・人気者のお坊ちゃま転校生(アベちゃん)のせっかくの名刺代わりの2発を勝利に結び付けられなかったという、大変遺憾な結果ではありましたが。
・しかし個人的には今季一番落ち着いて見られた試合でありました。
見えたぞ、ボトムが、等身大が。オジェックレッズの。多分。
・要するに自意識過剰だったんですね。オジェックも、我々ファンも。
・常に特別な何かが起きるわけでも起こせるわけでもない。
・オジェック新監督はブッフバルトの次の監督、第ウン代浦和レッズの監督である。それだけ。誰かが座らなければいけない地位に、たまたま今回ついた人。
・まあ元々個人的に期待感が無いということは最初から言ってましたが、ただそれは「期待感があるべきだ」という前提、強迫観念の元で言っていたわけで。
・ともかくオジェックは普通の手腕を持った普通の監督で、彼自身が何か特別なことをするわけでも考えているわけでもないと思います。今後も。(しくじって崩壊ということはあっても)
・やや反町五輪代表監督的な評価の落ち着き方。

・具体的に言うと「攻撃的」云々というのは新監督が誰でも掲げる意気込み、所信表明の類という以上のものではなくて、あえて言えば某早野氏の”スクランブルアタック”とやらとも本質的な違いはない。まさか何もしませんとは言えないですからね。(笑)
・嘘ではないとしても特別なプランや目算があるわけではない。
・それはまた言い換えれば、オジェックの’06レッズに対する認識が、「手堅くて抜け目ないけどそれだけで、チャンピオンチームとしては物足りない」という世評と大差ないのだろうということでもあります。
・既に”守備的な”チームならば、それをより攻撃的にするのは当然だしさほど特別な事業ではないという、そんな感じ。
・右のものを左に動かすだけで、特別なものに特別なものをぶつけるわけではない。
ここでやった”攻撃的チーム化施策”の分類で言えば、『一から作る』のではなくて『編成』の方だということになりますが、どうもあまりうまい分類ではない。
・特に「”レッズはリアクションだ”という世評を100%受け入れたならば作り変えだということになりますが」のところは妥当性が低い。そうとは限らんだろう。
・あれはむしろオフトや西野(や李国秀)のような”特別な”ケースとそれ以外を大別するという、そういう大雑把なものと考えていただくと。

・困った時の石塚さんの分類を使うと、『リフォーム』『模様替え』の間くらいかなあ。
・『模様替え』は既に「攻撃的」なチームを、新メンバーや前年の経験を踏まえて少し違った形の同じく「攻撃的」なチームにするというそんな感じか。
・『リフォーム』は「守備的」な性格の強いチームを、根本は変えずに「攻撃的な」使用にも耐え得るように手を入れるというそんなことろ。
・オジェックの目論見としては『リフォーム』寄りなんでしょうが、その為のノウハウを実は自分が思うほど持っていないのと、同時にパッと見の見立てほど元々実は「守備的な」構造物ではないので、作業の必要性としては『模様替え』の範疇に近いと言う。
・....まあ何て言うんでしょうねえ、古代文明の真価を知らずにその力に陰で助けられながら、遺跡の見えるところだけ自分の好みに作り変えて住み易くなったと悦に入っている新住人的な。
・字面ほど悪意は無いんですけど皮肉な物言いでどうもすいません。

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朝生日中 

どうも放置気味で申し訳ありません。
どうやら仕事がヤマを越えたので、来週からエンジンかけ直します。
とりあえずようやく見終わった先週の朝生日中同時放送の雑感。


・中国人の議論は(クソ)丁寧

過去に散発的に朝生に出ていた中国人パネラーの発言が回りくどい/まだるっこしく感じたのは、てっきり党の意向でも気にしてるせいなのかなと思ってましたが、こうしてまとめて見るとどうやら全体的傾向、中国的知識人の癖のようで。
形から入って手続きを踏んで、しかるのちに核心的議論が開陳される、またはついに開陳されなかったりする。(笑)

「言いたいこと」や「インパクト」という”核心”と同じかそれ以上に、議論の体裁や形式がきちんとしていることが大切。
多分中国人どうしならそういうやり方の中でちゃんと応酬が成立するんでしょうが(実際本質的には日本より遥かにディスカッション大国ですし)、どうもなんかルールの整備されていない異種格闘技みたいでかみ合わないところがありましたね。かなり注意深く顔色を窺っていないと、言葉だけでは本意がどこにあるのかよく分からないことが多かったです。

ちなみに中国側の進行役として出ていた”黄海波(フェニックスTVキャスター)”の番組は、僕はBS1でちょいちょい見ていて、ある論題について賛・否それぞれ一人+中立+キャスターくらいの小規模でじっくりやるんですが、それはそれでかなり面白いし、行儀のいいまま(笑)ちゃんと激するんですよね。視聴者からの意見は明らかに日本のよりレベル高いですし。逆に朝生はもっと人数少ない方がいいんじゃないかと思ったくらい。


・「専門家の方」という言い方

その行儀の良さ、形式性は、パネラー以外の一般人も基本的に同じなわけですが、その中で特に面白かったのは「専門家の方」という言い方、及びそれへの敬意が再三語られていたこと。『田原さんは”専門家の方”が喋っているのをどうして遮るんですか?』という感じで。”批判”という以前に”驚き”というニュアンスが強かったと思いますが。

「専門家」という概念が非常に強固に生きているということ。及びそれへ最大限の敬意を示すことが習慣付けられていることを強く感じました。
上に書いたように一般人の言語的民度、それこそ「専門性」は日本より中国の方が平均して高いと思いますし、自己主張もはっきりしているでしょうが、それはそれとして権威や正統性への習慣的な従順さをやはりかなり(まだ)中国人は強く持っている。


・「素朴」と「率直」 ?”知”の主観的側面について

かなり感覚的な話なんですが。更に。
客席の日本の東大生が北京の大学生に、「今回の議論を聞いていて素朴に驚いたことや面白いと思ったことを、率直に言って下さい」みたいな質問(かなり意訳)を投げかけた時の反応が面白かったですね。一言で言うとポカーーーンという感じで。
沈黙の後促されて返って来た答えも、結局とんちんかんなもので。

思うにはっきりした、系統だった『意見』や『立場』や『問題』を言語化することには慣れていても、直観や主観を議論の場で開陳する、れっきとした”知”の問題として位置付けるという習慣を中国人は持っていないんだろうと思います。その種の偏差を抽出する訓練が出来ていないというか。常に大きな公式的枠組みを使ってしか話が出来ない

これは勿論、今まで述べて来た”丁寧さ”や”形式性””権威主義”の問題と直接関係するでしょう。頭が悪いわけではないんだけど死角や盲点が沢山ある、構造的に柔軟性が欠けている。議論の文体が限定されている。
逆に日本人は便宜的に自分の立場を公式化することが下手、臆病な気もしますが。

まあこれは「文化差」よりもやはり近代化・西洋化してからの時間の差、個人主義的な思考への慣れの差という気がします。例え資質的に客観主義的な人でも、主観主義的な”知”(それこそ僕のような・笑)に日々触れていれば、自分の中のそういう領域を意識することは自然と出来るようになるでしょうからね。


なんつうかまだ、部分的に中世を生きているような印象はありますねやっぱり。
金庸の作品なんかもそれと近・現代との接触面で書かれているような感じがします。頭は近代、体は中世というか。そこらへんの錯綜を読んでいくのが面白い。


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浦和?磐田 

こんな勝ち方って・・・・

J1第5節 浦和 ○2?1● 磐田(埼玉スタジアム)

まあありはありなんですけど。
勝ち切れない、決め切れない方にはそれなりの理由がある。
今年のヴェルディの対戦相手たちを見ても。
決勝点、ほとんど”ハメ技”であるポンテのあれ(スペシウム光線?)を出させる前に決められなかった磐田が悪い。


発熱でほとんど印象が流されてしまったので、記憶を頼りに雑感のみ。

・ますます緑のユニフォームが似合いそうな底抜けの緩さ。
・失点シーンの2回の左サイドへの襲撃場面に、2回とも長谷部のみが対応していたのはびっくりしました。
・「左サイドバック」のはずの阿部はその時どこにいた?
・テレビ観戦術(笑)には自信のある僕にも、全く所在が掴めませんでした。
ヴェルディの”緩さ”はポリシーの内と一応言えなくもないわけですけど、レッズの場合は・・・・。

・ヴェルディの方がマシと言えば、こちらは監督を替えれば誰だろうとまず確実に今よりはマシなチームになる希望がありますし、そういう予定もなくはないわけですが。
・レッズの場合は誰に替わってもどのみちギドの遺産との戦いは続くので、よっぽどいいのを引かないと。
・またそう簡単にオジェックは替えられないでしょうし。
・ならばいっそ、徹底的に壊して遺産も一緒に潰してもらった方が、とか。

・でも僕は見たいですよ、結構。レッズ版’07型ヴェルディ川崎(?)を。
・真にラモスが作りたいようなチームが作れるとしたら、むしろこっちのメンバーだろうと思いますし。
・上手くて我が強くて、闘気マンマンで。なかなかこんなの集まらない。
・ポンテ凄いよポンテ。
・色々凄いですが、実はアジリティが凄い。
・コマネズミのようなダッシュ力と、その使い所を見極める確かな目と勘と。
・それからほとんど100%の自信でミドルをビシビシかます日本一のトップ下山田さんには、やはり何としても前目のポジションでやってもらいたい。
・サイドバックなんかに置いておくのはJリーグの損失です。
・相馬かネネが復帰すれば、阿部を右へ回してそれで解決でしょう。
・”和製ベッカム”には晴れて右クロスの上げ手にでもなってもらってと。

・ワシントンはコンディションそのものは別に悪くないように見えるんですけどね。
・チームが迷走する時に輪をかけて迷走するのは仕様なので、気にしても仕方がない。
・長谷部の闘争心は有意義に使ってあげたいですねえ。穴塞ぎに奔走してるのを見ると、年取ってからの北澤を見るような胸の痛みが。


・・・・なんてことを思ってたはず。既に実感が薄くなってるんですが。
ACLはBS1でダイジェスト版をやってくれるんですね。しばらくは見守るしか。


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「念」と”ゲーム” ?『ハンター×ハンター』の「念」理論(1) 

格闘描写の「技」と「心」、その3。富樫義博編。


出世作『幽遊白書』(’90?’94)においては、当初はバトルものの予定ではなかったこともあってか、”霊気”が”レイガン”や”霊剣”になる式の基本的には素朴な、ドラゴンボールと同レベルのありがちな描写で通していた(それでも名作だとは思いますが)富樫義博ですが、準備万端放ったのだろうこの『ハンター×ハンター』(’98?)
ハンター×ハンター
HUNTER×HUNTER [少年向け:コミックセット] / 富樫義博

では、同種の概念「念」をめぐってのちょっと他に類を見ないような精緻な体系性を持った理論を引っさげて登場して来て、正直度肝を抜かれました。

作中のいくつかの描写を見ると、作者が何らか古武術の類を研究した形跡(”水見式”とか、15巻”流々舞”とか)はすぐに見て取れると思うんですが、しかしそういうことよりも何よりもこのある意味必要以上とも言える徹底した体系性を支えているのは、いわゆる”ゲーム”の「戦闘システム」の発想なのだと思います。


『ハンター×ハンター』とゲーム

と、偉そうに言ってはいますが(笑)僕が単行本一気読みの過程でそのことに気がついたのはかなり遅くて、そのものズバリ”ゲーム”の世界である、13巻後半以降の「グリード・アイランド」編になってから。それまでは背景が分からなくて、ただただ富樫義博の天才性に震撼して、自分の理解力に自信をなくしてショボくれていました。(笑)
敏感な人ならかなり早い時期からこの作品の根底に”ゲーム”の発想があるのは分かっていたと思うんですが、僕はちょっとゲーム音痴に近い人なのでどうにも。

ここで”ゲーム”と言っているのは代表的には勿論コンピュータ・ゲームですが、グリード・アイランド編で全面展開されているようなカードゲームから何から、作者が筋金入りのゲーム好きで、子供の頃からカードゲームを自作したり今でも暇があると理想のゲーム・システムの構想を当てもなく考えたりしているということが単行本の随所で語られています。

その作者のゲーム愛の性格には勿論ヴァーチャルや空想の別世界で遊ぶ子供らしいそれも勿論あるわけですが、それ以上に目を引くのはゲームの細々としたルール、設定そのものを考えることに対する情熱・喜び、それによって論理的で包括性の高い体系/ゲーム世界を作り出すことへの興味です。
グリード・アイランド編を見てもよくぞここまでという細かさで、実際あれをちゃんと見たり覚えたりしようという人はどれくらいいるんでしょうか。(笑)

作者が意識しているかは知りませんが、その論理的な情熱は哲学者を越えてほとんど数学者的なレベルの、そういうタイプの知性のように思えます。

それ以前のパートにおいても例えばハンター試験のルールにこめられた様々な3すくみ的なジレンマ設定、クラピカのジャッジメントチェーンに代表される念能力の”縛り”と”効力”の関係、勿論随所に散りばめられたミニ・ゲームっぽいシーンなど、『ハンター×ハンター』の”ゲーム漫画”性を示す要素はいくらでも探せます。


「念」理論と”ゲーム”の「戦闘システム」

本題の「念」理論ですが、あれを「念」そのものについての作者の考え、そこから直接に出て来る理論体系だと思ってしまうと、一体この人は何者なのかと僕のように悩む羽目になるのでやめておいた方がいいです。(笑)

そうではないんですね。あれは新作ゲームの戦闘システムの考案を任されたプログラマーが、前作のシステムやゲーム全体のデザインや長さ、予算など、様々なものを考慮に入れながら、プレイヤーが適度に苦労しつつ楽しめるようこしらえた/でっちあげたシステム、そういう性格のものなんですね。
だから同じく「念」という概念を使っても、違うゲーム/作品なら全く違う理論になり得るでしょう。例えば『FF』という続き物のシリーズの同じく”アビリティ”や”魔法”であっても、ナンバーによってかなり違った理論付けがされているように。

言うなれば「念」”についての”ではなくて「念」”をめぐっての”理論、掘り下げるのではなく取り囲む、意味や真実性ではなくて体系性そのもの、作り話の広がりと辻褄を焦点とする理論なわけです。

・・・・余談ですが案外本物の科学理論の、特に社会的認知にはそういう面も大きくて、必ずしも「実証」や「論証」そのものではなくて(どのみち一般人には分かりませんし)体系の包括性、説明としての魅力がより大きな役割を果たしたりします。”精神分析”なんかはその代表でしょうけど。科学も物語である、ところがある。

実際には『ハンター×ハンター』の作中で語られている「念」理論には、少なからず作者の本気の予感が含まれていることと思いますが、当面それは主題的に語られているわけではない。


(2)につづく


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「念」(ネン)と「燃」(ネン) ?『ハンター×ハンター』の「念」理論(2) 

(1)「念」と”ゲーム”編より。


ではそのゲーム的発想を下敷きにした『ハンター×ハンター』の「念」理論が具体的にどうなっているか、(本題である)”技”と”心”についてのどのような思想で出来上がっているかですが、周到に作り上げられた一つ一つを取り上げていてもキリがないので、最も原理論である『四大行』の構成に表れているそれで代表してみたいと思います。

・・・・実際にはどれがというより体系性そのもの、体系全体が正にその表現だと思うので、まだ読んでなくて興味がある人は是非自分で読んでみて欲しいです。色々含めて決して損することのない傑作だと保証します。(笑)


『四大行』とは

その前にまず「念」とは何かですが、初出の6巻の説明によると、「体からあふれ出すオーラと呼ばれる生命エネルギーを自在に操る能力のこと」とあります。
まあこれ自体は予想の範囲の、至ってありがちな設定ですね。魔法は魔法、アビリティはアビリティ、問題はその後というわけです。

その念の最も基本的な修行には、以下の四つの局面があります。(『四大行』)

纏(テン) ・・・・ランダムに拡散しているオーラを体の周りに留める、身に纏うこと。

絶(ゼツ) ・・・・オーラの放出を完全に絶つこと。

練(レン) ・・・・オーラを練って高める/増大させること。

発(ハツ) ・・・・オーラを発すること、操ること。


とりあえずこれはこういうものとしておいて下さい。


もう一つの『四大行』

ところがストーリー中この”「念」の『四大行』”の前に、発音は同じですが内容は違う、「燃」(ネン)の同じく『四大行』というものが主人公たちに示されます。具体的には

点(テン) ・・・・心を一つに集中し、自己を見つめ目標を定める。

舌(ゼツ) ・・・・その想いを言葉にする。

練(レン) ・・・・その意志を高める。

発(ハツ) ・・・・それを行動に移す。


の四つです。「燃」自体は「心を燃やすこと」「意志の強さ」と説明されます。

さてこの「燃」は何かと言うと、「念」の修行の為の下ごしらえであり、また危険な武器ともなる実際的な力を持つ「念」を、修行の心構えや準備の出来ていない門外漢から隠す為の表皮でもあります。言わば”表”の「燃」に対する”裏”の「念」、日常的な力と非日常的な力のような関係にあります。


二つの『四大行』の関係

ここで僕が面白いなと思ったのは、二つの四大行の前半は違っても、後半は共通していることです。
パッと見では念理論の他の部分の趣味的とも言える緻密さ(血液型よろしく性格類型まで作っている)からすると、いささか不徹底な印象は受けますし、表と裏の言い換え、語呂合わせという面からしても、最後までやってくんないかなと多少気持ちが悪く思います。(笑)

ただこれにはこういう意味があるんじゃないかと僕は思っています。
つまり「燃」と「念」は違う概念であり、違う力である。日常的な次元のそれと、非日常的なそれと。だから基礎的定義的な部分では当然違いが出る。
しかしより応用的運用的な段階に来ると、あらゆる力に必要な要領、または表れる局面は結局同じものになる。・・・・というような。

ちょっとこじつけくさいですかね(笑)。要は面倒だったという可能性はありますし、ストーリー上この「燃」は、主に主人公たちをいったん丸め込んで「念」から遠ざける為に登場している概念なので、本当のことを教えることにしたある段階からは特にそれ以上設定を突き詰める必要がなかったという事情はあるかなと思います。(だから前半だけ言い換えた)
ただ一方で作者の凝り性から、単に放置するともとても思えないので、何らか上の僕の”説”的な呑み込みの仕方はしてるんじゃないかとも強く思います。



(まとめ)

そこまではっきりした呑み込み方はしていなくても、「念」という飛び道具的な概念に”技”以前のこうした整然とした基礎理論を与えていること、そして程度はともかくそれが「意志」(燃・ネン)という、形こそないもののそれ自体は日常的に使われる概念と同型の構造を持っていること、こうした描き方には富樫/ハンター一流の独特のニュートラルな姿勢が表れていると思います。

つまり「念」だの「気」だの「オーラ」だのが登場する格闘系ストーリーの場合、往々にしてある段階から先はそれらの万能性に頼り切って説明もクソもない”必殺技”の粗製濫造に終始する傾向がありますが(後付け的に参照)、富樫ハンターの場合はむしろそれまでにも増して理論性が前面に出て来る。

そういう意味では他との比較ではほとんど科学主義・技術主義的とも言える態度で、大別すれば”技”派かなとも思いますが、一方ではその技術主義は決して”心”/超自然の軽視という方向には向かっていない。むしろ冷徹に粘り強く日常的な知性との接点を探り続ける態度は、どこまで本気かは知りませんが(笑)逆にそうしたあやふやorあやしげなものの実在感を増すことになっていると思います。

・・・・(1)でもちらっと言いましたが、なんか割合まとまった古武術理論の下敷きがあるような気もするんですけどね、どうなんでしょう。


次は同様に「念」と”古武術”の香りを用いながら、違ったニュアンスで格闘ストーリーを作る菊地秀行『妖魔』シリーズを。


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工藤流「念」法 ?菊地秀行『妖魔』シリーズ 

格闘描写の「技」と「心」その4。


かなり”引き”で見ないとそろそろ何の話だか分からなくなりつつありますが(笑)、頑張って最後までやってしまいます。
企画としてはちょっと無謀でしたね。大人しく金庸と古龍の直接比較に絞っておけば。
ただ最初の表自体は割りと気に入っていて、要するにある程度普遍性のある問題だと、その感覚を味わってもらいたかったというそういうことですが。例示として適切だったかはともかく。


工藤流念法とは

菊地秀行の『妖魔』シリーズの主人公、工藤明彦が操る家伝の武術で、物理攻撃をパワーアップし、異界の生物”妖魔”への有力な対抗手段でもある。「念」自体に特定の形はないが、たいていは長年その念を染み込ませた愛用の木刀”阿修羅”を通じて放たれる。
「念」とは何か・・・・は、『ハンター×ハンター』(など)のそれと大同小異なので省略。

数多あるそのテの概念の中でこの「工藤流」で特徴的だなと感じるのは、殊更”飛び道具”や”特殊技”であるというよりは、「工藤流」という古武術の総合的な体系の中に自然当然なものとして含まれているというそういう感覚。
あくまでフィクションではありますが、あたかも古武術全般には元々そういう要素が含まれていて当然であるような、そんな風景も透けて見えます。

で、ある意味それは実際にそうであるのだろうと思って、つまり古の武道家がみんな”念能力者”だったとかそんなことはないと思いますが(笑)、本稿のそもそものテーマである「技」「心」、こうした要素が分離されることなく、どちらがどちらとも言い難い状態で理論化/体系化されている、そうしたことはあるのではないかと思います。
いわゆる現代スポーツにおける、とみに批判の多い”精神論”というのは、分離した後の断片化した一要素としての「心」を強調する立場なわけですね。

・・・・一方で最近では甲野善紀さんによる、伝説の彼方に消えつつあった古武術の「技」たる物理的な部分をあえて特定的に再現した仕事(Wikiなど)が話題になりましたが、まああれはあれで。尊敬しています。

ちなみに『妖魔』シリーズでは、正に”分離”後の現象である科学の恩恵を受けた、ズバリ「超能力者」が登場して工藤流の「念」と戦う場面などもあって、そのニュアンスの違いが面白いです。


工藤流「念」法と『ハンター×ハンター』の「念」

『妖魔』/工藤流においては、『ハンター×ハンター』のような周到な基礎理論は用意されていません。「念」は「念」として固定されて、後は強いか弱いか、木刀に乗せて使うか他の方法を使うか、あるいは直接「念」じて注ぎ込むかというそういう描写があるだけ。万能化・ご都合主義というよくあるパターンに陥っている部分もないとは言えないですし。
そういう意味では平凡かもしれませんが、実際はどちらかというと『ハンター×ハンター』が非凡過ぎるのだと言うべきだと思います。

ただメインである愛刀”阿修羅”を用いた格闘描写はなかなか本格的かつ機知に富んでいて、「念」抜きで普通に優れた現代の剣豪小説として読むことも可能だと思います。
そしてその剣術/武術についてのディテールの豊かさが、結果的に「念」の威力の身も蓋もなさ、説明不足を補って、一定のリアリティを与えることに成功しているとそういうことは言えるのではないかと思います。「剣」の理≒「念」の理、という感じで。

とはいえ「念」が「念」として特権化されていること、それが物理法則には従わないかあるいは確たる法則性を持たないようにも見えてしまう神秘主義、または単に無頓着さ(笑)は、『ハンター×ハンター』の(擬似)”科学性”と比べると僕の分類では「心」派寄りに分類せざるを得ないと、そんな感じです。

・・・・印象としてはこれで結構”科学的”なんですけどね。ただ言語的にこれという説明はちょっと取り出し難い。ここらへんはあえて言語化するモチベーションの大きな源であるだろう、『ハンター×ハンター』の”ゲーム”の戦闘システム性というものの特殊事情が際立つ感じのところだと思いますが。


次は身も蓋もない代表(笑)の『ドラゴンボール』&”気”を。


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「超能力」&「必殺技」と「精神論」 ?特記事項の2 

参考、特記事項の1

ちょっと小休止。
我ながらどうにも分かり難いところがあるので、もう一回概念の整理をしてみます。


前提1:「技術論」と「精神論」

”格闘描写の「技」と「心」”ということで始まったこの企画。
基本的には『「技術」に傾斜した”過程”の逐次的描写に重きを置くスタイル』と、『「精神」に傾斜した”結果”の事後的意味付けに重きを置いたスタイル』のコントラスト(または分布)を示すことを目的としています。
こうこうこうだから勝ったのか、勝つべき人物だから勝ったのか。

前提2:「気」や「念」と「精神論」

「気」や「念」に代表される、格闘もののにつきものの”超”能力的ターム。
それらは確かに「技」の一つではあるわけですが、一面では通常の「技」という次元を越えるものであり、しばしば形勢逆転の道具立てとして用いられる。
そしてそれらの力の根拠としては、用いるものの「心」、精神力が当てられることが非常に多い。だからそうした”超”能力は、話を派出にする飛び道具であると同時に、強弱や勝負の行方に精神性を反映させたいという書き手や読み手の願望実現の手段でもある。


・・・・ここから本題、または新規トピックス。

前提3:「超能力」と「必殺技」

そうした”超”能力とは別に、いわゆる「必殺技」の類も格闘ストーリーにはつきものである。
それらは歴史的由来や科学的根拠が示される場合もあるが、多くは、または展開が進むにつれてエスカレートし、たいていは説明放棄のご都合主義に帰着することが多い。
どちらかというと「必殺技」のくくりの中に「超能力」もあると、そういう分類が妥当な場合が多いように思いますが、ともかく両者は似たような性格を持っている。

前提4?1:「必殺”技”」と「技術論」

当然「必殺技」も「超能力」同様、形勢の逆転に用いられることが多いわけですが、特に”説明放棄”の段階に至った必殺技は、”技”とは言うものの実際にはむしろ通常の「技術論」的文脈の破壊・逸脱であることが多い。

前提4?2:「必殺”技”」と「精神論」

また、でもあるし、だから、でもあるわけですが、「気」や「念」ほどではないにせよ、「必殺技」の類も直接間接に、使い手の「精神」を拠り所・理由付けにしている場合が多い。
あるいは”頑張ればどんな(荒唐無稽な)技も可能だ”という意味で、根底に精神論的願望があるとも言える。


結論。

前提5:「超能力」&「必殺技」と「精神論」

というわけでケースバイケースではありますが、「超能力」も「必殺技」も、共にある種の「精神論」的願望/世界観の、格闘描写における道具立ての一つとして、同一視することが可能である。


・・・・まあ一つの整理の仕方なので賛成反対は別にいいんですが、ともかくこういう枠組で語っていますよとそういうことです。
つまり『ハンター×ハンター』『ドラゴンボール』という名前を挙げた時に、いわゆる”少年漫画/ジャンプ的”な「必殺技」至上主義的格闘描写のことを思わないのは不可能だと思うので、”「気」や「念」の話”という以上の整理がちょっと必要かなと思いまして。

では今度こそ『ドラゴンボール』編。(笑)


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格闘漫画としての『ドラゴンボール』 

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格闘描写の「技」と「心」、その5。

そもそも「格闘漫画」なのかという疑問はともかくとして。(笑)
以下、限りなく単なるドラゴンボール語り。


初代ピッコロ戦・舞空術・スペック

個人的には、『ドラゴンボール』が格闘漫画として本当に面白かった、または実体があったのは、だいたい初代ピッコロ大魔王戦あたりまでかなあと思っています。
勿論その後も楽しく見てはいましたが(アニメメイン派)、それは主にキャラの魅力やお約束への愛着によるもので、戦闘そのものはどんどん抽象的&大味になっていって、一時の緊張感は失われて行ったように感じました。

・舞空術という”飛躍”

その原因またはきっかけとして、まず挙げたいのは「舞空術」の習得&汎用化です。こちらで確認したところ、時期としては2代目ピッコロ(マジュニア)戦あたりということですが、ともかく初代ピッコロ戦は”舞空術以前”最大最後の戦いと位置付けられるわけですね。

舞空術以前においても、ジャンプ力の描写とかは既に人の域を越えていて、空でも飛びそうな勢いの大げささではあったけれど、実際には飛べなかったわけです。それを如意棒の伸縮やカメハメ波の発射反動などでいちいち補うその苦労、その中に創意工夫があり、機知があり戦略性があり、一見お気楽な法螺話の中にも「格闘漫画」としての一定のリアリティがキープされていた。

だからこそ初代ピッコロ戦のクライマックス、カメハメ波の発射反動を利用しての悟空の体当たりパンチによって腹に大穴を空けられ、ついに無敵を誇ったピッコロ大魔王が倒れる描写にも、実にリアルな衝撃力と凝縮された万感の想いが感じられたのだと、そのように思うのですが。
作者自身もそれ以前に随所で(舞空術以前のほぼ唯一の飛行ツールである)筋斗雲を使えなくする設定を登場させて、そうした”縛り”を意識していたフシはありますよね。

「舞空術」そのものは恐らく数あるニューアイデアの一つとして導入されたものに過ぎないんだろうと思いますが、結果的に”格闘家”の世界を”スーパーマン”の世界に変質させる、タガを外す一歩になっ(てしまっ)た面は大きいと思います。
『大げさ』が『荒唐無稽』に”飛躍”してしまった瞬間と言うか。筋斗雲の立場はどうなるという哀しみも含めて。(笑)

・スペックの限界性の問題 ?マジュニア、界王拳、そしてスーパーサイヤ人

初代ピッコロがあれほど恐ろしかった理由は、やはり「魔族」という異種性、それによるスペック/基本性能の違いというのが、当時まだリアルにショッキングであったからだと思います。そりゃ悟空には尻尾が生えてましたし、天津飯には目が3つありましたが(笑)、それでもそれまでは結局は「人類」の範疇の戦い、(通常の意味の)天分と修行の成果の比べ合いのレベルの話であったわけです。(そして勿論戦略と)

・・・・確かに悟空の「大猿」という特例はありましたが、あの制御不能性、別モノ性は、逆に通常モードでのスペックの限界を示す縛りであったとも言えるわけで。

それがピッコロ大魔王戦後からは徐々に崩れて行きます。(年表
印象としてはまずは2代目ピッコロ”マジュニア”の扱い。確かに強いことは強いんですが、お行儀良くも天下一武闘会になんて出て来て悟空たちと”好勝負”を繰り広げて、「魔族」の威光はどこへやら、単なる”肌が緑色のちょっと変わった人”というそんな存在感。(笑)
後の”改心”なんかそれに比べたら大したことではないような気がします。

そして勿論、続くサイヤ人&フリーザとの戦いの中で登場した「界王拳」や「スーパーサイヤ人」というズバリ”スペック拡張技”。
地球を飛び越えて宇宙人たちとの新たな次元の戦いのムードを醸し出す上で抜群の効果をあげたとは思いますが、結果的にその後の次々現れる強敵たちとの戦いの実相を、要するに半ば機械的なスペック拡張競争(”スカウター”なんてのもありました)、後出し的強さの無限インフレに単純化するそうした禁断の一歩でもあったと、これはまあ多くの人が思うところでしょう。

「格闘漫画」としての『ドラゴンボール』の命脈は、事実上これによって尽きてしまった。


(補足)『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』

やはり書いておきましょうか”そもそも『ドラゴンボール』は「格闘漫画」なのか”問題。
つまりその前の出世作『Dr.スランプ』における主人公アラレちゃん、そのギャグ漫画らしい身も蓋もない、リアリティも脈絡もクソもない”最強”さ、その”力”が振るわれる瞬間の不条理な快感、あれを拡張したものが要するに『ドラゴンボール』なのではないかということ。

言い換えると鳥山明先生の本領は”戦い”を描くことではなくて”強さ”の表現なのではないか、そういう意味ではフリーザ、セル、ブウといった敵キャラの造形の恐ろしいまでのキャッチーさも含めて、「格闘」としての実体は失われても毎度馬鹿馬鹿しくもワクワクさせられるキャラたちの(スペック主義的な)”強さ”の表現は申し分なく成功していると、そういう風にも見ることが出来るわけで。

まあ要するに初代ピッコロ戦あたりまでの『ドラゴンボール』の「格闘漫画」としての例外的な充実を懐かしくも惜しむと、そういうことにしてもいいですが。


・・・・しまった、本題に入れなかった。(笑)


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格闘漫画としての『ドラゴンボール』(つづき) 

気円斬

前回
本題、ですがさほど気乗りしない(笑)。「技」か「心」か


通常戦闘について

前回述べたように時期によってニュアンスは違いますが、しょせんアラレちゃんの豪腕一振りとさして変わらない次元で展開される(笑)ドラゴンボールの「格闘」に、”技”というほどのものは本来存在しません。
要するに「速いか」「強いか」(「つおい」と表記した方が正確かも・笑)の見せっこであって、そしてそれを決定付けるのは問答無用のスペックの差。

そのスペックが際限もなく後出し的に拡張していって単調になったという話を前回したわけですが、おかげでなんかある時期からどんどんパンチやらキックやらの一発一発の意味が抽象化していって、何やら神話の神々の戦いの話のような、ゼウスのいかずちかトールのハンマーか、はたまた下野(しもつけ)二荒山神が上野(こうずけ)赤城山神に放った矢かてなもんで、通常の意味での”技”としての特性などはどっかに飛んで行ってしまいます。

見かけはえげつなくてある意味即物的な描写ではあるんですが、実質的には超常スペックを背景とした超常戦闘、通常戦闘に見せかけた”必殺技”合戦に近い、そういう性格のものだと思います。


”必殺技”について

一方でドラゴンボールにはカメハメ波を筆頭とする、そのものズバリの”必殺技”も多数登場しますが、実はさほど印象に残っていないというか、決定的な要因ではないというところがあります。技自体が本当に”必殺”なのは、それを出すか出さないかが展開を決定的に左右するのはかの「元気玉」くらいなもので、後は生命の危険と引き換えにともかく足止めは出来る天津飯「気功砲」や、実力差があってもとりあえず”斬る”ことは出来る(これについてはむしろ世界観が壊れて気持ちが悪いように僕は思うんですが)クリリン「気円斬」とかが目立ったところ。
「太陽拳」とか「魔封波」とか、特殊技はまあ別格で。

他にも色々ありますが、なんかどうでもいいというか扱いが雑というか、なんだよ魔閃光って突然とか、ビッグバンアタックって名前がダサいから使わない方がいいと思うよベジータとか、そんな感じ。
ただだから駄目とかそういう話ではなくて、むしろこれは『ドラゴンボール』の特徴、仕様と、そう言った方がいいんでしょうね。”ジャンプ系バトル漫画”の代名詞的存在ではありますが、ドラゴンボールそのものは必ずしも”必殺技”に全てを収斂させる単純な構造にはなっていない。『リングにかけろ』のようには、『キャプテン翼』(バトル漫画でしょ?これ)のようには。

・・・・ていうかむしろ後年になると”必殺技”使用時の方が運用や戦略の妙が際立つというか逆にリアリティがあるというか、そんな気もするんですが。最初から抽象的、一種の「記号」であるのがはっきりしているのがいいのかなと。


「気」とか、「心」とか

ここらでまとめに入ります。
「カメハメ波」「元気玉」以下、ほぼ全てのドラゴンボールの”必殺技”の元となっているお馴染み「気」については、類例に漏れず気は気だというだけで特段の説明はありません。
効果としても、元気玉やハマった時のカメハメ波のように相手を消滅させる(溶かす?)といういかにも”必殺技”然とした表現の時もあれば、一方で力関係によっては普通に跳ね返されたり効かなかったり、通常の物理攻撃と同様の描写をされる場合もあります。

はっきり言ってここらへんは特に整理も理論化もされてないと思うので、個別のシーンを下手に「研究」するとかえって分からなくなるだろうと思いますが(笑)、要するに「強いものは強い」「『気』合いで勝れば勝つ」というそういう大雑把な感覚(前段落の後者みたいなもの)で作られてるのだろうと思います。

評価としては難しいんですよね。
格闘描写の抽象性や強さの表現の運命論的とも言える問答無用性は、「精神論」や「根性論」のようなそういう土壌にあるものだと思います。
一方で「気」とそこから来る”必殺技”が必ずしもそれ自体としては決定的な要素ではなく、通常攻撃同様戦闘を構成するいち要素としてある意味平準的に使われるのは、むしろ「技」派よりの現実主義的性格だとも言えるかもしれない。

最終的には技術性や物質性をより厳密に、狭義にとって、”「気」の概念によりかかったスーパーマンと超能力のバトルストーリー”という、いささか今更な(笑)レッテルを『ドラゴンボール』に貼り直すことによって、かなり「心」派の極に振れた位置付けを与えてみたんですが。
でもそれ自体としては神秘主義的な馬鹿げたレベルのものだとしても、スペックの差こそが決定要因だという非情さはまったく「精神論」的ではないですしねえ。ううむ。

ま、あんまり気にしないで下さい。(ええー)


次は一転して趣を変えて・・・・にも程がある(笑)吉川英治『宮本武蔵』を。


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浦和?川崎F 

ヨーロッパのかほり?

J1第7節 浦和 ●1?2○ 川崎F(埼スタ)


すわ覚醒かと評判の良かった前節柏戦(○2?0)は見てませんが、確かになるほどというところはある試合でした。

その”覚醒”のキーワードとして「プレッシング」という言葉が主に飛び交っていたわけですが、シーズン前からの伝えられる地獄の走り込みキャンプなどからも、おおまかそういう方向性があるというのは推測するまでもないことではあったわけです。

ただそれで話が終わりというのもちょっと考えずらくて、なぜなら「プレッシングでチーム改革」なんてのは考えられる限り最も分かり易い手法の一つであって、かの(オジー)ヴェルディですらも(笑)一試合目から早くも方向性・設計図ははっきりと分かるくらいに成果が出ていたわけです。(’04シーズン)
それだけの話ならここまでズルズルと、見る側が途方に暮れたりするような事態にはなっていないはず。

で、実際見てみたそれは、確かに盤石のお家芸と化しつつあった”持てる者の堅守速攻”スタイルとは一線を画するものではありましたが、鋭いとか激しいとかいう意味では去年いくつかの試合どこかの時間帯でたまに見せていたものの方がよっぽどというむしろ淡々とした印象を与えるもので、「今年のレッズはプレッシングだ」というようなまとめ方はやはり何か違うように思います。

じゃあなんなんだというのはよく分からないんですが、強いて言えば去年ここぞという時の切り札的に使っていた「プレッシング」「前がかりモード」、あえて言えば”マジ”モードを(笑)、常時使用可能なようにカスタマイズしたというそういう感じ。
メリハリがない分衝撃力は落ちるし、何より”切り札”として使っていた時のような「レッズに本気になられちゃもう駄目だーーー」という畳み感は望むべくもなくて、それが証拠に(?)この試合も終始優勢で進めつつちょいちょいと隙を突かれて勝利をかっさらわれるという、自力型チームのあまりにもありきたりな結果を見てしまっています。


その良し悪しはともかくとして、要点として存在しているだろうと思うのはオジェックがこういうチーム作りを、例えば僕が上で書いたような”去年のチームとの比較”でやっているわけでは決してないだろうということ。言われるところの「リアクション型への反省」という大雑把なくくりで言えば、勿論そうではあるんでしょうが。

そうではなくて、(詳細は知りませんが)『FIFA技術委員長』という肩書きに象徴される「本場」「中心」「欧州トップモード」、何でもいいですがそういうアチラ側の、外の視点から、常識から、空気から割りと直結する形で行なっているのだろうということ。オジェックがどの程度”極意”を会得してるかなんて僕は知りませんが(笑)、とにかくそういう直輸入型の仕事を、久しぶりの日本での仕事としてやっている。ある意味クラブの望みもそうなのかも知れない。

その場合「プレッシング」なんてものは、日本ではまだまだ十分な刺激力を持ってそれ自体が焦点的に使われたり意識されたりしますが、アチラでは常識・自明の前提として、より総合的なチーム戦術の一部分として行われる、意識される、またはむしろされない。
そこらへんがニュアンスの違いとして出るのであろうし、また効果や特徴が可視的になるのに、やけに時間がかかった理由でもあるのだろうと。つまりとりあずプレスだ!とそうはならなかったということで。

・・・・と、これはこれで一つの側面の説明であり得るとは思うんですが、逆にますますオジェックサッカーの何の説明にもなっていないということにもなるわけで。(笑)

とりあえず
・そういう無脈絡なオジェックの仕事は、Jに”密着”して育った前監督の仕事と比較してもほとんど無意味である。
・一方で割りと大雑把でそのかわり貫通力瞬発力のあるギドと、真面目で満遍なく神経をめぐらそうとする(余り要領の悪いところがある)オジェックというパーソナリティの違いが既にしてよく反映したチームにも見える。

くらいのことですかね今言えるのは。本当の「内容」の話、本当の「手腕」の話、その結果このチームが持つ本当の「力」の話はこれからということで一つ。悪しからず。


なんかオジェックと阿部勇樹ってダブるなあ。だとすればちょっと運命だなあ。


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宮本武蔵の「技」と「心」(1) 

宮本武蔵〈7〉 宮本武蔵〈7〉
吉川 英治 (1990/01)
講談社

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かなり反則気味ですが、「心」派の宗匠吉川武蔵編については、文庫版(七)(八)の解説における、樋口謹一氏による国民的金字塔吉川武蔵(’35?)とその後のカウンター作品とのコントラストについての評論を、そのまま抜粋して代用することにします。

それは一つには再読してみた吉川武蔵(初読は中学生かなあ)が、今更論ずる意欲の湧かない、いかんせん古臭い、時代と寝た作品に感じられたこと。
そしてもう一つは、こっちの方が重要ですが、その独特の精神主義的スタイルをめぐってその後の作家がそれぞれに意欲的に自分なりの武蔵像を描こうと努力していて、それについての樋口評論がかなり読み応えがあり、はっきり言うと今回の企画で僕がやろうとしてやり損ねた(笑)ようなことをお手本的に成功させている、そういう評論のように見えるからです。

ぶっちゃけ吉川武蔵以外の引用作品は僕は一つも読んでいないので、樋口評論の解釈が正しいのかどうかとか全く責任持てません。ただテーマを扱う手腕と、僕が取り上げたようなテーマが実際に創作に当たる作家たちの中でどのように表現されているか、そこらへんの活写を見る/想像するのが面白いなというそういうことなので、話半分でどうぞ。

まずは「技」派、または「技と心の分離」派の面々。
(つまりそれに対する吉川英治は「心」派、または「技と心の同一視」派なわけですね。代表的には”剣禅一如”という、作中武蔵に語らせている言葉。)



村上元三 『佐々木小次郎』 (’49?)

剣を通して自分を完成させるなどということは、小次郎には、あまり意欲の起きないことであった」


これだけ見ると精神主義の否定のようですがむしろ逆。

「自分が徹し切れるのは、このだけだろうか。それより前に人間としてよく生きる、というほうが大事ではないか」


問題とされているのは剣と精神、技と心の乖離の方。

吉川・武蔵にとって剣と人生は相即するのに対して、村上・小次郎にとって剣と人生は背反する




五味康祐 『二人の武蔵』 (’56?)

作州の平田(新免)武蔵と播州の岡本武蔵(たけぞう)。二人それぞれの師匠はいずれも「邪剣」「殺人剣」「覇道」の剣の持ち主(以下略)


作品自体はこの二人の”武蔵”が後代伝わる”宮本武蔵”として事跡を合成されて行く過程を追います。

この二人に佐々木小次郎がからむ。(中略)
(小次郎)は、「武芸は兎角殺伐なもの」、さればこそ心して、「花やぎ」を求め、「色の剣」を旨とし、(以下略)

これに接して岡本(たけぞう)は、「武芸の巧者よりは人間の味の深さに心惹かれてならぬ」


「心」派の小次郎、「技」派の武蔵。吉川版の逆。
その後様々な行きがかりから、小次郎と岡本の方の”武蔵”は巌流島の決闘に導かれます。

岡本の立場に同情を禁じえない小次郎に対して、自己の原点である殺人剣を無意識裏にふるった岡本は勝った(以下略)


巌流島の勝負に「道」はかかわりをもたない、決め手は「技」のみ。




柴田錬三郎 『決闘者 宮本武蔵』 (’70?)

”決闘者”は勝つための「業の工夫」に生死をかけるが、これを支えるのは天性の「業力」(ごうりき)である。


(武蔵だけでなく)小次郎も業力盛んな(中略)美青年、女は犯すものと花を散らしつづけ(略)
その小次郎も、巌流島直前ある女性を愛して業力を「減らし」ている。


樋口氏はさらっと流していますが、これだけの記述からもどうも僕には柴錬の言う「業力」は、僕がこのシリーズで取り上げてきた「気」「念」と通じる「心」の代替概念、物質的比喩の一種という性格を包含しているもののように見えます。ただの「業」とは違う。(「業」自体も「技」とは区別されてるのかも。)
これくらいの年代になると、要するに僕ら現代の読者/作者同様、「心」を原因・決定因として描くのにはそれ相応の仕掛け・苦心が必要なのかなと。

試合では、「海面すれすれにかくれている岩」の上に突然あがって「姿の巨大さ」で小次郎を「威圧」した武蔵が、長剣「物干竿」より三十センチも長い木太刀で相手を倒す。要は業力の差に支えられた業の勝利である。


従ってこの描写も単なる「技」による「心」に対する勝利ではないのではないでしょうか。
それより一つ上の次元の話。

それが証拠に・・・・

その直後、武蔵は「唯一の弟子」養子の伊織と試合する。伊織の剣は「正しい剣」、沢庵や柳生の奉ずる剣である。それは、武蔵に言わすと、政治にかかずらわって「業が衰え」て剣を捨てざるをえなくなり、「無刀」などという「屁理屈」をこねるものだ。

(その伊織に半ば偶然敗れて)頭への打撃で「業念を喪失」して(中略)「尋常の人間」に堕した武蔵は以後大試合をせず「無為の生涯」で終わる。「五輪の書」以下武蔵の著はすべて伊織の作で、「道」の剣の立場からのものと柴田はする。


「業力」「業念」という形に昇華されない「心」「道」は、やはり剣術においては抽象的で非現実的なものである。
そういう意味で吉川武蔵に対して柴錬は批判的ではあるが、だからといって単なる技術主義ということではない。


・・・・最後はかなり読み替えてしまいましたね。(笑)
だってあんまりおじいちゃんなんだもの。(執筆当時既に京大名誉教授)
次はもう一度樋口氏の文脈に戻って、「総合」派の司馬遼太郎編


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宮本武蔵の「技」と「心」(2) 

宮本武蔵〈8〉 宮本武蔵〈8〉
吉川 英治 (1990/01)
講談社

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(1)より
七巻の解説で紹介された「技」派の面々の次は、八巻の解説より「総合」派の司馬遼太郎。


司馬遼太郎 『(真説)宮本武蔵』 (’67?)

一度短編として書いた『真説』を、新たに中編『宮本武蔵』として書き直した作品。
「技術の小次郎」「精神の武蔵」という吉川英治の構図を踏まえつつ、それを再解釈して別の枠組に組み替えて行く作業。

両極に立つ兵法の対決である。
武蔵から見れば、小次郎の兵法の「特質は技巧主義と速剣主義」で「普遍性にとぼしい」。
小次郎の「流儀の中核」たる燕返しは、速さだけの「けれん」「曲芸」で、「兵法を反射に尽きる」とする「技術至上主義」である。「ときに太刀はゆるやかでもよい、むしろゆるやかなほうがいい場合も多いであろう」と武蔵は考える。


ここ凄え突っ込みどころ満載なんですが、本題から外れるのでまたの機会に。

武蔵にとって「兵法修行の眼目」は「間合いの見切り」である。間合いとは「敵の太刀さきと自分との距離」で、これを「見切ってしまえば敵に負けることはない」。「間合いは一寸が理想」で、このぎりぎりの間合いを見切る「理法」を、武蔵は巌流島で「実証」する


具体的には

三尺一寸二分の「物干竿」より一尺長い四尺一寸八分の木刀を「天秤棒でも肩にかつぐようなかっこう」で構え、小次郎には「木太刀の長さの見当がつかぬ」。しかも、かの「勝つつもりなら鞘を捨てまいに」の一言の「調略」に乗って「怒気」にかられた小次郎は、「(通常兵器による常識的な)間合いのみに気をとられ、武蔵の持っている兵器(うちもの)に注意を払わなかった」。要するに相手の「間合いの感覚を崩す」のに成功した武蔵が勝利する。

以上の絵解きは、たしかに吉川のように「技や力の剣」にたいする「精神の剣」の勝利とするよりは理解しやすい。



・・・・まずは大司馬が、こんなに剣術の細々としたことに興味があったというのが軽く驚きですが。先生も男の子なのねというか。(笑)
更に言うなら見たところこれは結構粋な”趣向”で、確かに吉川の古典を現代化してはいるんですが、さりとて実証研究そのものではなく、吉川も典拠した『五輪書』などの史料には目を通しつつしかし事実というより吉川が描いた小説上の「宮本武蔵」「巌流島」を、想像や虚構が含まれているのは承知であたかも事実であるという”態”で、しかし論理/説明としては吉川のとは違ったより厳しい合理性で書き換えて見せたという、そういう仕事なんだろうと思います。

ある意味ではそれこそこういう『ドラゴンボール考察サイト』とか、ネット上に数多あるそのテの書き物と共通するところの多い仕事かと。オタクーっ。(笑)

それはそれとして上の司馬遼太郎の「絵解き」ですが、(「技」と「心」という視点から)要するにどういうことかと僕なりに解説してみるとこうです。

(1)まず小次郎の技術至上主義の中身を、「速さ」「反射」という形で確定/限定する。
(2)次に武蔵の剣法の真髄として「間合い(の見切り)」を挙げるが、これは小次郎のそれとは違うものの、”距離”という物理概念に根差した武蔵なりの”技術”論(「理法」)である。
(3)一方で「間合い」は距離そのものではなく、それをどう捉えるかという使い手の内面やコンディションに左右される認識作用、”心理”でもある。
(4)巌流島における両者の対決では、小次郎の”心理”を撹乱することによって「間合い」という”技術”で優位に立った武蔵が、かつ武器の長さという絶対単純な物理の裏打ちをも得て勝利を収めた。

・・・・という筋書きかと。

「技」「心」が勝った、わけではないが、「心」という要素をも加味・包含した、より包括的な武蔵の「技」が小次郎の狭い浅薄な「技」に勝ったと、そういうこと。
要は2種類の異なる技術体系の対決だとも、見方によっては心と技の対決だともそうも言える折衷的・総合的なまとめ方。


(まとめ)
気がつくと吉川武蔵そのものについて直接的には全然語っていないわけですが、なんていうか語ることがあまりないんですよね。
ここまで紹介したような吉川武蔵への様々なカウンターも、吉川英治の「見方」に反対だというよりも、むしろ吉川英治の「見方」の不在、はっきり言えば描写や説明の態をなしていないことに対する苛立ちというそういうニュアンスを強く感じます。

読んでいると部分的には、本題に関係ないところではポツポツと具体的だったり面白かったりする描写もなくはないんですが、結局は何も言っていないというか、書くと見せかけて書いていないというか、いつの間にか精神論や社会論の方になし崩しに滑って行って終わっているというそういう感じ。
それはそれで内容的にはありだと思うんですが、いくら何でも別の話じゃないの?という。

まあ根本的なことを言えば「剣豪小説」ではないのでね、「剣豪について書いた小説」ではあっても。力点が最初から違うと言えば違う。五味や柴錬と比べてはという面も。
ただ描いてるからには逃げられない、ところもあるわけで。(ここらへんはこれを”原作”とした井上雄彦『バガボンド』にも微妙なところがあると思いますが、これもまた別の機会に。)


・・・・とりあえず老人いじめ、欠席裁判はこれくらいにして(笑)、ついにラストの古龍編


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ただひたすらに速い剣 ?古龍(1) 

陸小鳳伝奇 陸小鳳伝奇
古龍 (1999/02)
小学館

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格闘描写の「技」と「心」の7。ラスト。

香港の金庸と並び称される、台湾武侠のエース古龍の格闘描写の特徴。


速さと技術

宮本武蔵との対照においての佐々木小次郎については、”技巧主義と速剣主義”という形で技術主義・物理主義の一側面として挙げられていた「速さ」ですが、一般にフィクション上では時にそれの度を越した強調が、ディテールの消滅、技術性の否定に繋がっている場合も少なくありません。

分かり易い例で言えばやはり『ドラゴンボール』、レベルの上昇はまず何をおいてもスピードの爆発的向上として表現され、そこに差があるととにかく当たらない、よけられない、そもそも見えない、話にならない。
別な言い方をすれば攻撃が当たるかどうかは徹頭徹尾スピード/速さにかかっていて、そこに打撃の「技術」だとか「間合い」だとか、そういう複雑微妙な要素は存在しない。それがドラゴンボールの格闘世界。

あるいは後でまた述べる西部劇の”早撃ち”なども、しばしばあるレベルを越えてほとんど神秘的な超人の世界に足を踏み入れ、通常の射撃技術のリアリティや駆け引きなどはどこかへ放り出され、「念ずれば勝つ」みたいなニュアンスのものになったりします。


古龍の”剣術”

多種多様な武器・武術や拳法などが活躍する金庸とは違って、古龍の武侠世界は圧倒的にほぼ剣(及び刀)のみで構成されています。(読めた物は限られてますが、多分)
そしてその剣の巧拙・優劣を測る/表現する基準として古龍が用いるのは、ただ一点「速さ」、「どちらの剣がより速いか」です。勝負も一瞬でつきます。お約束のように丁丁発止と渡りあったり、柔が剛を、遅が速を制したりする多彩で饒舌、遊び心豊かな金庸のそれとは全く違います。

真に潔い(笑)ですし、実際シンプルな分鮮烈ではあるんですが、それが古龍なりの格闘理論だ格闘描写に対する哲学だと言ってしまうと、少し違う気がします。
そうではなくてむしろ古龍は実質的には格闘描写をしていない、(上で述べたような)「速さ」の全面的強調によってディテールを無化して、通常の意味での”格闘描写”を回避してしまっている、それが本当のところだと僕は思います。

理由としては一つは本来は(日本で言うところの)純文学を志していた人で、行きがかりで武侠小説なんてヤクザな世界で成功してしまったものの(笑)、必ずしもこのジャンルに愛情を持っていない、ディテールに浸るモチベーションがない。簡単に言うと武術なんて興味がない
ここらへん子供の頃から前身ジャンルを愛読していた金庸とは対照的なんじゃないかと想像しますが、そこから更に単純に知らない、細かいことを書くとボロが出る(笑)、間違っても金庸のようなもっともらしい素敵な大嘘は書けない、そういう事情があるのではないかと。

勿論もっと内的美意識的な理由とかもないことはないんでしょうが、ぶっちゃければこういうことなんじゃないかと、僕は読んでいて感じました。「剣」「速さ」、それに単純化することでガードを固め、他の部分で思う存分自分の表現を行なう。


・・・・”早撃ち”と”早刺し”編につづく。


”早撃ち”と”早刺し” ?古龍(2) 

辺城浪子〈1〉 辺城浪子〈1〉
古 龍 (1999/06)
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承前


西部劇の”(拳)銃”と古龍の”剣”

上の『辺城浪子』(1)の紹介文には、「チャイニーズ・ウエスタン!」などという文字が躍っていますが、確かに古龍の世界にはそういう表現が似合う要素があります。
吹き抜ける風の音が聞こえそうな荒涼とした風景。肩寄せあって生きている自存自衛の閉鎖的な人々。それぞれに過去を背負った口数少ない男たちが、半ば出会い頭に繰り広げる血なまぐさい決闘。(勿論勝負は一瞬)
ちなみに金庸の場合は、「中華ヤクザの出入り」とか言われちゃいます。(笑)

また古龍の”剣”(刀)一筋には別の特徴がありまして、それは「斬る」よりも「刺す」ことに重きが置かれていること。これは同じく”速い剣(刀)”であっても、日本流の『居合い』(斬り)などとは違う点でもあります。
勿論古龍でも普通に斬ることはよくありますが、それはどちらかというと日常的な次元の戦いの場合が多く、剣客どうしが改まって雌雄を決する場合はたいていはいかに速く相手を刺し貫くか、そこに両者の・・・・というか作品世界自体の焦点が暗黙の内に集中して行くというそういう強い傾向があるように思います。

古龍世界最大絶後のヒーロー”小李探花”(『多情剣客無情剣』)の得物が「飛刀」、つまり投擲用の短刀で、刀とはいうものの刺す以外の使い道が無いのが一つの象徴ですが。男の戦いは黙って刺す。

こうした武器観念は中国における刀剣自体の実際の技術体系に由来するというよりは(多少はそれもあると思いますが)、古龍個人の”戦い”に関する生理や美意識に根差しているように感じられます。
冒頭に挙げた「ウエスタン」風味と合わせると、要するに西部劇のガンマンたちが銃を使うように古龍の剣客たちは剣を使っている、銃弾を”撃ち込む”かわりに剣先を”刺し込む”、そういうことなのではないかと思うんですが。


銃と剣の違い ?古龍の格闘描写の不可能性

しかし銃と剣には当たり前ですが、無視出来ない違いがあります。
銃ならば弾は常に真っ直ぐ(厳密には違いますが五感のレベルで言えば)に飛び、何メートル何10メートルの互いの距離をものともせずに一瞬の内に(これも厳密には違いますが)相手に到達し、狙いさえ正確ならば誰が撃っても確実に急所を射ち抜いて致命傷を与えます。通常の装備では基本的に防御も出来ません。シンプルなものです。

刀剣の場合はそうはいきません。距離が離れているならば自分の足で体を運んで腕を伸ばして武器を相手に届かせなければいけませんし、届いたとしても反らしたり抑えたり最悪急所以外を差し出してかばったり、いくらでも邪魔することは出来ます。
言い替えると「狙う」という意思と「急所を刺し貫く」という最終結果の間に、膨大な過程が挟まっているわけです。普通に刀剣本来の限界性を受け入れて使うならともかく、一撃必殺の便利な道具として銃の代わりに使うには、実際には相当な無理があります。闇討ちならまだしも特に決闘では。

そこを敢えて押して”銃的”に剣を使うことによって、古龍の格闘描写は単に「簡潔」というレベルを越えた極端な省略、無描写無説明という特徴を持つことになります。
例えばこんな感じ。以下全て『辺城浪子』から。

弧を描いた刀光が、傅(フ)紅雪の左頚部の大動脈へ斬りこむ。
傅紅雪は避けも受けもしなかった。
いきなり踏み込んだ。
左手の鞘が、がっきと湾刀を遮り、刀身も抜けた。
どすっ。なんぴとにも形容しがたい音。
公孫断自身にすら、何の音か分からなかった。
痛みはなかった。ただ、胃の腑が急に収縮したのを感じ、吐き気を覚えた。
公孫断はうつむいて、おのれの腹に刀の柄を見た。
漆黒の柄。
柄だけを残して、刀身は腹に丸ごと没していた。


”刀身”が”抜けた”後、具体的に要するに何が起きたのかは、公孫断は勿論、傅紅雪や古龍に聞いても分からないだろうと思います。


咆哮とともに突っ込んだセツ大漢の五十三斤の大斧が、一陣の狂風と化した。
花が薙ぎ払われ、刃風に乱れ飛ぶ。そして、ふいに風の唸りが止み、ひらひらと花びらが舞い落ちてきた・・・・・・。
斧を高々と振りかぶったまま、仁王立ちのセツ大漢は微動だにしない。
傅紅雪は斧の真下にいた。刀が漆黒の柄を残して、深々とセツ大漢の心臓を貫いている。


途中の互いの位置関係すらさっぱり分かりません。
次は集団戦闘。


稲妻のような刀光が、練り絹の尾を引いて乱れ舞う。
刃の噛み合う音はなかった。傅紅雪の刀を遮れるものはいない。
聞こえるのはただ、悲鳴、絶叫、刀が肉を割りつけ、骨の砕ける音・・・・・・
いずれも肝を潰し、吐き気をもよおす音ばかりだ。


ちょっと009が加速装置を使った時とかをイメージしてしまいましたが。(笑)
ちなみに刃を折る目的でもない限り、基本的に古龍の剣戟で刃と刃が「噛み合う」ことはまずありません。剣を振るう行為が具体性を帯びるのを、黴菌のように忌避している感じです。


無言で抜き放った剣が、虹の尾を虚空にたばしらせて、傅紅雪の喉を突く。(中略)
傅紅雪は避けも受けもしない。いや、身ごなしさえ目にとまらなかった。
馬芳鈴が見たのは、稲妻のような光だ。
刀光一閃!緋牡丹の花弁が開くように、鮮血が丁霊甲の肩からしぶいた。


相手(丁霊甲)も相当な達人なんですが、作者に抵抗を禁じられているのでいかんともし難いのです。(笑)


「速いから」と言えばそれまでですし、一つ一つは見事な象徴表現ではあるんですが、こうして並べると”作風”として正当化された、ある種の「手抜き」が常態化しているのが分かると思います。

これは余談ですが、よく古龍の(金庸に比べた)”モダン”さを表現する言葉として「映像的/映画的」というような言い方がされるんですが、実際には古龍の描写をそのまま映像化するのは不可能だと思います。
どんな凄い/大げさな技でも(金庸が描くような)、時系列に沿ってそれなりに描写されていれば、後は多少補完しながらワイヤーでもSFXでも何でも使って撮れなくはないわけですが、古龍のはなんかそれ以前。肝心な部分は異次元で行われている(笑)。少なくともワンカットでは絶対シーンが成り立たないと思います。

前回書いたようにこうした描写スタイルの背景には、古龍の言ってみれば武術オンチが存在しているのではないかと僕は疑っているわけですが(笑)、しかし一方ではそれは古龍一流の狙いであり、またそこから他に類を見ない「技」と「心」の独創的で感動的な融合が達成されていると、次にそのことを書きます。


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