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ブログ”赤の陋屋”(あかのろうおく) 

ええい、もう決めてしまおう。

予告したブログの再編成を確定。
”金庸先生にくびったけ”を改題して、”赤の陋屋”に。
内容はベースの金庸/武侠小説+色々本読み+浦和レッズです。

なんで突然レッズ?という話ですが、要するにヴェルディ中心の”みどりのろうごくblog”(こちら)に収まり切らない、収まりの悪いコンテンツをまとめてしまったというそれだけの話で、ブログタイトルも”あかのろうおく”で見る人が見ればあいつだとすぐ分かるようなそんな感じ。(笑)

更に細かいことを言うと、僕の感覚では「漫画」も「小説」もあまり区別はないんですが、FC2ブログの分類だと「アニメ・コミック」「小説・文学」になってしまうので、じゃああっちで漫画がそれなりに盛り上がっているから、こっちは小説でちょうどいいかなとそういう定義。
どうせなら「アニメ」じゃない映像作品ものも、こっちに引っ越してしまおうかなというそんな気も少しあります。

ともかく姉妹版というか同工異曲というか(笑)、そんな感じで認識していただけると。


>旧・”金庸先生にくびったけ”ご愛顧の方々へ。

どのみちいつもサッカーで手が塞がっていた週末/試合日に浦和レッズエントリーが載っかるだけみたいなものなので、興味がなければ単にスルーしていただければ。
ただHNだけはややこしいので、金庸専門の”なんか楊過”から汎用の”アト”に変更・統一させていただきます。まあ呼びかけていただければどっちでも答えますけどね。(笑)

浦和レッズファンの方たちへ

去年から一部では顔を出していましたが、’06レッズへの興味から愛着が移って兼業に至ってしまった基本設定緑者です。
それ以前のことはよく知りませんし、出自が気に障る向きもあるかもしれませんがご容赦を。今年もひっそり書かせていただきます。酔狂な方がおられましたら他のコンテンツもどうぞ。
ちなみに「陋屋」、みすぼらしいのは浦和レッズではなくて僕の住みか(ブログ)の方のことです。(笑)


では。


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浦和?千葉 

うーん、かなり楽な試合のはずだったんですけどねえ。

J1第9節 浦和 △1?1△ 千葉(埼スタ)

すんなり勝ってれば、”危なげなし”という書き出しの予定でした。(笑)


ワシントン弾劾(?)やら自主的’06型3バック回帰やら、色々盛り沢山らしかった前節鹿島戦。(手違いにより未見)
はてオジェックのプレッシング&ポゼッション路線は軌道に乗ったんじゃなかったんかい、1試合見なかっただけで何がどうなってるんだと、興味津々の内に試合開始。

スターティングを見てやっぱり(堀之内/トゥーリオ/坪井の)3バックだと一瞬納得しかけましたが、実際に始まってみると右サイド山田暢が上がり目の変則4バックというのが妥当ですかね。まあどちらかというと千葉の出方次第という感じか。

で、戦い方の方はというと、うーむこれは。基本的には変わってなくて、がらりと’06年型に戻っちゃったりはしてないんですが、この前見た時(フロンタ戦)に比べても更にプレッシングの効率化、省エネ化、日常化が進んでいる感じで、憎たらしい「余裕」感という意味ではなかなかどうして、’06年型を彷彿とさせるものがありました。
既にスタイルをこなすのに汲々とする段階は抜けて、その分、小野不在という条件下ながらも個々の創造性・自発性が結構出ていた、出やすいコンディションになっていたように見えました。(その時は)

前回ある種ないがしろにされた(らしい)オジェックが実際にはどう思ってるのか、ワシントンのことも含めて中で何が起きてるのかは分かりませんが、とりあえず選手たちが自ら呼び起こした’06モードの経験が、盤石の強さを誇っていた時の感覚を思い出させて同じことをやっても前とは違う余裕を持ってやれるようになったという、そんな感じかなと。今のスタイルをうまく相対化/対象化出来たというか。
元々”プレッシング”も”ポゼッション”も、それ自体は全然馴染みのないものではなかっただけにね。


「苦手」のはずの千葉の方も、今季は初めて見ましたがまあやっぱりイビチャじゃなくてアマルだよなというか、それ風のサッカーはやってましたがペースをかき乱されるほどの迫力はなくて、元々千葉自体が頑張った挙句肝心なところは持って行かれる傾向のあるチームだけに、この程度ならカウンターのいい餌食、ちょいちょいと2?0くらいでまとめられるかなとそんな感じの前半でしたが。

結果はご存知の通り、一人退場で逆にテンションが上がった千葉に不意打ち的にとられた同点ゴールが結局取り返せず、終始攻め立てながらかなり悔いが残る引き分け。オジェックのまとめは要は「決定力不足」「不運」ということで、それもまあ嘘ではないと思うんですが。

ただ僕が気にかかったのはその「攻め立て」方の妙な緩さで、それはある意味千葉の守備の締まりの無さに逆に誘われたようなところがあると思うんですが、拮抗していた時は上に書いたように”創造性・自発性”と褒めた(笑)ものが、つっかえ棒が取れて地が出るとこれかよと結構がっかりさせられる無秩序な感じに見えました。


結局どうか。今のチーム状態をどう見るべきか。進んでるのか進んでないのか、完成度はどれくらいか。
勿論よくは分からないんですが、今プロファイルするとすればこうですね。『チームは振り子軌道のさなかにある』。行きつ戻りつしてるだけで、進んでるとも進んでないとも言えない。

つまりこうです。振り子の片側はオジェックが目指している、90分間頑張ってそれぞれが完璧にタスクをこなす、プレッシングを基本とした”圧倒的な”ポゼッション・サッカー。
もう片方はちょっと前まで僕が”赤いヴェルディ”的に囃していた、この試合でも顔を覗かせた芸達者の集合が陥り易い、個人技のつぎはぎの緩?いサッカー。これはこれで”ポゼッション”でなくもないでしょうが。
この両者の間を行ったり来たりしている。完成度?%みたいな直線的なプロセスではない。

ちなみにどうしてこういうことが起きるかと言えばそれは要するにオジェックの指導力/影響力が中途半端だからで、それなりにちゃんと方向を指し示してはいるんだけど、現メンバーの圧倒的な力量をグイグイ押さえ込んで引っ張って行けるほどではない。
ワシントンみたいに「反抗」まではいかなくても、うっかりすると単に地でやってしまったり、思わぬ方向に勝手に走り出してしまったりする。(でも一応は戻る。)

で、その「振り子」の振幅の中間辺りに物も言わず実は未だに頑張っているのが、’06年型ギド・レッズの幻影。幻影だけど実在もしている幻影。
そこから上で言ったそれぞれの2極に、その時々離れて行ったりまた戻って来たり、それを繰り返しているそういう過程だとも言えるかと。そして多分それは今季を通じて続くのではないかと。

・・・・こんなのが現時点での見立てですけどね。ただ正直あんまり強いインスピレーションを与えるチームではないので、自信はないと言えばないというか、言ってみただけというか。
さてさて。


大宮?浦和 

なんだかなあ。

J1第10節 浦和 △1?1△ 大宮(埼スタ)

なんだか。


今年のレッズのはっきりしなさというのは、一言で言えば「組織力」や「チーム作り」と、「個力」みたいなものがそれぞれ別個に存在していることにあるのではないかと思います。
組織化もオジェックなりのチーム作りも、それなりには進んでいる。サボっているわけではない。見守ろうよという意見も、そういう意味では正論ではあるんでしょう。

ただではそれによってレッズが強くなっているかというと、去年のチームの”欠点を克服して”変わって行っているかというと、そこらへんがどうにも頼りない。試合によって調子が良かったり悪かったり色々はしていますが、結局試合を決定付けているのはそうした’07レッズ的な意図の達成未達成というよりは、元々持っている圧倒的な個力の偶さかの爆発(あるいは不発)だったりする。それはそれ、これはこれ、みたいな感じになってしまっている。(笑)

こんな状態が続くのは一つにはレッズが強過ぎるからで、つまりもっと弱いチームがこんな状態だったら、ボロクソにやられてともかくもどうなってるのかどうするのか、焦点は絞れて来る。
これは別な言い方をすると、実は今年オジェックがやっていることやろうとしていることの、本当の意味での必然性必要性が実感されていない、納得されていないということでもあります。

やれ世界基準だ王者らしい(攻撃的な)サッカーだと、そう言われればそうかなそうだったらいいなという、実際にはその程度の話で、ほとんど趣味の領域。ブルズカップやゼロックスでボコボコにやられたのも、よくよく考えてみれば去年までのチームに足りないものがあるからなのかそれとも単にオジェックが無能(または未完)だったせいなのか、別にちゃんと検証されたわけでもない。何となく「変わらなきゃ」という雰囲気の醸成には役立ちましたが。

最終的な必要性・必然性を一概には否定しませんが(僕に分かるわけがないですし)、ともかくはっきりしない必然性、差し迫らない必要性のもと、いったんは新監督への礼儀で棚上げにした去年までのプライドがいつ反撃に出で来てもおかしくないような危うい状態の中で、それでも推し進めて何かを作り上げられるだけの力がオジェックにあるのか。「オジェックの課題」と「チーム/選手の課題」が分離しかけてやしないか。

それこそあのままオーストリアリーグに居残ってたら違ったのかもしれませんが(笑)、でもここはアジアの東端Jリーグ。
僕自身は結局のところオジェック個人の携える”ソフト”or”プラン”の魅力不足、内容不足という疑いの方が強いですけどね。何やら教科書の朗読を聞かされてるような感覚がある。

ともかくここんとこなんか、オジェック母さんが着せてくれるきれいで少し窮屈なおべべを、家を出る時は確かに着てるんだけど、帰って来ると脱いじゃっててマントにしてたりどこかに忘れて来たり、でもオイラ負けなかったぜえっへん、もう腕白なんだからこのコは(母さん隠れてヒクヒク)みたいな、そんな感じに見えなくもないです。


この試合に関しては、さすがにこれは3バックだろう、そうじゃないとしたら機能不全も甚だしいぞという見かけ3?5?2と大宮の4?1?4?1/4?3?3のマッチアップの不利から、組織と個人が分立どころか、はっきり組織に個人が邪魔されて力を発揮できない、ストレスのたまる不自然で硬直した状態で前半は推移。
プレッシングと共にポリバレント、相手に対応した陣形変化がオジェックの売りのはずですが、この体たらくはどうしたことか。

だいたい僕は最近流行りの「フォーメーションは関係ない」みたいな言い方は、あんまり好きじゃないというか信用していないというか。理論的には分かるけどなんかそれきれいごとじゃないの?だったらフォーメーションなしでやってみなよとか子供みたいなからみ方をしたくなったりします。勿論誰がどんな文脈で言うかにもよりますけどね。

この試合の柱谷幸さんの解説でおっと思ったのは、前半のレッズのそういう状態を「選手がチームを俯瞰出来ていない」と表現していたことで、そうなんですよね、そのために基本イメージとしての”フォーメーション”は必要なわけですよ、手がかりとして。別に相手への対応だけが目的なわけではない。
本当に”俯瞰”するのは幽体離脱でもしない限り不可能なわけですが(笑)、そういう態で、ある程度固定したフォーメーションを基本イメージとして積極的に使うことで、俯瞰的なイメージで全体を把握しながら選手たちは通常関連性を作っていくはずなので。

オシムの場合は本当に違うみたいですけどね。局面と対応と運動法則だけで、無限に変化して行って決して特定の像は結ばない。当てにしない。全体の絵というものはない。
オジェックもそういうのを目指してるフシはなくはないんですが、根が生真面目だから”ポリバレント”が「流動性」というよりは単に「潰しが利く」みたいなセーフティな方向に傾いちゃって、気が付くと守備的な選手ばかりというか誰の特徴もあまり活きていないというか。

色々やってるようで何も起きていないみたいな、そういうここまでに感じます。
それでも優勝はしちゃいそうな気がしますが。(笑)


しかし小野のシュートは入らないねえ!入ると随分存在感変わるんですけどね。
あれが彼の運命というか、ある意味では限界というか。


古龍に苦戦中 

シリーズ格闘描写論

いやあ、古龍難しい。
ほとんど”核”のみで出来あがっているような人なので、「格闘描写」について書いているつもりが気が付くとどうしても「作品論」そのものに拡大して行ってしまって、収拾がつかなくなるんですよね。(前回もちょっと筆が滑ってます。)

その点金庸はいいです。枝葉は枝葉で茂り放題で、簡単に摘み取れる(笑)。・・・・ていうか、ほとんど”核”がないようにすら見えるところのある人ですよね。

そんなことはないんだろうとは思いますが。しかるべき舞台が整わないと本気を出さないだけで。手続きで処理出来てしまうものはそれで処理する、”核”の出番がないならそれはそういうことで、無理に燃えたりはしない。
多少単に腰が重いというか、本気の出し方が分からないような体質的なところも感じなくはないですが。


ただ古龍もですね、改めて読んでいると”核”に見えたのが実は”皮膜”?、”幹”と見せて単なる太目の”枝”?みたいなところも見えて来たり。
”核”が剥き出しになっているというよりも、”核”と”皮膜”の区別のない、金庸とは別の意味で形式的なスタイルなのかなとか思えて来て。

俺騙されてた?あんないかにも素直ないい人に?、みたいな。(笑)
何とか意地でさっさと蹴りつけたいですが。


以上泣き言でした。頑張ります。


監督の『修正』能力(+) 

別ブログの基本的にはラモスをめぐるエントリーなんですが、オジェックにも流用出来るところがある気がするので抜粋・転載しておきます。(以下原文)



>「なぜ起こっているか」を述べることができる監督は(その内容が正しかろうが間違ってようが)いくらでも存在するが、「継続的に問題を修正することが出来る」監督は、世界中でもごくひと握りの存在であるという事実だ。

これは当面は監督の絶対能力の話のようですが、僕が見るに監督の”能力”に関する、その内容に関する普遍的に存在する「幻想」の話でもあると思います。
つまり・・・・ほとんどの監督は『修正』なんてしない/出来ないということです。

まず『修正』というピンポイント的な概念は、ある程度以上確立した「正/誤」に関する基準、それを含む一連の技術的戦術的体系の存在を前提とすると思います。
だから「問題点が修正される」という時、事態の本質は”問題点”の存在ではなくてむしろ修正を可能にするような”基準””体系”が存在していること、言い換えれば既にある程度以上チームが上手く行っていることにある。

だから確かに問題点が『修正』されることはあるとしても、それはある種誤差の問題として日々ひっそり行われるのであって、実際に我々外野が騒ぐに至るような危機的な事態における「監督」の「問題」としてはメインなタームではない
別な言い方をすると、崩壊や大きな欠陥が露わになってしまっているような体系(チーム)の内部で、個別の問題を個別に修正するのは困難を極める。

見えてしまっている時はたいてい既に手遅れである。ことは『修正』の範囲を越える、チーム作りそのものの問題であることが多いというか。

>チームがなかなか勝てない、という状況は、大半の場合、指導者の「勝たせるためのアイデア」が枯渇していることを意味する。(中略)「彼にまだアイデアが残っているかどうか」。

ではどうするかということで「アイデア」。微妙に原意とは違うかもしれないので注意。
あるアイデアが(あるいはアイデアの不在が)多くの問題点を露呈してしまった時に、実際に行われるのは『修正』ではなくて次のアイデアへの乗り換え、切り換えである。
ある・・・・というのはつまり、ほとんどの監督が行なってかつ成功しているのは、むしろこっちの方法に見えるということですが。あんな女(男)のことは忘れて次の幸せを探せばいいさ。

丸っきりの乗り換えというよりは、問題点の修正(というか克服)を、最初のアイデアとそれに基づく体系の内部でシコシコ行なうより、それを発生させた環境ごとガラッと変えながらやった方がかえって効率が良い、プラスαが見込める。勿論気分転換にもなる。
これにはかなり個人差があって、それこそ手を変え品を変え目先を変えて、時に問題から逃げているだけに見えるような人もいれば、かなりの程度前の体系との論理的連続性をキープして、とっさには変えてるのかどうか分かり難い人もいる。

恐らくは後者に近い人の方が監督としてグレードが高い、信頼性の高い人と言えるのでしょうが、前者タイプでも十分に(あるいはかえって)有効性が見込めることも多いように思います。
つまりそれくらい(サッカーの)監督の仕事というのは刹那的な部分があって、一流だろうが二流だろうが寿命に限界があるのは同じ、「継続的に問題を修正することが出来る」監督は、世界中でもごくひと握りだということですね。

それは1チーム内での一つ一つの作業・アイデア単位でもそうですし、その監督の仕事単位でもそう。
「一流」「名将」と呼ばれているような監督でも、たいていは特有の欠点・限界を持っていて、あるチームの監督として露呈したそういう部分はアイデアの切り換え切り換えで交わしつつも結局は解消されずに終わり、結果職を離れたその監督は次の職場に迎え入れられますが、そのチームでも基本的には似たようなシークエンスを辿ってまた次の職場へ移る、これが実態なのではないかなと。



・・・・後半部はあんまり関係ないですが、これをオジェックについて当てはめてみると『修正』ということ、それの可能性/有効性について、あまりにも文字通りに考え過ぎているのではないかという疑いになりますかね。
その背景にあるはずの、あるべき全体や体系についての把握がお座なり。ラモスは「理論がない」わけですが、オジェックは「理論でしかない」

”ポゼッション”だの何だのという、スローガン的な理屈は理屈として、そもそもどういう風に動くチームにしようとしているのか。それがないからジクジクと細かい『修正』(のつもりの)作業を果てしなく繰り返すことになる。
前回就任時は超典型的な(ドイツ的)3?5?2のカウンタースタイルという「器」が先にあって、そこにまつわる様々伝統的なディテールやイメージがそこらへんを代行してくれて、オジェックはある意味決まり切った『修正』作業を真面目一本にやれば良かったんでしょうが。

『修正』なんてものはチーム作りの本体たり得ないし、逆にそっちを押えないと『修正』自体もうまくいかない。という。


古龍編無期延期 

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格闘描写の技と心

ちなみにこのエントリーは”古龍編(3)小李飛刀に仕損じなし”を上書きする形で書いています。
つまり(1)(2)はそれなりに書けていると思いますし、論旨も有効だと思いますが、(3)以降はちょっと違うデザインで書き直す必要があるというそういう結論。

いくつか目算は立ってますし、凄く単純な答えなら既に持ってるんですが、どうも単純過ぎて騙されてる気がしてしかたがないので(笑)、色々考えが落ち着くところに落ち着くまで放置。後はよろしく、無意識さん!みたいなそういう感じ。
いずれ「続き」として書くか、「古龍論」として別に書くか、はたまた「金庸と古龍の比較論」にするか。まあ金庸(の格闘描写)自体ももう一度ちゃんと見てみたいと思いますし、古龍も読んでないのありますし。


というわけでしばらく格闘描写論については忘れてもらって、今後の予定としてはまずはまだ読み終わってなかった『完訳 水滸伝』の読み切り&総評、そしてその後に金庸レビューシリーズに復帰というそういう感じ。

僕の鳴り物入りの(笑)紹介で初めて古龍に興味を持った人がいたら、中途半端で申し訳ありません。
先に(2)で『辺城浪子』について紹介してしまいましたが、順番としては紹介し損ねた『多情剣客無情剣』(↑)を先に読んで、その後『浪子』にかかるというのが内容の時系列的にはオーソドックスです。
逆に『浪子』で英雄たちの伝説に少し触れて、その後『多情』で本格的に見ゆるというのもそれはそれでオツな気もしますが。


浦和?G大阪 

これで負けないなら優勝するよね。よね?

J1第11節 浦和 △1?1△ G大阪(埼スタ)

いや、して欲しいと思ってますけど、普通に(笑)。するもんだと信じてますし。


ACLやらトゥーリオの離脱やらで、フォーメーション問題(?)も小野造反問題も、なんかちょうどよくうやむやな感じで迎えた目下の宿敵ガンバ戦。永井に交代したのが小野ではなくてポンテだったのは、やっぱり微妙に気を遣ったとかそういうこともあるのかなと、軽く邪推してみたりもしますが。それにしても小野のシュートは(以下略)

で、うやむやの結果吹っ切れたとか新たな一面が見えたとかそういうことがあればいいんですが、実際は中身もうやむやというか幽霊化に拍車がかかっていたというか。プレッシングは?ポゼッションは?なんかもうほんとに選手が11人並んでいるだけで、やっぱり赤いヴェなんたらとか言いたくなるんですが、それでも負けないんだなあ。
惨殺されたゼロックスとの違いは”幽霊”状態に耐性が出来たからとか、そこまで言ったら言い過ぎか。

疲れてるとかは当然あるんでしょうけど、運動「量」以前にその”運動”を導くポジショニングやら距離感やら役割分担やらがバラバラで、人数のかけ方などもえらく非効率な中でむしろ選手たちはよくやってたと思います。
こうして見るとつくづく感じるのが、プレッシングを筆頭とする今季オジェックが施して来た指導がいかに表面的な影響力しか持っていないかで、ちょっとメンバーが変わったりフォーメーションが変わったり、勿論相手が強かったりで余裕を失うと、いきなり何事もなかったかのように各自本能だけでバタバタと試合に臨むしかなくなる。

結局やっぱり、余裕のある時にかかずらう「趣味」の問題でしかないと言うべきか、あるいは柏戦あたりをピークとして、一応は出来たような気がしたものが緩々と再び崩壊過程にあると言うべきか。
ともかく次がどういう試合になるか、ここに至っても常にほとんど予測がつかないというそういう状態で。何とか選手たちには頑張ってもらうしかないですが、現状を支えているプライド(ちなみにこれが緑の方のヴェと違うところ)が、いつ誰がまた小野みたいな方向に出てもおかしくない、そういう嫌な内圧の高さを感じます。・・・・まあもう正味相手にしてないようなそんな気もするんですが。


それはそれとして、今日は珍しく阿部勇樹でも褒めてみようかなと。
今日も特に目覚しく「機能」していたわけではないですし、この人の絶対能力と表現力との落差には、ほとんどデビュー以来失望させられっぱなしなんですが、それの原因でもあるクソ真面目さは、何だかんだ結構今のチームを支えているなとそういうところも見えます。ハマらなくても報われなくても頑張る。飛ばないけどキレない。チームが良くても大して良くないけど、悪くても必ずそれなりにやってくれる。まあ単純にタフですよね。

オジェックがかなりの優先順位で重用しているのはとても分かるところがあって、とりあえずは勿論ユーティリティ性ですが、実際問題としては「骨格」が出来てないところに持って来られた「補強」材料みたいなもので、正直だから?みたいな気がすることもあります。
毎度スライドするようにあちこちで使われてますが、長谷部でも小野でもそれから勿論山田さんでも、もっと他の選手の起用法の方を中心的に考慮した方が、具体的なチームの形が見えやすいのではないかと。

それでも「分かる」というのは、オジェックと阿部が前に言ったように頭デッカチどうしで似てる・・・・かどうかはともかくとして(笑)、栄光の’06レッズに同時に入って来た同期の”新入り”どうしだということで、(レッズでのプレーの)先入見がないから使い易いというのと、やっぱりなんか親近感というか、一緒に頑張ろう的なそういう心情があるんじゃないかなとそんな感じがするんですが。

ともかく特段機能してないのは阿部のせいではないですし、にも関わらず頑張り続けているし結果的に貴重な得点に絡んでるし、なんだかんだ立派だよなというそういう話です。(ちゃんと褒められた?・笑)


しかしトゥーリオ亡き後、ネネでいいんでしょうか。この状況であの軽さ。
ストッパーでビミョーな攻撃参加に意欲を燃やされるよりは、いっそ最初からリベロで使うかそれとも使わないか。ていうかこここそ阿部じゃないかと。


『完訳 水滸伝』(人肉食編) 

完訳 水滸伝〈7〉 完訳 水滸伝〈7〉
清水 茂 (1999/04)
岩波書店

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全10巻の内の最初の2巻、読み始めの時に主に金庸との関係を中心に感じたことを書きましたが、めでたく読み終わったので改めて。

全体の構成としてはだいたい1巻から7巻、全100回の内の1?71回までが108人の人集め、その後の72?100回「招安」(後述)により丸ごと官軍(宋朝)に組み入れられた梁山泊軍団が、北に南に朝敵と戦う話になっています。
この「招安」の前後で話の様相がかなり変わりますが、ますばそれ以前の話に見られる目立った特徴から。


人肉食について

前回ほんのつかみのつもりで「やたら牛肉を食べる人たちの話」だなんてことを書きましたが、舐めてました(食べて?)。それどころじゃありませんでした。
この人たち、人肉も普通に食います。(笑)

(近代以前の)中国人の人肉食については、一応吉川『三国志』で子供の時に経験済みではあったんですけどね。
それは劉備玄徳をこよなく尊敬するある貧しい男が、客として訪れた玄徳一行をもてなす為に自分の妻を殺してその脇腹の肉か何かをこっそりご馳走するという確かそんなエピソードで、玄徳たちは殺された妻を、あるいはそうさせた男の貧しい境遇を哀れみはしても、男の心根自体は天晴れなものというそんな感じの受け取り方で。

書いたのが吉川英治なので、ニュアンスとしてはだいぶ柔らかいというか、ちょうど日本の「鉢の木」のようなそんな情緒の書き方になっていたと思いますが、それでも子供心には結構衝撃的ではありました。(グロよりは感銘の方が大きかったですが)

しかし・・・・『水滸伝』にはそんな”情緒”はかけらもありません。(笑)
単なる食材の一つです。軽い軽い。
どうも魚や山菜だけじゃ物足りないな、何か食い甲斐のある酒のつまみはないものか。おっ、こんなところに死体が。どれどれ、この野郎なかなか結構な肉付きじゃないか、いい暮らししやがってこの。俺様にも回しやがれってんだ、じゃあちょいと失礼してこの腿のあたりをいかせてもらうよアング。

てな調子です。さすがに腹減ったから殺して食うまでの描写はありませんが、死んでれば食べるし、たまたま殺してしまったらついでに食うし、旅人を盛り殺して金品を強奪した挙句、死体はそのまま店の食材に活用するという、完結したサイクルを持った地球に優しい盗賊茶店なら普通に出て来ます。


まあ論理的には人肉食はそれほど重大なタブーたり得ないだろうとは僕も思いますが、それよりも何て言うか・・・・どうしても肉食わなくちゃいけませんかね?中国人の方。そっちの方にゲッソリ。(笑)
つくづく違う文化だと思いますね。肌が黄色いから仲間だとか、迂闊に思うと泣きを見る。そりゃアメリカと接近するはずだよなという(笑)。真面目にアメリカ人にとっては、本質的に日本人より遥かに中国人の方が理解し易いんじゃないかと思います。肉食人種どうし。

*ちなみに『水滸伝』の成立年代については諸説ありますが、だいたい元代前後と考えておけば間違いないようです。人肉食慣習理解の参考の為に。(笑)


・・・・”倫理意識編”につづく。


『完訳 水滸伝』(倫理意識編) 

「招安」前の話つづき。人肉食編の次。


『水滸伝』と言えば男が男に惚れる”男伊達”の世界、弱気を助け強きをくじき、富貴から奪い貧賤に施す義賊、しかも悪徳官吏とはやり合っても天朝様への忠義の心・報恩報国の志は決して忘れない義士の物語、のはずなんですが。
そうしたメンタリティ/テーマ性によって、同じく男伊達の物語、現代”武侠小説”(参考)の有力な源流の一つと目されているわけですが。その実態はいかなるものか。


穴だらけ、超ご都合主義な「義」「侠」

『水滸伝』が男伊達の、義侠の物語であることは、他ならぬ作中人物たちによって耳にタコが出来て、しまいにそれも擦れて取れるくらい(笑)日常的に喧伝されています。
それは勿論庶民の娯楽「講談」という元々の形式、繰り返しやお約束を恐れずいやむしろ歓迎される、分かり易さが何よりも優先されるそういうスタイルによるところもありますが、それ以上に作中人物たちの徹頭徹尾の「本気」の現れであるわけです。少なくとも主観的意識的には、彼らが歩んでいるのは正に”義侠”の道以外の何物でもないのです。

しかし、しかし、残念ながら現代日本人である僕の目には、彼らのやってることは滅茶苦茶もいいとこです。何が「義」だ、何が「侠」だ、自己中心的な、極端な身贔屓の、手前味噌の、ご都合主義的な倫理観で爆進する、傍迷惑な人殺しの集団でしかないじゃないか。
・・・・ここで金庸の、あるいは”武侠小説”の現代の読者は言うでしょう。分かる分かると。
残念。あなたは全然「分か」ってなんかいません。(笑)
水滸伝の連中に比べたら、金庸の登場人物なんて悪役も含めて立派な紳士、お行儀の良い市民社会の住人です。ラベルが違うんですラベルが。ボルトが。ナットが。

前近代的な頑なな倫理意識に殉じていること、それをめぐっていちいち激しい感情を露わにすること、それ自体は共通しています。ただ論理性のラベ・・・・レベルが全く違うんですよ。
例え反応は大げさでバランスを欠いていたとしても、金庸の登場人物たちの言うことやることには、それなりの論理性が必ず読み取れます(文学的な謎は別)。何よりも彼ら自身に、過去現在未来に渡るそうした自分の”倫理基準”を一貫したものにしようとする意識、外れていれば恥じる意識、あるいはより妥当性のある倫理を確立しようとする意識が存在しています。それゆえに彼らは悩んだり葛藤したりするわけですが、そうしたものは水滸伝の豪傑たちには全くと言っていいほどありません

偽善的なわけでも悪気があるわけでもないんですが、意識の構造がやはり現代人とは全然違う。意識の及ぶ範囲が違うと言った方がいいですかね。彼らなりの真剣さと一貫性はあるんですが、それがあまりに浅くて場当たりで視野が狭いので、現代の目で見ると穴だらけに見える。だからご都合「主義」ではないわけですが実際には。

以下少し、例示してみましょう。現代武侠との比較も含めて。

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『完訳 水滸伝』(”官軍”梁山泊軍編) 

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「招安」とその前、その後

まず「招安」ですが、だいたい察しがつくと思いますが例えば梁山泊のような、中央が手を焼くくらいに膨れ上がった基本的には反政府的反社会的勢力を、それまでの罪は問わないという条件で丸ごと官軍に呑み込むことです。
その際に主要メンバーには官位官職が与えられるのが常だったので、中央が弱くて招安が乱発されるような時期においては、「出世したければまず山賊になることだ」的な皮肉が囁かれたりしました。対象となる勢力の性格としては純然たる犯罪者集団あり、地方軍閥的なものあり、あるいはあわよくば新たな/次代の王朝をも担おうかという政治的野心・思想を持ったものあり、色々です。

梁山泊(軍)は各地の犯罪者が三々五々集まって形成された言わば”湖賊”ですが、ほとんど首領の宋江公明一人の頑なな忠義心で早くから「招安」(されること)を一つの目的として掲げ、紆余曲折を経てその願いを遂げます。
招安後は、常々泊内の反対者たちが危惧した通りに、大した見返りもなしに北へ南へと朝敵との戦いに要するに便利遣いされて、あるいは激戦に倒れ、あるいは手柄を立てれば立てたで妬まれて陥れられ、最終的には108人のほとんどが非業の最期を遂げます。

やば、泣きそう。


・・・・という反応はなんか少数派らしいんですが。
『水滸伝』の醍醐味は108人集合までのハチャメチャストーリーで、後半は付け足し、一部は不要または改竄的な。

確かにがらっと雰囲気は変わります、ほとんど別の作品。
荒々しいピカレスク(悪漢)ロマンから、折り目正しい歴史悲劇のように。
僕も最初は違和感がありました。おい真面目に戦争してるよというのと、決闘or一騎打ち用と思われた豪傑たちの武芸が、普通に集団戦闘で使われているのと。

ただ劇的な効果としては僕の場合むしろ逆で、この後半があるから全体として『水滸伝』は金字塔で、後半によって前半も救われていると。

ぶっちゃけ最初こそ楽しかったものの、じきに108人集める過程に飽きて&ナンセンスさに呆れてしまっていたというのがありますね、前提として。単純に長いし。
それでいい加減に読んでいたのが、いざ情け容赦ないサバイバル戦闘に突入して、一人また一人と”現実”の死に直面して行くのを見ると、急に前半の牧歌性が懐かしくなり、また108星の一人一人が愛おしくなって来た。

というと後半がシビアなだけでつまらないようですが、そんなことは全然なくて、要するに法螺話の集まりである”108星”を、見事に現実の戦争の場面に一人一人当てはめてあるいは見せ場を作り、あるいはむしろあえて犬死にさせ、そこまでせんでもというくらいにリアルな史劇に仕立ててあります。(序盤に出て来て結構印象深い「青面獣楊志」なんて、早々に病気で脱落して、「こりゃ逆に戦後も生き残って何か重要な役を担わせる伏線だな」とてっきり思っていたら、そのまんま二度と登場せずに単に病気で死んでしまって、リアル過ぎて哀しかったです。)

成立過程についてはいまだ謎が多いようですが、ともかく誰かしらちゃんとした「作家」が関わっていることが想像できると思いますね。


そうした前半と後半の”ギャップ”の中で、「約束が違う、こんな作品の出演オファーじゃなかったはずだ」と騒いでもおかしくない(笑)梁山泊の荒くれどもが、何か粛々と運命を受け入れて、当てがわれた役割を果たして行くのがどうにも健気で、哀れを誘って。予想外に感動してしまいました。

はっきり言ってそんなに整合性はなくて、いかにも色んな時代、色んなタイプの人の想いをそれぞれに詰め込んで出来上がったごたまぜの「作品」という感じですが、それゆえになるほど中国大衆文学の模範であり代表であり、いつでもそこにあって世を照らしているんだなというのが、漠然とですが実感出来ました。
前半の乱雑そのもののパワー、後半の構築性と悲壮美、どちらも中国だという。”夢と現実”なんてまとめはちょっときれい過ぎるかもしれませんが。


・・・・とりあえず、無性にゲームがやりたくなって困ってます(笑)。108星使いてえ。


名古屋?浦和 

久々の勝ち点3に沸いた名古屋戦。

J1第12節 浦和 ○2?1● 名古屋(豊田)

”アウェーの名古屋戦での勝利”の価値がピンと来ない僕は、にわかサポの哀しみを軽く噛みしめてしまいましたがそれはともかく。


試合中の自主的布陣変更が行なわれた8節鹿島戦に始まり、(1トップに対する)布陣の整合性に疑問が呈せられた10節大宮戦の前後あたりのどこかの時点から、結局のところどうも”3バックで固定”という流れが、意識的にか暗黙的にか確定したような感がありますね。
それはまた更に暗黙的に、’06年型への回帰というか自然的依拠みたいなものをも意味もすると考えられるわけで。外向けのプライドはプライドとして、案外オジェックはそこらへん腹を決めたのかもとそんな感じもしますが、まあまだ分かりません。

1週間休んで予想以上に回復したレッズは、とりあえずガンバ戦の体たらくからはかなり目覚しく建て直した、安定した戦いを見せてくれました。
感覚的には、遡って9節千葉戦あたりのスタンダードを取り戻したというそういう感じでしょうか。なんだかんだACLが挟まる&ACLでぶつぶつ切れるのは、体力的には勿論頭脳的にも、さすがにしんどそうではありますね。

それはそれとして、で、その取り戻した”スタンダード”が’07オジェックレッズのそれなのか、それとももっと広く’06以前も含めた浦和レッズそのもののスタンダードなのか、それによって目の前の戦いの評価/ニュアンスはだいぶ変わって来ると思いますが。
僕の目にはどうも、ますます後者の色合いが濃くなって見えています。オジェック’07というリストラクションをもたらすはずの新プログラムを、むしろレッズの方がなし崩しに呑み込みつつあるような。

別に手柄争いが目的ではないので、結果が良ければ何でもいいようなものですけどね。
オジェックは自分の仕事の成果だと思いたければ思えばいいし、実際仮に元々出来たことだとしても、その首尾不首尾含めてオジェックの働きかけが少なくとも一つの刺激として、現在の状態を作り出してはいるわけでしょうから。
ただより厳しいレベルの戦いや新たな変化の必要性が示された時に、そういう認識の曖昧さが阻害・崩壊要因になる危険性は変わらず包含されていると思いますが。今日はたまたま、おおむね誰もが幸せな位置に「振り子」が来ていただけかもしれない。


僕がギドを高く評価してオジェックに対してそうではないのはあからさまなことですが、だからといって’06年型を継承しろと言っているわけでも全くないのは、続けて読んで下さっている人はご存知だと思います。
むしろ上手く行ったチームほど「継承」なんて作業は極端に難しくて、その一般的危惧が第一。次にだから出来ればダイナミックに組みかえられれば組みかえた方がいいんですが、その際に必要な明快さや力強い指導力を、オジェックが持っていないように見えるというのが第二の危惧。この2段階になっているわけですね。

例えば名古屋戦後の名古屋側の談話。

フェルフォーセン監督

後半は高い位置からハイプレッシャーをかけることができ、立ち上がりはグランパスがゲームを支配していました。

杉本恵太選手

相手はハイプレッシャーで来ると思っていたので、裏のスペースを狙ってDFの脅威となるよう、どんどん裏を突いて行こうと話していました。


この「ハイプレッシャー」という言い方は、知る限り別に日本語のサッカーボキャブラリーとしてそれほど一般的ではないですから、杉本は要するにフェルフォーセンの受け売りを言っているだけだと思います。(笑)
でもその”洗脳”っぷりが、逆にフェルフォーセンのチーム作りへのワクワク感を伝えて来て微笑ましいと思いますし、またフェルフォーセンが名古屋というチームに与えているものの独自性固有性をある程度証していると、そのようにも感じます。

ギドのような親分/モチベーター/労務管理型ならともかく、(今回の)オジェックのように”戦術を教える”タイプの監督なら、別に造語しろとは言いませんが何かしらそういうフックというか、こちらの脳を刺激する何らかのメッセージが伝わって来てもいいようなものですが、どうもこれまでのところ一般論/正論以上の何も伝わって来ないと、これは何回か言いました。

それこそあのラモスだって会見ではもっともらしいことを言ったりするので、結局教えられるか教えられないかは、指導内容の一般的な妥当性ではなく、その内容のその監督なりの咀嚼が出来ているかどうか、そこにかかっていると言っても過言ではないと思います。
そしてそれが出来ていれば、ある戦術なり何なりの自分なりのニュアンス/具体性での把握が為されていれば、本人が意識しようとしまいと”オジェック語”の1つや2つは勝手に出て来るものなのではないかと、そんな風に思いますが。


こんなのが例えば僕のオジェックへの不信感の一つの表現ですが、その”不信”が即ち「優勝出来ない」とかには必ずしも繋がらないのが凄いところですけどね。
仮に上の僕の読み通りだとしても、”継承”を拒否したオジェックのあがきは、回り回って’06年型の再発見・リフレッシュに繋がっているわけで、それだけでも十分にJリーグは戦い切れる可能性がある。

そこらへん、相馬の「躍動感」みたいなものは、逆に何とか落ち着こうとしているチームをかえってかき乱すんじゃないかという、そういう危うい感じもあります。
もう阿部でいいよ、慣れたし。とにかく腹括ろう的な。つかなんかハマらないなあ。


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『神雕剣侠』編執筆計画 

神〓剣侠〈1〉忘れがたみ 神〓剣侠〈1〉忘れがたみ
金 庸 (2006/06)
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金庸レビューシリーズ第4弾。ちなみにタイトルは翻訳版の『剣侠』の方で。

まだ再読中ですが、前々から考えていたことと併せてだいたいアウトラインが見えたので、掲示しておきます。・・・・いや、長いんですよ多分、物凄く。(笑)
基本方針としては
(1)長さや全体の構成は気にせず、書きたいことは書き切る。
(2)そのかわり、なるべく一つ一つをコラム的に単品で読めるような感じにするよう心掛ける。

といったところ。

で、大まかな順番としては、ストーリーや総論に入る前に、先に主要キャラクターの特徴とそこにこめられたテーマ性の方をまとめてしまいます。
だから興味はあるけどまだ読んでないという人は、本格的なネタバレが始まらない今の内に読んでおくことをお奨めします。(笑)


以下当面の執筆予定。

その1 黄薬師と黄蓉と楊過

いずれ劣らぬ屈指の目から鼻へ抜けるうるさ型、黄父娘と楊過、3者3様の「理性」と「個人」、その共通性と相違性を比較します。

その2 黄薬師と小龍女

いずれ劣らぬ屈指の世捨て人(笑)、黄薬師と小龍女の共通性と対照性を比較します。

その3 楊過と小龍女

その1,その2を踏まえて、楊過と小龍女の”純愛”の実態に迫ります。


これだけで結構分かる人には分かるかもしれませんね。しーです、しー。
絶対書こうと思ってたのは何と言っても”その1”で、それゆえにストーリーの前にこっちを書くことにしたわけですが。
今のところどうも楊過のキャラの割りといいかげんなところが難所だなあと思いながら読んでます。他のキャラは結構整然としているんですけどね。まあ主人公ってだいたいそんなもんだと言えばそうですけど。色々背負わされるから。

「ストーリー/総論編」、または別の形かもしれませんが第2部に入る時も、こんな風に先にアウトラインを示してみる予定。
では読みに戻ります(笑)。面白いわあ、やっぱ。



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3つの理性、3つの個人 ?黄薬師と黄蓉と楊過 

アウトライン編

『神雕剣侠』のメインテーマ、あるいはメインなストーリー構造が、主人公楊過とその武術の師匠小龍女の二人の間の言わば「自由恋愛」と、それに待ったをかける(師弟の別を神聖視する)”武林”の掟やその背景にある中国の古代/中世社会の道徳や社会通念との葛藤・対決にあるのは言うまでもないと思います。

古来悲恋物語(この二人は最終的にはハッピーエンドですが)には多かれ少なかれこうした構図はつきものですが、特に『神雕』の場合主人公楊過の強烈な性格と併せて、殊更この対決構図、”個人の自由vs社会の掟””理性・論理vs因習・観念”という印象が鮮やかです。
単なる運命に翻弄されるカップルではなく、時代にそぐわない、あるいは先取りし過ぎた性格・思想を持ってしまった個人の悲劇。近代人in中世

楊過の複雑なキャラクターがこれだけで語れるものでないのは言うまでもないですが、それについては後で改めて述べるとして、こうした「個人」主義や「理性」主義という観点に注目すると、前作『射雕英雄伝』から引き続くこの『神雕』には、似たような特徴を持ったキャラクターが他にも存在します。勿論”東邪”こと黄薬師とその娘黄蓉です。

実際これら二人それぞれと楊過の類似性については作中でも繰り返し語られますが、さりとて全く同一というわけではなく、三人それぞれに資質の現れ方や活動範囲は違って、特に黄蓉と楊過の場合はそこが正に対立点になったりします。
それに比べれば楊過と黄薬師は友好的ですが、突き詰めればやはりこの二人にも相容れない部分は少なからずあると僕は思います。

ここらへんを僕なりに図式化してみると、こんな感じになります。

黄薬師 : ”超”時代的理性/個人

・・・・中国語で言えば「邪」。英語で言えばwise,intelligent


黄蓉 : ”没”時代的理性/個人

・・・・中国語で言えば「巧」。英語で言えばsmart,clever


楊過 : ”反”時代的(近代的)理性/個人

・・・・中国語で言えば「狂」。英語で言えばbright,clever


”超”だしwiseだし、何となく黄薬師が一番優れていると言っているように見えるかも知れませんが、特にそんなことはありません。どちらかというと「賢」者ぶってて偉そうというのが分類の本質かもしれません(笑)。wise自体にも元々そういうニュアンスはありますし。
黄薬師の場合特に、一見していかにも中国語と英語の噛み合いが悪いですが、それには独特の理由があるので後ほど。

黄薬師の「邪」、楊過の「狂」(原義”自由奔放”)は『神雕』5巻で再定義された武林の新”五絶”に従っているのですぐ分かると思いますが、黄蓉の「巧」が何によっているかというと、同じく2巻で周伯通の内心の声として語られているそれよりは目立たない分類によります。

周伯通が日ごろから最も敬服しているのは、師兄の王重陽のほかは、九指神丐(かい)・洪七公、黄薬師の邪、黄蓉の巧で、かれらと密かに通じるものがあると思っていた。
(単行本p.373)

ちなみに僕は一回目の読みでは気に留めなかったこの箇所を今回見て、自分の考えていることが満更当てずっぽうではないというか、金庸もこの三人をかなり意識的に描き分けているという自信を得たのですがまあそれはそれとして。

英語の形容詞は”頭がいい”系の類義語の中から、僕がだいたいで当てはめてみたもの。
黄蓉と楊過で”clever”(ずるがしこい)が共通しているのは意図的なものです。
黄薬師の”intelligent”はそれに対する半ば数合わせですが、黄薬師の教養主義、知そのものに対する愛という特徴も含意しています。・・・・つまり”clever”(ずるがしこい)というのは要するに実用的、対人・対社会的な知のあり方ですから。


以下、この基本分類に従って比較検討して行きます。


浦和?横浜FM 

うだるような暑さ、というやつ。うだってましたねえ。

J1第13節 浦和 △1?1△ 横浜FM(埼スタ)

僕なんか早くも暑さ負けして一日中ダラダラしてる中、選手の皆さんにはご苦労様なことで。
中日のACLがホーム戦で良かった。


その暑さの割りには動けていましたし、これといって特に悪いところはなかったと思うんですが、それでまたお馴染みのこの結果というのはそろそろこれが実力と考えざるを得ないんでしょうか。
弱くはないけど強くもない、他のチームも大して強くないので、結局のところ2位という今の順位はこうして見ると実に妥当な感じ。何やら”1億総中流”みたいな(笑)今年のJ1リーグ。

ただ悪いところはなかったですが逆に良いところも特になかったとも言えて、ほぼ’06年型に戻って安定感はありますが、そこからどこに行く感じもなくまた今の状態がピークなのかボトムなのかスタンダードなのか、そのどこらへんに位置しているのかそれすら見当がつかないというそういう気持ちの悪い感じで毎度試合を見ていますが。
・・・・まあ、スタンダード、かなあ、直前の段落の見方からすると。

逆にではなぜ去年はあんなに強かったのか、という疑問が改めて出て来ると思いますが。
去年だってそんな明確な、完成度の高いサッカーをやれていたわけではなくて、言ってみれば(個人技という)偶然頼み、ただその”偶然”が必然のオーラを放つくらい(泉?)、ほぼ毎節高い確率で発動していたというそういうことで。

今年のチームだって、そのイメージの記憶込みで当然相手としてはそういう恐怖感は感じているはずで、ただ「来るか!」と身構えたのに82%くらいまで充填されたエネルギーがなんか勝手に収束してプスプス言いながら不発に終わるというか、あら中折れ?さっきまであんなに元気だったのに、じゃあしょうがないわねそんな日もあるわよ。・・・・ん?何今頃ビンビンになってるのよ、今日は時間切れさっさと帰ってみたいなそんな感じで。(やめれ)

まあなんか、神経性という感じはしますよね。余計なことを考えて、余計な心配事があって集中し切れない、どこからか常に少しずつ力が漏れている
それは「良いサッカー」「正しいサッカー」をしなければという強迫観念が頭の上にのしかかっているとも言えるし、先生は勢い込んで課題を出したけど、その採点はどうなってるのかカリキュラムは進んでるのかあれで終わりなのか、要するにどうなってるの?そんないつも通りみたいな顔して授業進めてるけど。頑張れと言われれば頑張るけど、はっきりしてくれない?これで俺たち結構大人なんだぜ?みたいな。

あるいは逆に去年だってカリキュラムとしては不発だったり監督的に不本意だったり、軋轢だったりそういうものは全然あったと思います。ただそれが試合の準備態勢には持ち越されず、試合自体は至って具体的に、余計なことを考えずに戦うことが出来た。
それが監督の人柄的な問題なのかあるいはもっとはっきり言語的な説明があったということなのか、ともかく今何をやろうとしていて何が出来て何が出来ないのか、だからこの試合はどう戦うのかこうなったらどう手を打つのか、そこらへんがその時々でうまく共有されていた。

多くの時間で主体となったいわゆる堅守速攻スタイルが、そういう現実性/現実主義の結果なのかよすがなのか、両方かなと思いますが、ともかく試合に臨んでは守る時は徹底的に厳しく潰し、攻める時は思う存分個人能力を爆発させて、何ら見えるもの以外について考えたりせずに持てる分の力は発揮することが出来た。

・・・・のかなと。まあ仮に今年の監督がギドだったとしても、同じことを2年続けて同じ効果が発揮出来たとは思いませんけどね。書くことがないのでこんなとりとめのない話になってしまいました。


しかし小野のシュートは入らない。(3度目)
一方でネネのシュートは妙に入る感じがする。
ここらへん、結局シュートの瞬間のリラックスというか勢いというか、いい意味での乱暴さの違いという感じがするんですが。実際よく見ると小野の技術からすれば微妙に常にブレてるんですよね、シュートだけは。フランクフルトで鍛えてくれるか?(嫌です)
ワシントンもあれで結構小野タイプ。型としての完成度は申し分ないとしても。偽ブラジル人。
相馬は少しレッズに馴染んで来た感じが。自慢のドリブルを単なる行って来いの突破だけでなく、”ボールキープ”で他の選手の準備態勢との時間調整にも使えるようになって来た。リズム的にちょっと三都主のプレーに近付いたというか。


長谷部&達也 

レッズブログらしく(?)拾い記事でもやってみようかと。
いや、少しずつ触れて来るものがあったので。


長谷部、今夏シエナ移籍浮上!2・5億円オファー(報知)

浦和MF長谷部誠(23)が、今夏セリエAのシエナに移籍する可能性が高くなったことが30日、分かった。シエナ幹部は昨シーズン浦和の2冠に貢献した長谷部の実力を高く評価。中田英寿氏の後継者と目される司令塔を、来季の躍進の切り札に指名した。1年間のレンタル移籍で、正式買い取りオプション付きの総額2億5000万円の巨額オファーを用意するなど、Jリーグのシーズン真っただ中に若き司令塔の去就問題が一気に浮上した。


報知だし、でも結構自信ありげだなとか、心は揺れますがそれよりも、

MF小野伸二を寵愛(ちょうあい)するホルガー・オジェック監督の起用方針から、現在リーグ戦3試合連続途中出場で、オシム・ジャパンからも遠ざかっている長谷部だが、欧州での評価は絶大だ。


オジェックが小野を寵愛?笑えない。いや、むしろ笑えるか。
ただ今のチーム状態でなおかつ出られない選手が、ひたすら焦らつくばかりなのは想像の出来るところで。とりあえず長谷部が南アW杯に出られないなんて、考えたくもないです。
使いこなせないなら・・・・と、やっぱりちょっと考えてはしまいますね。
オジェックが使い易い選手+外国人で実質十分なんじゃないのという。

力強いドリブル、急所を突くキラーパスを誇る長谷部は、2001年のASローマ時代にセリエA優勝を経験し、現役引退した中田英寿氏の全盛時と酷似し、後継者とも呼ばれる。


聞かねえなあ、それ。酷似?
ドリブルは”力強い”というより”鋭い”タイプじゃないのかと。パスは・・・・出て来た当初は割りと柔らかい印象があったんですが、最近はどうでしたっけ。


5発猛デモ!達也A3杯で復帰へ(スポニチ)

こっちはただただ頑張れと。
再び代表のことを言うなら、達也が早々に消えてしまったことで、オシム・ジャパンはほんと働きアリの集団に落ち着いてしまったような印象があります。何か根本のところでの過剰が。松井もいないし。
プラスするところの才気の輝き。絶対出てくれ’10年。
・・・・ただこういう小さい選手が怪我を繰り返すと、どうにも危うくって。ヴェルディの飯尾なんかもそうですが。骨と肉のあげる悲鳴が聞こえそうな。


アテネ世代はジーコの空白を取り返したいというのもあって、代表に関しては変に前のめりになってしまいます。
相馬・・・・はジーコのせいとはあまり関係ないけど、ついでに頑張れ。(笑)


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