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『倚天屠龍記』の評判 

いつもと順番が逆になりますが。
かなり色んなまとめ方が出来そうな作品なので、落とし所を求めて先にカンニング?(笑)
『射雕』3部作のラストで、それなりに代表作のはずなんですが、グーグル検索での言及は意外と少なめで、下手すると『飛狐』シリーズより下。むしろ前2作の人気に隠れてしまったかなという。
ただし内容的には興味深いものが多かったです。

《倚天屠龍記》を読んだぞ (「桃花島でまったり」 さん)

主人公の名は張無忌。
コイツがまた、とんでもない優柔不断な男です。
あっちの女、こっちの女、ちょっと優しくされるとすぐ舞い上がってしまうのです。
(中略)
「九陽真経」の使い手でなければ、あんたなんかB級キャラよ!と思ってしまいます。


ある意味最も正常な感想でしょうか。特に女性読者の。(笑)

自分から何かをしようというのではなくて、そうするしかないから、誰かにそう言われたからと長いものには巻かれろ精神で生きているのです。


男女問わず(笑)、現代的にはまずはこう読まれるんだろうと思いますが、違う可能性について出来れば後で示したいと思っています。

各流派の始祖となるような独立独歩の超武術家は影を潜め、
皆どこかの流派に属するようになっています。
その分しがらみも増え、組織の論理がその生き方を縛ります。


これはなるほどなと思いました。モンゴル”軍”といかに戦うかということが、それまでになく具体的に描かれていますし、「組織」「集団」そのものの方が主人公という面はあるかもしれないですね。


倚天屠龍記をよむ。 (「射三部作」を読んで さん)

一体この物語の主人公は誰なのか?
てっきりオープニング早々に驢馬で旅をする李志清の挿入画のあった郭襄かと思いきや、神鳥剣侠の最後でちょこっとでてマイナーながら楊過直伝の小技が光っていた張君宝かと思いきや、天鷹教と戦い、一旦は屠龍刀を手に入れた兪岱巖(ゆたいがん)かと思いきや、大量虐殺をなんとも思わない殷素素を奥さんにして10年も北極で生活するはめになった張翠山かと思いきや、どうも1巻の訳者あとがきで明らかになるんですが、殷素素と張翠山の子供の張無忌ということですか。


『倚天屠龍記』全4巻 (「まお飯店」 さん)

40章中最初の7章まで主人公が登場せず、謎ばかりが深まっていくミステリーちっくで少し疲れる作品。


この構成の複雑さというのももう1つの目立つ特徴でしょうね。
”実況”中の前者の生々しい困惑ぶりは、大いに共感するところ(笑)。”ミステリーちっく”とありますが、実際にミステリーなのは「謎解き」の方ではなくて、それ以前に「そもそもどれが解かれるべき中心的謎なのか」というか、話の輪郭がなかなか見えないというそっちの困難が大きい。
京極夏彦なんかはそういうのを意図的にやってるんでしょうが・・・・これは?(笑)。ちょい疑問。

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ACL決勝セパハン戦(アウェー) 

正直、ご苦労様としかコメントしようがないです。

ACL決勝第1戦 浦和 △1?1△ セパハン(フーラド・シャハール)

せっかくだから、サンスポに載ってたならではの画像でも保存しておきますか。(笑)

セパハンアウェー

案外ベール(ヒジャブ)も悪くないかなと思ったり。その下が赤というのがまた。(また?)


そう、赤。または黒。とにかく色。
イメージとしてはイスラム国との代表戦でよく見かける、民族衣装の白一色に染まったあんな感じをうっかり想像してたんですが、セパハンは黄色かあ。なんかJリーグのどこそことか思い出して、ちょっと安心したりしてしまったんですが(笑)。つまりはより日常の風景

やっぱクラブ戦なんですよね当たり前だけど。頭では分かっちゃいたはずなんですけど。
こういう風に実際に戦う中で、リアリティが形成されていくのねという。
・・・・だから晴れの決勝の舞台に、もうちょっとマシなスタジアム用意出来なかったんかい?イランさんとかは、思ってはいけないことなんですね(笑)。別に「イラン」と戦っているわけではないんで。しかし酷かったな。とてもサッカー強国の代表クラブのホームとは。色々あちらも苦労があるんでしょうね。

というわけでまともな”サッカー”の話は次回に持ち越しみたいな感じですが。
あえて言えば代表戦でたまにあるような、”異様なテンション”みたいなそういう感じにはならなかったので、「よくある耐える試合」としてある意味普段着の戦いは出来たのかなと。悪条件は別にして、またはものともせず。


この試合の”サプライズ”の「右サイド阿部」ですが、そう言えばまだフィットしてない時期に、「”和製ベッカム”なんだから右に置いてクロス上げさせれば?」とか当てこすり半分(笑)で言っていた記憶はありますが、正直今回のオプションとしては完全に想定外でした。
ああ、その手があったかという。言われてみれば、永井よりは基本的にはまともな選択なのかもしれない。

しかし「当日突然言われた」(阿部)というのは、オジェックらしくないひらめきというか何と言うか。
ともかく今後の中期的(新)オプションとして、せっかくだから鍛え上げて/調整して行って欲しいものではあります。
こうなって来ると、フルメンバーなら堀之内・ネネと2人もレギュラー級が余る、CBの層の厚さがちゃんと活きて来てる(つまり阿部抜きでもDFを形成出来る)なあというのと、相馬はいよいよ優先順位が低いんだなあというのと。

まあ分かりますけどね。ここまで来ると少々のポジション適性よりも、「チームの一員」かどうかというのが重要になって来るので。相馬は今更自分探ししちゃうから、雰囲気的に使いづらい。僕でもちょっと。


最近結局ポンテポンテなのは、実際にポンテなので(笑)しょうがないんですよね。
出来ればクラブW杯本番は、もう少し色々と可能性のある状態で臨みたいものですが、その前にやることが山程。とにかく死なないことで、それまでに。命あっての物種。
・・・・ただし、今度の日曜日は仮死状態でもナンも言いません。(笑)


川崎F?浦和 

モチベーション上がらんなあ、後味悪くて。何書こう。

J1第31節 浦和 △1?1△ 川崎F(等々力)

試合?はね、だいたいでやってたけど特に抵抗が無かったから、ありがちな結果で手を打ちましたけど。相手はジュビロでしたっけ?ああ、フロンタか、これは失礼を。


いきなりですがウチのマスクマンさん(ラテン系なのでもろ”ゾロ”だ)は、せめて普通に出来ないんですかね。出来ないんでしょうね。
マスクを取ると暴れるというのは、何かそういうネタなのかと思うくらいですが。
あれかなあ、気の荒い馬にブリンカーを付けるつもりで間違ってシャドーロールを付けてしまったとか、そんな感じかなあ、うん。予定しないタイプの集中力が。

まあね、ジーコにラモスにワシントンにフッキ、色々と見て来ましたがブラジル人の「いい人」「悪い人」(or熱心とわがまま)みたいなのは、日本人の基準で見てしまうと分かり難い場合が多いんですよね。
「善意」「悪意」というよりも、日本人よりは恐らくかなり浅い層に存在している”野性”や”狂気”みたいなものを、文明の皮膜でどのように押さえ込むか、パックするか、それと状況との関連でそうした内面のあれこれがどのような形で外に漏れて来るか、表現されるか、それへの社会的評価の問題として「善悪」が決定されるというか。

そこらへん、なぜかドイツとブラジル人の組み合わせはいいようなので、ワシントンもブラジルに帰るのも結構ですけど、いっそブンデスで修行して、ジョルジーニョ(元鹿島)やポンテのような人格者になることにチャレンジしてみるというのも一興かも。
まあドゥンガとかは人格者と言えないことはないけれど、なぜか常に”狂気”の印象も強かったですけどね。ていうかオジェックだってエンゲルスだってそう言えばドイツ人ですけど、それはまあ、ドイツという”環境”の問題とは次元が少し違うということで気にしないで下さい。(笑)

・・・・本人は家族がどうこうとか言ってましたけど、ブラジル人はいつも言うので(笑)それはよく分かりません。とにかく契約期間一杯は、泣こうが喚こうが首に縄つけてでも最後までキリキリ働いてもらいたいですけど。


で、今度は”ドイツ人”のオジェックですけど、「ノーテーマ」とは、満更ハッタリとも思えない、意外なほど力強いお言葉で。なるほど、こういう人なのか。
スタメンを入れ替えるかどうかというのは、どのみち確かに考えの分かれることではあると思いますけどね。ただ「研究でそうなってるからいいんだ」と言われるとハァ?(怒)という反応をどうしてもしたくはなりますが。いや一般論じゃなくってさあ。
そう言えばパーフェクト・チョイスでやっていた、着任前のFIFAのカンファレンスで喋っていた時も、内容が余りに一般論で要するに何が言いたいのかよく分からないのと、目の前の聴衆に語りかけている感じが全然しないので、なんなんだこの人はとは思ってたんですけどね。

まあスタメンはいいさ、それでも。「継続性」を重視するからといって、「全員」同じ必要はないんじゃないのとは思うけどさ。
ただそれよりも試合中の選手交代を、”消極的”という以上に出来ればいっさいやりたくない風なのはどうなのよという。むしろ「何かきっかけがあればそれに従って喜んで交代する」、あるいは”交代というよりも態のいい順次の入れ替え”で、なるべくなら疲労を均等に分担させたいという、そういう気持ちに今の状況でならないようなのが不思議。理論はどうあれ。
やり放題のA3とかではちゃんとやれていたので、要はバランス感覚が無いというか、勝負の(も)かかったリーグ戦のより窮屈な条件下でそういう細かい配慮を実行出来るほどのセンスが無いというか、包括的思考が出来ない人なのかなという感じですが。

支配下選手をなるべく効率的に使い切るというのは、それ自体監督の腕の見せ所というか喜びじゃないかと思うんですが、違うのかな。ある意味(初期)ジーコ的なファースト・チーム/ベスト・メンバー志向という感じすらします。まあこういう人もいるんでしょうね。
何と言うか、監督業に好奇心を持っているようにあんまり見えないんですよね僕には。”成功”やあるイメージ(”欧州トップモード”とか)を実現するための手段でしかないというか。別のもっと抽象的or機械的な仕事の方が向いてるんじゃないのかな。

ギドも別に柔軟なタイプではなかったですけど(笑)、ともかくも見て、検討した上で可能性を絞っているという感覚はちゃんとあったんですよね。研究でも理論でもなく、自分の目で。頭で。
ともかく平川大丈夫かと。本当は代えて欲しかったんじゃなかったのかと。


最近の好調ぶりもあって、さぞかし難試合になるんじゃないかと予想されたフロンタ戦ですが、正直存外でした。いや、”好調”ではあったと思いますけどね、なかなか溌剌とした見事な攻撃でした。
ただし、軽い。いかんせん。斤量背負い慣れたレッズからすると(また競馬か)、むしろ足がスムーズに出過ぎてずっこけそうになったくらいで。
上でジュビロを持ち出して当てこすった(笑)のも、別にサックスブルー繋がりというだけではなくて、「テクニカルな攻撃サッカー」のいかにもな軽さに(今年対戦した時の)ジュビロに通じるところがあったからで。

まあレッズの方も、また一段階”疲労慣れ”が進んだのか(笑)、予想したほどきつそうでもなかったですけどね、見た目は。
むしろフロンタとの適度なチャンバラ(ラフプレーのことに非ず)を通じて、途中段々調子が上がって元気になって行ったようにすら見えたくらいで。最後はさすがにバテましたけど。

しかし永井はワシントンの顔色窺いながらやってる内に、またちょっと調子崩してしまった感じですね。サボってるというより、どうしていいか分からんという感じ。他の選手とはたまにいいカラミも見せるんですが。まあ甘いのは確かですけど。来年はどうかな。
フロンタでは養父というのは確かに結構いい選手。判断が早いのがいいですね、特にシュートの。森勇介も厄介ですが、左に移ってからは、ミドルシュートが持ち芸に無いので、かえって勝手にプレーの組み立てに迷ってくれて助かりました。


こんな変な試合した挙げ句水曜負けたくないと、なんか違う方向から闘志が湧いて来てしまいましたが。いざ今年の全てを正当化せん!


ACL決勝セパハン戦(ホーム) 

っしゃあ。任務完了。らじゃっ。おーけー。はっ。

ACL決勝第2戦 浦和 ○2?0● セパハン(埼玉)

結局”圧倒的な個人技”で勝ち切ってしまいましたね、アジアも。


シーズン前優勝出来るとはほとんど思ってなかった(”勝てない”というより”どこかではコケるだろう”と)ですし、この試合も特に勝算があったわけではないですが、何せ滅多なことでは負けないというか、城南との2戦やその前後以降のJでの相当アレな試合でも結局負けてないので、逆にどうやったら負けるのかというイメージが湧かない。だからまあ何とかなるんだろうなと、緩く構えてましたが勝ちました。(変なオープニング)
まあ負けないですね。「負けない」というのが基本で「勝つ」のはむしろおまけという感じ。この日はおまけの方でしたが。優勝おめでとう。(変な文章)


とはいえ選手の方は、決してなんとなくやっていたわけではなく。
立ち上がりからACL恒例の(?)ハイペースで、正直よせばいいのに、みすみすセパハンの注文にはまるんじゃないのかとか最初は思ってたんですが、どっこいこの日は一味違いました。攻めさせられていたわけでも勢い任せで行っていたわけでもなく、前からのプレスに従って中盤と最終ラインもきっちり意思的にバランスが確保されていて、(苦しいけれど)「勝つためにはまずこれをやるしかないんだ」という、高い意識で”チーム”としてのイメージが共有されていました。

特に何か変更があったわけではないんでしょうけどね、「これで最後だ」と分かっているところで、選手全員の、そして”浦和レッズ”の(そんなに豊かでもないけれど)現在持てる力の全てを、改めて結集することに成功していたという感じ。
余力は事実上無いんですけどね。特に中盤は何とか形をなしているけど、ちょっとつつかれるとすぐグラつくいっぱいいっぱいの状態(で、やがて崩壊)。あのトゥーリオですらかなり上がりを自粛してむしろ促されたりしていましたし、これまで絶対的安定感で支えてくれていた都築は、なぜかこの日はイレこみ気味でちょっと危なっかしかったですし。元々そういうタイプだと言えばそうなんですが。(笑)


セパハンの方は、今更なようですがやっぱり「イラン」のチームだなあという。そんなに細かく構成されているわけではないけれど、平均的な技術の高さと1人1人の特に身体の強さで、じわじわと、なし崩しに主導権を奪って攻め込んで来て、ゴール前では即興のコンビプレーで嫌なとこ嫌なとこ突いて来る。一人決定的な選手、それこそダエイみたいなのがいたらかなりヤバかったかもしれない。この日は特によく枠を外してくれて助かりましたけど。

しかしそういうセパハン、長年日本代表も苦しめられて来たイラン人チームの(プチ)黒船っぷりに比べても、更に浦和レッズはガイジン仕様というか超・日本(人)的なチームで。まあ実際に”ガイジン”の助けも借りてますけど。(笑)
全体的にはさして気持ち良くプレーしていたわけでもない永井ですが、あの距離・あの角度からのシュートにはもう状況関係ない絶対的な自信を持っているようで、素晴らしい集中力で右から左から2発、2得点を生み出してくれました。そしてその2点目のゴール前に殺到したプレーに代表される、いざ決定機という時のチームとしてのスイッチの入り方、本気度の高さと圧の強さ、そして反面の冷静さ。

勝敗を分けたのは試合を決定付けられる選手がいたか/決定する力があったかどうか、と、こういう言葉を日本のチームが対外国チームに、勝った側から言えるという喜び。(泣)
セパハンも”一生懸命”はやりましたけど、客観的に見てアジア代表として最も相応しい貫禄があったのは浦和レッズだったと、そう言っていいんじゃないかと思います。

・・・・と言いつつセパハンも出ること自体はとっくに決まってるんでしたよね、なんじゃそりゃという感じですが(笑)。どちらかと言えば城南を出してあげたいというか、見てみたいというか、場合によっては(心理的に)リベンジしたいというか。まあいいですけと。


それにしても全く困った故障者続出、満身創痍の中で、少し前の平川の成長に続いてここんとこの長谷部の復調は実にありがたかったというかそれが無かったらどうなっていたかというか。ぶっちゃけ中盤で今、走り回っても痛々しく感じないのは長谷部だけですからね(笑)。行ったれ行ったれという。ポンテの運動量は、見た目では分からないけど責任感で無理してるんじゃないかというハラハラが少し。
でもこの試合で途中で下げたのはそれ以上に冷や冷やしましたけど。「いやあ、ポンテだけは・・・・」。それで負けたり追い付かれたりしたらどうしようもなく後悔しそうで。動きが落ちていたようには見えないし、休ませるなら清水戦の方にでもしてくれと。むしろこここそムード第一で”ベストメンバー主義”を貫くところじゃないかなと、僕の感覚では思ったんですが。

まあ大過なくて何より。ワシントンは何が何でも文句言いたいらしいですけど(笑)。(ロスタイムの交代)
オレ?みたいな顔してましたけど、普通にあなたじゃない?という(笑)。まあ多分ワシントンは自分が(これまで)空気乱してる/間違ってるとはこれっぽっちも思ってなくて、勝利の瞬間には自分こそがその場にいて、「みんな」と喜びを分かち合ってしかるべきだというそういう気持ちなんでしょうけどね。


いやあ、ほんとに優勝しちゃったんですね。
A3も含めた今年の日程でこれが出来たのはレッズだけだと、名実共に認めさせる為に、さっさとJも片付けてダフル優勝で箔つけましょう。(笑)
やっぱり”後”が控えていない、二兎を追わずに済むというだけで、同じ疲れていても随分楽というか、前向きにやれると思いますね、この試合を見ても。いつ終わるか分からない中ぶらりんの中で耐え続けるのは、本当に辛かった。

まあとりあえずはビールでも飲んで(笑)。後はどれだけクラブW杯までにフルメンバー/フルコンディションに近付けられるかですかね。その為にも早めに優勝決めたい。(天皇杯とかどうすんだろう)


浦和?清水 

いかん、なんだこの解放感は。

J1第32節 浦和 △0?0△ 清水(埼玉)

週末ごとに試合して、そんでもって目の前の馴染みの相手に勝ったり負けたりしてればそれでいいんでしょ?極楽極楽。


いや、そろそろ勢い任せの連戦モードから抜け出して、冷静にならなきゃいけないとは思ってるんですけどね。煽って勝ち誇って、贔屓を引き倒してばかりでなく。
ぶっちゃけ書いている内容も、最近はループしまくってますし。(笑)

しかしこうして実際にJリーグの日常に帰って来てみると、安心感があり過ぎるというか楽過ぎるというか。確か優勝戦線大詰めなはずなんですけど、気のせいでしたっけ。(笑)


一つには繰り返し言っているJリーグの相対的甘さの問題。それはJのチームが正味甘いという面と、おいそれと出来ない経験を積み重ねて、レッズの元々のタフさ分厚さに否応なく磨きがかかっているという結果的事実としてどうしようもない部分と両方ですが。

エスパルスは他のチームどうしの比較においては、さして恵まれていない戦力をなかなかに優れた戦術的統率と長谷川健太監督一流のソリッドなリアリズムで鍛え上げた好チーム、しかもどちらかというと”しぶとい”部類のそれのはずなんですが、レッズと対峙してしまうとやっぱりいかにも軽量級というかコップの中の嵐というか。基本的に危機感を感じさせられないというか、「戦ってる」実感が無いというか。
この日のレッズの攻撃陣があまりにアレだったので、結果はスコアレスドローでそんな表立って勝ち誇れるようなものにはならなかったですけど。(笑)

そしてもう一つ思うのは、僕自身のレッズの見方・要求水準が、何とも曖昧or大雑把、または微温的なところで落ち着いてしまっていることで。
だいたい動ける状態にあって、最低限ふわふわと前がかりにさえなっていなければそれでOK、試合への態度・具体的対処は、どちらかに点が入った時点で考えれば良いというそんな感じ。合言葉は「便りのないのは良い知らせ」
ディテールにいちいち反応出来る人がある意味羨ましい。(笑)

これはそもそものオジェックの(結果としての)チーム作り自体が正に”曖昧””大雑把”だというのと、それに適応(?)したレッズの(選手たちの)自己組織化の成果に誇りと愛と達観を抱いているというか、抱かずにいられないということでもありますが。駄目だろうが足りなかろうが、これが今年のレッズの全てだ、無い袖は振れねえよべらんめえと。(笑)

それで楽しいかというと、楽しいんですよね、実際。選手たちが限度を越えて辛そうでさえなければ、グダグダだろうがなんだろうが、レッズがそこそこ元気にサッカーをやってくれているのを見るだけで、正直僕は幸せです(笑)。さすがにドーパミンは出ませんが、エンドルフィンくらいは出てると思います。
よっぽど今のメンバーが好きなのと、恐らくそのメンバーたちの集まりの根本の部分に、何かグダグダしたものがあるんだろうと思いますが。


勿論これでも危機意識もあるんですけどね、最低限。具体的には
1.引いて耐え切る為のコンディションを取り戻すこと。
2.(引いてるだけでは守れないので)プレスの際の&プレスとリトリートの適正バランスを見出すこと。

これをACL後(クラブW杯まで)の最低限の必須課題として、Jの「再開」(レッズ的実感)に際しての心積もりとして抱いていました。
1’として”(それとセットで)有効な逆襲を90分間可能にするコンディションを取り戻すこと”を加えてもいいですが、まあ基本的には守備だけですね。攻撃は今まで通り個力と集中力で何とかするしかないでしょう。案外奥は深い、対応範囲は大きいように思いますし。コンディション&メンツさえ整えば。

・・・・・実際にはそんな殊勝な(?)心掛けも、Jリーグののどかさにどっか行きそうになりかけたんですが。

そんな清水戦のポイントとしては、出場停止と故障者続出で、今季でも最低の稼動可能人数のせいでほとんど選択の余地なく実現した、なんか見るからに懐かしい”3?6?1”レッズで。
さすがにこれはワシントンありきのシステムなので、(永井では)お世辞にもさほど機能したとは言い難いですが、それでも雰囲気だけは結構’06年でした(笑)。うわあ、いいなあこの永遠に循環する感じ。または無時間的な祝祭空間。
単に詰まってるというだけではなくて、基本的に”進む”ベクトルが弱いんですよね3?6?1レッズは。それが嫌だと言う人はある程度無条件でオジェックを歓迎したわけでしょうが、僕は好きでしたから、あれ自体。沈滞にも味があった。上手くいけば優雅、無窮。

ああ、でもせっかく永井達也のムービング2トップが久しぶりに見られると思ったのに、達也まで休みで実現しなかったのは残念。
と同時に、どこまで駒落ちしたらレッズは勝てなくなるかという、去年以来の好事家の興味(笑)に、どうやら答えらしきものが見えたような気もするそんな試合でした。さすがに今日のメンバーは落とし過ぎのよう(啓太の出血はいい休養という感じもしますが)。阿部ちゃんの生唾ミドルのどちらかが入ってれば(今頃欲が?)、それでも悠々と勝っちゃったかもしれませんが。

ようやく出番が来た相馬ですが、結構良かったと思います。単純にコンビ不足でそれゆえ中途半端なところもありましたが、プレーイメージ自体はまとまっていた/適切だったように見えました。
特に考えたことなかったですが、何となく3?5?2よりも3?6?1の方がレッズではやりやすいような感じもしますね。適度にスペースが埋まってるのがいいというか(特に縦と中の使い分けのタイミング)。それが分かってもどうなるという当てはありませんが。(泣笑)
対面の平川も十分良かったですね。今まで見た”右の”平川ではベストかも。単純に一皮剥けましたよこの方は。自信持ってやっている。基本的に目端が利くところが、今までは優柔不断・消極性という形で出ていたのかなあという感じ。


そう言えば内舘のマンU戦のアレも、まぐれじゃないことが分かりましたね。(笑)
それにしてもいくら何でもスコアレスドローで幸せになってちゃ先が無いよなと、一応は反省するよう心掛けてみます。


『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(1) 

倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集) 倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集)
岡崎 由美、金 庸 他 (2000/12)
徳間書店

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金庸Wiki

”三部作”として成り立っているはずの『射英雄伝』(’57)『神剣侠』(’59)、そして本作『倚天屠龍記』(’61)ですが、内容的な繋がりの深い『射』と『神』の間には、ご自身の思想的理由によるメジャー紙退社→独立創業という大変化があり(Wiki)、そのせいや自由度の高まりもあってでしょう、文体・スタイル的に大きな違いがあるということは既に書きました
また『神』と『倚天』の場合は、文体的には序盤は似たような暗く重いトーンでいかにも前作の延長という雰囲気がありますが、冒頭の繋ぎエピソード終了後時代が一気に飛んで前作の生き残りは超高齢のほぼ仙人の爺さん(笑)1人だけになりますし、ぼんやり坊ちゃんの主人公張無忌が本格的に活動し始めてからは、文体的連続性もほとんどどこかへ行ってしまいます。

こうして見ると、”三部作”とはいえこの3作はかなり独立性が高いというか、一応最初にまとまった構想が漠然とはあったとしても、結局は前作を承けて、その時々の心境で書いたんだろうなと、そういう受け止め方が自然なのではないかと思います。


『神』と『倚天』のコントラスト

というわけで直近の2作に絞って繋がり・比較を考えてみると、意図的かどうかはともかく、この2作は結構対照的な部分の多い作品のように思います。分かり易いところから例を挙げてみると

1.九”陰”真経(神←射)と九”陽”真経(倚天)
2.反骨と意志の主人公(楊過・神)と受容性と成り行きの主人公(張無忌・倚天)
3.一途で運命的な恋愛(楊過と小龍女)とあちらもこちらも立てて定まらない恋愛(張無忌と少女たち)

といったところ。

そのうち1の”陰”と”陽”の2経については、最初からセットで考えていたわけではなく、”陰”からの連想で”陽”をデッチ上げたような臭いを僕は感じるんですが(笑)、実際にはどうなんでしょう。
というのはこの『倚天』のある意味突出した大きなトピックスとして、「太極拳」(剣)の誕生秘話エピソードというものがあるわけですが、大極派及びその母体となった「武当派」と、ライバル「少林派」の対照を考えてみた時に、明らかに内家の武当&太極が”陰”外家の少林が”陽”とした方がイメージ的にはすっきりすると思います。実際に”陰柔”と”陽剛”というような言い方は、金庸作品やあるいはこの『射』シリーズでもしばしば登場しますし。

それがいずれフィクションとはいえ(笑)、武当/太極が「九”陽”真経」を主な典拠とせざるを得なかったのは、ひとえにその前に独立した重要ツールとして「九”陰”真経」が登場してしまっていた(注・少林派とは無関係)からではないかと、そう思うわけです。
まあ性格的には張無忌はいかにも”陽”ですけどね(笑)。それはともかく。

なおこうしたコントラストが「意図的かどうかはともかく」と上に書いたのは、勿論コントラストそのものは意識していたでしょうが、作品の根本的な構想としてどこまでメインの狙いだったのかは分からないという、そういう意味です。少なくとも結果としてそのコントラストが重要である、というのが僕の今回の論なわけですが。


再び『神剣侠』の特異性

今回はややネガティヴな意味合いで。

『神剣侠』が特異に直接的感情的な作品であり、それゆえに魅力的だということは書きました
しかしそれは即ち金庸作品としてはやはり規格から外れた作品であり、失敗作ではないものの、金庸がその名前の”作家”として伝えようとしているメッセージとしては、少々バランスを欠いたものになっているという、そういう見方も出来なくはないと思います。

それは例えば『越女剣』についての項で書いた、”遠近法”や立体感、相対主義的なもの。
つまり武侠小説ということで、「恩」や「仇」の中国的・中世的な激情の世界を生き生きと描きながら、同時にそれらの意味・意義を自然な形で限定していくような相対化して行くような。登場人物自からがそれを語ることもありますが、多くは読者の視線や心境、作品世界を眺める立場を誘導することで。

そこらへん、『神』はちょっと単線というか、行った行ったの印象があるんですね、”残る”というか。基本的には主人公楊過が”強”過ぎる、能動的過ぎるということだと思いますが。主人公過ぎるというか。極端に言うと楊過が正しくて他が間違っているという話になっているところがある。楊過の「想い」が直接的に肯定されているというか。
それによって読者の視野が限定される、距離感が奪われる。「俯瞰」や「奥行き」を本来とする金庸作品らしくなくなっているというか。

勿論これには事情があって、ちょっと書きかけて放り出してますが(笑)、この作品及び主人公楊過には、半ば近代的な個人主義自由主義的な価値観でもって中国的中世的な価値観とより直接的に対決するというテーマ/使命があるわけです。
だからそっちの戦いで手一杯or義務は果たしているというのと、今回はニュートラル性の優先順位は高くないというのと、そういうことだと思いますが。

ただそれにしても『神』は少しあからさまというか、読んでて気恥ずかしくなる部分はあります。ある意味比喩ではないかもしれないですが、日本で言えばいわゆる少年漫画的、少年ジャンプ的な努力・友情・正義の世界に見えるところがあるというか。なせばなるのか。勿論金庸先生はジャンプなんて知らないでしょうが。(笑)
それにこれも日本で言えば旧型の少女漫画的な、”2人の為に世界はあるの””愛こそ全て”の(楊過と小龍女の)「純愛」が合わさって、まあ例えば事情を知らない金庸初心者の男友達にうっかり勧めちゃったりしたら、「お前宗旨が変わったのか」とヒかれること請け合い。(笑)

・・・・実際にはこうした要素をあの「分別大王」の金庸が、微塵も揶揄的にではなく正面から、あえて描き切ったその奇跡的なバランスがこの作品の面白いところなんですけどね。読んでて燃えないのかと言われれば、そりゃ燃えますけど。(笑)
ともかくそういう性格も持っている作品であるということです。

(2)につづく。


『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(2) 

倚天屠龍記〈第2巻〉黒い刻印 倚天屠龍記〈第2巻〉黒い刻印
岡崎 由美、金 庸 他 (2001/01)
徳間書店

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(1)より。

張無忌という主人公

”『倚天屠龍記』の評判”でも書いたように、というより天下に隠れもない事実として(笑)、”張無忌”と言えば「優柔不断」、ヘタレ主人公の代表としての定評があります。

大きく言えば先行する『碧血剣』(’56)の袁承志や、『射英雄伝』(’57)の郭靖などと同様のおっとりお人好し系の主人公として、(金庸作品では)そんなに珍しいタイプでもないわけなんですが、張無忌のそれはより徹底しています。
例えば”悪評”(笑)のおおもとであろう、張無忌を慕う4人の少女をめぐる女性関係についてでは

(いったい本当のところ、僕は誰を一番愛しているんだ?)
どんなに考えても結論は出ない。
・・・・5巻p349

(ぼくたち五人、みんなで仲睦まじく一生一緒にいられたら、どんなに愉快だろう?)
・・・・同p.350


こういうのを別に色男ぶってるわけでも欲張ってるわけでもなく、真顔で言って(考えて)しまうのが笑えます。同じ箇所で作者自身にもはっきり、”優柔不断”だと地の文で言われてしまっていますね。(まあ、それも技法的には直接的過ぎてどうかと思いますが(笑))

直接ついでに金庸は5巻の解説(’77)で、「われわれと同じごく普通の人間ということか」と再定義を試みています。(作者とは言え、書かれたものについては一人の読者ですから。)
なるほどそういう見方もあるかもしれませんが、ただそうした気弱でパッとしないところもある張無忌は、一面ではあらゆる角度から武術を極めた金庸全作中でも最強クラスの使い手であり、また概ね独立独歩の主人公群の中にあって、珍しく”明教”という一大勢力を率いて中国の大勢を決する力も持ったスーパー主人公でもあるわけで、そういう意味ではその”普通”さは異様であり、ある種過激で不自然な設定とも言えると思います。

なぜそうなのか、なぜ張無忌は単におっとり系主人公という以上の目立つ消極性を性格として持ったのかといえば、やはりそれは前作『神剣侠』の主人公楊過との対比でしょう。
あの徹底的な能動性と行動力、それでもって僕が”少年漫画的”と評するような、かなり恣意的な形でストーリーを動かして行った運命を屈服させて行った、こちらはこちらで異例の主人公、その存在があったから、それとの対比で張無忌の消極性・受動性も形作られた。楊過がいたから張無忌もいた。

・・・・こうした張無忌の性格付けor性格の意味に、何らか底流的な意図があったと僕が考えるのは、一つには例の”太極拳誕生エピソード”というものの存在があります。
つまり太極拳という究極の”柔”の武術、徹底的に相手の力を利用して収めて(”円”の動きで)丸め込んで、決して強引に直線的に倒しに行ったりはしない思想性を持った武術。その誕生がある種独立した存在感と感動を持って作中に置かれているのは、それが隠れたこの作品のテーマであり、それを主人公として相応しく担っていたのが張無忌であるという。剛の楊過柔の張無忌


むしろ”正統”、または”軌道修正”

これまででほとんど道筋は見えていると思いますが、ここで表題の「陰画」の話。
結果的に見ると、しつこいようですが『神剣侠』は金庸にとって例外的な作品でありました、いい意味でも悪い意味でも。ほぼ一回切りの情熱の迸りとして感動的である反面、”構造”を見せることによって間接的に語る、世界や運命と人為や意志を安易に関係づけない、達観や諦念を一つの大きな特徴とする、金庸”らしくない”作品でもあった。

それに対する、三部作構成の中での半ば無意識の揺り戻し『倚天屠龍記』であった、そういう性格を持った作品であると、そう言えるのではないかと思います。

”半ば無意識”と言ったのは『倚天屠龍記』が全体として読み応えはあるけれど余り整理された、明確なメッセージが伝わって来る作品ではないというのと、ややカンニングですが(笑)上の”解説”部分において金庸が、郭靖と楊過と張無忌の性格を、漫然と並列的に描写しているからです。
対立が意識的なら、例えば『射英雄伝』におけるお馴染みの”郭靖と楊康の合わせ鏡”を、世代を経てより極端なものにした(つまり郭靖の無欲と楊康のエゴが、張無忌の超受動と楊過の超能動に)とでも言えば「万事計画通りだよ」と言い募れるわけで。(笑)

・・・・まあこれは見方によっては僕の解釈の根拠に対する薮蛇でもあるわけですが(笑)、気にしません。上でも言った通り、作者は全部知っているわけではない。最近とみに思いますが。

再び張無忌の性格の話をすると、その後金庸は、例えば優柔不断どころかそもそも”意志が無い”主人公(『侠客行』(’65)の”のらいぬ”)や、意思/本音とは裏腹な方へ裏腹な方へ名を上げ出世して行く主人公(『鹿鼎記』(’69)の”韋小宝”)などを使って、次々と傑作・怪作(笑)を書き上げて行きます。
これを見てもむしろ張無忌的な、”流される””巻き込まれる”主人公、あるいは登場人物の能動的な意志などではなく、ストーリーや運命そのものが主役であるような作品の方が、金庸的には正統・王道であるのは明らかだと思います。あるいは色々書いてみて、ここで芸風を確認したか。


個々の「内容」について書くべきこと/書きたいことは尽きないですが、総論としての、位置付け的な意味での『倚天屠龍記』についての僕の解釈は以上です。
最後に実は『倚天屠龍記』は『倚天屠龍記』なりに少年漫画である、ということを番外編的に書いて(笑)、今回は終わりにしたいと思います。


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浦和?鹿島 

色々と冷水。・・・・冷や水じゃないよ?(笑)。誰が年寄りじゃ。

J1第33節 浦和 ●0?1○ 鹿島(埼玉)

なんかこう、負けるように仕組まれていたような感もありますけどね。


ようやくというか何と言うか、さすがに鹿島は成績が伊達でないと感じさせられるところはありました。看板も。

いつものように、万年膠着気味というか、あまり活発な感じのない立ち上がりになりましたが、それがこちらのペースに引きずり込んでいる感じでも位負けしている相手を適当にあしらって流している感じでもなく、圧力が拮抗した結果というか場合によっては鹿島にペースを握られているのかもという、そんな不安がちらつかなくもないそういう感じで。
どのみちそんなに熱量の多い試合でも鹿島が素晴らしかったわけでもないんだとは思うんですけどね、のどかさに慣れてしまっているのでその分の戸惑いが。

正味”クオリティ”で勝負しない習慣が身についたまま「結果」として、ただし「ほぼ常に」勝って来ているので、出来れば今日もそんな感じでこれといったはっきりした工夫は無いまま、「気が付いたら」勝っていたいなというそういう気持ちはどうしても働いて。で、ぼちぼちこの日の拮抗ペースにも順応して来た頃になんだなんだという感じの赤紙が前半終了間際に出て、労せずして数的優位が生まれて。
ああ、やっぱり勝つのかなという気持ちと、なまじちょっと怖がった後だけに、余りにも話が上手過ぎるんじゃないか危険だぞという気持ちと両方生まれましたが。

不安が元々無ければ大威張りなんですけどね。どのルートを通って勝つかというだけの話なんで。ほっとした自分を知っているだけに、微妙な後ろめたさというか、成果を受け取ることへの躊躇が。


試合としては、10人で当然引き気味になった鹿島に対して、浦和は攻めなくちゃいけなくなるわけですけど。本来悦びである”攻め”が、”なくちゃいけない”という表現になってしまうところが大いに問題で(笑)、思うように上がって来ないわ上がって来ても気が揃わないわで、ポンテあたりは怒りまくってましたが。”攻めあぐね”以前の状態。

前のブロックに書いたのは基本的には単なる僕個人の気持ちですけど、やはりそうなる(攻撃態勢になる)までの流れに問題はあったように見えて、「見下ろして攻め潰す」わけではなく勿論「決然と攻め倒す」わけでもない、「狙い澄ましたカウンター」でもないし、隙を突いたor力関係の押し引きの「自然的帰結としてのなだれ込み」でもない。
要するに攻撃モード用のメンタリティのどれにも当てはまらないような降って湧いたようなぎこちない「攻勢」で、つまりは浦和の攻撃の代名詞であり生命線である『集中力』、無意識的な統一感がとても発揮し難い状態だったんですね。はっきり言って言い訳ではありますけど。(笑)

そうなると、ここまでの成績を収めているチームとしてはある意味異例なことですが、様々個別の武器はあっても、事実上攻めの形、チーム全体を巻き込むような基本的な攻撃の進め方が全くと言っていいほど存在しないという隠れた実態が、白日の元に曝されることになって。
正直途方に暮れていましたね。

そしてそこまでの過程は色々ですが、そういう「中途半端な攻勢」というのがレッズのほとんど唯一最大の負けパターンだというのは今まで何回も言って来たことで、この試合も精神的な不統一と物理的な間延びを突かれて、注文通りカウンターの一発を決められて。まあその際のパスもシュートも、それ自体は見事なものではありましたけど。
後は焦るだけで力感も正確性もあまりない、しかもなんかポツリポツリと変に途切れる攻撃を繰り返すだけで、個々の技術の割には予感のない状態のまま、結局最後まで。

交代策も不発でしたし。小野が入っても相馬が抜けて、永井がサイドに回ることになってそれはプラスなのか?トゥーリオが上がっても枚数増えてないじゃないか。結果的に永井はいいプレーもしましたけど、でも別に永井がやる必要も無いプレーだったと思いますし。平川→細貝のマイナス分はそのままでしたし。どうもちぐはぐ。

・・・・あ、訂正。”焦る”というより”怒る”んですね、レッズの場合。個々人の凄まじいプライドの集合体なので、揃ってないと極端にバラバラ。物凄く仲悪くさえ見える。(笑)
それぞれにはやってるんですけどね。その中でそれでもたまにハイレベルのコンビネーションとかもあったりするんですけど。でも全体としては喧嘩してるように見える。


とにかく、来年はもっとちゃんとチーム作りたいなという気持ちになった試合でした。・・・・いや、”仲のいいチーム”という意味じゃないですよ?(笑)。悪くはないんですってば(笑)。そんな話では。
そうではなくて基本形のあるチームということで。その上での百鬼夜行ならば大いなる武器。

で、何が「冷水」かと言うと、なんだっけ。
そう、まずは勿論負けたこと。それからまた勿論、基本戦術の不在を再認識させられたこと。そして別に”世界”や”アジア”に行かなくても、鹿島くらいの対抗力のチームは、Jでも普通に(もっと)出て来てもおかしくはないんだという可能性を認識させられたこと。・・・・かな。

まああれですよね。個人的にJの方の優勝を多少舐めた発言も何回かしたと思いますが、実際のところ当初の予定通り対象がガンバなら、この日で決まってたわけですよね(笑)。負けても。
鹿島がここまで巻き返して来たのが予定外だっただけで。8連勝は尋常じゃない。
最後はちゃんと。ね。横浜FCは。あんまり世間をびっくりさせないように。(笑)

・・・・こっち引き分けででも鹿島もとかも、凄くありそうですけど。(笑)
いやあ、しかしそれは。締まらない。やっぱ勝たないと。鹿島は別として。


少年漫画としての『倚天屠龍記』 

『倚天』総論(1)(2)
あるいは漫画としての金庸。どちらかというとウブな読者向けの、浅?い説明です。


初めて金庸、具体的には『秘曲 笑傲江湖』を読んだ時は、その身も蓋もない読み易さ・面白さに、「なんじゃこりゃ、漫画だな」といい意味で(笑)呆れたものでしたが。
ちなみにいくつか読んだその後に『神剣侠』(の序盤)を読んだ際は、その”超・続編”ならではのスピード感・ダイナミズムに、「これはついに漫画を越えて(?)アニメだ。あ、いまシュッという音がしてキャラが飛んだのが見えた」と来るところまで来たことを感じた訳ですが。(笑)

一方で「金庸≒ライトノベル(Wiki)」という認識は、今やそのスジでは隠れもないものになりつつあるようですが、比喩として有効なほどまだ(ライトノベルが)一般的に認知されているとは思えませんし、僕自身当時は知らなかったのであくまで「漫画」という比喩で語ると、確かに金庸には漫画的な部分が少なからずあると思います。
より正確には、日本なら「漫画」が満たしている需要のかなりの部分を、中国では金庸/武侠小説が担っているということです。

これは言ってみれば単に論理的な話で、
1.「ストーリー漫画」というジャンルがここまで確立・隆盛・充実しているのは、日本だけである。
(日本が異例なので中国が殊更おかしいわけではない)
2.日本ではもうそのジャンルの存在自体が呼び起こしている部分はあるとしても、ジャンル誕生の元となった基本的な(広義の)文学的的需要は、かなりの程度普遍的なものと考えられる。
3.だから武侠という(日本の「漫画」同様)原則的に明からさまに娯楽・通俗的なジャンルに金庸が手を染める際に、自然「漫画」的需要に対応する側面も多分に含まれることになる。

言い替えれば日本なら「漫画」で書かれたはずの要素のかなりの部分が、中国圏なら(他にもあるんでしょうが)武侠で書かれる、あるいは才能・書き手がそこに流れているだろうということが推測される訳ですね。
金庸自身は日本の文化事情とかはほとんど知らないようですし、中国に限ってもそんなに先鋭的なジャンル意識でもって書いてはいないように見えるので、”無法地帯で書きたいことを書いている”という感じかなと思いますが(笑)。そういう意味で甘いところも沢山見えますが、大衆文化に悪擦れした日本人読者的な目では。


で、『倚天屠龍記』ですが。
(1)で『神剣侠』が少年ジャンプのバトルもの的だと書いたのは、はっきり言えば分かり易くする為のこじつけでした(笑)。そうだと言えばそうだし、関係無いと言えば関係無い。

しかし『倚天屠龍記』の悪名高い張無忌の”女難”、優柔不断で受け身の八方美人(美男?)ぶりの方は、これはもうどうしようもなく、少年漫画やそれ系のアニメのある類型を連想せざるを得ません。言葉としてはなんでしょう、うーんラブコメ?萌えアニメ?、とにかく
「気弱な/おっとりした男主人公が、なんだか分からないけれど結果的に色んなタイプの美(少)女にモテモテになり、くっつきそうでくっつかず落ち着きそうで落ち着かず、延々振り回されたり美味しい思いをしたりするさまを描く男の願望充足ストーリー」のこと。

もう”どれ”と言う必要も無いように思いますが(笑)。今だったら深夜帯やUHF局系でやってるアニメの大半は、そうした要素を満載しています。コンビニで片っ端から男漫画誌を立ち読みしてもよろし。(特にヤンジャンとか?)
だから『倚天屠龍記』のそれに対する女性読者のヴィヴィッドな不審や反感に満ちた反応を見ると、ニャハハという感じにどうしてもなります。そういうものなんだと言うしかないです。ひと足飛びに言うならば、結局男は「モテたい」のであって「”恋愛”がしたい」わけではないんだというか、「決めないor沢山いることに意義がある」というか。
もう一つ言えば、「受け身でいたい」「責任を背負いたくない」ということでもありますか。以上それぞれ深い理由とかは面倒なので割愛しますが(笑)、とにかくそういう普遍的な願望はあって、それによってこれだけの類似のストーリーが飽きもせず氾濫している。・・・・女の方にも何かそれに相当するものはあるんでしょうけどね。

と同時に、書いた当時そこそこオッサン(37才)の、かなりな教養人の金庸先生にも、あるいは中国人の男子(笑)にもおんなじようなものがあるんだなあと、苦笑い。
まあ、あるんでしょうけどね。あるんですよ。性は国境を越える?
ちなみにくだんの『倚天屠龍記』の4少女を、そうした観点から類型として考えてみますと・・・・

趙敏・・・・ツンデレ

小昭・・・・メイドさん?(笑)

殷離・・・・いつまでも主人公にお姉さんぶった口を利きたがる幼馴染?

周芷若・・・・デレツン?

ツンデレはもっとずばりなのが『鹿鼎記』あたりにいましたが、それはまたその時に。(笑)
周芷若はよく分かりませんね。類型以前にキャラとして崩壊している気がします。後年のヒュードロドロ恨み晴らさで置くべきかな姿に、どう透視してみても(笑)光明頂攻防戦あたりの気丈だけれど可憐な心根の真っ直ぐな少女の姿は重ねられません。
強いて言えばもっと(互いに)幼い時の、玄冥神掌の寒毒に苦しむ張無忌をせっせと看護する小さなお母さん的な姿に(一瞬でしたが)、情の濃さと独占欲と、それが裏返った時にどう出るかみたいなそんな教訓(笑)を見て取れないことはないですが。

現実には「デレ」で入ったものが「ツン」になってしまった時の女の怖さというのは最大級で、正直手の施しようがないというか、類型化して取り込みようがないというか。「嫌い」より「失望」の方が重いということか。撤退あるのみ。
ともかくここだけ変に現実的というか、一般文学的で、そういう意味でも違和感を覚えます。背後霊の(笑)滅絶師太の怖さなんかは、えげつないとは言えそれなりに作品の一部になっていると思うんですが。周芷若のパートは根本的に気持ちが悪い。ぶっちゃけ何をそんなに怒ってるのかピンと来ない。事実関係を追ってみれば、なるほど裏切られてると言えばそうなんですが。なんかね。

・・・・そんな感想はそれでいいとして。


とにかくこれは深い理由があるというよりも、類型的な願望の反映した設定だということですね。
やろうと思えば張無忌の「魅力」or「もてる理由」について語る、ひねり出すこと自体は出来なくもないかも知れませんが、作者が最初から考えてもいないだろうところを無理矢理カバーするというのも。(笑)
まあ(2)で述べた(太極拳的な)「受け身の哲学/美徳」みたいなところで、とりあえず了解しておけばと。

以上、ラブコメとしての『倚天屠龍記』という話でした。(そうなのか?)
ま、別に『倚天』に限った話ではないんですけど、いい機会だから書いておこうと。


試合は見てません 

更新待ってる人がいると悪いので、早めに言っておきます。

天皇杯4回戦 浦和 ●0?2○ 愛媛FC(駒場)

そうかあ、テレ玉かあ。BS1しかマークしてなかった。TVガイド誌頼りだとこれがあるんですよね。


こういう結果になると、ある意味では凄く見たかった気がしますけどね。
大きい会場(で空いてたら)だったら頑張って行こうかなとも思ってたんですが、駒場じゃ怖くて行けませんでした。(笑)
いやあ、ひと足先にこっちで世間をびっくり(末尾)させるとは。ううむ。

0?0延長くらいはあるかなと、更に言えばその展開一番(疲労が残って)まずいなとか思ってたんですが、また随分物分かりのいい負け方で。
まあ一番のびっくりは、オジェックがちゃんとメンバー落としたことですけど。そういう意味では幸いで、あと年末のスケジュールが楽になったことは目先の問題としては幸いですけど、さすがに負けちゃいかんとこですね。出場権がどうとか別にして。


ただ直前の日曜日に愛媛とやった当事者()としては、なってみればそんなに驚くような結果ではないですけどね。体感的に。アレとコレがぶつかると、こうなりそうな気もするけどまさかなあ、腐ってもレッズだしという思いが想像を堰き止めていただけで。
レッズの怖さを肌では知らない、また身分的に負けを恐れる必要も無い愛媛が、無心に持ってるものをぶつけたら、あれ?結構簡単に突き抜けちゃったぞというそんな感じでしょうか。

やっぱりJ1チームはレッズを恐れ過ぎなんですかね。メンバー落ちというのはありますけど、ベースとなる後ろの方はそんなに変わってないですし。
王様が裸だというのがバレるのが、ここまで引っ張れて良かった。さすがに最後の横浜FCなら、意地だけでもどうにか出来る力はあると信じてますけど。”最後”という分かり易いシチュエーションには、圧倒的に強そうですし。

来年出直しだ。・・・・と気分的には言い切りたいところですが、まだまだそうもいかないのは周知の通り。(笑)


この試合については結局は「ポンテ抜き」という問題なのかも知れませんが、それはちょっとさすがに見てないと何とも。
崩れる心当たりはいくつもあっても、どういうタイプの崩れ方だったのか。
それにしてもポンテがいない時に小野もいないというのはどういう事情なのか。大好きな選手ですけど、さすがに今年の抜け方はちょっと心証悪いですね。少しくらい助けてくれよという。

これくらいかな。この日の結果が万が一V逸と併せ技になっちゃったりしたら、真面目にACL制覇の得点吹き飛ばしそうですけど。・・・・そう言えばナビスコもあっさり目に負けてたな。ゼロックスの悪夢とかも今更ですが一応。あれ?ひょっとして今年”谷”?(笑)
いや、大丈夫です、大丈夫。今年は持ちます。来年は知りませんが。多分。


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