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良かった良かった 

小野2アシスト! 鮮やかデビュー(スポニチ)

ドイツ1部リーグで小野伸二が加入したボーフムは3日、アウェーで2位ブレーメンに2―1で逆転勝ちし、小野は途中出場で2アシストのデビューを飾った。小野は後半22分に交代でトップ下に入り、1分後に右からのパス、39分には左CKで得点を引き出した。(中略)

卓越した技術はさびついていなかった。小野はドイツ到着後1週間足らずで公式戦のピッチに立ち、強豪ブレーメンの守備を手玉に取った。リーグ屈指の技巧派と評される相手のブラジル代表MFジエゴもかすむ活躍で、逆転劇の主役となった。トップ下に投入されて1分後、ゴール右へ走り込んで後ろからのパスを折り返してアシスト。ソフトタッチで味方がシュートしやすい球を何げなく繰り出す技術が光った。後半39分には右足でカーブをかけた左CKで2点目を演出した。


どんなに経緯がグチャグチャでも(笑)、素直にそういう言葉が出て来るのがこの人の人徳というもので。まずは良かった。

前回の後、変なところでありゃりゃと思ってしまったのは、TVKで見ていたKTV系『たかじん胸いっぱい』で、”各界の収入比較”みたいな企画をやっていまして、そこでなんでサッカー代表で小野伸二の名前が出ているんだろうと素で訝っていたら、Jリーグ日本人最高年俸だからだそうで寡聞にして知りませんでした
それで去年一昨年の働き/扱いではまずかろうと、今更問題意識に目覚めちゃったりしましたが(笑)。(まあ金額の根拠はオランダとの年俸格差なんでしょうけどね)

夢的なことを言うと岡田ジャパンのスローガン「接近」戦術は、ある意味小野みたいな選手にはぴったりだとも思うので、そんな感じで頑張って欲しいです。
シドニー予選で見せた俊輔との超高速ダイレクト交換、”フラッシュパス”による密集突破よ再び。


長谷部初陣に監督も地元紙も合格点(スポニチ)

浦和からドイツ・ボルフスブルクに移籍したMF長谷部誠(24)が2日、アウエーのビーレフェルト戦で上々の海外デビューを果たした。後半開始から4―4―2の左MFで出場。途中からボランチに下がり、1―0の勝利に貢献した。
(中略)
マガト監督はポジションを変えたことについて「サイドはうまくいかなかったので真ん中をやらせた」と説明してから「最後はいいプレーを見せてくれた」と評価した。3日付ビルト紙の採点はチーム3位タイの3点で、及第点を与えられた。


ついで(?)にこちらも。
長谷部の方もまあ、少なくともオシムよりは遥かに岡田さんの方がチャンスはあるだろうと思いますね。トップ下か、その一つ下(サイド)か、どちらにしてもプレーイメージは合う。
ただこの人の場合どんなチームでもやれることはやれるはずなので、むしろ「海外組」としてハクがつくこと(笑)、及びコンスタントに出てることの方が重要かも。

・・・・まあ小野よりも長谷部よりも、合流予定先の岡田ジャパンそのものの方が、実際には心配なわけですが。(笑)
この二人が抜けたレッズも、気が付くと結構心許なかったりして。僕レッズの場合はめんどくさくてあんまり「理想/予想メンバー」とか考えないんですけど。誰かが何とかするだろうと。(笑)

そんな感じの今日この頃。ブンデス見たいなあ。


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金庸派究極奥義 ?『侠客行』(1) 

侠客行〈第1巻〉野良犬侠客行〈第1巻〉野良犬
(1997/10)
金 庸、岡崎 由美 他

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カテゴリーを再構成して、(総論)(各論)の区別とかまた曖昧にしちゃってますがすいません。
・・・・ああ、いっそ全部書き直したい!(それは駄目、ゼッタイ)

その中でも結構何書くかかなり困った『侠客行』の、今回は”総論”っぽい内容。
困った理由はつまらないからではなくて、逆に面白くて満足してしまうから。というのと、やっぱり・・・・内容が無いから。(笑)
だから主に形式についての話と、その「形式」自体が何を意味するかということを書こうかと。


金庸作品の基本的特徴

金庸作品全般に、見た目の特徴として通じるものを挙げてみると、こんなのが特に印象的かと。

(1)巻き込まれ型の主人公 ・・・・多くは消極的受動的or非社会的性格
(2)偶然的要素の大きい武芸修得
(3)主人公の意思や本意とは裏腹or無関係なストーリー展開


ある意味では全部同じことですけどね。

(1)巻き込まれ型の主人公であり、主人公は性格的にぼんやりおっとり、もしくはだらしない(笑)か、そうでない積極的or鋭敏な性格である場合も、社会的なことや立身の類には興味を持っていない
大別してみると、こんな感じ。
 前者:袁承志(『碧血剣』)、郭靖(『射英雄伝』)、張無忌(『倚天屠龍記』)、狄雲(『連城訣』)、
  段誉、虚竹(『天龍八部』)、狗雑種(『侠客行』)
 後者:楊過(『神剣侠』)、令狐冲(『笑傲江湖』)、韋小宝(『鹿鼎記』)
 中間:陳家洛(『書剣恩仇録』)
 例外:胡斐(『飛狐』シリーズ)、蕭峯(『天龍八部』)

陳家洛は基本的に天下国家の人ですし、性格的にも普通の人だと思いますが、”優柔不断”の悪評が高くて(笑)実際にそれにより作品に積極的な性格が失われているので、玉虫色の評価。
胡斐はよく分かりませんね。頭は切れますし父親の因縁にけりをつける問題解決の意欲も揺るぎないので前向きな人物と言っていいんでしょうが、そもそもどういうキャラなのか。『飛狐』シリーズそのものと同様、クオリティが低いわけじゃないんですが何か浮いた感じ。

蕭峯は苦難により後半はかなり厭世的になってますが、基本性格としては/何事もなければ丐幇の幇主として国の為民族の為尽くしたでしょうから、まあ例外ですかね。
ただし『天龍八部』という複数主人公のストーリーだからこそ、その1人として存在を許された捻りの無い人物像だと思います。実はあんまり僕好きじゃないです。興味無いというか。

あと韋小宝は”出世”はしますけど、あれは至って個人的な快楽主義・自己保存が、たまたま国家スケールで展開してしまっただけ(笑)なので、「社会性」とも「前向き」とも言えないでしょう。

そうした巻き込まれ型の主人公は、必要なスキルを努力や自ら求めてというよりは、僥倖や行きがかりで身に付けるのが常です。・・・・(2)
またそうして(笑)パワーアップした主人公たちはそれぞれに活躍しますが、所詮巻き込まれ型で太いモチベーションを持っていないので、ストーリー全体の中で彼の意思は必ずしも中心的位置では機能しません。”する”というより”なっちゃう”のが金庸のストーリーの基本です。・・・・(3)


正に”金庸”な『侠客行』

そしてこの’65の『侠客行』は、こうした金庸スタイルを純化した、そのエッセンス、技法の骨組みだけで出来上がっているような作品で、それゆえ「内容」というほどの内容が存在せず、いわゆる”感情移入”は難しいタイプの作品という定評。

項目別に見ていきますと
(1)
名前を知らないことに象徴されるように、出発点として「自己」や「自我」の意識のようなものをほとんど持っておらず、積極的/消極的という以前の無意志的なパーソナリティ。
(2)
最初に教わった武芸は上達の為ではなく、修練を誤らして自滅を誘う為。その危機を脱させた一撃は殺す目的で放たれたものが、正に僥倖として作用したもの。次に身に付けた「羅漢伏魔功」は、本人は人形で遊んでいるつもりでいたものが、その無欲が幸いして古今屈指の修得困難な武芸を自然に身に付けることに。
その後も主に他人の都合でひたすら受け身でいくつかの武芸を身に付け、最後には天下の名人達人が数十年頭を悩ました侠客島の武芸を、字が読めない/悩ます頭が無いという理由でその気もないのにあっさり身に付ける。
(3)
(1)のようなパーソナリティなので、他人や状況に反応するだけで、さしたる目的意識も持たずただただ流されるのみ。しかしなぜか結果的に事件の中心に位置し続け、あれよあれよと息付く間も無く話を転がす。

という具合で、徹底的に空虚というか、形式的というかパズル的というか。わざとらしいほど技巧的な、偶然の組み合わせで出来た作品。
それを無内容無感情と抵抗を感じるか、徹底ぶりとそこから来るスピード感、エッジ感、カラッとした馬鹿馬鹿しさを快と感じるかで、好き嫌いは分かれるようです。

公平に言って金庸の「仕様書」みたいなところはあって(笑)、それが習作や初期作品としてではなく、ひと通り書き終わった挙句の後期の作品(ラスト3作)として書かれているのが面白いところ。
つまりはこれは金庸の一種の「自己認識」であると、そう言って間違い無いと思います。

前後の状況的なことを言えば、その前に書かれているのが『天龍八部』(’63)、最長クラスのかつ最高クラスの複雑な構成を持った、それまでの蓄積と経験を一度全部まとめて注入しようとしたような、多少これ見よがしな作品で。
そうしたやや恥ずかしいタイプの(笑)”集大成”作品の経験を元に、またそこで色々滞留していたものを出し切って、今度は冷静にシャープに、ミニマムなアプローチによる、これはこれで”集大成”な作品かなと。

・・・・ついでに、だとすれば、また次の『笑傲江湖』(’67)は、両者の中間のバランスの取れた作品、かな?


というわけで表題の意味ですが。
とりあえず全部書いてあるカタログ的な『天龍八部』(か読み易い『笑傲江湖』)が一般門弟向きの”奥義書”だとすれば、不親切だけど凝縮度の高い『侠客行』は、限られた高弟向きの奥義書であると、そんなまとめ。

次からはその”内容が無い”中で、しかしその「形式」の中に込められた「内容」(ややこしい)について、書いてみたいと思います。

侠客行〈1〉野良犬 (徳間文庫)

”知”と”非知” ?『侠客行』(2) 

侠客行〈第2巻〉闇からの使者侠客行〈第2巻〉闇からの使者
(1997/11)
岡崎 由美、金 庸 他

商品詳細を見る

承前
『侠客行』から無理矢理テーマを引き出す作戦その1。(笑)


”純”な男の価値 ?中国人の男性/性差観

我々日本人読者が金庸作品を読んでいると、作者金庸が意識的に「伝え」ようとしていることとは別に、むしろ中国人として無意識に/お約束として依拠・前提としていることこそ逆に面白かったりしますが、その内の一つとして僕が読んでいてあれ?と思ったのは、中国伝統文化における男性観、性的役割分担観。具体的には男が”純”であることの価値感。

代表的には勿論『射英雄伝』の郭靖、あるいはjinyuさんなどがよく指摘しておられる、郭靖の中国における、日本人には奇妙なほどの絶対的人気。
それには勿論、”大侠・郭靖”としての「国に尽くす」という、これも中国的な大道徳の要素も絡んでいるわけでしょうが、しかし現代の読者に彼が超・鉄板のヒーローとして受け入れられるに当たっては、彼の日本人からすると「ちょっと足りないんじゃないのか?」と少し引きかねないような(笑)人の良さ、盲目的な誠実さが、王道的な”ヒーロー”像/人間として純粋にプラスの属性として受け入れられているという、そういう土壌の存在が感じられるのですが。

実際にはこういうテーマ化し得るような大きな人物設定の問題というよりは、作品群の端々で、あるいは全てのキャラクターの描写における押し並べての価値基準としてそういうことを感じることが多々あって、基本的なところで中国人は純な男、男の「真心」に最大の価値を置き、才気とか現実的能力とかは、ヒーローとして副次的な要素であるようで。
勿論日本にもこうした感じ方は無くはないんですが、ちょっとスケールというか思い入れの熱が違うというか。まあ韓国ものなどでもそういうことは感じなくはないので、これは日本人が感情的に淡い/薄いか、中韓に前近代的心情がまだ色濃いとか、そういう一般文化的理由もあるのかも知れません。

で、ともかくその場合逆に女の側にどういう属性が帰せられるかというと、それは「気働き」であるとか「駆け引き」「打算」であるとか、そういうもっと分かり易く現実的外面的な”能力”で、何やらアダムに対するイヴ(エヴァ)的なそういう神話的古代的偏見(笑)の臭いもしなくはないですが、まとめて言うと、

 ”男は愛嬌、女は甲斐性”

的なコントラスト。頭を使うのはむしろ女の役目。男は心を使う。(?)
まあ逆に、実際の男に真心がないことの反映的願望かもしれませんが。(笑)

話戻して”純”という言葉自体について言うと、例えば少林派などの正統的武芸などについてよく言われる、「至純」の境地のような表現。色々目を配るよりも一つの道を真っ直ぐに極めるのが尊い・強いという価値観。
勿論それはあくまで世界観の基本設定であって、実際には金庸は主人公たちに様々にハイブリッドな上達を施して、それによってスペシャリティを、常識の超越をさせるわけですが。


”知”から見る”非知”

と、いうのは例えばの前フリですが。(長え)
より金庸的に言うと、彼自身は能力的にも階級的にも相当に知的な、「知」の色彩の濃い世界の住人であり、その自負も使命感もたっぷり備えているのは明らか。また世に様々頭の良い人がいる中でも、どちらかと言えばその・・・・はっきり言うと少しそれが小賢しい、鼻につくような出方をしないでもない(笑)タイプの人/作家だと思います。

勿論自分の「武侠」文学をこのような複雑で示唆的で、かつ突き抜けた快楽性を持ったものとして(ジャンルとして)構成したそもそもの見識・手腕自体は、間違っても単なる軽薄才子でも俗物知識人のものでもないとこれははっきり言っておくべきですが、気質というか手癖的に、それほど機微や情に通じたタイプの人ではなくて、ある意味”情”すらも理論的にやっているところがある。

そうした傾きを自覚しないわけはない(たまに吐露もしてますね)金庸にとって、例えば男の”真心”、あるいは素朴で一途で純真な心情のようなものは、ある意味では憧れであり、微妙にコンプレックスを掻き立てられる要素でもあるのだと思います。
程度の低い人の場合はそうした自分の苦手なものを、価値的に下に書いて自己防衛したりということも可能でしょうが、それをするには金庸は賢過ぎる。

その流れでより一般的に言うと、真に知的な人ほど、その逆の”非知”の価値が分かる、分かってしまうものなのですよね。既に十分な”知”を得ていれば、それに無闇な幻想や強迫観念は持たずに、逆にその限界を日々感じながら暮らすことになる。
そしてそれとのコントラストや境界付けで、それぞれの”非知”がどのような意味と価値を持ち、”知”とはまた違う特有の困難があるかを理解し、尊敬することになる。攻撃の対象とするのはむしろ中途半端な”知”の方。


半端なものは好かんというのは、この前の”愛”の話とも通じるところがありますが。悪人は正機に、大愚は大賢に通じる。ある意味ではこの世の「外」からの視点も持っている人でありますし。
結論的に何を言いたいかと言いますと、どうして金庸がホケキャラ系主人公を書きたがるか(笑)というと、それは
1.純真さに対する中国的な土壌を背景にし、
2.知を極めたものとして非知の価値を十分に知っていてそれを描きたいと思っている

からだというそういうことですね。

そしてその究極が、『侠客行』の主人公”狗雑種”であるという、そういう話。
やっぱ狗雑種最高!(笑)


もう一つ行きます。

侠客行〈2〉闇からの使者 (徳間文庫)

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