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浦和?札幌(’08) 

日々是サッカー。

J1第9節 浦和 ○4?2●札幌(埼玉)

またはそれでもサッカーはつづく。


昔々、まだJリーグに「チャンピオンシップ」っちゅうものがあった頃(笑)、Jリーガーは大変だなあ、プロ野球選手に比べてと、よく思っていたりしました。
この感想の元となっているのはプロ野球の「日本シリーズ」と比べたデフォルトの重みの差で、日本シリーズがJリーグ創設以前までの僕を含めた日本の野球ファンにとって、セ・パそれぞれの優勝チームの対戦というだけで、例え自分の贔屓チームが出ていなくても自然と関心が高まり、実際に見てもたまらない緊張感があったのに対して、「チャンピオンシップ」の方は正直第三者の大部分にとってはほとんどどうでも良くて、一応義理で盛り上がろうとはしてみても結局”Jリーグの1試合”という以上のものではない。偶発的個別的ドラマが生じることはあるとしても。

その原因としては勿論レギュレーションの問題、数ヶ月前の「1stステージ」の優勝チームとつい最近の「2ndステージ」の優勝チームの対戦という非対称さ、それから4?7試合かけて山あり谷ありの日本シリーズに対して、たった2試合のホーム&アウェーで、リーグ戦の蓄積がカップ戦的に上書きされて『優勝チーム』が決まってしまうという不条理さがあるのは、当時よく言われたことですね。

ただ更に背景・深層を探ると、これは特に当該チーム以外のファンの関心の問題として重要だと思うんですが、要するに”チャンピオンシップ”を争っている両者の「優勝」に、セリーグやパリーグの代表のそれほどの重みやリアリティがない、自然な敬意を集められない、だから他人事であるという、そういう面が存在していたように思います。まあ勝手にやって、名目上のチャンピオン決めてくれよと。

これも一つの原因として短期シリーズのステージ優勝者であるという制度的な問題があって、そこらへんは1シーズン制になって、だいぶ改善はされたんだろうと思います。現在はチャンピオンシップ自体がないので、将来Jリーグが地区リーグ制にでもならない限り、”改善”の成果を試すことは出来ないわけですが。(笑)
・・・・近いのは入れ替え戦ですかね。あれは確かに、第三者的にも面白い。


と、ここまではほとんどネタに困っての思い出話で(おい)、ここからが本題。
チャンピオンシップというのは一つの象徴ですが、Jリーガーがなぜ「大変」(と思った)かと言うと、それは『優勝』の重みが絶対じゃないから、言い換えると『優勝』するだけじゃ許してもらえないから。not enough.
ではそれ以外に何があるかというと、その優勝の「内容」を厳しく問われるわけですね、しかも前年・前々年等の優勝チームに比べて。レベルで上回っているか、内容が豊かになっているか、「世界」に近付いているか。毎年のことなのに(笑)、”進歩”するのが当然と見なされている。

プロ野球でこんなことはほとんどなくて、そりゃ「管理野球」か「野武士野球」か、「買い集め型」か「育成型」かみたいな論議はありますが、はっきり言って単なる趣味の問題で、勝利・優勝の価値そのものは常に絶対的で、目標として純粋。
”進歩”とかは器具の進化と共に自然に起こるべくして起こるだろうと、それくらい。

これには歴史的な競技構造的な違いがあるのは明らかで、世界スポーツであるサッカーは常に時の最高レベルとの比較に曝されていて、特に代表強化の為に創設された、実際に代表サッカーへの注目・人気に主導される形で発展して来たJリーグはそう。
野球でもアメリカ大リーグ打倒というのは悲願ではあるわけでしょうが、当面は差が大き過ぎてまともに比較の対象にならなかったですし、それで国内リーグに専心して歴史を積み重ねている内に、特にリーグぐるみで意識的に何かやったということでもない割りには、「いつのまにか」という感じでさほど見劣りしないレベルに到達してしまったという現状。経済的な実力差とかはまあ、別の問題として。

とにかくプロ野球選手が、目の前の日々の試合を勝ち抜くだけでほぼ完全に満たされている(いた)のに対して、Jリーグの場合は常にそれ以外の視点、客観的というか公共的というか、内容をチェックする厳しい/うるさい目というものが外野は勿論自分たちの内面にも存在して、尻を蹴り続ける。(笑)
これを大変だなと思うのは基本的には僕の野球ファン的感覚の部分であって、サッカーファン的には別に当たり前のことなんでしょうけどね。


で、こんなことを思い出したのは勿論、日々勝てることは勝てるけど、「内容」で悩む、単に今年だけではなくて”強豪”で”常勝”の、かつ世界基準を目指す”ビッグクラブ”であることを自他が意識し出してからのレッズの、どちらか言えば中途半端な状態があるからなわけですが。

今や本当に「世界」と戦う機会・義務が満更無いわけでもなくて、仮にエンゲルスが今の2倍(?)いい監督だったとしても、それで足りるのかどうかも実際のところは分からない。
こっちはコアもヌルもまとめて(失礼)、言ってしまえば見てるだけですから、つらつら考えてぶつぶつ文句言ってりゃいいわけですけど、実際に日々の戦いに追われる選手たちは、そうそう絵に描いた餅ばかり食ってるわけにはいかない。いつ出て来るか分からないご馳走を待って、飢え死にするわけにはいかないというか。

実際は今の選手たちはほとんどがJリーグと共に育ったある意味で僕らと同類なわけで、(そうじゃなくてもですが)「世界との距離」みたいな問題意識は当たり前に持っていて、それがやりがいにもなっているでしょう。少なくともレッズにいるくらいの選手なら。
でもやっぱり日々の自分を支える現実的なよすがも必要で、あんまり酷い時や例外的に凄い監督の下ででもなければ、何らか適当なところで常識的な範囲でイケてる/イケてないを判断して(笑)、モチベーションのコントロールに努めているものと想像出来ます。


というわけで札幌戦ですが(やっとかい(笑))、まあ何というか、根本的に何かが変わったわけではないけれど、前節高原の覚醒・上昇をうけて、それを取り込む形で選手レベルではちょこちょこ前向きな化学反応が始まっているのかなという、そういう感じでした。
具体的には高原のスピード感への追随と、それまでの軸であったエジミウソンも含めた、前線の力関係や役割分担の再編成。”システム”的には一応従来通りエジミウソン筆頭の3?4?3なのかなと思いますが、高原とエジミウソンの位置が逆転した(あるいは自由な)ような2トップにもスムーズに移行し、切れの復活によって3トップ(のウィング)的な高原のプレーも、前よりは有効に、または楽しそうに(笑)出来るように。

ここらへんである意味重宝だなあと思うのは、エジミウソンのユーティリティ性と同時に節操の無さで(笑)、やんちゃで好きにはやりたいけれどプライドにうるさいわけでもなくて、高原がプレーで納得させてかつ逆にフォローもしてくれるなら、ポジションとか誰が軸とか細かいことはいいよ別にというそんな感じが。”それぞれ”に、「本来の」プレーのようにやってくれる。

またまだ可能性の段階ですが、高原とエジミウソンがあれくらい機敏に前線で動いてくれるなら、パサー体質の薄さで問題のあった”トップ下”梅崎も、それはそれで機能する可能性があるかなと。つまり2トップが作り出すスペースに連動して飛び出して行くような格好で。ちらっとですけどね、ちらっと。

とにかく、’08レッズは’08レッズなりに、そこそこ前向きな感じで「日常」を刻んでいる、ディテールを積み重ねているらしいと、そういう話です。そこそこですけどね、そこそこ。選手はとも言えるし。どうせなら楽しくやらないとね。
それだけでどこまでいけるのか、監督は何をやってるのかというのは別にして。


「和製ベッカム」だったはずの阿部ちゃんのシュートや得点は、もう何とも言えないくらい”渋い”のが多いというか、似合うというか。パシッとドカンとは、なかなか決まらない。(笑)
試合全体については、どうせまた似たようなこと書く機会があるでしょうから、今回は他の人のを見て下さい。(え?)


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神戸?浦和(’08) 

平川?。あわわ。お大事に。

J1第10節 浦和 △1?1△ 神戸(ホームズスタジアム)

うっすらと、先が見えたような気もしたんですが。


立ち上がりは悪くなかったですよね。特に雰囲気は。
前から活発に仕掛けつつ、かつ一定の落ち着き/安心感があった。

これが何を意味しているかというと、前回の自分の言い方に従えば、「日常」を刻む作業が引き続き順調に続いているということで、選手たちがチームを手の中に入れつつあるというか、エンゲルス下のチームバランスを見出しつつあるというか。
個々の事象を越えて何となく「正しさ」が見えているというか、一つ一つのプレーをその「正しさ」の感覚と照らし合わせながら出来るようになっているというか。・・・・個々の事象を”越えて”しまっているので、個々の事象自体は結構だいたいだったりするんですが。(笑)

その”チームバランス”というのを、僕が見て来た狭い狭い範囲の(笑)過去のレッズとの比較で図式化してみると、

’06ギド・レッズ

上り調子の最高の人材たちの溢れんばかりのパワーを、大親分ブッフバルトが締めるところは締めつつ、鷹揚に泳がせる。

’07オジェック・レッズ

チクチク小言は言うけれど有用な示唆はほとんど何も与えてくれないオジェックに、途中で見切りをつけた選手たちが、個々の判断を極大化しながら、円熟期の底力を多少無理やりに搾り出しつつ、時折上の顔色を窺いながら、権限の範囲内で、その場その場を切り抜ける。

’08ゲルト・レッズ

何を言っても「いいよ、好きにやりなさい」とニコニコしている優しい指揮官。その後ででも、「ここはこうしてみたらどうかな?」「○○クンはこういうとここういう風にした方がいいと思うな」とそういうサジェスチョンはあって、じゃあということでみんなとりあえずはそういう風にやってみている。
顔ぶれはそこそこ入れ替わっているけれど、言われていることは「みんなそれぞれにいいコだから仲良くしてね」ということで、新しい選手はそれなりに馴染み、前体制でぎりぎりまで自分を追い込んだ古い選手たちは、多少緩んでいるところもあるけれど、変な緊張は解けてそれぞれに自分を見直しながらやっている感じ。

名付けるとすれば、「父親型」(ギド)、「(無能な)教師型」(オジェック)、「母親型」(エンゲルス)という感じ?(笑)


ママ=エンゲルス型というのは多分、パパ=ブッフバルト型を緩くした、自由裁量の余地を大きくしたようなものとも言えて、ちょっと緩過ぎんじゃねえのとトゥーリオ(とエジミウソン?)以外は思っているかも知れませんが(笑)、その中で徐々に関係性が構築されるにつれてこれはこれでいいか、いっちょ頑張ってママを助けてやるか僕たち男の子だしと、そんな感じでまとまりつつ、ベンチとの力関係(どのくらい当てにするか)が落ち着いて目の前の戦いに集中出来るようになっているかなと。
・・・・あんまり高いレベルの均衡とは思えないですけどね。

この試合の前後で「練習時間が足りない」というエンゲルスの愚痴なども聞こえてきましたが、仮にそれか足りたとして、考えていることが個別のコンビネーションレベルのこと

指揮官は1―1で引き分けた神戸戦から一夜明け、帰京する新幹線内で攻守の修正のためのDVD作製を指示。
(中略)
攻撃では「前の3人の絡んでいる場面とか全体でボールが回っているところ」(高原)が流され、うまくいっている攻撃のイメージを頭に入れさせた。(報知)

でしかないならば、多分今抱かれている不満は根本的には解消されないだろうなと。
メニュー自体は既に示されている。精度や練度が足りないだけということならば。
それで良くなるところも少なからずあるとは思いますが、気が向いた時だけ発動されるプレスとか見ていると、むしろ”強度”が足りないんじゃないかと思ったりしますが。逆に強度が足りないと、自動的に組織化される部分が少ないので、いちいち個別のコンビネーションで対処しなくてはならなくなるというか。

ただそもそもの順番として、グループ/コンビの集合体としてチームを考えている要素が強いのが、エンゲルスなんじゃないかと思います。もしくはドイツ人指導者。(前にもちらっと言いましたね)
そこらへん、日本人サッカーファンは無意識にイタリアorラテンヨーロッパ的な、全体主義的な「組織」「戦術」観をすぐ考える傾向が。やるなら徹底してくれないと落ち着かないというか。(笑)


とにかく「このまま、徐々に」というのがエンゲルスのイメージなんじゃないですかね。
そうしつつ、これまでもやって来た通り、時に応じて刺激策対応策を講じて、そうやってシーズンを乗り越える、そういうチーム像自体には特に欠落は感じていない。
それに物足りなさを感じる選手は少なからずいるかも知れませんが、そこは”ママ”への愛情と(笑)新しい選手(と復帰して来る選手?)のモチベーションのフレッシュさを推進力にしながら、何とかかんとかやっていく内に勝っていく内に、このチームなりの凄みや味が出て来るのかなと。

それでも足りない”芯”は・・・・やっぱりトゥーリオが補うのかなあ、なんだかんだ最後まで、という感じ。
どうもあんまり上手く言えないですが、「緩いギド・レッズ」というイメージと、そのベースが共有され受け入れられる、そのこと自体によって生まれつつある、チームが”前”に進み始めた、不具合はあるにしても”迷い”からは少なくとも抜け出した(”諦めた”という言い方も(笑))、その感じをとりあえずは覚えておこうかなと。

やっぱり名前が大きいだけあって、高原のところで閉塞していた弊害は大きかったんだなあと改めて思いますが。
この日は不調の部類でしょうが、それでもフジテレビ739で見ていた去年のフランクフルトでのプレーから通してみても、こんな楽しそうな高原は久しぶりで。とりあえず動いてはくれますからね、(エジミウソンと)2人とも。


それにしてもゲームメイクが不安定な中、特に左に入った時の平川の調整力は地味に効いていたと思うので、心配だし痛々しいし。ここでちゃっかり定位置に収まる三都主の厚かましさ・・・・と行きたいところですが(笑)、まだなのか。ていうか彼にはむしろボランチやってもらえないかなと、個人的には思っています。

前言撤回を迫るような阿部ちゃんのアクロバティック・シュートでしたが、でもやっぱり「職人の何年に一回の一発」みたいにも見えます(笑)。もっとコンスタントに、「当然」という顔して高難度のプレーを繰り出してもおかしくはない選手のはずなのに、なんかその度アクシデントぽくて。
いや、実際にはそういうキャラの選手だと既に受け入れ済みなんですけど。(笑)


浦和?千葉(’08) 

なぜか勝てば勝つほど疲れが溜まるんですが、これはGW進行のせいか。

J1第11節 浦和 ○3?0● 千葉(埼玉)

何でもいいから次(フロンタ戦)はピリッとした試合がしたいなあ。


坪井、啓太、平川、達也、ポンテに三都主、そしてトゥーリオと、気が付くと大層な離脱/負傷者リストになっていて、それでもってチーム状態を納得してしまえば、心安らかになれそうですけど。(笑)

いや、実際そんなに余裕は無いんですよねここまで来るとさすがに。永井・梅崎・相馬の「ドリブル三銃士」って、最初何の冗談かと思ったんですが基本的には人数不足のゆえで、細貝も出来れば休ませたい状態みたいですし。
とりあえず元気な高原・エジミウソンの2トップには感謝感謝。阿部ちゃんも去年に続いて。
梅崎と相馬は、キャラ的に動けて当たり前だと思われているフシがあって、少し不幸。(笑)

少なくともギドに比べると、エンゲルスの内館の評価はあまり高くないというのも、こういう状況になると分かるような。まあもう34歳ですけどね。(’74.1月生まれ)


試合もあえて言えば、こうしたコンディション面の事情に大きく左右されたというか導かれたというか、そんなところもあったかなと。

とりあえず並べてみた「三銃士」の内、最初からやや動きの鈍かった永井の右サイドを中心に突かれて、それなりの希望を青息吐息の千葉に与えてしまった序盤戦。
それに対して素早く、ともかく動ける梅崎との配置交換を行って安定させて、徐々に力の違いを見せつつも決定打に欠けたまま前半を終わり。

その前半に肩を痛めたトゥーリオの守備の負担を軽くする為に、不調の永井に代えて細貝in、トゥーリオ一列上げ(トップ下)で後半に臨み、それがそのまま早くも運動量が落ちて前に出て来ない千葉に対して有効な”トゥーリオ大作戦”として効力を発揮し、14分、31分と次々とゴールゲット。
それでお役後免のトゥーリオに代わって入った内館、それにその前に入った細貝の守備の人が攻撃面でいいところを見せ、気力の挫けた千葉を弄りまくって軽く”お祭り”状態を出現させた終盤戦。

千葉相手にトゥーリオの爆発が無いと点を取れないのはどうなのかという疑問はありますが、肩の負傷が無ければそもそも”大作戦”が実行されたかどうか分からないということを口実に(笑)、まあいいじゃんどうせ勝ったよということで目をつぶりつつ、次に備えましょうかというヌルい感じのまとめの試合。


いや、実際どちらかというとポジティヴな印象の方が強かったですかね僕は。ここんとこ要求水準を下げ気味にしている前提ではありますが。
戦前は「勝って当然の相手との試合へのプレッシャー」みたいなことも言われてましたが、それよりもここんとこ安定感が出て来ている、より内向きの”自分たちの戦い”の方を、粛々と行っていたという感じで、そういう意味では安心して見られました。

なんというかもう、あんまり”強い”とか”弱い”とかいうこと自体、考えていないような気がしますね今は。「普通にプレー出来る喜び」を満喫している感じの高原が、象徴的ですが。梅崎もなんだかんだ、出場機会そのものを喜びに感じているような状態・地位ですし。
ここらへんはまあ、補強というのはしとくべきだよなという、去年の阿部オンリーの閉塞感を思い出してみても。

”立ち上がり”が緩いのは相変わらずなんですが、それもちょっと前までの”本来あるべき良い立ち上がり”に比べて”悪い”という「駄目」感に支配されて、それによってモラル/メンタルが落ちてますます底が抜けそうになる危なっかしさは無くて。
まあこんなもんだろうという言い方はちょっと情けないですが(笑)、なんというかプレッシャーが足りないなら足りない分の相応の緩さに被害が食い止められる、状況を受け止めてそれなりにプレー出来るというそういう感じ。

だからなんだというわけじゃないですよ(笑)。単なるチーム状況の微分的な描写です。おんなじ嘆きばかり書いててもしょうがないので。
とりあえずこんな感じで中断期間までは引っ張って、でもそれ以降は分かってるね?エンゲルスと、釘を刺しつつ次回に続く。

と、その前にフロンタとガンバという”難敵”との戦いが待ってるはずなんですが・・・・どうなのかな。どこも大差ないような気がして仕方ないんですけど。欠員の件を除けば、まあ現状でも対応出来るだろうと、そう思いますが。
FC(東京)の勝ち星の重ね方も変だし、今年のJ1は”混戦”という以上に訳が分からないというか、正直レベルに疑問がありますね。全部中位みたいな感じ。(笑)


雑感
・結局堤はなぜわざわざ右で使ってたんでしょう。既に去年”左SB”としての実績もあったわけですし。よっぽど阿部の左にこだわりがあったのか。ナイスクロス。
・エスクデロは、なんか以前見た時よりも「曲線」的な感じに見えて、ちょっとがっかり。もっと突っ込む感じの印象でそれを期待していたんですが。まだ脚部不安があるのかな。
・どうも多分ポンテが戻って来ても、エンゲルスのトゥーリオ依存は大して変わらないんじゃないかという気がして来ました。「女性的」なエンゲルスが、無意識に自分に欠けたものを求めている・・・・というのはちょっと安易な精神分析ですけど。(笑)
・でもその分上手く使いますよね、それは認める。全体のレベルが整えば、大した武器ではあるわけですけど。
・しかし弱気な会見だなあ。ほとんど解任間近の連敗チームの監督みたいな雰囲気。


暑くなって来ましたね。ダルいというか。(笑)


中田力 『脳のなかの水分子』 より ?孔子と老子 

脳のなかの水分子―意識が創られるとき脳のなかの水分子―意識が創られるとき
(2006/08)
中田 力

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「意識が創られるとき」という副題は、この本単体だと誇大広告に近かったですが(笑・著者の他の本に詳述してあるみたいです)、『閉鎖系』『開放系』という物理学・熱力学概念から、孔子と老子・荘子の思想を位置付けてあって面白かったので、中国思想ブログとして(笑)メモっておきます。
メインの内容はちょっと、僕の文責では紹介し切れません。


商(殷)王朝と古代日本、そして殷周革命

白川静博士の言を借りるまでもなく、古代日本を築いた人々が、商(殷)王朝文化の継承者であったことは間違いないようである。

漢字を生み出し、アジア文化の祖となる中国古典文化を作り上げた商王朝は、(中略)自然の中の人間という存在をはっきり意識した、ある意味、融和を求める優しい心の文化が生み出したものである。神がまだ人々を支配する存在ではなく、単に「母なる自然」の代弁者だった、古き、良き、時代である。


実は初耳で特に言うことはありませんが、ありそうな話だとは思います。
ただしこの段階では、(日本人は)「ムー大陸の生き残りの子孫である」みたいな話と、大差ない受容の仕方ですが。(笑)
まあどっちでもいいですよ。なんなら両方でもいい(笑)。ともあれ今日に至っても高い知的水準と非論理性・厳格性の不思議な共存を特徴とする日本文化は、サブカルチャーを中心に日々面白いものを生み出し続けていると思います。(その点Jリーグはまだまだ型通り)
それらにこうした分かり易いロマンチックな起源があるのなら・・・・楽しいことです。

ところがその後、

太公望と、姫昌の子、発によって、神の国は滅ぼされた。(中略)
殷周革命である。
世界が、文化よりも力を優先させる戦いの時代に入ったことを象徴した事件でもある。


孔子の”理想”である周王朝を。こういう文脈で性格付けたものを見るのは、個人的には初めてかもしれません。理想の国ではなく、理想を終わらせた国。


儒教と老荘思想

孔子はそんな(周が倒れた後の長く続いた戦乱の)時代に生まれた、魯の国の人である。
人となりとしての仁、規範としての礼を説いた儒教は、その後、東洋思想を長年にわたって支配することになった。

それはまた、放っておけば世の秩序は乱れるという概念に基づいた、中世封建国家を支える。厳格な身分制度の根底にある考え方でもあった。


前の項目と合わせれば、自然的秩序を壊してしまったからこそ必要となった、人間的秩序ということでしょうか。
それが「理想」だというのは、根本的にはマッチポンプであるという。


儒教の掲げた人間絶対主義に反発し、あくまで自然と調和した生き方を主張したものが老荘思想である。老子から尹喜へと受け継がれた道教の成立は、ある意味、商王朝文化の復興であった。
商王朝文化を継承した古代日本を引き継いだ平安朝廷が、道教的古典思想の影響下にあったことにも、うなずけるものがある。


老荘/道教自体が分からないことだらけなので、かなり危うい話にはなってますが、一つだけ言うと”平安朝の道教的古典思想”というのは、簡単に言えば「陰陽道」のことでしょうね。
ともあれこの人の論の面白いところはこれらの対比そのものにあって、以下。


閉じた系と開いた系

熱力学の言葉を借りて現代的に表現すれば、儒教の発想は第二法則に基づいている
つまり、閉じた系においては常にエントロピーが増大するのである、エントロピーとは無秩序を表す物理量であるから、エントロピーの増大とは無秩序が増大すること、つまりは、秩序が乱れることを意味する。
封建国家という閉じた系の中では、放っておくと世の秩序は乱れるのである。だからこそ、仁と礼を重んじる必要がある。


あんまり厳密に受け取らないで、”儒教と熱力学”という取り合わせの意外さを楽しんで下さい。(笑)

それに対し、老荘思想は自己形成の考え方を表している
つまりは、開かれた系における発想である。
開かれた系で自然に起きるパターン形成、つまりは、自己形成による秩序に任せるとの考え方である。


”無為自然”っちゅうやつ?
熱力学(の第二法則)については、ほぼ『現代用語の基礎知識』なのでいいですね。
「自己形成」というのはれっきとした科学用語で、『規則と環境に従って、自動的に適切な構造(形やパターン)が作り上げられる』現象、働きのこと。例えば”形状記憶合金”や”ブラウン運動”など。(p.34から)

筆者が自己形成を重視している、もしくは愛しているのは商王朝文化の理想化を見れば明らかですが、ちゃんと(?)こういう総合的な視点も示してはあります。

明らかに閉じた系に属する中世封建国家における儒教的発想の適合性を認める一方で、開いた系を基本とする民主主義を獲得した現代社会では、自己形成を重んじる道教的発想が重要度を増していることも否定できない。


+”グローバリゼーション”という、究極的に「開いた」系。


まとめ

究極的になぜ自己形成が重要かというと、

自然科学を語る限り、老荘思想が適しているのはいうまでもない。自然界に現れるものはすべて、自己形成するからである。
言い換えれば、人間の努力ではどうにもならないのである。人間が自然を支配できると考えた瞬間から、崩壊が始まる。


これ自体はよくある警句ですが。

僕自身は孔子という人は、やはり(怪力乱神を)「語らず」の人であって、つまりあえて形式的に社会秩序内的に、思索・主張の内容を限定した人だと思います。
だから多分なろうと思えば「老子」にもなれた人で、そういうつもりで読むと見かけの堅苦しい倫理観や処世訓的内容の背後に、語られなかったものも含めた全体性が、直接的な文言の形式性ゆえにかえってクリアに見える気がする、そういう思想家だと思っています。

そこらへんが閉じた&開いた「系」という分類概念が導入されることによって、要するに”条件”の設定の問題であるという形で、整理できる気がするかなと。
と同時に、筆者の重点としてはこっちですが、何やらボヤッとした身も蓋も無いようなことを言っているようにも見える老荘の思想も、「開いた系」というより現代的な条件下ではむしろ相応しい、リアルな認識であると、そういう形で掬い上げることが出来るという、その視点は新鮮でした。

まあ所詮比喩ですし、ありがちな拡大&移転解釈ではありますし、細かいところで突っ込みどころは沢山あるでしょうけど。


日本人は老荘思想、なんですかねえ?(笑)


川崎F?浦和(’08) 

楽しくて90分があっという間だったんですが、ひょっとして歪んでるのかなこの感想は。(笑)

J1第12節 浦和 ○1?0● 川崎F(等々力)

とにかく、思ったとおり、何とかなりました。


「ユベントスかレッズか」という相馬の感想が当てはまるんでしょうが(でもなんかキャラと合わないぞ(笑)相馬)、実に渋くて面白い試合でした。僕には。(笑)
シュート3本?そうだったっけ。そう言えばそんな気も。でも気にも留めてなかった。ていうか別に点なんて入らないで良かったんですけどね。やっぱり僕の「人格」形成は、プレ・ボスマンショックくらいまでの、真に戦術的洗練が優先していた時代のイタリア・セリエAに、多くを負っているらしいです。目指すべき大人のサッカーとは、あれだ!と。

”守備的”というよりも締まった、ミスの少ない、納得感のある試合ということですけどね。
別な言い方をすると、一つの意識の流れが途切れない、ソロソロと試合に入って高めて来た内圧が、育んだ緊張感が、つまんないミスや頭の悪いプレーでご破算にされないで、なるべく長く最後まで味わえる、そういう試合。

まあ接して漏らさずみたいな感じですかね(笑)。クライマックスへ走るのではなく、一定のテンションの間の微妙な変化を、延々味わうタイプのセックス。(ああ言っちゃった)
イングランドとか、「朝まで目標10発!」みたいな感じでしょ?(偏見?・笑)
興奮でも絶頂でもなく、陶酔、没入が求めるもの。

・・・・別に点が入っても攻撃的でもいいんですけど、少なくともJリーグレベルで”点の入る試合”って、点自体か点が入ったことによってか、どうしてもまぎれが、雑な部分が目に付いて興醒めしてしまうことが多いので。
とにかくそういう試合がちょいちょい見れるから、レッズは好きさ。


それはさておきもうちょっと真面目に(笑)この試合について述べると、戦術不在(またはトゥーリオ)のままこつこつと前節までに紡いで来た日常性、今の自分たちなりの地道な関係性のようなものが、フロンタという強敵の圧力と活発な攻撃性に対面して、一気に焦点を結んで一つの方向性に集まり、束ねられ、まるで計画的に鍛え上げられたチームのような統率とクオリティを一瞬の内に実現した・・・・と、そういうことになりますか、僕の文脈で言うと。

鹿島戦も「強敵相手に突然頑張った」試合ではありましたが、あれはなんというかもっと不細工で、集中力と試合運びのみで誤魔化したような格好でしたが、この日はグループ戦術的な部分でもそれなりの完成度があって、安心して見ていられました。(少なくとも中盤から後ろでは)

「対応出来るだろう」とは言っていたものの、正直ここまでちゃんとやるとは思わなかったです。どちらかというと曖昧に受け止めて、こちらのスローペースに巻き込んで何とかするみたいなそういうイメージ。
連戦の最後にこれですから、やはり千葉戦などは思った以上に相手に合わせていた、サボっていたんだなあというのかよく分かりましたが。かといってどのみち自力で出せる力ではないんでしょうけどね。わざとサボっているわけではない、そうなっちゃうんだというか。

それと鹿島戦の段階では振れない「無い袖」だった、’08レッズなりの個々の関係性の集積と。”束ねる”材料の存在というか。
これら全てまとめて、去年一昨年もさんざん見たものではあるんですが、ともかく廃れてはいなかったことが確認出来て、良かったです。やっぱ守れないレッズは嫌だ。(笑)


前線があまり役に立たなかったのは困ったことではあるんですが、守備にはちゃんと参加出来ていたわけで、これはコンビ不足というよりも絶対的なクオリティ不足と、そう考えた方がいいのかなと。少なくとも個で押し切れるほどのそれは。
それを更なるコンビの熟成と欠員の復帰で、どこまで補っていけるかが今後の・・・・というのは当たり前過ぎて、最後まで書くのは照れます。(笑)

いや、ほんとはね、前にも言いましたがエジミウソンで世界を目指すのは舐めてると思いますけどね。ミラン戦見といてそれはないだろうと。多分、それ以前からの既定路線の獲得だったんでしょうけど。
高原に使える金があるのなら、足して一人になっても、言ってみればポンテレベルの選手の獲得を目指すべきだったとどうしても思ってしまいますけど。まあ来てしまった選手は何とか使いこなして、それで描けるベストのヴィジョンを描こうとはしていますが。ただそれには監督が・・・・とループ。

もう一つ攻撃のことで言えば、これは前回”雑感”で書き忘れた(つまり前から思っていた)ことなんですが、梅崎のプレースキックはあれはどうなんでしょう。毎度低くて速い(かつやや乱暴な)ボールしか蹴らないのは、どうも単にそれ以外蹴れないからのように見えるんですが。特にコーナーの期待感の薄さは、ちょっと酷いと思います。
この日は相手方に中村憲剛がいたので、尚更目立ちましたね。プレース・キックは今後も生命線になる可能性が高いですし、復帰してもいつもポンテというわけには行かないでしょうから、是非再考して欲しいですね。キッカーなり、蹴り方なり。


まあ当面は、ガンバ戦で同レベル以上の試合をしてくれることですね。
「強豪相手だけ頑張る」のは許すとしても、それが2試合続けられないんじゃ話にならないですから。それが要求する最低ラインかな。


18.虚偽意識(1) 

虚偽意識と虚偽記憶

虚偽意識という言葉で私が表そうとしているのは、ごく普通のことだ。つまり自分の性格と過去について、全くの虚偽の信念を形成した人々の状態のことである。


虚偽記憶とは、虚偽意識のごく一部にすぎない。「虚偽記憶症候群」[補1]は普通、ある人の過去において、絶対に起こらなかった出来事の記憶のパターンのことをさすためである。
出来事の思い出し方が不正確だ(ほとんどの出来事の記憶はそうだが)ということではない。むしろ、その出来事らしきものが、起きていなかったということなのだ。



虚偽記憶の種類

実際のところ、その(↑)症候群は、矛盾記憶症候群と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、その見せかけの記憶は、単に虚偽であるだけでなく、あらゆる現実と相反するからである。(中略)これは、<虚偽記憶症候群財団>[補1]が宣伝している類の「記憶」である。


単純虚偽記憶というのは、今述べた矛盾記憶の例とほぼ同じ内容で言えば、そのおじが、記憶の中で、本当の加害者である父親を隠蔽するためのものになっているというものである。このため、その記憶はあらゆる現実と矛盾するわけではないが、過去は根本的に作り直されている。


関連するもう一つの記憶の欠陥は、不当忘却とでも呼ぶべきものである。
これは人の性格または本性にとって不可欠な中心事項を、その人の過去から抑制することである。
私が述べているのは(自分による)(無意識の)抑圧ではなく、(誰かまたは何かによる)(故意の)抑制である。


”欺瞞記憶”

矛盾記憶、単純虚偽記憶、不当忘却(中略)とその他の可能性を合わせて、欺瞞記憶という見出しの下にまとめてみよう。
私がこうした複合語を次々造語しているのは、厳密に言えば、我々が関心を持つのは記憶ではなくて、見せかけの記憶や記憶の不在であるということを示すためである。


欺瞞記憶の中に、私は、見せかけの記憶や、記憶の不在、過去についての明確な事実の不在(≒虚偽記憶)を含めることにする。



虚偽意識と欺瞞記憶

記憶政治学[補2]がおおむね成功したために、われわれは自分自身を、自分の性格を、自分の魂を、過去によって形成されたものと考えるようになった。


このため、現代において、虚偽意識はしばしば欺瞞記憶を含むことになる。

虚偽意識が成立するためには、われわれが何者であるかということに対するわれわれの認識の一部として、欺瞞記憶が使われているに違いない。


・・・・どういうことかと言うと、「自分」=「自分の過去」(の蓄積)という認識が自明視されるようになった現代においては、(現在の)自分についての誤った”意識”は、誤った”記憶”によって形成されているはずだと、論理的にはなるということ。

しかしこうした認識、結び付けは、かつては必ずしも一般的ではなかった。

デルフォイの神殿に刻まれていた「汝自身を知れ!」という銘文は、記憶に言及したものではない
この言葉が要求しているのは、自分の性格を、自分の限界を、自分の必要を、自己欺瞞的な自分の性向を知れ、ということである。すなわち、われわれは自分のを知らねばならないと言っているのである。


記憶政治学が現れたことにより、ついに記憶が魂の代用品となった[補3]



・・・・総括的な内容で読解に必要な前提が多いので、次にまとめて(補)をつけます。

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浦和?G大阪(’08) 

(プレースキッカー)梅崎への喝!は効いたようでしたが。(笑)

J1第13節 浦和 ●2?3○ G大阪(埼玉)

うーむ、恍惚の前節から一転して、不快&興醒めの試合に。だいたい俺が悦び過ぎるといいことねえんだよなブツブツ


まあ確かにプレースキックというのは、”蹴り慣れ”の占める比重が大きいのはホントなんですよね。
かつてあれほどワールドクラスの猛威を見せ付けていたマイスター阿部勇樹の右足も、最近たま?に蹴るとアレ?みたいな感じが専らですし(笑)。いつも蹴ってる人でも、一試合の中で調整が必要な場合が多いようですし。

とにかく油を差し直したのか気温の上昇で調子が良くなったのか知りませんが、この試合の梅崎の右足は、かなり見違えるくらいの精度と安定感と、高低・コースの使い分けも十分に見せてくれていて、はい、これなら満足です。
後者については意識付けの面も大きいので、それこそ「俺の喝が効いたのか?」とか自意識過剰なことを考えたくなりますが(笑)、実相としては多分、キックのフィット感そのものが向上したことによって、蹴り分けの余裕も出て来た、判断も良くなって来たというそういうことなのではないかと。

そもそも僕の苦言のある意味”本当の”動機も、「何でもいいけど今の思ったところに蹴れてないだろ?投げっ放しだろ?」という、雑な感じ(への不快感)が、結果としての合う合わない点になるならない以上に大きいので。
この前の「良いセックス」としての試合、その為の意識の連続感にとっても、調子っ外れのプレースキックというのは実に大敵で。決まる決まらないはある程度時の運として、ちゃんとしたキックで”終わって”欲しい。緊張感のあるプレースキック場面を迎えるまでに攻め込んだ、それまでのチームの流れを維持する為にもと、これは僕の口癖なんですけど。

ただこの日の梅崎の”反撃の狼煙”1点目の直接FK弾は・・・・なんだあれは?(笑)
いいキックではあったんですが、どちらかというとガンバの壁の作り方の拙さと、その壁横の敵味方の選手のウロチョロの綾で、よく分からない内に決まってしまったという感じ。
キックに向けての梅崎の内圧の高まるタイミングも、なんかよく分からなくて色々な意味で虚を衝かれた感じで、その混乱感は逆に、「この試合まだ分からんぞ?」(その時点で1?2)と希望を持たせてくれるものでありましたが。


と、それに限らずこの試合孤軍奮闘気味に大活躍していた梅崎だったんですが、一方でどうも未だにフィット感がありません。だからせめてプレースキッカーとして安定確立してくれと、いう部分も無くは無く。
実力は十分ですし出ればそれなりに頑張ってはいるんですけど、なかなかそれがチームを巻き込む力になれないというか、局所的なきらめきでしかないというか。”頑張って”るのかどうかすらよく分からない(笑)、トゥーリオの攻撃参加が問答無用でチームを動かすのとは対照的。チームメイトの心証も、絶対梅崎の方がいいと思うんですけどねえ。(笑)

結局梅崎が本当に”機能”していたのは、エンゲルス2戦目のナビスコ京都戦あたり、つまりチームがシャッフル途中でまだ方向が定まらない&新しい選手が動きやすい、そういうかなり特殊な状況下のみだったのではないかと、これまでのところは思うんですが。
現状は、”ハマ”ってるわけでもきっちり”使われ”ているわけでもなく、さりとて”動かし”ているわけでもない。調子が悪いわけでも梅崎の出来不出来/ハマりハマらずによって、試合内容や結果が大きく左右されるわけでもなく、どうも常に中途半端な感じがします。

本来はちゃんと「中心」になるべき選手なんだろうと思うんですけどね、それこそその京都戦のように。”ドリブラー”として使われるだけでは贅沢で、チームバランスが落ち着かない。
直接的には攻撃の組織が整わないチーム状況下で求められる、割と分かりやすい司令塔的なプレーが出来ないのが理由なのは確かなんですが、と同時になんかこう、「空気」が合わないというか「水」に乗れないというか、そういう感覚的な違和感も依然感じます。

それについては以前も、「梅崎のプレーは(レッズには)高級過ぎる」という意味のことを書きました。ポンテがやったような、ある意味の”俗化”の必要があるかもしれないと(本来は共に高みに昇りたいわけですけど)。
更に付け加えるとすれば、それ以前からの相馬同様、縦への志向が強過ぎて、チームがついて来ないとそういう面もあるかも。・・・・そういえばここんとこの相馬は、良くも悪くも「鈍」くなって、地味にフィット感増してますよね。

ただどうも最近思うのは、梅崎の個人的事情も少なからずあるかなと。つまり、彼の「KY」はある種仕様で、レッズだけじゃなく、多かれ少なかれどこででも浮き勝ちなんじゃないかなということ。
思い返せば大分でも、破格の個人能力と我の強さは光り輝いていて、オシムにも早い時期にピックアップされたし、前園小倉(だっけか?)に専門誌上の対談で絶賛されたりしていましたが、じゃあフィットしていたのかというとあんまりそういう印象も無いんですよね。今の金崎とかと比べても。シャムスカのことだから上手に使ってはいましたけど。

いかにも海外向きな感じなのに、グルノーブルでも早々に弾かれていたみたいだしと、これはまあ推測の域を出ませんが。


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レッズについての好意的な考察(?) 

same_frequency さんによる。
面白かったので紹介しておきます。

題して

 浦和レッズはトップモードになる可能性を秘めている? vol. 1vol.2

そうか、そうだったのか!(笑)

僕の感想を述べておきますと、vol. 1の(レッズの)”5バック”論については、機能主義的説明としてはありうるかもなあと、またレッズの守備の堅さについての「個人能力」や「集中力」以外の観点からの説明として勉強になるなあと思いつつ、でも歴代監督がやろうとしてやっている、増してや「欧州トップモード」を意識してとはとても思えない。(まあここらへんはsameさん自身もあまり本気ではないんでしょうが(笑))
・・・・まあ「トップモード」はこの際いいとしても、やろうとしてやっている部分が少ないと、結局全体の整合性として大したレベルのものにはなりそうにないよなというそういう悲観がどうしても。

一方vol.2の”3トップ”論については、なんらかこんなようなことを考えてはいるんだろうなと、特に高原の起用法を見ながら思ってはいたんですが、今イチ自信が無くて(笑)スルーしていたところを説得的に書いてもらってありがたいなとそういう感じです。
例え気が付くと単なる2トップになっちゃってたとしても、高原を下がり目に置いた3トップを基本としていることにはやはりエンゲルスなりの狙いが・・・・ひょっとしたら高原の「リハビリ」期間中の時点で既にあったのかもと、そんな風に思わなくはないです。

もう一つの”ビルドアップ”論(?)については、まあ何というか後ろと前が決まれば自動的に出て来て、かつレッズの現在の選手層から自動的に「問題」になることですが。うーむ。
とりあえず”5バック”と”3トップ”を繋げる為に、トゥーリオが他ならぬ今の(ボランチの)位置にいなければならない、エンゲルス的な意味は、よりはっきりして来るかなという感じはします。それをポンテが肩代わりするのか、それとも別のチームになるのか。


僕に言えるのはこれくらいですかね。
どうも勉強になりました。


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