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18.虚偽意識(2) 

(1)より。
[補]を付けるとか言ってましたが、ちょっとやってみたらそれほどの必要性を感じなかったので、ともかく先に進ませてしまいます。参照リンクくらい後で付けておくか。


欺瞞記憶は常に虚偽意識をもたらすか

(ジャネのケース)

私の考えでは、ピエール・ジャネほど、体系的に欺瞞記憶を研究した人はいない。
ジャネは至高の動機からそれを行った。彼の患者たちはひどく苦しんでいた。

患者たちの症状を引き起こしたのは、誤って思い出されたトラウマだった。(中略)
ジャネはこれらの女性に催眠術をかけて、こうした出来事は起こらなかったのだと信じ込ませた。(中略)どちらの場合も、ヒステリー症状は消えた


マリーとマルゲリート(↑これらの女性)は、自分で記憶を抑制したのではなく、ジャネが抑制を行った。そのため、私の定義に従えば、彼女たちは(中略)不当忘却したのである。
われわれは、これらの女性が虚偽意識に苦しんだなどと言うべきであろうか?


つまり”至高の動機”、治療や患者の現実の苦痛を和らげるための「不当」忘却であるという、倫理的な観点と、実際に「忘却」(とそれによる治癒)が成功しているという、現実的観点と。
少なくともジャネの患者たちは、虚偽意識に”苦しんで”はいないように見える。

(ゴダードのケース)

おそらく不当忘却であったと思われる、歴史上の別の例に目を転じよう。
ゴダードの治療した十九歳の女性バーニスは、四歳の交代人格、<不愉快なポリー>を持っていた。バーニスは繰り返しゴダードに、父親との近親姦の話をした。ゴダードは彼女に、恐らくは催眠術を使って、それが空想であると信じ込ませた


バーニスは、確かに欺瞞記憶を持っていた。マルゲリートやマリーとは違って、私は、彼女もまた虚偽意識を持っていたと思う。
と言うのは、一九二一年であれば、われわれも、彼女も、また彼女の属していた社会に住む人々も、彼女の人生における単なる出来事と考える程度の出来事や行動様式を、彼女が忘れていなかったからだ。近親姦は彼女の成長、彼女の家族、彼女の少女時代に関する、きわめて重大なことだった。


19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したジャネとの年代的ギャップ(つまり近親姦の影響をより重要視する社会の変化)と、推測されるゴダードの治療のやり口の粗さから、バーニスの忘却は不完全であったということ。


虚偽意識はなぜいけないか

”功利主義的”観点

・バーニスには妹がいたので、父親による近親姦がもし事実であったなら、ゴダードの誘導した不当忘却によって、せっかくバーニスが発した”警告”が無にされた可能性がある。

・もしバーニスが1951年に生きていたら、仮に不当忘却が成功しても、巷に飛び交う近親姦≒性的幼児虐待にまつわる様々な情報や言説に刺激されて、バーニスは事実を思い出さないまでもなにがしか強い不安感に苛まれたであろう。

・そうでなくても不当に忘却させられた記憶/虚偽に基づいた意識は、いつ引っくり返るか分からない。(それを分かっていたジャネは、再度の催眠治療の為に自分は患者より長生きするつもりだと、冗談めかして言っている)

・基本的には「セラピー」というのは功利主義的/実用主義的なものであり、上記のような実害が無ければ虚偽意識そのものには反対する根拠をもたない。

道徳的観点

私はそれでは満足しない。われわれは、魂と自己認識について、別の見解を持っている。(中略)
それは完全に発達した人間とは何かということについて、われわれの心に深く根差した確信と感受性に由来する。それは西洋の道徳の伝統???バーニスも、ゴダードも、そして私自身も持つ道徳の伝統???の一部をなしている。


先取り的に結論だけ言うと・・・・

自己認識は、それ自体が価値をもつ美徳なのである。
人々が感傷的でない自己理解を得ることで、自らの本性を満たすようなやり方を、われわれは高く評価する。


これらの価値観が、虚偽意識はそれ自体が悪であると示唆するのである。



詳しくは次で。


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ナビスコ杯ラスト3戦メモ 

”総括”ですらもない。こんな試合がありましたよというメモ。
見てはいましたが、一部を除く選手同様のモチベーションで、何とも。


(5/25) 第4節 名古屋グランパス戦 ●2?4(豊田)
(5/31) 第5節 ヴィッセル神戸戦 ●1?2(ホムスタ)
(6/8) 第6節 名古屋グランパス戦 ●1?5(埼玉)


「全敗」という結果ほど酷い内容ではなかった、というのは、基準が低過ぎでしょうか。
新人と復帰選手、試合の中での時間帯と、個別の要素だけ見ればいい”芽”もあったと思うんですが、その芽を育てる”畑”が痩せ過ぎてる、管理が悪過ぎる、という感じ?

まあ予想は出来たことですけどね。フルメンバーの個力と思いつきの組み合わせと、勝ち慣れと意地だけで何とかリーグ戦をこなして来たチームが、メンバー落ちと大会の重要度の低さで、根気と”モラル”が落ちてしまうのは。
ちなみにレベルはだいぶ違いますが、某緑チームも実に似たような感じで、予選落ち決定のスピードを競った成績ともども、正直勘弁してくれよという感じのナビスコ月間でした。なんでこう、似るかなあ。その点、岡田ジャパンなんてオアシスさ。

ポンテは6,7分どころか5分くらいの出来でしょうか。あと20日でかなり戻してくれないと、むしろズルズルサッカーを最終的に固定してしまう要素となりかねない感じ。
とはいえ期待するしかないですけどね。状態さえまともなら勿論クオリティは上がるし、幸か不幸か三都主はなかなか帰って来れないようですから、前々から言っている梅崎との化学変化も、期待したいところ。
・・・・結局何というか、ギアを”もう一段”上げる選手なんですよね梅崎は。上がる前の状態までは責任持てないけど、上げることは上げてくれる。達也でも上がることは上がるんだけど、あれは多分にカンフル注射的で、それに比べればさすが腐っても(?)ゲームメイカー仕様で、より根本の作りに流動性と(ポンテと併せた)奥行きを持たせてくれる。はず。(笑)


と、期待することすら本当は嫌なところもあるんですけどね。半端に勝つよりはいっそ・・・・とつい、そっちの方に思考が。
実際もし3大リーグなみに人材の移動性の高い市場に置かれていたら、とっくに「一つのサイクルの終わり」を言われているはずなので、バルサのように。バルサもねえ、アンリはともかくトゥーレ・ヤヤとアビダルという昨季の補強は、ツボを押さえて弱点を解消した満点補強に近くて、むしろ”いよいよ磐石”でもおかしくなかったはずなのに、あっという間に解体モードに。早い、早過ぎる。

どうなんでしょうね、兼業サポのいい加減な思いつきですが、「親会社からの完全独立」という快挙を達成した次の段階として、それこそバルサばりにフロント(会長?)の人選そのものを選挙で決めるような、そういう体制に持って行くという望みは無いんでしょうか。
勿論今の機構そのままじゃ駄目でしょうけど。そういうのを見てみたい。見てみたいというだけですけど。(笑)


再開後はむしろACLの緊張感が一番の楽しみ&望みか。


『ゴサインタン』プチ感想 

ゴサインタン―神の座 (文春文庫)ゴサインタン―神の座 (文春文庫)
(2002/10)
篠田 節子

商品詳細を見る

篠田節子のネパール仏教小説?
中国もの・・・・ではないけど、中華文化圏ものということでこちらで。(笑)
まあ遥か先ですが、いずれ金庸を論じ尽くしたら、ここは普通に「書評ブログ」になる予定ですので。


ネレーロさんの書かれていることはこととして総じて同感ですが、あえて僕が最も単純にこの小説を性格付けるとすると、やはり

宗教小説

ということになります。
それは”宗教的な”小説ということではなくて、”宗教を”書いた小説ということです。”教団を”と言った方が分かり易いかな。狭いけど。

一つの宗教・教団の形成・変転を追ったフィクションということなら、角川版『幻魔』を筆頭に(筆頭か?)いくつもあるでしょうが、この作品が特徴的だなと思うのは、それを徹底的に此岸的に、現世の範囲で書いているということです。
といって科学主義とか合理主義とかで、宗教を否定しているということではなくて、むしろ狂おしい宗教的関心を持って。

つまり例えば『弥勒』

弥勒 (講談社文庫)弥勒 (講談社文庫)
(2001/10)
篠田 節子
商品詳細を見る
などを読んでも、あるいは他の芸術や”才能”を採り上げた作品群を見ても、この作者が宗教や何らか神的超越的、この世ならざる、理性を越えた/越えて行くものに寄せる関心は”敬虔”と言ってもいいくらいのもので、何らか自分なりの宗教的直観(信仰ではないと思います)を持っている人なのは明らかだろうと思います。

この作品もそうした関心に基づいて書かれているわけですが、ただそれを、”この世の外”や”あちら側”のようなものを、極力持ち出さないで書こうとしている。それは意識的なものだと思います。
いかに”外”を持ち出さずに”内”の範囲で、しかし徹底的に敬虔に宗教を描けるか、その限界に挑戦している作品だと思います。


勿論この作品でも、主人公(日本人)のネパール人妻”淑子”は、数々の「奇蹟」的な業を顕して、それがそもそもの「教団」形成のきっかけにはなるわけですが、しかしそれが要するに何なのかは、虚実を含めていっさい最後まで明らかにされない。秘されているというのではなくて、問うことを禁じられるというか、放棄されるというか。
それはネパールに戻った後の妻の人格変容の意味についてもそうですね。現象は現象であって、それが”宗教的”(もしくは科学的)に意味として組織されることはない。「世界観」は提示されないというか。

それで成立しているのか、いないのか、それは微妙なところもありますが。
一つにはそれを問わない為に(または問わないことを示す為に)、かなり目まぐるしい場面や構図の転換が行われているわけですが。
成立しているとすればある意味凄く怖い話なんですよね、これは。つまり”内”で成立してしまえば、”外”の救いは期待出来ない、保証されないわけですから。決して反宗教的動機で書かれていない、中立的ですらもない作品なだけに、そう。そういう”宗教”小説。


・・・・と、いう感じです、ネレーロさん。(笑)
「奇蹟」すらも現世に閉じ込めてしまう作品、みたいな。一種の思考実験かもしれません。


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