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多重人格、まとめ(1) 

ハッキング『記憶を書きかえる』をべースにしつつ、全体のまとめ。
とりあえずのweb上での追究の締めに当たって、言い残しておきたいこと。


要するに人格とは「何」か

1.人格とは、適応の為の「道具」である ?機能的側面

最初に言っておくと、これはあくまで心理学/精神医学上の、更にはそこにおいても所謂多重「人格」と通称される障害・症例が、問題となって初めて改めて焦点化された/され得る認識、用語法だということです。
だから日常日本語として「人格」という言葉が別な、恐らくはもっと包括的な意味で使われることを邪魔するものではないし、実は”専門”たる心理学などの分野においても、従来それほどはっきりした意味で使われていたわけではないんですね、僕の知る限り。『性格心理学』と呼ばれるようなジャンルもあることはありますが、現在単独で重要なジャンルというわけでもない。むしろ占い師に聞いてくれた方が、面白い話が聞けますよという。(笑)

であるから基本的にはテクニカル・タームの話として受け取ってもらって一応は構わないんですけど、ただ僕としては「多重人格」という”衝撃”を通して、日常的なレベルでも、「人格」概念の変容が、なるべくなら起きて欲しいなと、思っています。それは別に学的概念の方が「正式」だからという権威主義ではなくて、そっちの方が内容的に、使用価値が高いと思うから。言い換えると、幸せになれると思うから。(ある種の不幸を避けられると言った方がいいかな)
例えば精神分析による『無意識の”発見”』が、「意識」や「自己」についての把握を、柔軟化したように。自分の中の欲望や非合理に、より優しくなれるようにしてくれたように。・・・・その”柔軟”性そのものを不幸だと感じる人が、一定数いるのも事実だと思いますが。奴隷&地蔵志願者を救うのは、いつの時代も難しい。

まあ、「学的」というか、僕の把握ですけどね(笑)、一応言っておくと。学的背景もそれなりに押さえた上での。


前置きが長くなりましたが、思うに「人格」とは、適応の為のツール、道具、もっと言えば方便、それ以上でもそれ以下でもありません。・・・・適応、だけでは不親切だから付け加えるとすれば、外界や他者からの刺激や影響に対して、こちらが反応する、アジャストする、その為の、フィルター、あるいは一定の条件(環境や他者という)下での反応パターンの集積・総体ということです。

これと対照的な認識としては、人格が”アイデンティティ”の根幹であって、自分そのものである、自分という単一性・統一性の別名であるという、そういう認識、または用語法。一般には現在でもそうであろうし、そうであるからこそ、その人格が『多重』(その前段階として”二重”)化するという現象が、”衝撃”であり奇異であり、今もって断固として認められないという人もいるわけですね。

そこが既にして間違いだと、ハッキングは繰り返し言っていて、僕もそう思います。人格如き頼りないものが、アイデンティティの源や「自己」の別名であるものかと。だいたい安易に根拠づけすると安易に崩れて危ないので、大事なものほど留保を沢山持たせておかないと、後で酷い目に遭います(笑)。ある段階での自分の言葉の未熟が、未来の自分を脅かす。自分の言葉に自分が騙される。問題だあ問題だあ・・・・ほんとか?

話戻して最初の定義に従えば、ある人格がそうであるのは、あくまで「条件」によるわけです。
だから論理的に、その「条件」が変われば、「人格」も変わるのです。当然です。それが人格の多重性の、最も単純な実態。
勿論そのことと「精神障害」としての多重人格は、イコールではありません。現象としてはまず、これは次の2.のテーマですがそれら人格間の「記憶」の分裂・不通があるかどうかが、それが”障害”と呼ぶべきものかどうかの決定的な要素としてありますし、また普通に暮らしていて突然「多重人格」になるということもまずありません。何か特別な原因や環境は、たいてい見て取れる。

更に言うならば、通常のレベルで言えばむしろ人格を「多重」化出来ないことの方が、精神衛生的に問題であることも多くて、例えば古い言い方ですが、「会社人間」などというのはそうした状態です。”会社”という「条件」が変わっても、同じ反応パターン=『人格』でしか反応出来ず、それにより新たな環境への適応に困難を生じるという。(それ以前に上手く会社用の「人格」が作れない、ということの方が、現在の悩みとしては大きいかも知れませんが)
・・・・という言い方をしてもいいですし、たいていの場合は実際には多様な内容・傾向を抱えるその人の全体性を、概ね一つの「人格」であるとみなして、あるいは最も頻繁に使う「人格」のカスタマイズとして、何となく誤魔化しながら、一生をやり過ごすわけですね。精神科医のお世話にはならずに。(笑)

これらはある種認知や”名づけ”の問題だとも言えて、この段階でも敏感な人や意図してそう見る専門家の目からは、十分に「多重人格」だったりもするわけです。・・・・ただし記憶の分裂に代表される実害が無ければ、特にそう診断する必要はありませんが。
だから、と、繋いでいいのかな、一種の多重人格”ブーム”の後、ある時期以降のアメリカを中心とする精神医学界では、なるべく「多重」性及び「人格」の独立性を強調しない方針を取っていて、正式な診断名も『解離性同一性障害』となりました。これはニュアンスとしては、”沢山の「人格」がある”のではなく、”一つの十分に成熟した、(大きな)「人格」が形成出来ていない”という、そういう含みを持った概念です。ある意味一般人の感覚に合わせたとも言えますし、「法的」で「公の」ものとしての堅固な『個人』性を重視するアメリカらしいとも、そう思います。僕は今いち説明的過ぎて気に入らないんですけど(笑)、それはともかく。

とにかくやや中を取ったような言い方をすると、可能性や必要性は常にある人格の「多重」性が、限度を越えて辻褄・連絡が悪くなってしまった状態、あるいは個別の基本的には便宜的に存在を許されていた「人格」が、何かのきっかけで独立意識を肥大させてしまった、もしくは全体性・全能性を誤認してしまった状態、それが”病気”としての多重人格だと、そんな風な構図で見ておけばいいかと。ハンフリー/デネット/ホワイトヘッド的な”国家”という比喩を使えば、ある政府の各省大臣が、それぞれ自分が国の代表だと主張し始めた、首相の存在を忘れたか、あるいは「総理大臣」というシステムが壊れたか。
それに対して統一的システムを再建・構築するか、あるいはそれが難しいようなら集団指導体制を認めて継続可能なものに整えて行くか、治療の方針としても分かれるようですが。


語源的に言えば、つまりは古代ギリシャの”ペルソナ”(仮面劇の仮面)に近い概念に戻った感じですね。特定の内容や役割を、必要に応じて付けたり外したりする。別に”能面”でもいいですけど。今は般若ですよお、今は夜叉ですよお。
”戻った”というのは、それを語源とする英語のpersonalityには、どういう経緯か知りませんが明らかにそれ以上の内容・ニュアンス、恒久性や全体性が付加されているからで、それの訳語なのかな?知りませんが、日本語の「人格」も同様。
背景には恐らく、近代における「人間」という概念の誕生または肥大ということがあるのでしょうけど。余りにも人文化し過ぎてしまった。自分も”現象”であるという側面と、上手く付き合えなくなってしまった。

そうして生じたやや無防備に直接的自明的な、自己の単一性・統一性の幻想が、近・現代人を苦しめているところがあると、「自分探し」に狂奔させているところがあると、そしてそれを足元から丁寧に解きほぐしてくれる格好のガイドとなる可能性を、多重人格という専門的かつ通俗的な、不思議な吸引力のある現象・障害は持っていると、そう思うわけです。

次にまずは「記憶」との関連で、”障害”としての多重人格のより具体的な実態と、そこから可能な概念的把握について、その後そうした人格の「多重性」の背後に、どのような統一性恒久性を見るべきなのか、僕の考えを述べてみたいと思います。


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鹿島?浦和(’09) 

スケール感はあったと思いますけどね。”本格”感というか。

J1第1節 浦和 ●0?2○ 鹿島(カシマ)

その分鹿島と噛み合って、絶妙に力を引き出してしまったところも。(笑)


ありていに言えば遮二無二前がかりになって、でもその割りに実効性が薄くてドタバタみたいな場面は多かったんですが、それはそれとして、”サッカー”をやってるなあという感じは凄くありました。
攻撃的だから?アクションだから?人もボールも動くから?・・・・うーん、そうじゃないわけでもないんですが、でも同じことを日本人監督や二流以下の外国人監督がやったとして、それでこの程度の達成度なら、もっと遙かに”ドタバタ”して、かつみすぼらしい感じに見えたと思うんですよ。例えば結局岡田監督だって、勝ったとか負けたとか、将来性とか、色々みんな言うけど、要するに嫌いなんでしょ?貧乏臭いから嫌なんでしょ?(笑)生理的に。我らが「代表」チームには、もっとパリッとしていて欲しいわけでしょ?

分かるよ。それは分かる。なるべく言わずに、僕は我慢してるけど。(笑)

フィンケに関しては、実績が少し古いのと、”直球派”ギドの猛反発の先入観もあって、ちょっと自足的なタイプの”ポゼッション”なんじゃないかオシムよりオフトの方に近いんじゃないのかと僕は予想していたわけなんですが、それよりは結構、オシム寄りだったかなと。前のめりというか。オシムとオフトの間、の、オシム寄り、て、なんかどうでもいいような位置付けの話ですけど。(笑)
心配していた”スピード感”はそれなりにあって、でも未完成ながらそれは決して無理に上げるタイプのスピードではなくて、リスクはかけつつ品も失わない、さすがは高級舶来品だわ、雇った甲斐はあるようだと、何言ってるかよく分からなくてすいません(笑)。”何”が違うのかというのは、正直僕には言語化出来ないんですよね。理論的には同じようなことをやって、どうしてこうも日本人監督と(一定レベル以上の)外国人監督と、サッカーの質感や広がり感が違うのか。でも違う。2分で分かる。(笑)

逆に「分からない」というとこがミソかも知れなくて、同国人ということもあるのかも知れないけど、日本人監督だとかなり出来のいい類でも、すぐ底が割れるというか要するに今見てる(or推理してる)ものが”全て”だろうと、簡単に考察が終わってしまうことが多い。
ガイジンさんの場合は、具体的にどうしてるのかよく分からないんだけどなんだかここんとこ上手く行ってるなあ、やってるなあと、常に”謎”や”奥”が残る。だから「勝つ」とは限らないんだけど、サッカーを見る”経験”としては、そっちの方が楽しい。分かろうと日々努力はしてるんだけど、さりとてあんまり”分かって”しまうのは興醒めする。

まあいいや。


とにかく、なるべくそれでも具体的に(?)言ってみると、少なくとも今後しばらくの”レッズのサッカー”として、嫌いじゃないタイプのリズム感だなと、勝ち負け別にして我慢して見るようなことにはならなそうだなと、ひと安心したということです。
いいよ、任せるよ。当分。好きにやって。

ニュートラルには僕は実はもっと端的に速い、ピンポイントでエグり込むようなサッカーが好きなんですけど、ことレッズに関しては、何度も言うように原体験が ’06年なので、あんまりせせこましいのや必死なのは(笑)好ましくない。速くてもいいけど、厚みや重量感も失わないで欲しい。”行く”時は鉄砲水とかじゃなくて、津波であって欲しい。ゴーーーッ。
言い換えると速さ激しさありきではなくて、ゆったり分厚いものを、「速く」やるという感じ。じゃないと正直、”レッズ”を見る喜びは余り感じない。そこらへんは所詮は兼業野郎、生意気に選り好みする(笑)。本家の方なら、存在して頑張ってれば、要するに何でもいいんですけど。

だから例の”オシムへのオファー”も、そもそも実現性は低いとは言え、引き受けてくれなくて良かったみたいなところがあります。千葉みたいにされちゃたまらん。ごめんねオシム?(笑)、千葉は千葉でいいんだよ?、でも浦和でやられると困る。
いいよフィンケで。しばらくよろしく。


とは言えフィンケに与えられた条件の方は、なかなかに厳しいものがあるなと、一試合だけでも。
予想はされたことですが、そんなに大きな変化をもたらすのは、容易でないメンバー構成。
例えばサイドバックが細貝と平川に収まったのも、妥当とは言え苦笑いという部分も。余程の未知の戦力でも台頭しない限り、まあこうなっちゃうんでしょうけどね。去年エンゲルスが細貝を右サイドバックで使った時は、”いつもの奇策”とかなり馬鹿にする向きが多かったですが、でもそれ以前からの僕のシミュレーションでも、フル稼働の計算出来る(&それなりの楽しみもある)右サイドバック候補なんて、結局細貝しかいなかったんですよね。平川も左ならなかなかのいぶし銀だけど、右ではリード力不足だし。”こなせ”りゃいいってもんじゃない。
細貝が”いい”とまでは思わないし、ボランチでの攻撃のスイッチャーとしての能力は正直勿体無いですけど。消去法だとこうなる。

この日のペアは勿論ですが、その細貝が仮に入ったとしてもボランチの展開力不足は変わらないし、ただでさえ人材不足の2列目は、加えて監督代わってポンテのコンディション・戦術適性に疑問が増しているし。梅崎、梅崎ーー?
FWはあんまりよく分からないですね、達也は達也でいいとして、高原に求められるのはどういう能力なのか。オールラウンド/タスク優位なのか、それとも案外点取りのスペシャリティなのか。最低限の”運動”は当然としても。
坪井のとこも、結局坪井しかいないみたいですしね。

まあ例年に比べてここまでのある意味極端な”不動”のオフは、事情も分からない状態で無駄に動きたくないという、フィンケの方の考えや美意識や、段取り上の都合が強く反映しているのだろうと思うので、全てはこれからだと思いますけど。例えばまた古い話ですが、ファルカンの後に加茂が就任した時に、わざわざオフトのメンバーに一回戻して、そこからある意味非常に人工的でガラス張りのプロセスを踏んでシャッフル&入れ替えをして行きましたよね。そんなようなニュアンスの、”不動”なんじゃないかなあと。
欲しがりません、分かるまでは(語呂悪)。本気でやるなら、”3年かけて総とっかえ”みたいな感じになりそうですけどね。

それはそれでいいとして、出来れば中継ぎ的に、従来メンバーを中心とした「小ピーク」みたいなものも、作ってくれないかなと思ってるんですが贅沢でしょうか(笑)。そういうタイプの(ギド的な?)手腕も見せて欲しいというのと、あとこの日見た限り少なくともリズム的には、それほど人を選ばないというか、従来メンバーでもこなせなくはない、そういうものに見えたので。
それこそ(千葉の)オシムのだと、”チルドレン”にならないと難しいでしょうけどね。

やっぱねえ、一度勝ち癖手放すと、なかなか大変ですからね。というのと、「フィンケ」はフィンケでいいとして、”僕の”浦和の謎の強さの伝統も、出来ればもう一つの味としてちゃんと引き継いで欲しいなというのと。(笑)


まあいずれにしても雲を掴むような話です。とりあえずもう少し見てみないと、何が「フィンケ」なのかすら、まともには。
原口もいいですけど、多分ほんとは山田直輝あたりがバリバリ出るようになって、初めて本格的にチームが変わり出すのかなという気はします。年齢・能力はともかくとして、ちょっとレッズの場合従来の主力クラスとそうした若手連中との、”文化”的繋がりが薄過ぎる感じがするのが困りものですね。これはJの他のチームと比べても、かなり特異なレベルのギャップのように感じるんですが。
・・・・つまりだから尚更使い難い、入れ替え/組み合わせ難いということですけど。
言いたかないけどここらへんは、やっぱり完成品を買い集めてチームを作って来た報いですかね。逆によく、ここまで見所のある若手が下で育ったものだなという。

実際のところフィンケが「育成」(”若手”というよりチームの)と「結果」を、どう考えているのか、比重もそうですけどその前に目標として分けているのか、まだあんまりよく分かりません。
例えばこの日の”お馴染み”メインのメンバーは、手堅く行ったのかチーム作りの本道を進む中でも、結果としてそうなったのか。割りと後者な感じも、しないではないんですけど。であるならば、お望みの「小ピーク」も、そんなに虫のいい目標ではなくなるはずなわけですけど、さてどうか。

とにかく始まり始まり。


しかし冒頭に戻って鹿島、特に2点目のカウンターのクオリティは、単純に痺れました。
展開のタイミングがいちいちピンポイント過ぎ。一瞬、去年やったバイエルンの幻が見えました(笑)。やるならやるって、言っておいてよ。急にあんなの出されても、対応出来ないって。


浦和?FC東京(’09) 

なんか騙されてるような気も、しないではないですけど。(笑)

J1第2節 浦和 ○3?1● FC東京(埼玉)

まあ、良かった、んでしょう。とりあえず。


”騙されてる”というのは勿論、FC東京の出来の酷さにということですけど。
なんか抜け殻というか、「試合」していい状態でないようにすら見えましたが。
完成度がどうこうというよりも、どこにも向かっていないというか、”悩み”そのものがテーマというか。
高校時代の俺かよ!とか、すいません、訳の分からないこと言って。(笑)

去年からの僕的認識によるFC東京のサイクル的に言うと、
 ”創造”の喜びに充ち溢れて、正に人とボールが踊っていた(去年)前半戦
→勢いでやっていた部分が多少醒めて、研究もされて足踏みしていた、改めての試行錯誤の中盤戦
→”カボレのウィング的起用”(と石川直の復調)というヒントを得て(参考)、システムを4?1?2?3にほぼ落ち着けて、手堅いサイド攻撃を中心に、やや地味ながらそれなりに確実に勝ち点を積み上げて行った後半戦
・・・・というのが、簡単に言うと去年一年。

僕は”前半戦”の戦いにかなり好感を持って、苦労していた中盤戦も決して嫌いではなかったんですが、「安定」し出した後半戦の姿にはむしろがっかりで、付き合いで最後までは見ましたけど、今年の僕の(に続く)”第3のチーム”候補としては白紙だよ?再度検定するからねと、勝手に上から目線で臨んだ今季でしたが。(笑)
ここまでの惨状から、あえて結果論的に言うとですね、やはり去年の後半戦は、”成熟”じゃなくて”堕落”だったんだなと。その(監督の)精神状態や、不自然にチームを落ち着かせた結果の”凝り”が、次のチャレンジ、次への移行に、迷いを生んでいる、スムーズさや自然な活力を削いでいると、抽象的に言えばそんな感じです。・・・・選手というより監督かなあ、主に。まだ何もほんとには試していない内に自滅、という、そういう印象。

もう少し具体的に言うと、「原形」が無いんですよこのチームは。去年一年かけて戦ったのに。
本来なら後半戦の(4?1?2?3の)サッカーがそうなはずで、位置付け次第では実際にそうすることも出来なくはなかったんでしょうけどね。・・・・つまり、当初から言われていたように、”戦術”、と共に(?)チーム作りの方の「流動性」も城福さんの特徴で、決めないよ、落ち着かせないよと、いつも”可能態の一つ”というようなニュアンスで、システムもメンバーも回されていて。それが試行錯誤の結果の”解答”として、カボレ左ウィング4?1?2?3に「落ち着いた」のなら良かったわけですけど、実際は”逃げた”んですよね、あれは。お茶を濁したというか。3トップの分かり易い機能性に。4?3?2?1や4?2?3?1、はたまた上記移行直前ヴェルディ戦などで見せた、”4?3?3っぽく機能する4?4?2”で追究していた、あくまで流動性や隙間隙間を丁寧に繊細に突いて行くそれまでの基本ポリシーから、トーンを一つ落として。単純化して。”ぽい”のは良かったけど、そのものにしちゃうと意味が違うんですよね。「隙間」が無くなるというか。風が通らなくなるというか。

で、そうして掴んだ安定性を、堂々と「成果」だと認めるならば、今年はそれをベースに更なるレベルアップを目指せばいい、目指すはずなわけですけど、聞いた話によると何か”作り直し”に近い、相当波瀾万丈の(笑)プレシーズンだったらしい。
これは結局、城福さん自身も、去年の後半のチームに納得していなかったという、そういうことかなと考えざるを得ないんですけど。成績は上がったけど、”基礎作り”という意味では、極端に言うと無駄に近い時間だった。
とにかくだから、頼るべき「形」はないと。と同時に、「形の無いのが特徴のチーム」として育んだ流れも、半年近く途絶していると。と言って今更イノセントには戻れないし。どうしよう?という、そういういかなる意味でも「原形」の無い、そういう状態。
底力がまだ無いのは、歴史の蓄積的に分かり切っていることですしね。

根性据えどころですね、城福さんも。センスはあると思うんですけど、ちょっと感情過多みたいなところもあるんですよね。
自分を「一流」「正統」と位置づけるのか、「面白い」監督で結構と気楽に構えるのかも含めて(笑)、考えどころ。
・・・・長々とすいません。ちょっと見ないような変な”落ち”方をしているので、つい書きたくなってしまいました。


さて浦和ですが。
TV解説も含めて方々の意見を総合すると、「”パスサッカー”の姿がかなり見えて来た」ということで、だいたい一致しているようですが。うむ。そうなのか。そうなのかも知れない。
確かに支配している時間は長かったですし、きちんとゴールにも向かっていましたし、ここぞという時の人数のかけ方もスムーズでしたし、点も取れましたし・・・・て、こう書いてるとその通りじゃないかという話にしかなりませんが(笑)、まあ、待ちたまえ、少し。

何が引っかかってるのかというと、一つはそもそも、「パスサッカー」ってなんじゃという、前提の話。まあ、”コンビネーション・サッカー”ですけど、公式には(笑)。フィンケ的には。
つまりまあ、元々レッズは「個人能力は高い」と定評があって。ポンテという優れたパサーはいますし、決め技専門ですがトゥーリオや山田さんもいますし、ギリギリ阿部さんも上手くないことはないですし。更に言うと、例えカウンターメインでも、”ここぞという時の人数のかけ方”や、ゴールに迫る迫力や要領にも、勿論”定評”はありましたし。だからそれら元々あったものを効率的に結集する&意識付けするだけで、この日のようなプレーは出来なくはないと、ちょっと意地悪に言えば言えなくはないと思うんですよね。+原口&山田直。

だからフィンケがやったことはオリベイラが鹿島にやったこととそんなに変わらない・・・・とは、僕も思っているわけではないんですけど。ただ組織化されて意思統一されて鼓舞されてはいるけど、「変わった」とまで言えるのか、特に今後様々に状況が変わる中で、拠り所として行ける”核”の形成の手応えがあるのかというと。それこそ去年のFCと比べても、まだ全然無い。”上澄み”というか、”ショー”を見ているような感覚も、無くは無い。逆にそんな簡単に変われること自体、嘘臭いですし。(笑)
例えばポンテだけでなく、小野も長谷部もまだいた’06年の特に前半のサッカーは、あれはあれでパスサッカーではないのかどうなのか。あるいはそれと比べて、そんなに”違う”ものなのかこれは。

結局ね、少なくとも日本で「パスサッカー」というと、それこそガンバのような、あるいは甲府のような、より最近では広島というのもいますがとにかくそのスタイルに命を懸けたような、ある種目的化したような、それゆえに”核”としての安定感が、良くも悪くもあるような、そういうものをどうしても考えてしまうんですよね。まあ、”ショートパス”イメージがちょっと強いですけど。
とにかく「勝利」や「ゴール」への”手段”として、(変な言い方ですが)たまたまパスが回ってるだけの、そういう状態そういうチームのことでは、あんまりない。手段と目的。オシムのなんかは、その中間的な感じが、この文脈ではしますけど。

だからまあ、要するに”コンビネーションサッカー”なのかなと。逃げ口上のようですが(笑)。フィンケの、サッカー。あるいは”ドイツ人的”な、パスサッカー。日本でもスラヴでも、勿論ラテンでもない。それが「何か」というのは僕は知りませんけど(笑)、とりあえず現状貼っておいて安全な”レッテル”としては。まだ何というか、日本/Jリーグ文脈に引きずり込むのは、早いような。
これ自体は批判でも称賛でも、別にないですけど。

ていうかですね、そもそも去年までのレッズに本当に欠けていたのは、組織力・・・・というのは身も蓋も無いので置いておくとして(笑)、要は”プレッシング”を筆頭とする、能動的にゲームを構成して行く力、形ですよね。
逆にプレスが掛かっている時は、距離的にも人数的にもそれなりに揃いますから、そこで”定評”のある個々のスキルが連動して、「パス」だって必要に応じてちゃんと回っていたはずです。あのオジェックでさえ、A3後の最もチームに緊張感と融合感のあった時期のしばらくは、それなりに立派なプレス&パスのサッカーを、実現していたわけで。エンゲルスも就任直後の一瞬だけ、そういう気配はありました。それは梅崎が輝いていた唯一の期間でもありますが。(遠い目)

だから考えようによっては、そんなに難しいことでもない気もするんですよね。なぜオジェックはやり通せなかったのか。意志なのか腕なのか。そしてフィンケがやろうとしているのは、それとは違うことなのか。
違う・・・・みたいですね。もっとより、チームの”ボディ”部分の構成に関わって来る仕事みたい。当たり前か。
この日一番感心した、驚いたのは、チームが途中から良くなって来た、噛み合って来たこと。それも明確な戦略転換とかではなくて、やりながら、状況との対応の中で、自然に”焦点”が合って来たという感じが。

つまり、前節鹿島戦の”実績”(笑)からすれば、この日のテーマはいかに「最初の勢いを長続きさせるか」「良い時間を長くするか」みたいなのがせいぜいだというのか、ほとんどの人の期待だったでしょうから(笑)。まだまだ門前の小僧状態というか、真っ直ぐにしか進めないというか。
それが実戦のさ中で、”焦点”が合えば途中からでも勝手に良くなれるということは、それなりのものが事前に構成されている身に付いている証だと、普通に考えればそう推測されますからね。その内の何割かは、冒頭僕が言った”元々持っていた”ものだったとしても、フィンケの影響力が運用や調整や戦略レベルにはとどまらないと、引き合いに出して悪いですがそれこそ「オリベイラ」ではないと、そういう手応えは結構感じました。

ここらへん、J’sGoalの試合評だと、「前節の鹿島戦での敗戦(0対2)を受け、手堅くプレーを展開。前がかりになることなく、バランスの取れた配置で相手との駆け引きを続けた」となっていますが、そうなんですかね。そこまで器用なのか。
鹿島戦のやや空回り状態から、リスクのケアくらいは出来るでしょうが、”行き”方自体のカスタマイズまで、そんなことまで出来る状態にあるのか、それはちょっとまだ、半信半疑ですけど。むしろ青臭いくらいでちょうどいいんじゃねえのこの時期はみたいな、部分も含めて。


ま、良かったですね。はい。(笑)
次また”どん底”系のチームみたいですし、チームも僕も、ゆっくり試運転というか今の内に色々な面を見ておいてと。
原口の才気も、今日初めて確認した感じ。正直今までは”元気”で速いだけで、高橋峻希の方が見たいなあとか思ってるところもあったんですけど(笑)。斜めへの動きが面白いし、トップスピードから変化を付ける能力も垣間見えたし。
山田直クンは・・・・なんかキャラが面白いですね(笑)。淡々と客観的で。先輩(?)とは違う意味で、この人も”火の玉”ではないらしい(笑)。あんまりレッズにはいなかったタイプで、そういう意味でもこの選手が中心になったら、変わりそうですね。

堤早く戻って来ないかなあと、ふと思いました。三都主はともかくとして。
最終ラインかその前か、とにかくフィード/クロスに期待しています。あと軽みと。ちょっ軽過ぎるところは、直してもらって。(笑)


コミュニケーションとその前提 ?篠田節子『ハルモニア』 

ハルモニアハルモニア
(1997/12)
篠田 節子

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総評に続いて。ブログまたぎ失礼。

ちょうど今週の(TBSの)「CBSドキュメント」で、この『ハルモニア』のアイデアの元になった”サヴァン症候群”(Wiki)の天才音楽少年(ピアノと作曲)の継続リボートが上がっていましたが、その中で彼の音楽教師が、彼の表現における
 1.感情の抑揚の無いこと(理解しないこと)
 2.”感情表現”の為に、演奏に強弱(という”抑揚”)をつけられないこと(必要を理解しないこと)
 3.作曲は出来るが、それに歌詞を付けたり具体的なイメージや感情を付与出来ないこと
を、彼の”欠点”として挙げていました。
善意で言っているようでしたけど、僕からするとこれらは別に欠点でも何でもなくて、彼の「音楽」がより純粋であること、その形式性そのもののに中に必要な全てが詰まっていること、そして更に、その音楽教師が言うレベルの「感情」というものが、余りにも日常的で通俗的で、かつローカルで慣習的で、文化固有的なものである、そのことに教師が気付いていなくて無前提に自明化しているという、それだけのことに思えました。

・・・・まあ論理的に思っただけですけどね。つまり実際の彼の”音楽”をよく聴いて、そう反論しているわけではないですけど。
ただその教師が、僕が言うような次元の論理的可能性を、視野に入れていないということは、ある程度自信を持って言えます。
更に言うならば、多分”抑揚”はついているんじゃないかなあと、彼なりに。ただそれは、俗人(笑)や彼と脳の構造もしくは認知と伝達の枠組みを共有しない人には、感じ取れない微妙なレベルで。必要十分には。
僕自身も、実際に聴いてみないとよく分からないですし、”共有”はしていないけれど一般的な意味では熟達した音楽聴きの耳に、心に、”感じ取れ”ないなりにどれくらい伝わるものがあるのかとか、そこらへんは興味深いですけど。
つまり、使い方は違っても、「ヒトの脳」には違いないわけで。共通性で行ける部分と、行けない部分と。

まあ、そんなようなことと、関連した話です。


『ハルモニア』の音楽指導場面

改めて確認すると、『ハルモニア』は上記”サヴァン症候群”をヒントに設定された、幼い時の特殊な脳外科手術とその手術中の事故によって、重度の情緒障害や自閉症的な適応・学習・コミュニケーション障害を抱えたある女性が、その代償に得た天才的な音楽的能力(絶対音感と記憶力と再現力)を見出され、それを伸ばそうとあるいはそれによって他人や世間とコミュニケートさせようと、基本的には善意で努力する人たちと関わり、巻き込まれ、引き起こした騒動の顛末を描いた話です。

ちなみに「ハルモニア」というのは、古来ギリシャ/ヨーロッパで考えられていた、神の創造物たる宇宙の全要素・存在の調和、その調和そのものが奏でている”音楽”のことで、超絶的な再現能力と、裏腹のオリジナリティや”感情表現”の欠如との間で引き裂かれているヒロイン(?)が、最後には到達して、それを通して初めて「自己表現」に成功したように見える、そういう観念です。
ここらへんの「音楽論」の部分も非常に面白いんですが、専門的になり過ぎるし僕の手にも負えかねるところがあるので、とりあえずモチーフとしてだけ、押さえておいて下さい。あくまでコミュニケーションと認知と伝達一般が、このエントリーのテーマ。


さて本題に入って、小説の前半部分は、主に男性チェロ奏者の音楽教師(努力で何とか身を立てた二流の演奏家)が天才だけれど障害者の彼女を指導する、その苦闘の過程、特にコミュニケーションの困難に焦点が当てられます。
登場場面で彼女は、目の前で幼い子が怪我して泣いていてもいっさい無関心で反応しないという、やや類型的な描写でそのキャラクターが示されますが、そういう価値的道徳的”感情”以前に、そもそもの意思疎通、意思が通じているのかいなのか、喜んでるのか嫌がってるのか、好きなのか嫌いなのか、そういう感情自体があるのかと、その段階で男性教師は途方に暮れます。

それ以前に他の患者たちに対する「音楽療法」場面で、その彼の演奏を傍観していた彼女がとったリズムの正確性から、彼女が音楽に反応することも素質があることも、分かってはいるんですが、いざ教師と生徒として向かい合ってみると、何を言っても何を指示しても、勿論言語的な応答は無いですし、表情や仕草で反応するわけでもない。仕方なく妙齢の女性(20代後半)の体に触れる居心地の悪さを抑えつつ、一つ一つ手を取って(チェロを抱えさせる為に)足を開かせてともかくも弾く態勢を取らせてみても、あるいは手を添えて動かして音を出させてみても、なすがまま。
そうかと思えばやたら激烈な反応をすることもあって、それはそうして出させた音などが彼女の感受性に不快な場合で、唐突に断固として拒否し、あるいは楽器を取り落として壊し、あるいははねのけた腕で彼に怪我を負わせる。

ただそれはそういう結果を企図した「意思」的行為ではなくて、限りなく反射に近い、単なる反応なんですね。含むところがあるという意味での「感情」ではないし、我慢の挙句の「かんしゃく」ですらもない。ほとんど機械。
逆にそうした反応を時にはするということは、彼女が彼とのレッスンそのものは、おおむね受け入れている、弾く/学ぶこと自体は拒否していないということの、証しではあるわけですけど。こうした受容と拒絶の無慈悲な峻別は、レッスンがかなり進んでより音楽的になって、かつそれなりに長期的に安定した「人間関係」を構築出来ているように見えるようになっても基本的には同じで、今度は彼女の音楽的能力の絶対レベルの高さによって、彼のミスや演奏力不足への、剥き出しの違和の表明や拒否や無反応によって、凡才の彼の自尊心を手酷く傷付けるわけですね。


絶対的ディスコミュニケーション。”思いやり”の敗北

こうした彼の苦闘を、時に彼の立場で、時に俯瞰的客観的な立場で見ながら感じるのは(”彼女”の立場はなかなか難しい)、絶対的なディスコミュニケーションの恐怖、心臓がギュッと縮こまるような、あるいは皮膚が冷んやりしたものに不意に触れたような感覚。
そして僕も含めた我々「普通の」人間が、日常無意識に依拠している”コミュニケーション”の世界、その前提と構造が崩壊して行く感覚。

問題は感情ではないんですよね。意思でもない。彼女は確かに時に取り付く島の無い「拒否」を示しますが、それはディスコミュニケーションの表れや産物ではあっても、”原因”や”本体”ではないんですね。上で言ったように、彼女が具体的には模倣を基本としながらも、結果的に従順に長期にわたって彼とのレッスンを続けている時点で、あえて言えば彼女の”意思”としては、実は十分に彼を「受け入れて」いる。様々な場面での反応から、彼に「好意」を持ってさえ、いるのかも知れないと感じられる。
明示はされないですが、それは実は終始一貫そうで、にも関わらず彼と周囲の人が悩み、苦しみ、大騒ぎし、しばしば疑い、絶望もし、それに従って彼女の境遇も時に危機的なものとなったり二転三転するわけですが、しかしそれらの過程から透けて見える彼女の「不動」性、あえて言えば”愛の不変”の可能性には、読んでて酷く切なくなるものがあります。”初めて会った時から好きでした。あなたを疑ったことはありません”・・・・のかも、知れない。

ともかく彼は彼女と意思疎通をしようと、彼女の意を図ろうと苦心惨憺するわけですが、その中で明らかになるのが、通常”コミュニケーション”の場面で主役的扱いを受けることの多い、例えば「熱意」であるとか、「善意」であるとか、あるいは「思いやり」であるとか、働きかけの「努力」であるとか、そういうまとめて”情的な”要素群の、恐るべき無力さ
更に言えば、目を正面から見るとか、付随して優しいまなざしとか目と目で通じあうとか、包容的な仕草や接触であるとか、そうした正統とされるノンヴァーバルな身体言語やゼスチャーの類も、全くと言っていいほど意味をなさない、機能しない。

いや、通じてるのかも知れないですよ。根底では、究極的には。悪意や暴力よりいいのは確かでしょうし。しかし、当座、役には立たない。”通じない”ものは通じない。何かもっと前提的な、構造的な、あえて言えば技術的な要素の欠落や障害や理由があって、彼女は反応してくれない、従ってくれない。そこで「俺の気持ちは分かるだろ?」などと言っても、意味は無いわけです。夜回り先生の不良たちへの”熱血”指導は、ここでは通用しない(笑)。”本気”でぶつかったからどうだという、そういう類のディスコミュニケーションではないわけです。
逆に実は多少乱暴に何かをさせようとしても、その方向づけさえ正しければ、乱暴さそのものにはそれほど彼女は頓着しない、適切な刺激には適切に反応してくれるんですね。

どうしたら「適切」なのかというのは、勿論最後まで彼も試行錯誤し続けるわけですが、一つ言えるのは、指導力にそれなりの定評がある音楽(個人)教師である彼の指導の、他の生徒たちには通じたのであろう「熱意」や「思いやり」や身体言語、それらがなぜ他の生徒たちには通じて彼女には通じないかと言えば、それはそれらコミュニケーション上の『言語』、こうしたものはこういうものを意味するというシステム、それを彼と他の生徒たちは共有しているけれど、彼女は共有していないという、そのことです。
逆に言えば彼が日常、生徒たちと彼らを筆頭とする「普通の」人たちと取り交わしている”コミュニケーション”は、その大部分が単なる習慣的行動であるし、内輪の約束事の応酬であると、そういうことになりますか。「熱意」が相手を動かした、「思いやり」が通じた、そう思っているもののその実態は、多くは相手の言動や行動の記号的意味に対して、快不快の一定の生理的限界の範囲で、システムに則って半ば自動的に反応しているだけだと。こういう時は、こうするものだと、無意識に自分に強制した結果だと。それを社会的な命令や外聞として、意識して(抵抗を感じて)いる時も、無くは無いですけどね。

繰り返しますが、彼女は感情的に拒否しているわけではないし、彼の善意を疑っているわけでもないし、音楽やレッスンに乗り気ややる気が無いわけでも、全然無い。むしろ言葉を失った彼女なりの「言語」として、外界と関わる、それ以前に外界を積極的に認識するほぼ唯一に近い手段として、相当に、切実に求めている追求しているらしいということも、後に明らかになります。
しかし、具体的な応答場面では、とにかく通じない。彼女がそれを気にしているかどうかはともかく(それが彼女の「感情」「文化」なのかも知れない)、我々が考えるような意味での”コミュニケーション”は、まず成立しない。なぜなら、それを支えるシステムを共有していないから、あるいは存在していないから。

実際にはそれでも徐々に彼は、彼女の”反応”(反応しないことも含めての)の読解や予測が出来るようになりますし、彼女も彼女なりに、我々が認知可能な”表現”を、時に示すようになります。(少なくともそう見えます)
そういう場面では、今度こそ、コミュニケーションの単なる相対的なシステムや約束事ではない、基底的な何かが見えて来るような、そういう段階が予感されるわけですが、それについては特にテーマ的にこの作品で追求されているわけではありませんし、余りに大ごとなので僕も今回はパスさせてもらいたいですけど。(笑)

・・・・ああ、まあ、「ハルモニア」というのが、正にその”基底的な何か”だと言えばそうか。少なくとも、”音楽”という次元においては。他にも彼が彼女の精神世界を(テレパシー的なチャンネルで)体験する場面では、彼女が幾何学的な”秩序”世界を、かなり直接的に内面に抱いていることが示唆されます。数式で話しかければ、通じるのかも知れない。(笑)
まあそこらへんは、興味ある人は読んでみて下さい。


以上、多分あんまり納得してないのではないかとも思われますが(笑)、次に他の(サヴァン的なもの以外の)例を使って、もう少し説明を試みてみたいと思います。


磐田?浦和(’09) 

あんまり書くことが、ないかも。

J1第3節 浦和 △1?1△ 磐田(エコパ)

普通の試合に、なってしまいました。


前回の「パスサッカー考」を引き継いで言いますと。
・フィンケの”パスサッカー”と、ガンバ・甲府・広島あたりを現在の代表例とする、日本人が無意識に考える”パスサッカー”との違いは、一言で言えば『ビルドアップ』段階での凝り方というか、繊細さというか、注意の集中の仕方というか。
・明らかにそれ自体として、”愛でて”ますからね(笑)。単なる「段階」ではなく。だから”核”(↑)にも、なりやすい。勿論”目的化”、という、色合いも付きまとう。
・まず「回し」て、その後どうすべえかと、単純に言えばそういう感じ。
・それに対してフィンケや、広義にはオシムもそうでしょうが、そういう人たちのものは、それより遥かに最初から視点が遠くにあって、言ってみればいきなり「決めに」行っている、最終段階を見ているor過程を一直線的に見ている。
・その「決め」の手段としてパスがあるのであり、純然たる準備として、「回し」ているような状態もある。
・ベンゲルは、どうだったかな。日本時代。あんまりよく覚えていません。
・ピクシーはそこそこ”回し”好きのように見えますけどね。ただし超シンプル。

・とにかく焦点は”決め”に当たってるので、だから見方によっては今まで調子のいい時にやっていた「集中攻撃」の類と、ある意味見た目はそんなに変わらないところがある。(前回参照)
・と同時に、「決め」切らない、決め状態が発動しないと、何も無い、何も起きないように、見えるところがある。
・ガンバなら、どんなに出来が悪くても、そんなことにはならない。必ず「何か」はある。ただ失敗するだけ。(笑)
・どちらがいいというのではなくて、意識・感覚のありようの話ですけど。
・あるいはオシムが去った後に、千葉に「パスサッカー」の”伝統”や”香り”が残ったりするかというと、そんなことは特に無い。
・あのレベルで”成功”して初めて、(パス的に)目に見えて何かがあるものなので。

・ここらへん、同系のはずのオシムとペトロヴィッチは、明らかに違う感覚でサッカーをやっている、チームを作っているように見えますし、別にブラジル人でも日本人でも無くても、オフトのように徹底的に”ビルドアップ”狂みたいな人もいるし、なかなか括りでは言いずらい。
・まあ一応、フィンケ/オシムの方が新しい(流行の)スタイルで、オフトの重心の低さがオールドスタイルだということは、言えることは言えるんでしょうけど。
・ただ磐田でも浦和でも、”残る”ものはオフトは作ってくれましたよね。その上に別のものを加えて、両者はそれぞれに面白い花を咲かせた。
・それはともかく。


・....”それはともかく”と繋いだ場合、通常はその後に更に言いたいことが残っているわけですが、実は特に無いです。(笑)
・だから考えよう。
・ふむ。そうですねえ。だからフィンケのチーム作りは、あえて言えば進行具合が余り分かり易いタイプではないのかなと。
・「成功」するか、「失敗」するか、見た目が両極端と言うか。
・ある意味”過程”の無い、サッカーだから。
・どうなのかなあと思っている内に、気が付いたら完成してるかも。
・何だろう、相手やる気が無いのかなあ、ああそうか!こっちが強くて付け入る隙が無いんだ!みたいな。(笑)
・勿論監督の中には(過程が)あるでしょうし、分析すれば純機能的には色々区別もあるでしょうけど。見た目の問題として。

・より具体的に言うと、”崩せないけど回せる”みたいな中間点状態は無くて、崩しが成功するかどうかが常に目安であり、テーマであり、その結果を見て進行具合を考えるしかない。純論理的にというか。
・それでも出来上がった暁には、感覚レベルでも全体像や質感が、それなりに把握できるようにはなっているでしょうけどね。
・どんなチームも、最終的には具体的なものであるし、個別的なものである。
・ただ問題は、よほど上手く行っている(行った)時以外、割りと今までのチームとの差別化が、し難いところは出て来るかなと。
・なまじある程度誤魔化しの利く個力もあるだけに、気が付くと普通にサッカーやってるだけだという。

・やっぱり本当は、誰か分かり易く「変化」を象徴する存在が、ピッチにいてくれるといいわけですけど。
・凄い低次元の比較でも(笑)、オジェックには(復調した)『田中達也』がいたし、エンゲルスにも『エジミウソン』や『梅崎』がいた。
・フィンケは実に男らしく(?)、全く変わり映えしないメンバーで、純粋に自分の「理論」力のみでやってますけど。(笑)
・なんだかんだきついとは思いますよ。
・原口は今いちそこらへん分かり難いし、その原口欠場の穴を埋める為のこの日の高原in達也下がり目の布陣の、”お茶濁し”感というか”今更”感は、正直ちょっと鬱でした。そうじゃありませんか?(笑)
・どこの貧乏チームなんだレッズはという。人いねえ。もしくは厚いとこだけ無駄に厚い。....”ボランチ”あたりの話ですけど。(笑)
・エスクデロ酷かったしねえ。梅崎は言うまでもない状態だし。
・全て山田直輝待ち、というのは、さすがに悠長というか、無策というか。
・まあ監督がどう考えてるのか、特には伝わって来ませんが。好きにやれればそれでいい人なのか。


とりあえず高原は移籍すべきですよね。本人の為に。
レッズでやれることはもうないですよ。精神的に貯金使い果たしてるんじゃないでしょうか。誰の意思でもない、”飼い殺し”状態。
逆に駄目なのを、一方的にレッズのせいにされても困るし。
どこか本当に必要としてくれる(J)チームに移籍すれば、次の日からでも数倍マシな働きが出来そうな気がしますが。(もしくは本当に”駄目”だということが判明するか)

ナビスコか。何だかすぐ試合だ。しかも広島戦
こりゃあ、書くことありそうだぞお?(笑)


コミュニケーションとその前提(2) 

承前

色々立て込んでいるので、ナビスコについては後で2戦まとめて書きますので、悪しからず。


高機能自閉症者ドナ・ウィリアムズの”コミュニケーション”

自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)
(2001/03)
ドナ ウィリアムズ

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ドナさんについては前にまとめて紹介してあるので、詳しくはそちらを参照
ごくごく簡単に言うと、比較的「外向的」で「活動的」なタイプの自閉症の人で、それゆえ自閉症の人の「内面」「内界」で何が起きているかどう感じながら生きているのかについて、非常に貴重な証言を我々”健常者”にもたらしてくれた結構有名な人です。

さて紹介した上の本やその前作を読むと、自閉症の人がいかに”健常者”と異なる形で周囲の環境や他者の存在・行為を認識し、そのギャップに恐怖し適応に苦しみながら暮らしているかがビビッドに分かるわけですが、少なくともドナさんの場合は、基本的にはそれを自分の側の落ち度・・・・とまでは行かないでも、あくまで自分が変わっているのであって、合わせなくてはいけない立場であり、どうやって合わせるか、どこまで合わせられるかという、そういう関心やトーンをメインに、これらの本は書かれています。
それは一つには自閉症に対する研究・理解がまだまだ不十分であり、かつ高機能自閉症者の場合は逆に「高機能」であるがゆえに、しばしば”病気””障害”とすら認識してもらえず単に性格や行動に問題があってそれは直すべきものであるという、やや一方的に処罰的な視線で見られることが、少なくともドナさんの生まれ育った時代(1963年生まれ)には多かったという、そういうことも関係はしているだろうと思います。何より本人も、自らの障害についてよく知るまでは、そう思っていたでしょうし。

ところがそうしたやや孤立した、卑下に近い”謙虚”な状態で暮らしていた&それを綴っていたドナさんのトーンが、何人かの「同朋」・・・・同様の障害を抱えて苦闘しながら生きている仲間に出会った時に、変化を見せます。別に覚醒するとか開き直るとか、啓蒙運動の旗手になるとかそういう意思的なことではなくて、もっと自然に、さりげなく。・・・・まあ、ドナさんが変わったというよりも、読んでいる僕の感じ方が変わるんですけどね、より正確には。

どういうことかというと、”こちら”の”正常な”世界からの目線で、ある意味無意識に不可避的に差別的な優位な視線でドナさんたちを見ていたものが、逆に置いてきぼりにされるんです、される気になるというか。ドナさんたちの”コミュニケーション”と、それが形作る「世界」自立・自律性に。・・・・なんか順番おかしいな。
つまりですね(笑)、自閉症は現在の生物学的医学的状況からは、基本的には「障害」ではあるわけです。現実に生存を脅かすような著しい生活上の困難を伴いますし、彼ら自身の中でもそうですし、こちらからは尚更、彼らの反応や行動や見かけは、異常だったり理解不能だったり、支離滅裂だったりもする。だから彼らが孤立したままであったら、それはある種”狂気”と同様にも映らなくもないわけですが、しかしそうした彼らが「出会」った時、その認識が変わる。優劣ではなく”違い”、相対性のカテゴリーに、問題が移動するんですね。

簡単に言うと、彼らどうしでは”話”が通じるわけです、コミュニケート出来るわけです。感じ方や反応が、理解出来る、あたかも言葉の通じない異国で出会った、同国人のように。決して無秩序ではない、狂気でも破綻でもない、違いだと、そのことに彼らは気付くわけです。

わたしたちは、互いに似ていた。彼といると、自分も「普通だ」と感じることが出来た。


わたしたちは互いに何千キロも離れて住んでいるのに、「わたしたちの世界」の概念や戦略や経験は、まったく同じ解釈にまとまっていた。一緒にいると、わたしたち三人は、まるで絶滅しかけているひとつの種族のような気がした。


「普通」であること。つまり他にもメンバーがいる可能性がある、固有の秩序性・規則性(”概念や戦略や経験”)を元にしたカテゴリーの一部であること。その安心感。
その「普通」にはいくつもの種類があり得て、それぞれが「種族」であるということ。そのヴィジョン。


ジムとわたしは、まったく同じシステムを使っているようだった。(中略)
ジムの目を見つめ、ジムにも自分の目を見つめられると、いきなり殴られたようなショックを感じた。多分、普段私は世の中の人々のシステムと、世の中の人々のいう「普通であること」の中でもがいているから、人々が毎日互いに与え合っているインパクトは、感じる余裕がないのだろう。だがジムに対しては、即座に感じるのだ。


前提として同じ「システム」が存在していること、それによって初めて成立する”コミュニケーション”と、それの与える「インパクト」。
言うなれば日常的には、”コミュニケーション”と言った時に、力押しにその成果=”インパクト”(多くは「感情」のことだが)の濃度ばかりが注目されるが、それはあくまで結果であって本当はその前に、前提として問われなければいけない(システムという)問題が存在するのだというそういうことですが。
相手を冷たいとか異常だとか断ずる前に。「議論」という特殊なコミュニケーションの場合は、それは”枠組み”や”文脈”の共有という問題になりますか。「システム」さえ整えば、「インパクト」(成果)は放っといても生まれる。別に強いなくても問い詰めなくても。


ちなみにこうして晴れて「普通」であることを分かち合って喜んでいる彼(女)らに対して、僕が一番置いてきぼり感(笑)を感じたのは、こういう箇所。

それからわたしは小石をひとつ拾うと、それで彼のまわりに円を描いた。今あなたはガラスの壁の向こうにいるのよ。わたしは声を出さずに言った。(中略)
それから、もうひとまわり大きい石をいくつか拾った。「これは、明かり」わたしは大声で言うと、ひとつひとつ、彼のいる円のまわりに投げた。「あなたは闇の中にいるの」わたしは叫ぶ。「そしてあなたには、できるだけたくさん明かりが要るの」。


彼=”イアン”という、ドナが後に会った、まだ自覚の不十分な高機能自閉症者がパニックに陥って”機能”停止しかかっている時に、それを助けようとドナが奮闘する場面ですが。
これの何が僕に”置いてきぼり”感を味あわせたかというと、自分の障害に「システム」的背景や秩序が存在することを同朋たちとの経験によって理解して自信を持ったドナが、今度はそれを糧に”先行者”として後続のイアンを手助けしようとする、指導しようとするその様子が、立派になったなあと子供の成長を喜ぶと同時に寂しくも思う親の気持ちのようなものを僕の中に呼び起こす(笑)と同時に、もうそちらの”システム”の問題がそちらのシステムの問題として動き出していること、独自の体系性を持ち始めている感じに、最早健常者/異なるシステムで生きている人間の出番でないこと、お呼びでないことを、何か非情に突きつけられているような、そんな感覚を覚えるからなんですね。

こういうのは多分、医者やカウンセラーや教師や、ある種の”障害”と取り組んでいる人たちは時に感じることだろうと思いますが。
「システム」的問題によって孤立したり弱い立場にいる人たちに、最初は勿論、理解や同情や保護的な態度は、役に立ったり必須だったりするでしょう。しかし「違い」は「違い」なので、どうしても立ち入れない領域というものはある。
このように「障害者」(”異種族”)どうしが独自のシステムで関わり合い始めると特にそうですし、同じ健常者と障害者の関わりの中でも、”分かった”と思う次の瞬間には、分からないわけですね。”違い”を突き付けられる。時には明確な、意思表示として。オマエハ、チガウ。

ここでも善意や努力の限界というものが、示されるわけですけど。

前回書いた『CBSドキュメント』の”サヴァン”の天才音楽少年の「音楽性」の問題についても、健常者の教師が無邪気に(善意で)なんか分かったようなことを言ってますけど、結局のところ、では当の同じサヴァンの人(子)たちは、彼の音楽をどう聴いているのかどう聴こえているのか、そこのところを問わないと研究の方向としては全く駄目駄目だと思います。
番組にも正にもう一人の”天才”サヴァンミュージシャン(女の子)が出ていて、それなのに一切そういう話が無かったので、何やってんだと思ってしまったわけですが。


『ハルモニア』自体は、”違い”を厳しく厳しく描いて、かつ最終的な一致や普遍性の可能性、それはどちらの”システム”が「正常」かではなく、より宇宙的に根底的な”ハルモニア”の次元の示唆という形で、一応ストーリー的には完結しています。
まああんまりそうした「結論」に向けて直線的に集約して行く、そういう話だと理解されるとマズいんですけどね。むしろ最後の部分は、おまけのファンタジーみたいなニュアンス、ご褒美というか。そんなものが無くても、2人の(直接的にはほとんど健常者の凡才教師のですが)努力とその結果の通じあいは、十分に感動的で説得的なんですよね。

まだ”描けてる”感覚が無いので、もう一つ、もっと日常的な次元に引き下ろした形で、このことについて書いてみようかなと。
いつ終わるんだろう。行き当たりばったり。(笑)


ナビスコ予選リーグ1,2節 

ナビスコ杯Aグループ第1節  浦和 ●0?1○ 広島(埼玉)
ナビスコ杯Aグループ第2節  浦和 ○1?0● 横浜Fマリノス(日産)


一進一退?一退一進?もうかりまっか、ぼちぼちでんな?
相変わらず、よく分かりません。進んでるのか進んでないのか。
要は何をやってるのか、どこらへんにいるのか。


こういう言い方って、たいていは遠回しな批判なのが常ですが(笑)、今回に限っては、かなり文字通りな意味で。
どのみち上手く行く時も行かない時もあるのは当然なんですが、なんか全体像が掴めないというか、「可能性」としてもまだ想像できていないというか。

『Number』のフィンケインタビューは興味深く読んで、特に”ハンドボール”(のパス回しを練習に取り入れている)のくだりは、これはまあ、前からちらちら話には出ていたことではありますけど。
それをヒントに思うのは、まず”トップダウン”的だなということと、もう一つはこれは実は重なるんですが「サッカー”外”」の発想が結構リードしているなということ。ある意味では「素人」的というか、偉大なるアマチュアというか。そこらへんが常識人/叩き上げのギドは嫌いなのかなという。(笑)

つまりあの”ハンドボール”(的なパス回し)というのは、単に比喩や練習の工夫というだけではなくて、「こういう状態を実現したい」というフィンケの脳内イメージを、ある意味現実のサッカーに押し付けているような、そういうとこもあるんじゃないかと。
・・・・物凄くタイミングの悪い類例を挙げると、それこそ岡田武史の”ラグビー””大西ジャパン”みたいなものですけど。(笑)
いや、冗談ではなく。
とにかくだから結論ありきのトップダウンorアウトサイドインみたいな性格はあって、本人(orギリギリ当事者)以外よく分からないというか、過程が見え難いというか。フライブルクなんて見たことないしなあ。

それ自体は別に悪いことではなくて、どのジャンルにおいても「外」の発想や”偉大なるアマチュア”が革命を起こすというのは普通にあることで。サッカー界で有名なのは、プレー経験のほとんどないサッキによるゾーンプレス革命とか。
そこまで極端じゃなくても、リトマネンのドリブルや特異なパスの視野がスラローム選手としての経験に多くを負っているとか、もっと身近に最近では、フットサル出身選手の増加が、現代のサッカー選手のテクニックに大きな影響を与えているとか。(金崎とかもそうでしたっけ)

とりあえず、ハンドボールでも見てみますか。(笑)
まあだから、チーム作り的にもプレーのプロセス的にも、文脈を掴む為にはもう少し時間がかかるかなと、でもあんまりモタモタしていると、レッズの古株の手癖の手っ取り早さが勝ってしまうかもしれないからお気を付けをという。(笑)
「完成された選手を扱った経験が無い」という、ギドの警告なんかもありましたね、一応。


そういう意味でもますます期待される「若手」選手たちですが。(ここで”欠席”は痛過ぎるぞ梅崎。何よりも自分にとって)
原口は何となく分かって来ましたが、一言で言うと”ドリブル”ではなくて”ラン”の選手ですね。
むしろランニングしながら初めてドリブルも、思考も発想も、活きたものとして発動するタイプというか。オシムが喜ぶぞお。(笑)
”タイプ”とは言うものの、実際にはこんな「タイプ」は無いも同然で、凄く変わってるというか、新しいのなら新しいんでしょう。
喉元まで出かかってるのは誰あろう『ヨハン・クライフ』なんですけど、その名を出すには余りにもお人好しというか、真面目だけどやや受け身というか。命令されてるのを待ってる猟犬みたいなところが少し見られますね。ゴーがかかってからの勢いはなかなか凄まじくて、これはこれで、もうそういう「才能」だと言っていいような気はしますけどね。

その”猟犬”の「主人」なのかも知れない(笑)のが、山田直輝ですが。
この人は・・・・いいんですけどね、好きなんですけどねえ、良過ぎて難しいな。
つまり単に「若手を起用」とか、「?の代わり/後継者」とか、そういう使い方がほとんど出来ないですね。「同年代で比べられる立場じゃなくて良かった」と啓太は言ってるらしいですが(笑)正に。
もうこの人を使う時は、この人のレベルに、テンションとスピードと能動性と、要求するプレーのテクニック水準と、そっちにレベルを合わせるつもりでチームを作り直さないとね。状況的に、比べるとすればやはり『中田英寿』なんでしょうけど、必ずしも「使う」タイプでもないのかも知れないというのが、また微妙に難しい。

性格的には実はクソマジメで臆病なヒデとは違って、ほんと飄々としてますけどね。いいのか悪いのかよく分かりませんが。(笑)
もう一人、チーム内にもっと「普通の」選手が(近い世代で)いた方がいいのかも知れないなあ。それが副官なのか学級委員長なのか、よく分かりませんが。いよいよとなったら、それこそクライフになって仕切ってもらうしかないですね。
とにかく既に少しそういう話になってますが、旧世代と新世代のギャップを際立たせる、別に本人の責任ではないですが難しい存在では現状あるかも知れません。ポンテの「絶対能力」や、阿部の「サッカー脳」あたりと、上手く融合してくれるといいんですけどね。
ちなみにトゥーリオはどのみち、全ての斜め上を行くから多分大丈夫です。(笑)

これらに、僕が去年のバイエルン戦で真っ先に惚れた高橋峻希のハイセンスクラッキぶりや、堤の展開の能力や他にもゾロゾロいるらしい優秀なユース出身選手たちが加わってと、近未来の問題としては色々楽しそうですけど、今のチームをどうにかするのはなかなか難題っぽいですねえ。
なまじ高原が好調っぽかったり三都主が復帰したりすると、そちら側に合わせた方が手っ取り早いみたいな誘惑というか重力は、どうしても働くところがありますし。


分からん。任せた!フィンケ。(それが結論?(笑))


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