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『書剣恩仇録』各論(3) 

(2)より。


書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決 書剣恩仇録〈4〉紫禁城の対決
金 庸 (1997/01)
徳間書店

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2.構成の慌ただしさ、ぎこちなさ について


”ゼロ”期の金庸

なぜ武侠小説を書き始めたかというと、私は小さいころから非常にこういうジャンルの小説が好きだったのですが、ちょうど自分の新聞を主宰していましたので、「連載小説」という欄は書く人がいなかったので、ほかに書く人がいないなら自分で書こうと思い、(中略)
だから、最初は読者に好かれるかどうかということはまったく考えていなかったわけです。

(『金庸は語る 中国武侠小説の魅力』 神奈川大学評論ブックレット)


好きだったから書いた。たまたま書く機会があったから書いた。どう受け止められるかは分からなかった。

非常に初々しい(笑)というか、ある種無防備な金庸さんの当時のありさまが語られていますね。一応先立つこと3年前に梁羽生はデビューしているはずですが(武侠Wiki)、それが支えになるほどにも”ジャンル”としては確立していなかったという風に聞こえます。

つまり少なくともこのデビュー作『書剣恩仇録』は、右も左も分からない中、自分の中にあった”旧派武侠”またはそれ以前の武侠小説的なものの蓄積を、かなり直接的に混沌とした形で吐き出して繋ぎ合わせたものと、そう考えていいのだと思います。
構想としては、意識としては人物も歴史もテーマ性も描き込んで、展開もガッチリしっかりやってという『射英雄伝』的なイメージは既にあって、そういう作業をしていたつもりだったのかもしれないですが、その前に吐き出すべきもの、陽の目を見るべきもっとプリミティヴな武侠的なものが金庸の中にあって、言わばこうした意識と無意識が渾然となって同時に表現されているのがこの『書剣恩仇録』なのではないかと。

先に比喩的に、「デビュー作にして”集大成”的な性格を持っている」と書きましたが、言い方を変えるとこれは『新派武侠』作家金庸のデビュー作にして、(実在はしませんが)『旧派(以前)武侠』作家金庸のラスト作でもあるとそんな感じです。


”ゼロ”期金庸の楽しさ

以上、主に全体の造型面での不具合を指摘して来ましたが、それはそれとして、にもかかわらず、だからこそ、個々のシーンやエピソードの充実具合、イメージの豊潤さは圧倒的です。 (中略)
逆に全体像が見えないまま、作者自身も初めてで手加減が分からないまま、惜しげもなく際限もなく、次々に英雄豪傑奇人変人美男美女(アーンド爺婆)がワラワラと登場して、一つ一つが一編のA級映画のクライマックスシーンになり得るような凝った趣向の名場面が、ビュンビュンと現れては消えて行って休む間もありません。

凄い!という部分と無茶苦茶!という部分が混在してますけどね。ともかくもガードの仕方が分からないので(笑)、とりあえずはやられます。


自分で自分を引用するのも変な感じですが、これは改訂前の、初読の印象によるこの(その4)の一節。その後読み返してみても、確かにこういうところはあります。(やっぱなんか変・笑)
雑だったり浅かったり、淡々とシーンが繋ぎ合わされているだけに見えるところは確かにあるんですが、反面それが大らかで生き生きとした印象も与える。むしろこれが元々の、庶民の娯楽B級小説としての武侠本来の楽しさなのかなと、特に『射英雄伝』の意味性と格闘した後に読むと感じました。(勿論(その2)の3.で述べたように『書剣恩仇録』には『書剣恩仇録』なりの意味性はあるわけですが、浮き過ぎてて逆に忘れてしまうというところが(笑))


例示:張召重をめぐる力関係

一例として、例えば張召重という人がいます。乾隆帝を別にすれば主人公たちのほぼ唯一の敵/ライバルで、最初から最後まで反則なくらいに強い、ある意味ではかっこいい”ザ・仇役”。抜群の存在感で善と悪の作品の基本構図を支える特権的なキャラで、だからそう簡単に負けてもらっては困るわけです。それなのに・・・・

相手の少なくとも五人は、おのれと互角、いや、上手の者もいる。(単行本4巻150ページ)


これは終盤砂漠の迷宮の入り口付近で、いよいよ追い詰められた張召重のつぶやきですが、僕何かここ笑っちゃうんですよね。なんだ五人て。なんで五人もいるんだよ。

とりあえずこの”五人”とは誰かですが、
1.武当派の兄弟子陸韮青
2.紅花会四番差配”奔雷手”文泰来
3.”天山双鷹”の一、陳正徳
4.”天山双鷹”の二、関明梅
5.”天地怪侠”袁士霄
だと前後から思われます。「上手の者」は5.袁士霄ですね。

1.はいいです、兄弟子だし。(でも出来れば長兄馬真同様少し腕が落ちるくらいでいいと思いますが。)
2.もまあ許します。大部分の時間を虜囚の境遇と重傷の身で過ごす眠れる獅子ですし。
ただ3,4,5の爺婆は・・・・。お元気で結構とはいえ(笑)、新世代の怪物たる張召重が、そう聞き分け良く旧世代に譲ってしまうのは。まして風下に立って(袁士霄)そのまんまというのは。

しかもここに更にウイグルの奇人アファンティがいるわけです。なんなんでしょうあの人は。結構話が押し詰まってから突然出て来て、わけもなくやたらめったら強くて(笑)。反則ですよね。

こうして見渡すとあれほど憎々しく強かった張召重が、何か武林の勢力図の空隙を衝いてうまく立ち回っただけの小物に見えかねないから不思議です(笑)。いや、そんなことはないんですけどね。間違いなく特権的な仇役なんですけどこの人は。ただ色々出している内に気が付くとそういう力関係になってしまったという。

『射雕英雄伝』を題材に金庸作品の”非・キャラ小説”性を論じた時には、そのかわりに、それとのセットとして作品全体の高度の構築性・形式性というものがあるということを述べました。キャラはその精巧な構築物の部品であると。そしてそれには要所要所での、「誰が誰よりどう強いか」というような理由付けも含まれるわけですが。
ところがこうして見ると、『書剣恩仇録』の段階ではそういうものすらもあまりないように見えます。もっとこう単純に稚気で、思い付きで書かれているように見える。それが楽しい。

(4)につづく。


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