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グルジェフの<私>と「人格」 

軽く脳味噌がヘタってますが、何としても今週中にケリをつけるぞとラスト稿。

何百何千の<私> の ”<私>”

「人格」と「本質」 の ”「人格」”

はどういう関係にあるのか。現代の精神医学的現象としての「多重人格」(解離同一性障害)を考える上で、どういう意味を持ち得るのか。
実は僕も書きながら考える感じなんですが。


まずグルジェフの<私>という言葉の定義ですが、”解”編でも書いたように、抜粋4のこの箇所が非常に核心的かなと。

複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。


時々で変わるその中身が何であれ、ともかくもその時
 <私>として働いているもの
あるいは
 <私>と名付けられているもの
が<私>である。
間違いがないと言えば間違いがないですが、無意味と言えば無意味なかなり抽象的な定義。

それに対して「人格」は、「人格」?「本質」という二項からなる概念的枠組のいち構成要素であり、「本質」が”自分のもの”つまり自分の中にある元からあるものによって成り立っているのに対して、「人格」は”自分のものでない”つまり外から来たものによって成り立っている。
「本質」が僕の言う「魂」に比べれば抽象的/機能的定義であるように、「人格」も特定の何かを指しているわけではありませんが、<私>の定義の究極的な抽象性に比べれば、それなりに具体的/構造的な定義かと。

思い切り分かり易く整理すれば
 <私>という機能の構造論が「人格」?「本質」である
あるいは
 <私>は「人格」と「本質」によって成り立っている
と言っても多分大きな間違いではないですが、なんというかグルジェフには鼻で笑われそうな(笑)猪口才な細工という気が。基本的にはそれぞれの文脈、それぞれの論の目的に応じて別々に考えるべき話だと思います。そんなに”体系”としての全体性/整合性を追求はしてない。”説法”ですからね基本的に。



一方の現代の心理学/精神医学(及び常識)の方ではどうなっているかと言うと、

まず「人格」の機能としては、
1.その人がその人であるアイデンティティの源、あるいは別名。
2.人間関係、社会生活を営むためのペルソナ(仮面)
という二面が何となく割りと緩い定義で一緒くたに考えられていた/使われていたところに、”多重人格”という衝撃的な現象が一世を風靡して、1.の用法がある種後退した。そして2.の側面を中心として、ある意味では初めて意識的で厳格な定義づけの動きが一般化した。

そして現在”多重人格”という現象を視野に入れて、あるいは多重人格を考えるor治療する目的の下にどうやら共通化している「人格」の定義としては、

特定の(時期や状況における)記憶を背景にした自己意識に基づいた、思考・感情や行動のパターンの集積


といったものがあげられるのではないかと思います。
上ではわざわざ”特定の”という断りが入っていますが、つまり記憶に十分な一貫性/統一性があれば思考・感情や行動のパターン、つまり「人格」にも一貫性/統一性がもたらされ、単一の「人格」を持った”正常な””健康な”人間とめでたく(?)認められるわけです。
言い換えれば多重人格とは記憶の病であると、そういうことになります。

ちなみにこの記憶への注目の背景には、
1.多重人格者が社会生活を送る上で最も端的に困難を訴える側面である。
2.伝統的な心理臨床において、多くの場合、記憶の分断・障壁を取り除くという方法で治癒・人格統合が達成されて来た。
3.多重人格者(等)の脳において、実際に強度のストレスによる(記憶を司る)海馬の萎縮が認められることが多い。(という最近の知見)

といった事情が存在します。

(つづく)


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