スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

11.人格の二重化(2) 

・・・・二重人格をめぐる当時の理論的状況。


”二”と”多”

「熟年のころ、(人格交代の)発作が起こるのを感じると、彼女はもう一人の自分のために(中略)走り書きのメモを残し(中略)た。しかし、そうしたとき、彼女が交代する正常な状態とは、熟年の女性というよりは、十四才の少女のそれだった。」
「アザムはこれを第三の人格とは考えずに、単に正常状態の変種であると考えていた。」
「現代の臨床家なら、これが子供の交代人格ではないかと疑う者もいるだろう。」


「さらにもう一つ、極度の恐怖という第四の恐ろしい状態も存在していた。(中略)彼女は、暗闇の中や目を閉じたときに、恐ろしい幻覚を見た。
「アザムはこれを第二状態の『付属物』だと記述している。」
「現代なら、これらの発作を分裂病様エピソードと考える者もいるだろう。臨床家の中には、迫害者の交代人格が動き出したのではないかと疑う者もいるかもしれない。」


「さらに、第五の状態すらあったらしい。アザムは(中略)論文では書かなかった別の状態についても語ったらしい・・・・しかし、その状態がいうものかについては、話すのを拒んだそうだ。何か不適当なものだったのだろうか?」
「アザムのモデルは二重化についてのものだった。第三の人格を認めることはできなかった。二重化は存在したが、“多重“人格は、まだ(理論的に)存在しなかったのである。」


催眠術

「アザムは、フランスで初めて(ブレイドの)科学的催眠術を紹介したことに誇りを持っていた。」
「ブレイドの本を手に入れたアザムが、フェリーダに催眠術をかけ、自然発生的に起こっていた症状を人為的に作り出すのに、さして時間はかからなかった。」


「アザムを催眠術に導いたのは、他ならぬフェリーダだった。(中略)初めてフェリーダに会ったとき、アザムには催眠術の知識すらなかった。彼がフェリーダに催眠術の実験をする気になったのは、元々、彼女が自然発生的に解離したからだ。
「彼はフェリーダの治療を期待して、催眠術をかけ続けたのだが成功せず、最終的にはこの計画を放棄した。」


「催眠術は、多重人格者というフランスにおける新たな流行にとって主要なもので、この点が、イギリスの二重意識の場合とは異なる部分の一つである。」
「人格の二重化を起こしたすべての個人は、催眠術に強い興味を示す環境下で生きていた。だから、そうした状況下では、彼らの行動は、どうしても、催眠術をかけられた者の行動と比較されてしまう」


ヒステリー

「二重意識と、一八七五年以降のフェリーダの新しい時代の間には、さらに深刻な相違点がある。”二分化”のほとんどの症例は、グロテスクな身体疾患を持っていた。」
「フェリーダの時代には、こうした症状は、ヒステリーの診断と関連付けるのが標準的だった。フランスの“二分化”の症例は、すべてヒステリーとして説明された。」
「ヒステリーと“二分化”の結びつきが非常に強いため、単に(人格)分裂体勢を示した者も、ヒステリー症状を持つとされてしまった。」


クーザンvs実証主義 ?一つの魂vs多様な、移り行く魂

「この時代の大半において支配的だったフランス式の哲学は、ヴィクトール・クーザン(一七九二?一八六七)の影響を受けていた。それは折衷主義的なスピリチュアリズム(中略)と呼ばれたものだった。」
「霊的存在???神、魂、イデア???は実在し、客観的で人の観念から独立した、自律的なものだ、とクーザンは論じている。」


イボリット・テーヌ(一八二八~一八九三)は実証主義者で、科学的な世界観を唱えていた。(中略)彼は、折衷主義的なスピリチュアリズムの信者たちが主張した、自律的で、それ自体、独立的な自己や魂という考え方に反対した。言い換えれば、『多様でつかのまの存在であるような、私の感覚や記憶やイメージや観念や知覚や概念とは区別される、独特で、持続性を保ち、常に同一の“自我“』に反対したのである。」
「だから、一八七六年に、二重化された人格の問題が大きく取り上げられるようになると、彼は喜んだ。(中略)こうした症例においては、一つの肉体の中に交代する二つの自我が存在しているのであり、その二つの自我は(テーヌの考えでは)それぞれが独自の意識と記憶の連鎖で定義されているからである。ここには超越的な魂も、本体的な自我も存在しない。」


(アト注)
今日の視点では、当然ながらこの「論争」の構図は素朴過ぎるきらいがある。
つまりことはそもそもの単一性/不変性(クーザン)をどのように定義するか、及び発見された(二重の)『人格』をどの程度『魂』や『自我』と同一視するかにかかっているのであり、そういう意味では”科学的”なテーヌ(及び実証主義)の論じ方も少々迂闊過ぎるかまたは「後出しジャンケン」じみたところがある。
具体的にはむしろいわゆる多重人格的な『人格』の一つ一つの価値を余り重大に考えないという方向で、ある意味ではそれらを包摂/一貫する単一性という感覚も十分に現代でも健在である。少なくとも決着はついていない。



サイトトップへ
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/126-fa758a15

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。