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哲学者の見る多重人格:古典編 

・・・・”16.心と身体”の(1)

ウィリアム・ジェイムズ『心理学原論』

「彼女を催眠トランスへと入り込ませることによって、彼女の押え込まれた感受性と記憶を取り戻す時....言い換えれば、”解離”(多重化)し、断絶された状況から感受性と記憶を救い出し、他方の感受性と記憶をつなぎあわせるとき」に、彼女は違う個人になると、ジェイムズは言う。

(アト注)
分かり難いがつまり、『つなぎあわせる』前の解離/多重化した”個人”もそれはそれで立派な”個人”だということを、この心理学の始祖的権威である哲学者も認めているという話。


「ただし、ここで言う『個人』には、何ら哲学的な重みがあるわけではない。違う個人とは言っても、これは、あいつは酒を二、三杯飲むと、別人になってしまうという程度の意味だ。」

「彼は、交代的人格を『現在の段階では回答の出せない問題』へと繋がる現象として記録した。ジェイムズは交代的人格からは、いかなる哲学的推論をも導き出さなかったのである。」



ホワイトヘッド『過程と実在』

「ホワイトヘッドの見方によると、われわれが実体として普通に考えているそれぞれの事物が、社会である。(例えば)電子は、電子の契機の社会である。(中略)この(”多重性”という)論法でいくと、いかなる有機体も社会になる。」

(アト注)
つまりこの世に存在している全てのものは、それぞれがそれぞれのレベルで独立したシステムとして(多重に)存在している。


「しかし、人間は特別である。『より高度な動物の場合には、中心的な方向が存在することにより、動物の身体それぞれが、生きている人格、または生きている複数の人格を含むことが示唆される。われわれ自身の自意識とは、それらの人格を直接に知ることである。』」

(アト注)
人間を筆頭とする高度な動物は、例えば”人格”のような本来個別的並列的な諸システムを一定の方向に階層化したり統制したりして存在し、それら全体を意識しようとする働きを有している。


「(承前)『そうした統一的支配に限界があることは、人格の解離、連続的な交代を起こす多重人格、更には強迫をともなう多重によって明示されている。』」

「ホワイトヘッドの観点からすると、多重人格はごく簡単に発生する。(中略)『
”説明しなければならないのは、人格の解離ではなく、統一的支配である”』」

(アト注)
後段部分はまず頭に置いておかなくてはならない大テーゼ。言い換えると解離が不思議なのではなくて、統一が不思議/不自然/不可能なのである。


ここまでが前提となる古典的(古くて間違っているという意味ではない)認識。


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