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『完訳 水滸伝』(倫理意識編) 

「招安」前の話つづき。人肉食編の次。


『水滸伝』と言えば男が男に惚れる”男伊達”の世界、弱気を助け強きをくじき、富貴から奪い貧賤に施す義賊、しかも悪徳官吏とはやり合っても天朝様への忠義の心・報恩報国の志は決して忘れない義士の物語、のはずなんですが。
そうしたメンタリティ/テーマ性によって、同じく男伊達の物語、現代”武侠小説”(参考)の有力な源流の一つと目されているわけですが。その実態はいかなるものか。


穴だらけ、超ご都合主義な「義」「侠」

『水滸伝』が男伊達の、義侠の物語であることは、他ならぬ作中人物たちによって耳にタコが出来て、しまいにそれも擦れて取れるくらい(笑)日常的に喧伝されています。
それは勿論庶民の娯楽「講談」という元々の形式、繰り返しやお約束を恐れずいやむしろ歓迎される、分かり易さが何よりも優先されるそういうスタイルによるところもありますが、それ以上に作中人物たちの徹頭徹尾の「本気」の現れであるわけです。少なくとも主観的意識的には、彼らが歩んでいるのは正に”義侠”の道以外の何物でもないのです。

しかし、しかし、残念ながら現代日本人である僕の目には、彼らのやってることは滅茶苦茶もいいとこです。何が「義」だ、何が「侠」だ、自己中心的な、極端な身贔屓の、手前味噌の、ご都合主義的な倫理観で爆進する、傍迷惑な人殺しの集団でしかないじゃないか。
・・・・ここで金庸の、あるいは”武侠小説”の現代の読者は言うでしょう。分かる分かると。
残念。あなたは全然「分か」ってなんかいません。(笑)
水滸伝の連中に比べたら、金庸の登場人物なんて悪役も含めて立派な紳士、お行儀の良い市民社会の住人です。ラベルが違うんですラベルが。ボルトが。ナットが。

前近代的な頑なな倫理意識に殉じていること、それをめぐっていちいち激しい感情を露わにすること、それ自体は共通しています。ただ論理性のラベ・・・・レベルが全く違うんですよ。
例え反応は大げさでバランスを欠いていたとしても、金庸の登場人物たちの言うことやることには、それなりの論理性が必ず読み取れます(文学的な謎は別)。何よりも彼ら自身に、過去現在未来に渡るそうした自分の”倫理基準”を一貫したものにしようとする意識、外れていれば恥じる意識、あるいはより妥当性のある倫理を確立しようとする意識が存在しています。それゆえに彼らは悩んだり葛藤したりするわけですが、そうしたものは水滸伝の豪傑たちには全くと言っていいほどありません

偽善的なわけでも悪気があるわけでもないんですが、意識の構造がやはり現代人とは全然違う。意識の及ぶ範囲が違うと言った方がいいですかね。彼らなりの真剣さと一貫性はあるんですが、それがあまりに浅くて場当たりで視野が狭いので、現代の目で見ると穴だらけに見える。だからご都合「主義」ではないわけですが実際には。

以下少し、例示してみましょう。現代武侠との比較も含めて。



・敵or他人のやることなら許せなくても、味方or身内のやることなら大いに許す。

例えば人肉食編で取り上げた「盗賊茶店」
これに関しては二面あって、まず一般的にはやはりさすがにこれは褒められたことではなくて、自分が被害者になりかかったりすれば勿論怒ります。でも事情を聞いたら仲間だったり仲間の友達だったり、あるいは気の合うやつだったりすればコロッと態度を変えて、以後全く咎めたりはしなくなります。
また茶店側(笑)の話としては、いつもは良心の呵責などなく、粛々と日常業務として殺しバラし、料理していても、たまたま相手が尊敬に値する人だったりするととんでもないことをするところでしたと涙を流さんばかりに謝って反省します。でもそれはそれっきりで、それ以外の普通の人に対しては何の葛藤も反省もなく、また業務を再開します。(笑)
行為そのものよりも人の選り好みなんですね。あくまで。

・弱きを助け・・・・るはずなのに、女子供非戦闘員、通りすがりも殺し放題

ある悪人(または敵)を退治したり復讐したりする時、基本的に「坊主憎けりゃ袈裟まで」で、一族郎党老いも若きも、男も女も構わず皆殺しが普通です。それは必要があるとか決着がついた後か前かとか一切関係なく、当然の権利として、むしろ天晴れな行ないとしてなされます。

これに関しては当然「個人」や「一族」や「責任」についての時代的な、あるいは中国的な観念に則っているわけで、それ自体は少なくとも内部論理的には”滅茶苦茶”ではないんでしょうけどね。公平の為に言っておくと。いいことも悪いことも一蓮托生という。
現代武侠の世界だと、観念としては本質的には連続していても、むしろ憐れみというかヒューマニズムというか、どちらかというとそういう理由で「当人以外」や「女」「子供」「老人」への乱暴は大いに非難されるべきものとして認識されています。

”通りすがり”についてはこれは現代武侠でもよく死にますね(笑)。あるいはものの弾みや早とちり。ただ水滸伝の場合は露骨に問題にもされていないので、呆れます。
そのくせ進軍する時はちゃんと「良民への乱暴狼藉は禁ずる」というのが徹底されるので、つまりこれは上で書いた『意識の及ぶ範囲』の問題の一例で、注意が向けられてる時はそれなりにちゃんとするけど、それ以外は全く見過ごされているということですね。「一貫性」が強迫観念的には機能していないというか。

・それで・・・・いいのか?

何せ108人もいるので、集める過程はかなり大変というか繰り返しが多いと言うか、パターン化は避け難くあるわけですが、その中でも決まって出て来る2つのパターンがあります。
それは味方に引き入れたい人を「罪に陥れて逃げざるを得なくする」「先に家族をまとめて誘拐してしまう」という2つです。たいていはセットですが。

これは酷いですね。集団ぐるみのストーカー犯罪ですね。”愛”を理由にすれば何でも許されると思っているタチの悪い女(男)みたいですね。・・・・まあ実際そういうことなのかもしれませんが。(笑)

で、さすがに被害者の豪傑も怒る・とがめるわけですよ。わけですが、なんか次の瞬間にはもうほだされて、忠誠を誓って大宴会とかしてるんですね(笑)。多少粘る人もいますが。
これは何と言うかある程度は記述の問題で、例えば映像化するとすればそれほど「現代的解釈」とか施さなくても、怒る場面はちゃんと描かれることになると思います。ただ実際の『水滸伝』内の記述の重点はろくにそこにはかかっていなくて、そしてその背後にはそれで良しとする聴衆/読者の存在が想定できるわけですね。

こうした無理を通して道理を引っ込める”情”みたいなのは、現代武侠でも出て来なくはないですが、その場合それ自体がテーマ的に取り上げられるか、特定のキャラの「業」みたいな形で描かれるはず。こんな日常の風景としては流せない。(笑)
それだけ読者も登場人物も、行為の妥当性に神経質なわけですね、問題とされる倫理や観念の内容は似たようなものでも。


一言で言えば時代が違う、一見古めかしく思える金庸や武侠小説も、やはり暗黙の内に現代化されているというそういうことですね。
『水滸伝』の”元”代から金庸の”現”代までの間の、どこらへんでどのようにこういう変化が起きたのか、非常に興味深いところですが今はちょっとこれ以上は分かりません。


・・・・”官軍”梁山泊軍団編につづく。


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