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『完訳 水滸伝』(”官軍”梁山泊軍編) 

完訳 水滸伝〈10〉 完訳 水滸伝〈10〉
清水 茂 (1999/06)
岩波書店

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人肉食編倫理意識編


「招安」とその前、その後

まず「招安」ですが、だいたい察しがつくと思いますが例えば梁山泊のような、中央が手を焼くくらいに膨れ上がった基本的には反政府的反社会的勢力を、それまでの罪は問わないという条件で丸ごと官軍に呑み込むことです。
その際に主要メンバーには官位官職が与えられるのが常だったので、中央が弱くて招安が乱発されるような時期においては、「出世したければまず山賊になることだ」的な皮肉が囁かれたりしました。対象となる勢力の性格としては純然たる犯罪者集団あり、地方軍閥的なものあり、あるいはあわよくば新たな/次代の王朝をも担おうかという政治的野心・思想を持ったものあり、色々です。

梁山泊(軍)は各地の犯罪者が三々五々集まって形成された言わば”湖賊”ですが、ほとんど首領の宋江公明一人の頑なな忠義心で早くから「招安」(されること)を一つの目的として掲げ、紆余曲折を経てその願いを遂げます。
招安後は、常々泊内の反対者たちが危惧した通りに、大した見返りもなしに北へ南へと朝敵との戦いに要するに便利遣いされて、あるいは激戦に倒れ、あるいは手柄を立てれば立てたで妬まれて陥れられ、最終的には108人のほとんどが非業の最期を遂げます。

やば、泣きそう。


・・・・という反応はなんか少数派らしいんですが。
『水滸伝』の醍醐味は108人集合までのハチャメチャストーリーで、後半は付け足し、一部は不要または改竄的な。

確かにがらっと雰囲気は変わります、ほとんど別の作品。
荒々しいピカレスク(悪漢)ロマンから、折り目正しい歴史悲劇のように。
僕も最初は違和感がありました。おい真面目に戦争してるよというのと、決闘or一騎打ち用と思われた豪傑たちの武芸が、普通に集団戦闘で使われているのと。

ただ劇的な効果としては僕の場合むしろ逆で、この後半があるから全体として『水滸伝』は金字塔で、後半によって前半も救われていると。

ぶっちゃけ最初こそ楽しかったものの、じきに108人集める過程に飽きて&ナンセンスさに呆れてしまっていたというのがありますね、前提として。単純に長いし。
それでいい加減に読んでいたのが、いざ情け容赦ないサバイバル戦闘に突入して、一人また一人と”現実”の死に直面して行くのを見ると、急に前半の牧歌性が懐かしくなり、また108星の一人一人が愛おしくなって来た。

というと後半がシビアなだけでつまらないようですが、そんなことは全然なくて、要するに法螺話の集まりである”108星”を、見事に現実の戦争の場面に一人一人当てはめてあるいは見せ場を作り、あるいはむしろあえて犬死にさせ、そこまでせんでもというくらいにリアルな史劇に仕立ててあります。(序盤に出て来て結構印象深い「青面獣楊志」なんて、早々に病気で脱落して、「こりゃ逆に戦後も生き残って何か重要な役を担わせる伏線だな」とてっきり思っていたら、そのまんま二度と登場せずに単に病気で死んでしまって、リアル過ぎて哀しかったです。)

成立過程についてはいまだ謎が多いようですが、ともかく誰かしらちゃんとした「作家」が関わっていることが想像できると思いますね。


そうした前半と後半の”ギャップ”の中で、「約束が違う、こんな作品の出演オファーじゃなかったはずだ」と騒いでもおかしくない(笑)梁山泊の荒くれどもが、何か粛々と運命を受け入れて、当てがわれた役割を果たして行くのがどうにも健気で、哀れを誘って。予想外に感動してしまいました。

はっきり言ってそんなに整合性はなくて、いかにも色んな時代、色んなタイプの人の想いをそれぞれに詰め込んで出来上がったごたまぜの「作品」という感じですが、それゆえになるほど中国大衆文学の模範であり代表であり、いつでもそこにあって世を照らしているんだなというのが、漠然とですが実感出来ました。
前半の乱雑そのもののパワー、後半の構築性と悲壮美、どちらも中国だという。”夢と現実”なんてまとめはちょっときれい過ぎるかもしれませんが。


・・・・とりあえず、無性にゲームがやりたくなって困ってます(笑)。108星使いてえ。


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コメント

駒田信二版は

10年以上前に読みかけて、途中で完結していないことに気がついてがっかりした記憶があるので、たくせんさんのエントリーを読んでびっくりしていたところです。(笑)
違う人だったのかなあ。

中国の他の古典(の原典)をちゃんと読んだことがないので比較は出来ないんですが、「作品」として現代小説みたいに「作者」と対話しようとかしようとすると、かなり当ては外れますよね。
後半は確かに前半を”使って”いるだけというか、ゲーム化かOVA化かみたいなところはありますが(笑)、当時の庶民的には「忠義」水滸伝であること(ストーリーの大筋)自体は望まれていた・・・・んですよね?違うのかな。

いずれにせよ講談で自然発生的に語られるには煩雑な展開なので、誰かが”作った”ものではあるんでしょうけどね。
むしろ語り/語られの経験が甘いまま文章化されたので、ああいう硬い感じなのかなあとか思います。

駒田信二版ですが

わたしなど後半はひたすら退屈でした(^_^)。
つじつまが合わないんだもの。
たとえば、敵を攻めに行って、間もなく城だというのに、待ち伏せを食って呆然とするあたりなど。
後から付け加えた話でも少しは整合性を考えて……って、無理かな(^。^))。

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