スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

郭靖の”成長”と『射英雄伝』(3) 

射雕英雄伝〈2〉江南有情 射雕英雄伝〈2〉江南有情
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/08)
徳間書店

この商品の詳細を見る

(2)より。

郭靖の空白性、あるいは受動性。それは作者金庸が主人公特性として意図的に付与している部分、必然的にそうなっている部分と、たまたまそうなってしまった部分と両方あると思いますが、まずは前者について。


郭靖の”主人公”特性

郭靖ファンのみなさん、今度は褒められる番(?)です。(笑)

劉邦と郭靖

司馬遼太郎『項羽と劉邦』より。
項羽と劉邦〈下〉 項羽と劉邦〈下〉
司馬 遼太郎 (1984/09)
新潮社
この商品の詳細を見る

”空っぽの器”というキャラ特性(のプラス面)について、僕が今まで読んだ小説の中で一番はっきりと描いていたのは司馬先生のこの作品。

知勇兼備の何でも出来ちゃうスーパーマン項羽ではなく、なぜ「何にも出来ない」劉邦が中国を統一し、漢王朝の祖となることが出来たのか。
それは自分では「何にも出来ない」からこそ、逆に「何でも入る」大きな空っぽの”器”として様々な人材を、人々の思いを受け止めて受け入れて、活かすことが出来たから。

信長よりも秀吉が、秀吉よりも更に家康が天下人として相応しかったという日本史上のテーゼも、そういうことかもしれませんね。頼朝も尊氏もそういうところがありました。俗に「大器」というように、大将というものに最終的に求められるのはそういう”入れ物”的な資質なのかもしれません。

少なくとも武芸が出来る点では郭靖は劉邦よりマシ(笑)ですが、郭靖もまたそういう美点を持ったキャラとして描かれているのは明らかだと思います。そしてまた往々にして、ヒーロー物語の主人公格というのはそういうタイプが定番です。”キレ者”タイプは仇/ライバル役(もしくは参謀)と相場が決まっている。日本の少年マンガなどを見ても。

だから靖さんがぼんやり(by黄蓉、5巻175p)なのは仕様ではあるわけです。とりあえず。


中神通・王重陽と郭靖

これは金庸がそういうつもりで書いているということではなくて、偶然だがある程度の必然性を持ってそう見えるということ。この二人はある意味似た本質を持ったキャラである。

まず王重陽がどういうキャラかというと、武林の泰斗、東邪・西毒・南帝・北乞の四方位の真ん中に位置する最高位者。武功と精神修養を矛盾なく両立させられた真の天才(by老頑童)。
ただし物語の始まりの時点で既に故人で、具体的な人となりについては回想の中で間接的に窺えるのみ。

ここで注目すべきは、実在の人物をモデルにしつつも王重陽というのが定義のみで曖昧な、特徴のはっきりしない人物であること。
言うなれば東邪”ではなく”、西毒”ではなく”、南帝”ではなく”、北乞”ではない”という形で、消極的にのみ性格付けられる存在であること。故人であること、”不在”をある意味でのキャラ特性として備えているとも言えるかもしれません。

勿論その偏りの無さが正に「最高位者」たるゆえんなわけですが、キャラ立ちがいいとは間違っても言えないわけです。故人という扱いについては一応「実在の人物だから描きにくい」というのが表の理由になるのかもしれませんが、ぶっちゃけ描きようがないから殺しちゃったというのがホントの理由ではないかと邪推する次第。(笑)

その積極的特徴の弱さというのは郭靖も同じだと思いますが、その郭靖は王重陽亡き後の武林の中心を担って行く存在であると、ストーリーの最後にはなって行くわけですね。
・・・・あの2回目の”華山論剣”の勝者は少しややこしくて、強い弱いで言えば西毒・欧陽鋒になるんでしょうが、何せ同時に正気も失っているわけで、会のもう一つの目的である「対蒙古防衛戦に向けての武林の盟主決定」には不適格。となると岳父・東邪と師匠・北乞の後ろ盾を受けて、成長度こみで郭靖が”中神通の後釜”に選ばれたとそう読んでいいでしょう。

というわけでここで、「最高位者」と「主役」が、「無個性/中庸」と「空っぽの器」が重なって来るわけですね。
王重陽のキャラ設定と郭靖のストーリー上の機能設定が、偶然ながら予定調和的に一致していると、そう思います。不在の王。空虚な中心。偉大なる消極性、受動性。


『侠客行』の”のらいぬ”と郭靖

郭靖の「受動性」がある程度意識的なものだというのは、同じ金庸作品である『侠客行』の主人公”のらいぬ”と比較すると分かり易いかなと思います。

つまり”のらいぬ”もお人好しの「ぼんやり」さんということなら郭靖に負けないどころか凌ぐものがありますが(笑)、しかしキャラとしての機能の仕方はだいぶ違う。
郭靖のぼんやりが基本的に翻弄される/流される方に機能するのに対して、”のらいぬ”は逆にそのあまりのぼんやりさで、謝煙客のような煮ても焼いても食えない江湖の古強者をキリキリ舞いさせ、どんな知恵者にも解けなかった「侠客島」の秘伝の謎もそれと知らずに解いてしまいます。

・・・・流されていることに気付いてはいる郭靖と、気付きすらしない”のらいぬ”のぼんやりの過激度の違いと言うか。(笑)
ともかく同じような資質が郭靖の場合とは違い、むしろ積極的な特徴として表現されているところが面白いと思います。

これは執筆時期を考えれば、郭靖を筆頭とする広い意味でのぼんやりのっぺりとした「主人公タイプ」のキャラたちの特徴を逆手に取った、僕言うところの(笑)”自在期”ならではの変化技なんだろうと思いますが、逆に言えば同じ特徴をこういう風にも描こうと思えば金庸先生は描けるわけで、やはり基本的には承知で、そういうものとして『射』の段階では描いていたと、そう言えるのではないかと思います。


・・・・ただし”失敗”してそうなってるのではないかと思えるところもあって、それについては2.郭靖と楊康の”合わせ鏡”キャラの相克ストーリー編で説明したいと思います。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/21-fd4959f7

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。