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『飛狐外伝』 ?お仕事モードの金庸先生(2) 

飛狐外伝〈2〉愛憎の父娘飛狐外伝〈2〉愛憎の父娘
(2001/10)
岡崎 由美、金 庸 他

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(1)より。


『飛狐外伝』の”お仕事”性

表題ですが。
基本的には『雪山飛狐』について書いた「射3部作の狭間で穴埋め的に書かれた地味な作品」ということですね。積極的な存在価値の薄い。(1)の”お弁当”性ということも含めて。
同じく(1)で、金庸自身が解説で”侠”に重きを置いた作品であると書いているということを書きました。具体的にはこう。

およそ武侠小説の主人公というものは、富貴貧賤に拘らず、威武に対して不屈であるものだ。これらは大丈夫足るべき三つの標準であり、それらをなし通すことはさして困難なことではない。


そこでわたしは、本書において胡斐にさらなる要求をつきつけることにした。「美色のために動かず、哀懇のために動かず、面子のために動かず」という課題を与えてみたのである。


・・・・以下それについて実例が挙げられるのですが、正直ぴんと来ないというか、そう言われればそうかなというくらいの感じです。金庸自身も「さほど深みのあるものにすることはできなかった」と述懐しています。

要するにこれも前作『雪山飛狐』の”嵐の山荘ミステリー”性と同じで、まず埋めなくてはいけない連載枠があって、それに対して後付け的にやや無理矢理付与した「テーマ」「趣向」の類なのではないかと、僕などは思うのですが。


『飛狐外伝』の”お仕事”性?

何か悪口のようになってしまいましたが、それもこれも、全部で15作くらいしか書かなかった金庸の他の作品が、押し並べて一作一作キャラが立っている、それとの比較の上での話ですね。

そもそも繰り返し書いているように、金庸というのはある種の余技というか、新聞を中心とする自分の総合的な文化活動の”一環”として時限つきみたいな感じで『小説家』をやった人で、極端に言えば「企画もの」なんですね(笑)。(ペンネーム)”金庸”という企画というか。
だから”何となく”書くなんてのはほとんど定義矛盾なわけですが、それに一番近い、「いつもの金庸」それ以上でもそれ以下でもない作品が『飛狐外伝』(シリーズ)だということです。

・・・・と、いうものとしてリラックスしてこの割りと淡々とした作品を読んでいて、改めて思うのは「巧いなあ」ということ。今更ですが。
それもこう狙ったとか特別に趣向を凝らしたとかそういうことではなく、もっと身についた巧さ。シーンやエピソードを円滑に読ませるための。逆にあえて”狙った”風のものというのは、必ずしも成功してないようにも見えるんですけどね、他の作品を見てると。(笑)

具体的に『飛狐外伝』で特に見事な、ハイライト的なシーンは、何と言っても最終3巻

飛狐外伝〈3〉風に散る花飛狐外伝〈3〉風に散る花
(2001/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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”天下掌門人大会”でしょう。・・・・そう、”シーン”なんですよねこれ。P.104?261、ページ数にして150ページ余りに及ぶ長大な、でも基本的に1シーンの。
内容的には要するに全国から集まった武芸者たちが、皇族(福康安)の御前で入れ替わり立ち代わり腕を競うというそれだけの話で、いかにも冗漫になりそうなところを、各武芸者たちの錯綜するそれぞれの思惑を複雑に絡め、かつ分かり易く整理し、それをしかも飽くまで”武術”の激突として、それに載せて絶妙な押し引きの勘で最後まで飽きさせず緩ませず読ませる。小説というよりもむしろ舞台台本的ですが、万人垂涎の腕の冴えではないでしょうか。
勿論武術のバラエティも目が眩むほどで、実に楽しい。

ちなみにこの”1シーン”性、舞台の固定性は、何となく『雪山飛狐』の”山荘”を思わせるものがある、それに対応すると言えるかも知れないと評論家的には言っておきますが(笑)、まあ気にしないでいいです。


以上で一応の総評は終わりですが、ついでなのでかの『雪山飛狐』のミステリー、「苗人鳳と胡斐の決着」問題を含めた、飛狐シリーズの割りと真面目な”テーマ”性について思うところがあるので、次に各論として論じてシリーズについてのまとめとしたいと思います。


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