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『飛狐』シリーズの「不可知」性 

『雪山飛狐』『飛狐外伝』総評。


胡斐と苗人鳳の”決着”の行方

『飛狐』シリーズ最大のミステリーと言えば、『雪山飛狐』

雪山飛狐 雪山飛狐
岡崎 由美、金 庸 他 (1999/02)
徳間書店

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のラスト、雪中の切り立つ崖において、主人公胡斐が父・胡一刀の仇でありかつ恋人・苗若蘭の父親でもある苗人鳳と、奇なる行きがかりから生死を賭けた立ち会いに及び、いよいよあと一手で止めを刺せるという段において大いに悩み、さてどのような決断を下したかということを描かずに話が閉じられている、その先がどうだったかという有名なそれであるのは言うまでもありません。

 百千もの想いが渦巻いた。
 かつておのれの父母を死に追いやり、おのれを天涯孤独の身に陥しいれた男。だがそれは天下に知らぬものとてない英雄であり、いとしく思う人の父でもある。理をもってすれば切るわけにはいかぬ。しかし切らなければおのれの生きる望みはない。壮年に達したばかりでやすやすと死ねようか。かといってこの男を殺せば、何の顔あって苗若蘭にまみえることできよう。生涯遭うのを避けねばならぬとしたら、そんな生き方をするより、むしろ死んだ方がました。
 打ち下ろすべきかどうか。思いは千々に乱れるばかり。相手を傷つけたくはないが、おのれの命であがなうべくもない。(中略)

 胡斐は無事に戻ってきて苗若蘭と再会できるであろうか。
 あの一刀は振り下ろされるのであろうか。


今回読み直してみてあれと思ったのは、最大のジレンマが「父母の仇」と「恋人の父」「尊敬に足る人物」ということにはなく、それについては”相手を傷つけたくはない”(つまり後者が重い)とある意味解決済みで、むしろ「やらなければ自分がやられる」というジレンマの方に重点があることですが。それはともかく。
この先について直接的な僕の想像を披露することはしません。いずれさんざん論じ尽くされていることでしょうし。

ただ「作品」という意味では”ぼかし”ているわけではなくて、これで本当に終わり、”答え”は無いのだと思います。
それはジレンマ自体がほとんど解決不能だというのもそうですが、と同時にその「解決不能」性が『飛狐』シリーズそのものの本質と関わっているように見える、そのように僕としては了解可能であるからです。


程霊素の死

このことに思い至ったの『飛狐外伝』3巻

飛狐外伝〈3〉風に散る花飛狐外伝〈3〉風に散る花
(2001/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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における、胡斐を慕いながらついに報われず、彼の命を救うために死んで行った悲運の少女程霊素の死の場面を読んでいた時です。

 それとも程霊素は、このことをも予測していたのだろうか?程霊素は胡斐が自分を愛していないことを知っていた。自分が胡斐を愛するようには決して自分を愛してくれないことを。だったら、こんな結末を迎えるほうがよかったのではないか?恋人の毒血で自らを殺し、恋人の命を救うほうが。
(中略)
 少女の心ははかりがたい。ましてや程霊素のような少女が、心の底でほんとうのところなにを考えていたかなど、誰にも永遠に知りようがないのだ。(p.341)


ここのところはちょっとわざとらしいというか、クドい感じがするんですね僕は。
人の心が、増して死んじゃった人が何を考えていたかなんて、分からない、”知りようがない”のは当たり前のことです。ただそれを分かるような態で、あるいは”分からない”ことをめぐって何らかまとまった形を作るのが普通の意味での小説/フィクションというもので、自分で書いといて分からない分からないって、何のことだと。(笑)

言ってみればここは金庸がフィクションとして半端に投げ出しちゃってるところに、リアル/現実の不可知性が不用意に侵入して来ているような感じがします。
そういう”リアリズム”を主体とするような小説や映画のスタイルというのも確かにありますけどね、いつもは錯綜したジレンマをあっと驚く馬鹿馬鹿しい”超展開”で突破して見せるのが身上の法螺話の名手金庸が(笑)、今更リアリズムってあんたどのクチが言うかと。(笑)


『飛狐』シリーズの不作為性

ちなみに『外伝』のもう一つのカップル、「在家」と「出家」という結ばれない運命の境遇に最初から引き裂かれていた胡斐と円性の2人が、結局そのジレンマ通りに何も状況が変わらないまま結ばれずに終わってしまうというのも、同種の”リアリズム”のように感じます。(勿論『雪山』との辻褄の問題は前提としてありますが)

ではこれらのリアリズム的な展開や描写が、直接的に金庸のそういう意図であったかというと、そこまでは思わないんですね。
そうではなくて『飛狐』シリーズのお仕事性・手なり性、「企画」としての弱さ・消極性が明快な展開を決定させることが出来ずに、そこに上でも書いたようにリアルが、不可知な現実性がなし崩しに”侵入”して来ている、そのように感じます。

あるいは法螺話の名手であるのと同時の金庸の特徴である、”勧善懲悪”や”中華史観”などを筆頭とするお定まりの物語構造への反抗や相対主義、ある種の現実主義が、この比較的気合の入っていない不作為な作品においては、より”生”(なま)な形で出ているか。

いずれにしてもそういう風に「投げ出されている」ことを重要な特徴として持つ『飛狐』シリーズ、その内の1作である『雪山飛狐』ならではの、不可知である、解決不能であること自体をある意味での”メッセージ”として持つ、そういう「ラストシーンの謎」であると、何となくパースペクティヴ的には僕は了解に成功したというそういう話です。(笑)


まあ気持ち悪いには違いないですけどね。何とかしろよとは思いますけど。
とりあえずあえて決めれば胡斐には涙を飲んで苗人鳳をバッサリやっておいてもらわないと、『飛狐』シリーズの新作が書かれる可能性がなくなるので困るということは言えると思います(笑)。苗若蘭の機嫌取りなんぞ後で考えればよろし。


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