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『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(1) 

倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集) 倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集)
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金庸Wiki

”三部作”として成り立っているはずの『射英雄伝』(’57)『神剣侠』(’59)、そして本作『倚天屠龍記』(’61)ですが、内容的な繋がりの深い『射』と『神』の間には、ご自身の思想的理由によるメジャー紙退社→独立創業という大変化があり(Wiki)、そのせいや自由度の高まりもあってでしょう、文体・スタイル的に大きな違いがあるということは既に書きました
また『神』と『倚天』の場合は、文体的には序盤は似たような暗く重いトーンでいかにも前作の延長という雰囲気がありますが、冒頭の繋ぎエピソード終了後時代が一気に飛んで前作の生き残りは超高齢のほぼ仙人の爺さん(笑)1人だけになりますし、ぼんやり坊ちゃんの主人公張無忌が本格的に活動し始めてからは、文体的連続性もほとんどどこかへ行ってしまいます。

こうして見ると、”三部作”とはいえこの3作はかなり独立性が高いというか、一応最初にまとまった構想が漠然とはあったとしても、結局は前作を承けて、その時々の心境で書いたんだろうなと、そういう受け止め方が自然なのではないかと思います。


『神』と『倚天』のコントラスト

というわけで直近の2作に絞って繋がり・比較を考えてみると、意図的かどうかはともかく、この2作は結構対照的な部分の多い作品のように思います。分かり易いところから例を挙げてみると

1.九”陰”真経(神←射)と九”陽”真経(倚天)
2.反骨と意志の主人公(楊過・神)と受容性と成り行きの主人公(張無忌・倚天)
3.一途で運命的な恋愛(楊過と小龍女)とあちらもこちらも立てて定まらない恋愛(張無忌と少女たち)

といったところ。

そのうち1の”陰”と”陽”の2経については、最初からセットで考えていたわけではなく、”陰”からの連想で”陽”をデッチ上げたような臭いを僕は感じるんですが(笑)、実際にはどうなんでしょう。
というのはこの『倚天』のある意味突出した大きなトピックスとして、「太極拳」(剣)の誕生秘話エピソードというものがあるわけですが、大極派及びその母体となった「武当派」と、ライバル「少林派」の対照を考えてみた時に、明らかに内家の武当&太極が”陰”外家の少林が”陽”とした方がイメージ的にはすっきりすると思います。実際に”陰柔”と”陽剛”というような言い方は、金庸作品やあるいはこの『射』シリーズでもしばしば登場しますし。

それがいずれフィクションとはいえ(笑)、武当/太極が「九”陽”真経」を主な典拠とせざるを得なかったのは、ひとえにその前に独立した重要ツールとして「九”陰”真経」が登場してしまっていた(注・少林派とは無関係)からではないかと、そう思うわけです。
まあ性格的には張無忌はいかにも”陽”ですけどね(笑)。それはともかく。

なおこうしたコントラストが「意図的かどうかはともかく」と上に書いたのは、勿論コントラストそのものは意識していたでしょうが、作品の根本的な構想としてどこまでメインの狙いだったのかは分からないという、そういう意味です。少なくとも結果としてそのコントラストが重要である、というのが僕の今回の論なわけですが。


再び『神剣侠』の特異性

今回はややネガティヴな意味合いで。

『神剣侠』が特異に直接的感情的な作品であり、それゆえに魅力的だということは書きました
しかしそれは即ち金庸作品としてはやはり規格から外れた作品であり、失敗作ではないものの、金庸がその名前の”作家”として伝えようとしているメッセージとしては、少々バランスを欠いたものになっているという、そういう見方も出来なくはないと思います。

それは例えば『越女剣』についての項で書いた、”遠近法”や立体感、相対主義的なもの。
つまり武侠小説ということで、「恩」や「仇」の中国的・中世的な激情の世界を生き生きと描きながら、同時にそれらの意味・意義を自然な形で限定していくような相対化して行くような。登場人物自からがそれを語ることもありますが、多くは読者の視線や心境、作品世界を眺める立場を誘導することで。

そこらへん、『神』はちょっと単線というか、行った行ったの印象があるんですね、”残る”というか。基本的には主人公楊過が”強”過ぎる、能動的過ぎるということだと思いますが。主人公過ぎるというか。極端に言うと楊過が正しくて他が間違っているという話になっているところがある。楊過の「想い」が直接的に肯定されているというか。
それによって読者の視野が限定される、距離感が奪われる。「俯瞰」や「奥行き」を本来とする金庸作品らしくなくなっているというか。

勿論これには事情があって、ちょっと書きかけて放り出してますが(笑)、この作品及び主人公楊過には、半ば近代的な個人主義自由主義的な価値観でもって中国的中世的な価値観とより直接的に対決するというテーマ/使命があるわけです。
だからそっちの戦いで手一杯or義務は果たしているというのと、今回はニュートラル性の優先順位は高くないというのと、そういうことだと思いますが。

ただそれにしても『神』は少しあからさまというか、読んでて気恥ずかしくなる部分はあります。ある意味比喩ではないかもしれないですが、日本で言えばいわゆる少年漫画的、少年ジャンプ的な努力・友情・正義の世界に見えるところがあるというか。なせばなるのか。勿論金庸先生はジャンプなんて知らないでしょうが。(笑)
それにこれも日本で言えば旧型の少女漫画的な、”2人の為に世界はあるの””愛こそ全て”の(楊過と小龍女の)「純愛」が合わさって、まあ例えば事情を知らない金庸初心者の男友達にうっかり勧めちゃったりしたら、「お前宗旨が変わったのか」とヒかれること請け合い。(笑)

・・・・実際にはこうした要素をあの「分別大王」の金庸が、微塵も揶揄的にではなく正面から、あえて描き切ったその奇跡的なバランスがこの作品の面白いところなんですけどね。読んでて燃えないのかと言われれば、そりゃ燃えますけど。(笑)
ともかくそういう性格も持っている作品であるということです。

(2)につづく。


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