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『神』の陰画としての『倚天屠龍記』(2) 

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(1)より。

張無忌という主人公

”『倚天屠龍記』の評判”でも書いたように、というより天下に隠れもない事実として(笑)、”張無忌”と言えば「優柔不断」、ヘタレ主人公の代表としての定評があります。

大きく言えば先行する『碧血剣』(’56)の袁承志や、『射英雄伝』(’57)の郭靖などと同様のおっとりお人好し系の主人公として、(金庸作品では)そんなに珍しいタイプでもないわけなんですが、張無忌のそれはより徹底しています。
例えば”悪評”(笑)のおおもとであろう、張無忌を慕う4人の少女をめぐる女性関係についてでは

(いったい本当のところ、僕は誰を一番愛しているんだ?)
どんなに考えても結論は出ない。
・・・・5巻p349

(ぼくたち五人、みんなで仲睦まじく一生一緒にいられたら、どんなに愉快だろう?)
・・・・同p.350


こういうのを別に色男ぶってるわけでも欲張ってるわけでもなく、真顔で言って(考えて)しまうのが笑えます。同じ箇所で作者自身にもはっきり、”優柔不断”だと地の文で言われてしまっていますね。(まあ、それも技法的には直接的過ぎてどうかと思いますが(笑))

直接ついでに金庸は5巻の解説(’77)で、「われわれと同じごく普通の人間ということか」と再定義を試みています。(作者とは言え、書かれたものについては一人の読者ですから。)
なるほどそういう見方もあるかもしれませんが、ただそうした気弱でパッとしないところもある張無忌は、一面ではあらゆる角度から武術を極めた金庸全作中でも最強クラスの使い手であり、また概ね独立独歩の主人公群の中にあって、珍しく”明教”という一大勢力を率いて中国の大勢を決する力も持ったスーパー主人公でもあるわけで、そういう意味ではその”普通”さは異様であり、ある種過激で不自然な設定とも言えると思います。

なぜそうなのか、なぜ張無忌は単におっとり系主人公という以上の目立つ消極性を性格として持ったのかといえば、やはりそれは前作『神剣侠』の主人公楊過との対比でしょう。
あの徹底的な能動性と行動力、それでもって僕が”少年漫画的”と評するような、かなり恣意的な形でストーリーを動かして行った運命を屈服させて行った、こちらはこちらで異例の主人公、その存在があったから、それとの対比で張無忌の消極性・受動性も形作られた。楊過がいたから張無忌もいた。

・・・・こうした張無忌の性格付けor性格の意味に、何らか底流的な意図があったと僕が考えるのは、一つには例の”太極拳誕生エピソード”というものの存在があります。
つまり太極拳という究極の”柔”の武術、徹底的に相手の力を利用して収めて(”円”の動きで)丸め込んで、決して強引に直線的に倒しに行ったりはしない思想性を持った武術。その誕生がある種独立した存在感と感動を持って作中に置かれているのは、それが隠れたこの作品のテーマであり、それを主人公として相応しく担っていたのが張無忌であるという。剛の楊過柔の張無忌


むしろ”正統”、または”軌道修正”

これまででほとんど道筋は見えていると思いますが、ここで表題の「陰画」の話。
結果的に見ると、しつこいようですが『神剣侠』は金庸にとって例外的な作品でありました、いい意味でも悪い意味でも。ほぼ一回切りの情熱の迸りとして感動的である反面、”構造”を見せることによって間接的に語る、世界や運命と人為や意志を安易に関係づけない、達観や諦念を一つの大きな特徴とする、金庸”らしくない”作品でもあった。

それに対する、三部作構成の中での半ば無意識の揺り戻し『倚天屠龍記』であった、そういう性格を持った作品であると、そう言えるのではないかと思います。

”半ば無意識”と言ったのは『倚天屠龍記』が全体として読み応えはあるけれど余り整理された、明確なメッセージが伝わって来る作品ではないというのと、ややカンニングですが(笑)上の”解説”部分において金庸が、郭靖と楊過と張無忌の性格を、漫然と並列的に描写しているからです。
対立が意識的なら、例えば『射英雄伝』におけるお馴染みの”郭靖と楊康の合わせ鏡”を、世代を経てより極端なものにした(つまり郭靖の無欲と楊康のエゴが、張無忌の超受動と楊過の超能動に)とでも言えば「万事計画通りだよ」と言い募れるわけで。(笑)

・・・・まあこれは見方によっては僕の解釈の根拠に対する薮蛇でもあるわけですが(笑)、気にしません。上でも言った通り、作者は全部知っているわけではない。最近とみに思いますが。

再び張無忌の性格の話をすると、その後金庸は、例えば優柔不断どころかそもそも”意志が無い”主人公(『侠客行』(’65)の”のらいぬ”)や、意思/本音とは裏腹な方へ裏腹な方へ名を上げ出世して行く主人公(『鹿鼎記』(’69)の”韋小宝”)などを使って、次々と傑作・怪作(笑)を書き上げて行きます。
これを見てもむしろ張無忌的な、”流される””巻き込まれる”主人公、あるいは登場人物の能動的な意志などではなく、ストーリーや運命そのものが主役であるような作品の方が、金庸的には正統・王道であるのは明らかだと思います。あるいは色々書いてみて、ここで芸風を確認したか。


個々の「内容」について書くべきこと/書きたいことは尽きないですが、総論としての、位置付け的な意味での『倚天屠龍記』についての僕の解釈は以上です。
最後に実は『倚天屠龍記』は『倚天屠龍記』なりに少年漫画である、ということを番外編的に書いて(笑)、今回は終わりにしたいと思います。


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コメント

長文拝読いただき深謝です。

>つまり近代小説(≒主人公もの)の構造で、そういう伝統的な世界感覚をも再現しようという。でもとりあえずの体裁は伝統だという、ややこしい。(笑)
群像という言葉の意味は如何?はありますが、論法の順番が違うだけで多分同じようなことをお考えと思います。
>天龍も「群像」ではなく「複数主人公」
そうですね。男主人公は4人です。その4人にさらに4人のセットで女主人公・脇役・・・を展開しています。
>・・・・クラブW杯出ません?(笑)
収入しだいです(笑)。ACLは参加チームの補強のためにもUEFACLの1/10でいいので賞金を上乗せしてほしい。そうしないとチームがもちませんね。

今後ともよろしくお願いします。

>思いがけない歓喜
ああ、そっち方面の。(笑)
思いがけない形での10冠目でしたね。

>「こんなフットボール」で良いのか?
去年の浦和に対してならこういう問題設定も可能だったかも知れませんが、今年は日程&監督のダブルハンデで、実際問題こうしかならなかったんですよねえ。

>数年前タイトルを取っていたころです
確かに過去の例で言えば、鹿○的な強さに近かったかも知れません。(笑)
「しぶとさ」と「抜け目なさ」に特化した。
それ自体は嫌いじゃないんですが、限度と言うものが。

・・・・クラブW杯出ません?(笑)

こんにちわ

>金庸小説は、一応主人公はいますが、中国伝統の演義もののように「群像劇」ですね。
と、更に見せかけた主人公ものかなあと、どちらかと言うと僕は感じてるんですが。
つまり近代小説(≒主人公もの)の構造で、そういう伝統的な世界感覚をも再現しようという。でもとりあえずの体裁は伝統だという、ややこしい。(笑)

>天龍は仕組みにこだわりすぎ、物語としては破綻した失敗作
読み直しはこれからですが、その話の流れで言えば天龍も「群像」ではなく「複数主人公」となりますかねえ。

>楊過の為の人物として小龍女を造ったのでしょう。
あるいは楊過の能動性とセット、または補うものとしての小龍女の脱俗・諦念とか。

>やはり天才的な素人作家ですね。
あ、この言い方なんか分かります。
スケールの大きな小賢しさというか。(笑)
アマチュアゆえの機動力、とも。

自己レス御免なさい、説明不足なので・・・
>我々が勝ちながら抱いていた・・・
は、数年前タイトルを取っていたころです。今年は良いフットボールしてますよ。

こんにちは。桃花島さんの居候Marioです。よろしくお願いします。
金庸・古龍関連の記事拝読させていただきました。神ちょうの分析には唸らせていただきました。
金庸小説は、一応主人公はいますが、中国伝統の演義もののように「群像劇」ですね。
そして、武侠小説という仮想空間で、その登場人物たちに意識的・無意識に「役割」を与えて彼の描きたい事を展開させます。
倚天屠龍記はそれが顕著のなのですが、結果的に物語展開は面白いが全体が張無忌の性格のように中途半端な印象があります。
神ちょうはその中でも特異と思うのは「徹底して楊過の物語」にしたところですね。楊過の為の人物として小龍女を造ったのでしょう。原題の「侠侶」がそれをあらわしているとおもいます。
天龍・笑傲は、小説への取り組み方が変わってきていますね。この二つは「文学」しています。
天龍は仕組みにこだわりすぎ、物語としては破綻した失敗作ですが不思議な魅力があります。その世界観と思念の雄大さ故でしょうか。
笑傲は小説のあとがきが全てです。空恐ろしい小説です。
最後に、自ら創りあげた武侠小説という手法を裏返して真っ逆さまにしてしまった鹿鼎記で実質断筆・・・。
やはり天才的な素人作家ですね。

追:小生蹴球迷でもありまして、この度は思いがけない歓喜をありがとうございました。僭越ながら・・・今年の浦和は、我々が勝ちながら抱いていた「こんなフットボール」で良いのか? という悩みを最後に露呈してしまったので、早く再構築されたほうが良いと思います。
 

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