スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

少年漫画としての『倚天屠龍記』 

『倚天』総論(1)(2)
あるいは漫画としての金庸。どちらかというとウブな読者向けの、浅?い説明です。


初めて金庸、具体的には『秘曲 笑傲江湖』を読んだ時は、その身も蓋もない読み易さ・面白さに、「なんじゃこりゃ、漫画だな」といい意味で(笑)呆れたものでしたが。
ちなみにいくつか読んだその後に『神剣侠』(の序盤)を読んだ際は、その”超・続編”ならではのスピード感・ダイナミズムに、「これはついに漫画を越えて(?)アニメだ。あ、いまシュッという音がしてキャラが飛んだのが見えた」と来るところまで来たことを感じた訳ですが。(笑)

一方で「金庸≒ライトノベル(Wiki)」という認識は、今やそのスジでは隠れもないものになりつつあるようですが、比喩として有効なほどまだ(ライトノベルが)一般的に認知されているとは思えませんし、僕自身当時は知らなかったのであくまで「漫画」という比喩で語ると、確かに金庸には漫画的な部分が少なからずあると思います。
より正確には、日本なら「漫画」が満たしている需要のかなりの部分を、中国では金庸/武侠小説が担っているということです。

これは言ってみれば単に論理的な話で、
1.「ストーリー漫画」というジャンルがここまで確立・隆盛・充実しているのは、日本だけである。
(日本が異例なので中国が殊更おかしいわけではない)
2.日本ではもうそのジャンルの存在自体が呼び起こしている部分はあるとしても、ジャンル誕生の元となった基本的な(広義の)文学的的需要は、かなりの程度普遍的なものと考えられる。
3.だから武侠という(日本の「漫画」同様)原則的に明からさまに娯楽・通俗的なジャンルに金庸が手を染める際に、自然「漫画」的需要に対応する側面も多分に含まれることになる。

言い替えれば日本なら「漫画」で書かれたはずの要素のかなりの部分が、中国圏なら(他にもあるんでしょうが)武侠で書かれる、あるいは才能・書き手がそこに流れているだろうということが推測される訳ですね。
金庸自身は日本の文化事情とかはほとんど知らないようですし、中国に限ってもそんなに先鋭的なジャンル意識でもって書いてはいないように見えるので、”無法地帯で書きたいことを書いている”という感じかなと思いますが(笑)。そういう意味で甘いところも沢山見えますが、大衆文化に悪擦れした日本人読者的な目では。


で、『倚天屠龍記』ですが。
(1)で『神剣侠』が少年ジャンプのバトルもの的だと書いたのは、はっきり言えば分かり易くする為のこじつけでした(笑)。そうだと言えばそうだし、関係無いと言えば関係無い。

しかし『倚天屠龍記』の悪名高い張無忌の”女難”、優柔不断で受け身の八方美人(美男?)ぶりの方は、これはもうどうしようもなく、少年漫画やそれ系のアニメのある類型を連想せざるを得ません。言葉としてはなんでしょう、うーんラブコメ?萌えアニメ?、とにかく
「気弱な/おっとりした男主人公が、なんだか分からないけれど結果的に色んなタイプの美(少)女にモテモテになり、くっつきそうでくっつかず落ち着きそうで落ち着かず、延々振り回されたり美味しい思いをしたりするさまを描く男の願望充足ストーリー」のこと。

もう”どれ”と言う必要も無いように思いますが(笑)。今だったら深夜帯やUHF局系でやってるアニメの大半は、そうした要素を満載しています。コンビニで片っ端から男漫画誌を立ち読みしてもよろし。(特にヤンジャンとか?)
だから『倚天屠龍記』のそれに対する女性読者のヴィヴィッドな不審や反感に満ちた反応を見ると、ニャハハという感じにどうしてもなります。そういうものなんだと言うしかないです。ひと足飛びに言うならば、結局男は「モテたい」のであって「”恋愛”がしたい」わけではないんだというか、「決めないor沢山いることに意義がある」というか。
もう一つ言えば、「受け身でいたい」「責任を背負いたくない」ということでもありますか。以上それぞれ深い理由とかは面倒なので割愛しますが(笑)、とにかくそういう普遍的な願望はあって、それによってこれだけの類似のストーリーが飽きもせず氾濫している。・・・・女の方にも何かそれに相当するものはあるんでしょうけどね。

と同時に、書いた当時そこそこオッサン(37才)の、かなりな教養人の金庸先生にも、あるいは中国人の男子(笑)にもおんなじようなものがあるんだなあと、苦笑い。
まあ、あるんでしょうけどね。あるんですよ。性は国境を越える?
ちなみにくだんの『倚天屠龍記』の4少女を、そうした観点から類型として考えてみますと・・・・

趙敏・・・・ツンデレ

小昭・・・・メイドさん?(笑)

殷離・・・・いつまでも主人公にお姉さんぶった口を利きたがる幼馴染?

周芷若・・・・デレツン?

ツンデレはもっとずばりなのが『鹿鼎記』あたりにいましたが、それはまたその時に。(笑)
周芷若はよく分かりませんね。類型以前にキャラとして崩壊している気がします。後年のヒュードロドロ恨み晴らさで置くべきかな姿に、どう透視してみても(笑)光明頂攻防戦あたりの気丈だけれど可憐な心根の真っ直ぐな少女の姿は重ねられません。
強いて言えばもっと(互いに)幼い時の、玄冥神掌の寒毒に苦しむ張無忌をせっせと看護する小さなお母さん的な姿に(一瞬でしたが)、情の濃さと独占欲と、それが裏返った時にどう出るかみたいなそんな教訓(笑)を見て取れないことはないですが。

現実には「デレ」で入ったものが「ツン」になってしまった時の女の怖さというのは最大級で、正直手の施しようがないというか、類型化して取り込みようがないというか。「嫌い」より「失望」の方が重いということか。撤退あるのみ。
ともかくここだけ変に現実的というか、一般文学的で、そういう意味でも違和感を覚えます。背後霊の(笑)滅絶師太の怖さなんかは、えげつないとは言えそれなりに作品の一部になっていると思うんですが。周芷若のパートは根本的に気持ちが悪い。ぶっちゃけ何をそんなに怒ってるのかピンと来ない。事実関係を追ってみれば、なるほど裏切られてると言えばそうなんですが。なんかね。

・・・・そんな感想はそれでいいとして。


とにかくこれは深い理由があるというよりも、類型的な願望の反映した設定だということですね。
やろうと思えば張無忌の「魅力」or「もてる理由」について語る、ひねり出すこと自体は出来なくもないかも知れませんが、作者が最初から考えてもいないだろうところを無理矢理カバーするというのも。(笑)
まあ(2)で述べた(太極拳的な)「受け身の哲学/美徳」みたいなところで、とりあえず了解しておけばと。

以上、ラブコメとしての『倚天屠龍記』という話でした。(そうなのか?)
ま、別に『倚天』に限った話ではないんですけど、いい機会だから書いておこうと。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/248-ef01c582

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。