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『射英雄伝』総評 

射=英雄伝〈4〉雲南大理の帝王 射=英雄伝〈4〉雲南大理の帝王
岡崎 由美、金 庸 他 (2005/09)
徳間書店

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『射英雄伝』という作品

最後にまとめ、または位置付け的なことですが。
実はそんなに言うべきことがなかったりして。
そもそもゲーム版をやりながら1(郭靖)2(郭靖と楊康)4(四方位)の”倍々構造”を幻視するまでは、あんまり書くことないなあと途方に暮れていたところがあったりします。

一言で言えば『書剣恩仇録』でのデビュー時から、素直に延長していけばある程度書かれることが予測できるタイプの作品ですよね。よりちゃんと書いてみた『書剣恩仇録』というか。
僕の持論に従って言うと、「最初から完成されていた作家金庸」が、完成し損ねた『書剣恩仇録』(以降)の経験を踏まえて、改めて完成してみた作品というか。

第2の集大成。だからこそ第1期のラスト作。(すると第1の集大成『書剣』は第”0”期か?)

勿論完成度や慣れ以外にも『書剣』との違いはあって、それはキャラの重視、人物造型・描写の丁寧さ、懲り方。”熱意”と言ってもいいですが。
今回僕は色々とイチャモンをつけてきましたが(笑)、それはそれとして、稀に見る魅力的なキャラクターたちが大挙活躍するスーパー痛快武侠群雄ストーリーなのは間違いないでしょう。

世に数多ある小説の中で普通に見れば、あるいは金庸自身が次作『神』以後に見せたいくつもの”究極”や”至高”と比較したりしなければ、問題なく大傑作だと思います。


『射英雄伝』の”第1期”性

もう気に留めてる(覚えている)人も少ないでしょうけど(笑)、一応言い出したことなので。
「第1期性」、つまり『とってつけたような後付けの小理屈が顔を出して、それが構成や結末のつけ方に少しギクシャクした感じを与えている』性について少し。

実はこの作品の一番”難解”な部分、考えオチな部分は、『射英雄伝』というタイトルではないかと思います。・・・・特に日本人にとっては。ワシ()って変換できねえよというグチは別にしても。(笑)

第5巻の訳者あとがきによると、その由来はまず毛沢東のこの詞。

江山はかくのごとく嬌多く。無数の英雄を引き競いて腰を折らしむ。

惜しむらくは秦の始皇と漢の武帝はやや文采をかき、唐太宗と宋太宗も、すこしく風騒におとる。

一代の天驕ジンギスカーンはただ弓を彎げて大(ワシ)をるを識るのみ。


そしてそれを(国民的背景として)踏まえての第1巻のあとがき。

「射英雄」というのが、一本の矢で二羽の鷲を射た郭靖のことであるのは言うまでもない。


「毛沢東の詞」についてはなるほど中国人読者にとっては常識なのかもしれないと納得するしかないですが(ホントかな?)、”「射英雄」が郭靖のことである”のは、本当に”言うまでもない”のかはちょっと疑問が残るんですが。
先代「射英雄」ジンギスカーンと郭靖の二重写し、あるいは直接的にはジンギスカーンのことで、それをわざわざタイトルにしてむしろ”皮肉”のニュアンスをこめて「英雄」と呼び、終盤の郭靖の無常観的悟りを際立たせるという、そういう読みの方が入り組んではいても素直なんじゃないかと僕は思いますが。

ぶっちゃけ鷲を射たエピソード自体、僕には大して印象的なエピソードではなかったですし(鷲がかわいそうとしか思わなかった)、ここらへん、やはり中国人であるのだろう(違ってたら教えて下さい)、訳者金海南氏との感覚・背景の違いを強く感じました。
そしてそういう文脈に従って、jinyuさんがおっしゃるような”国民英雄”的な郭靖/射の読み方というのもあるのかなと思います。

で、問題は金庸自身の意図ですが、他ならぬタイトルにしているからには、何かしら大々的に訴えているには違いないわけですよね。
出典のドメスティックさ自体本質的にはコスモポリタン作家であるだろう金庸にしてはどうだろうとも思いますが、それはそれとして作品の造型としても、かなり無理矢理ラベリングしている感は否めません。郭靖の冒険物語を気持ちよく読んでいたものを、強引に性格付けされて水をぶっ掛けられて引き離されたというか。鳩が豆鉄砲食らったようなジンギスカーンの気持ちがよく分かるよというか(笑)。要らないんじゃないの?or もっとさりげなくすべきなんじゃないの?こういうゴタクはという。

それが”第1期の特徴”、限界だとまとめてもいいんですけど(笑)、なんかもっとシンプルにこの人の癖なのかなという感じもして来ました。・・・・つまり僕の金庸読書体験には、だいたい一定のパターンがあるように思うんですよ。以下のような。
 (1)オープニング・・・・もったいぶっててちょっとタルい。
 (2)前半・・・・だんだんノッて来た、やっぱり面白いや。
 (3)中盤・・・・危なげなく面白いんだけど延々同じクオリティ、テンポで続くのでちょっと飽きる。
 (4)後半・・・・と思ったらなんだこの爆発の仕方は。突き抜けっぷりは。やっぱすげえや。
 (5)エンディング・・・・え?こんな終わり。何かもっともらしいだけでうまく誤魔化されたような気がする。

一種の「口上」みたいなものかなと思うんですが、オープニングとエンディング(とそれに象徴されるパッケージング)の分別臭さはデフォルトとしてあきらめるしかなくて、中盤の余裕綽々ぶりに文句を言うのは贅沢としても、真の本領はその”分別臭い”人が秘めた破壊性・熱情を剥き出しにする後半部分・・・・みたいなそういう全体像。
古龍とかはここらへん、ほとんど紛れがないですけどね。どこ切ってもちゃんと血が出る。金庸には流れてない瞬間がある。でも核は負けないくらい熱い。

とりあえず終わり。


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コメント

>ん?ちょっと「上回る」という繋がりがよく分からないんですけど。上回ったから『大漠』が『射』になったってことですか?逆じゃなくて?

要するに中国人は「小説家も政治批判してこそ一人前」みたいな観念があるから、そういう意味で金庸は見栄をはってタイトルを『射』に変えた=つまり一応政治批判してるのよ~みたいなスタンスを示した……んじゃないかと邪推してみたわけです。

>「風刺作品」としてはどちらかというと稚拙な類ですよね

日本版の翻訳が稚拙すぎるせいもあるかもしれないです。原文はもうちょっと「文学的」だそうなので。

なるほどねえ

>「大漠英雄伝」

”砂漠の”ってことですよね。どのみち「英雄伝」ではあるんですね。「射」は出典が分かり難いだけですけど、「英雄伝」の方が引っかかるというかサムさ(笑)の元凶なんですよね僕の場合。
どこまで共産党を直接意識するかはともかくとして、何らかそういう風刺の意図というかテーマ性は根本にあるんでしょうねこの作品は。
ただ正直・・・・「風刺作品」としてはどちらかというと稚拙な類ですよね。”ジュヴナイル小説”だとでも思わない限り。(多少そういう臭いも)

>それを上回る「作家・金庸」の「見栄」がタイトル変更を促した

ん?ちょっと「上回る」という繋がりがよく分からないんですけど。上回ったから『大漠』が『射』になったってことですか?逆じゃなくて?

>神雕侠侶に限ってはキャラクター>構造

まあ、だから”例外”ですから。上の「読書体験」のプロセスについてもそう。お楽しみに。(笑)

どもども^^
ご無沙汰しちゃってますが、ちゃんと毎回ワクワクしながら読ませていただいてますよん。

実は射チョウは連載時は、「大漠英雄伝」という題でした。その後改訂した際に現在のタイトルになったんですが・・・思うにここには、中国知識人特有の「社会風刺がなければ文学じゃない!」という強烈な思い込みがあるんじゃないかと。要するに当時の共産党への批判意識と、それを上回る「作家・金庸」の「見栄」がタイトル変更を促したのではなかろーかというのが、私の考えですが・・・実際は分からん(笑)

ところで下の方での、「同意」できなかった部分についてですが。
私も金庸の小説は構造>キャラクターだと思ってるんですが、神雕侠侶に限ってはキャラクター>構造だと思ってるんですよ。なのでその部分のみ同意しかねる、ということです。

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