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金庸の”厭世” ?『連城訣』評(2) 

連城訣 下 (3) (徳間文庫 き 12-22 金庸武侠小説集) 連城訣 下 (3) (徳間文庫 き 12-22 金庸武侠小説集)
金 庸 (2007/04)
徳間書店

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(1)


『連城訣』のハッピー・エンディング

香香公主の悲劇的な死を態良く綺麗事にまとめてしまう『書剣恩仇録』、主人公一行がバタバタと慌ただしく”新天地”に旅立ってしまって何のこっちゃという感じの『碧血剣』、どう言い繕っても誤魔化したとしか見えない(笑)ご存知悪名高い『雪山飛狐』のそれと、金庸作品のエンディング本編に比べて余り出来が良くないというのは、定評に近いものがあるのではないかと思います。
上に挙げたのは初期の3作で、そういう意味では全体的に未熟な分、不細工さも目立つのでしょうが、その後の『射雕英雄伝』『倚天屠龍記』などのスタイル確立後の作品においても、基本的な事情はさして変わらないように思えます。・・・・総じて言えば、”ハチャメチャ痛快な本編”に対する、”妙に意味性が勝ったわざとらしいエンディング”という関係。

なぜそうなのかというのは今は置くとして、そういう中でこの『連城訣』のエンディングは、個人的には珍しく落ち着きの良い、”美しい”と言っても言い過ぎでない、そういうエンディングになっていると感じます。
それぞれに俗世での希望を失い、疲れ果てた狄雲と水笙が、2人の束の間の心通わせた地、当時は敵味方の間柄ながら、思えば他の誰とのそれよりも”真実”に満ちていた時間を過ごしたチベットの雪洞に、申し合わせたように再び集い、その後の人生を穏やかに過ごすのだろうことが暗示されるあのエンディング。

一種の定型であり、出来過ぎた甘い夢ではあるわけですが、いつに無い(笑)説得力というか自然さを感じました。


”不幸””悲惨”とのコントラスト

そうである理由は割りとすんなり推測がついて、それはそこに至る過程、二人がそれぞれに味わう不運や裏切りや絶望が、十分な説得力と分量をもって描かれていて、読者(僕)も心の底からうんざりし、最早そうするしかない二人の選択・行動に納得感を感じるからだろうと思います。
つまりきちんと「落としどころ」に落とされているから、内容的には”甘い夢”でも抵抗を感じない、むしろ諸手を挙げて二人を祝福したくなるという。

逆に言えばそうでない金庸の「エンディング」類は、意図は分からないでもないがそこまでの追い込み、リードが甘い・不十分であると、そういうことになるかも知れません。
・・・・よくよく考えれば形としては『碧血剣』の”新天地”などと、似たようなパターンと言えばそうなわけですよね。あんな仰々しくはないですが。


金庸の”厭世”モチーフ

これはまた、エンディングとして出来が良いばかりでなく、金庸作品中に繰り返し出て来る”厭世”モチーフ、”脱俗”願望の、非常にコンパクトで厭味のない好サンプルであると、そういう風にも言えると思います。
恐らくだから金庸としてはある意味いつものやり方ではあるんでしょうが、それが”エンディング”としての出来の良さと同じ理由、不幸や悲惨の前振りの説得力によって、端的なリアリティを持った。

そしてそれを生んだのは「実話」を元にしたというこの作品の成り立ち、言い換えればその金庸個人にも因縁の浅からぬ実際の冤罪事件のインパクト、悲惨さ、やり切れなさ、それへの作家としての技巧・意匠のレベルをある意味越えた感情移入、それが作品の根幹に存在していつも以上の迫力・説得力に金庸の筆を導いたのではないか。

・・・・こう書いてしまうといかにもフィクションは事実に勝てないみたいな短絡的な話になってしまいそうですが(笑)、別にそういうことが言いたいわけではないです。
例えば金庸に限っても、後の『秘曲笑傲江湖』などでは似たようなモチーフをより大部の作品(全5巻)全編に渡って徹底的に追究して、娯楽小説としてのとてつもないクオリティとのむしろ相乗的なバランスの中で、十分な説得力をもって描くことに成功していると思います。


金庸の”厭世”観

だからこの作品の自分的な固有の位置付けとしては、クオリティ云々というよりもそうした”いつもの”モチーフ、それに込められた金庸の「本気」が一瞬垣間見えた気がするという、そういうところにあるかなと。そのきっかけとして「実話」への感情移入があった。
つまり「作家」の部分のみならず「個人」の部分も強めに出ているということで、そういう意味では同じく(”続編”という)特殊事情によって例外的に感情的になった、「個人」の部分が色濃く出ている『神雕剣侠』と、似たような性格もあるかなと思います。(どちらも暗めの作品ですね(笑)。)

で、やや唐突なまとめ方になりますが、僕がこの作品にかこつけて(?)言いたいことがあるとすれば、それは「金庸の”厭世”観/”脱俗”願望は結構本気である」ということです。

・・・・つまり確かにまずはそれは中国の伝統的文人・知識人共通の理想であり、憧れの境涯であるでしょう。また詳しくは知りませんが金庸の重要な思想的背景であるらしい仏教においては、言うまでもなくこれは根底に流れている感受性・価値観で、そういう意味では一般的なものであるでしょう。
だから基本的にはスタイル/約束事として、あるいは社会的存在としての作家としての方針としてそういう内容を金庸は常に作中に含ませるわけですが、ただそれは必ずしも格好をつけてるわけでも説教を垂れているわけでもなく(笑)、何かの機会には生(なま)の形で噴出する、個人としての金庸の心の叫びみたいなものでもあると、そういう風に僕は感じます。

なぜこんなことをわざわざ言うかというと、金庸作品のこの部分をどう捉えるか、感情移入するかどうかによって、金庸の読み方やキャラクターの評価は結構変わって来るように思うからです。
具体的にはあまり現代日本人が相対的に習慣化している、西欧的キリスト教/ヒューマニズム的な見方・価値観で、安易に解釈して欲しくないなと思うわけです。それは金庸の作品の、少なからぬ重要な部分の読み落としに繋がると。


それと(それこそ)個人金庸が現実に見せている旺盛な社会・政治参加の意欲や、人後に落ちないという噂の経済的貪欲(笑)などをどう考えるかですが、そこらへんはまあやはり中国人≒儒教人としての社会観・ライフサイクル観なのかなあと。
つまり元気な時は目一杯参加して、その後隠退するという。そこらへんが自明の前提としてスタイル化されている。まあ分かりませんが。(笑)

とりあえずこんなところで。


連城訣〈2〉雪華舞う谷 連城訣〈2〉雪華舞う谷
岡崎 由美、金 庸 他 (2000/02)
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コメント

>あまり明示してしまうとそんなに面白くなかったりするのかも
この辺は中国の伝統的小説かも、でも近代人金庸は抑えても視えてきてしまう・・・。かな。

>ぶっちゃけテキスト読みタイプのものって、あんまり需要無いような気もするんですけどね。僕はもう、自己満足で黙々とやってますけど。(笑)
 私にとっても、金庸は久しぶりの「テキスト読み」「色んな分野へ飛んでいける」楽しいネタです。日本では手垢があまりついていないのが良いかも・・・。一人でブツブツ言ってるより書いてしまったほうががいいかと思いました。もちろん当方も自己満足、マイペースでやってきます(笑)

>全ての作品のどこかに強弱はあれ金庸本人の姿・声が見え隠れ、聞こえてきます。
結局は現存の作品くらいのバランスでいいのかなと思いますけどね。”これ”というより”色々”ある感じが金庸で、あまり明示してしまうとそんなに面白くなかったりするのかも。

おお、ブログですか。やっと2回目の読みが『天龍八部』にとりかかったくらいの分際で教示もない感じですが(笑)、まあ雑談の相手くらいならいくらでもなりますよ。
ぶっちゃけテキスト読みタイプのものって、あんまり需要無いような気もするんですけどね。僕はもう、自己満足で黙々とやってますけど。(笑)

怒涛の更新お疲れ様です。本文の後半同意です。
>個人としての金庸の心の叫びみたいなものでもあると
>中国人≒儒教人としての社会観・ライフサイクル観
「中華文明の周縁から発せられた近代的士大夫の叫び」(大げさですが)ですね。全ての作品のどこかに強弱はあれ金庸本人の姿・声が見え隠れ、聞こえてきます。
>つまり元気な時は目一杯参加して、その後隠退するという。
先生ご本人は相変わらずお元気そうで、隠退などしそうもありませんが(笑)

小生、笑傲江湖の再放送をきっかけにブログをやろうと準備中です。笑傲の「あとがき」か、天龍の「構造」から入っていこうと思っております。貴殿の文を読ませていただき大変勉強になりました。開始の後は色々ご教示よろしくお願いします。

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