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黄蓉はお母さん? 

射雕英雄伝 (第5巻) 射雕英雄伝 (第5巻)
岡崎 由美、金 海南 他 (1999/12)
徳間書店

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まずは黄蓉”おノロケ”名場面集を。(笑)

(1)2巻118?119

郭靖は黄蓉の手を握ると、頭をあげ、まるでそこに江南六怪がいるかのように話し出した。
「師匠たちの恩が山より重いことはよく分かっています。でも、でも、阿蓉は、絶対に小悪魔ではありません。阿蓉は、とてもいい娘、とても、とても・・・・・・」
郭靖はなにかもっと適当な言葉をさがそうとしたが、「とてもいい娘」以外の言葉が出てこない。黄蓉ははじめは面白がって聞いていたが、そのうちに涙がこみあげてきた。
(中略)
「八月の中秋節には、必ず嘉興の煙雨楼で会えるわ。私が『とってもいい娘』だって言いたいなら、その時にしなさいよ」
黄蓉が笑いながら言った。


(2)同143

ということは「逍遥遊」拳法は「降龍十八掌」の威力には遠く及ばないということである。しかし黄蓉はそのことがかえってうれしかった
「それでいいのよ、わたしの方が強くなったら靖さんは面白くないわ」


(3)5巻173

「(前略)さいわい靖さんがぼんやりで、欧陽鋒みたいに気がつかないから、うまく隠れられたけど、そうでなかったらもう隠れるところがなかったわ」
郭靖は、自分をほめているような、けなしているような黄蓉の言葉を聞いて、照れくさそうに笑った。


(4)同180?181

「なにがそんなに楽しいんだ?」
郭靖が不思議そうにたずねると、黄蓉は笑って言った。
「靖さん、すごい贈り物をあげるわ」
「なんだい?」
「サマルカンド城!」
そう言って黄蓉は郭靖の耳もとになにかをささやいた。郭靖はあっと叫んだ。



天衣無縫、傍若無人、神算鬼謀の天才美少女の世評も何のその、黄蓉が郭靖に示す情愛というものは、単に優しいとか甘いとかいうよりほとんど母性的な類のものだと思います。私のかわいい坊や。

(1)ならば普通に”ほだされた”描写、あるいは”姉さん”くらいの範疇にまだ収まっていると思いますが、(2)になるともう既に”母”の領域、張り合う気持ちなどハナからなく、ひたすらかわいい息子の成長と面目が立つことのみを願う無償のそれ。与えるのが嬉しくて仕方がない。
郭靖は穏やかな気質ではあっても基本的にはモンゴルのマっチョな「男らしさ」の規範を内面化した硬骨漢ですから、少しでも女側に張り合う気持ちがあるなら、女が「女」としての所有欲(「母」ではなく)を剥き出しにするなら、容易には受け入れないはず。

それは(3)の郭靖がモンゴルの将軍としてそれなりに男を上げ、最早少年とは言えない自負を備えてからも同じで、この時点では実は探って行けば内心忸怩たるものがなくはなかったりするのかも知れませんが、少年時代までに刻まれた”母”の刻印の力は強力で、さすがにかつてのようなへらへら笑いではなく苦笑いではありますが、気持ちよく降参しています。

(4)は・・・・最早ヒモ男と貢ぎ女の様相を呈してますね!お前らの”純愛”の正体見たり!
というのはまあ冗談ですが。(笑)

でもある意味満更冗談ではない部分もあって、つまりこの二人のもらう(郭靖)あげる(黄蓉)関係というのは宿命的なもので、要するに

何でも入る大きな空っぽの器

としての郭靖と、恵まれた天分と博覧強記のパパの薫陶、そして桃花島での閉居生活から、

溢れんばかりの満タンの桶(?)

である黄蓉との、得難い組み合わせ。
別に郭靖ばかりがもらいっ放しで得しているわけではなく(してるけど)、逆に郭靖だからこそ黄蓉のあげるものを全て受け止められるのだということでもあるわけですね。
父親以外の批評は容易に受け付けないだろう黄蓉の自尊心は、郭靖という本格的に外の世界に出て最初に出会った「他人」に完璧に受け止めてもらったことで多いに満足したはず。(この二人はそこで完結しちゃったとも言えますが。)


黄蓉でもう一つ興味深いor不思議なのは、コジンの件や黄薬師の江南五怪殺しの濡れ衣の件で郭靖から遠ざけられてしまった時に見せた、決してキレない、申し訳程度にしかスネたり恨んだりせずにすぐ理解を示す、妙に大人な対応
そうして後陰ながら郭靖を支える姿、あるいは誤解に凝り固まった柯鎮悪を厳しく優しく世話する、ほとんど「成熟した大人の女」と言えそうな黄蓉の姿は、健気で胸を衝かれると同時に、多少の出来過ぎ感も感じなくはなかったりします。

これは見方によってはご都合主義的、または男性作家特有の甘え、願望であって、言うなればキャラ造型の失敗である可能性も十分あると思いますが、禁断の後出しジャンケンではありますが(笑)後の『神雕剣侠』での”肝っ玉母さん”郭夫人の姿を重ね合わせれば、あるいは一貫した洞察の元に描かれたキャラである可能性もあるかなと。

「金庸も甘えている」という可能性も含めて(笑)、結論としてはまとめて『黄蓉はお母さん』ということでいいんだと思いますけど。はい。


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コメント

あ、どうも。

僕も個々の背景の矛盾をつく気はないですけどね(笑)、作中の変化があまりおかしくなければ。
黄蓉がそういうコだと設定されてるならそれでいいです、後はどう機能するかだけ。

黄蓉の社会性の高さについては、心理学的には一応(良い意味での)『ファザコン』ということで解釈できるかなと思いますけどね。
「社会の窓口」としての父親との一体化による、スムーズな参入。

ただそもそもそんな風に”納得”する必要があるのかというとそれはちょっと疑問。(笑)
そういうコであることを金庸が望んだという、それだけじゃないかと。かわいきゃいいじゃないかと。

あくまで事実どうであるか、作中でどう振る舞っているかだという最初の話に戻りますが。

黄蓉

黄蓉は、生物学以外はあらゆる方面で才能を発揮する。これが数え15歳の子ども。
孤島で育ち、まわりは聾唖の召使いと父親だけ。
これでこのような能力がつくものだろうか。特に人とのつきあい方。
この矛盾を認めれば、あとはもう、なんでも認めてしまいます(^。^))。

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