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「仏教」小説としての『天龍八部』 (2) 


天龍八部〈2〉王子受難 天龍八部〈2〉王子受難
岡崎 由美、金 庸 他 (2002/04)
徳間書店

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(1)より。


『天龍八部』における(恋)愛像(つづき)

いやはやよくもおかしな例ばかり集めたと思うかもしれません。
あえてくくるとこんな感じですかね。

段誉の下衆
游担之の狂気
阿紫の奇形
虚竹の露悪
蕭峯と阿朱の偽装


蕭峯と阿朱については、少し説明が必要かもしれません。
二人とも素直な心根の互いへの思いやりに溢れた好人物で、それぞれが示したもの自体に不快感は無いでしょう。ただ逆にこれが”(恋)愛”なのか、他の4人との単純なあるいは公平な比較の上で、「清い」ものだとか言えるものなのかというとそれは疑問だと思います。

内実としては単なる感謝や尊敬や憐れみと言ってそれですました方がいいようなもので、要するに彼らが「清く」いられるのはそれが”愛”未満であるから、渦中に飛び込んでいないからと、そう認識するのが”公平”だと思います。
特に蕭峯の阿朱と阿紫の姉妹に対する感情の違いは、基本性格へのごく一般的な好感の差と、阿朱の”自己犠牲的な死”による「聖別」という特殊事情によるものであって、本質的にはさして差の無い・・・・もっと言えば、同じように気の無いものだと言えると思います。


いずれにしても、こうしたチョイスが僕の悪意や恣意でないことは、読んだ人はご存知だと思います(笑)。何せ”大ボス”段正淳ら長老世代は温存してこれなわけですから、むしろ控え目なくらいで。まあそれらについてはまた後で。
つまりはこれらが、『天龍八部』的な”恋愛”像。


金庸の意図

で、書いた当人の金庸にしても、これは特殊な例について描いたわけではなく、むしろこれがアベレージであり、実相であるという、そういう意味合いをこめてこうした例示をしているのだと思います。

勿論他の作品においては金庸も人並みに「美しい」恋愛を描いたり、あるいは追求の価値のある重要な素晴らしいもの・テーマとして恋愛を取り上げてもいるわけで、『天龍八部』でのこうした悪趣味の羅列に、あえてという意図や作為が無いわけはありません。

ただそうした”作為”の意味合いとして、こうした例示がたまたま「悪い」例失敗例を選んで集めた、「良い」例成功例を排除してということなのかというとそうではなくて、描き出そうとしているのはあくまで”(恋)愛”そのもの、つまりここに描いた全てがThis is (They are) 恋愛であると、そういう構えなのだと思います。
言い換えると恋愛の”悪い面”ではなくて、根底に共通してある”本質”を描こうとしている。

・・・・多少難しいのはこれが日本で言えば「純文学」のような相対的に抽象性を許容されるジャンルであれば、ある恋愛の内実を細かく描くことによって、よりさりげなく読者に自分の観念・感受性を浸透させるような作業も可能なんでしょうが、実際には武侠小説という超エンターテイメントでそんな悠長なことは出来ないので(笑)、こうした奇天烈で極端にも見える例示で露骨に表現するしかないというところはあるかと思います。

とにかく『天龍八部』におけるこれでもかというグロテスクな”恋愛”像の連打によって、金庸は通常の生活感覚から一歩引いた「仏教」的な視点・立ち位置、思想や感受性からは、”恋愛”というものが押し並べてどのように虚しく/醜悪で/重要性の低いものと感じられるか、それを笑わせながら(笑)何とか活写しようとした。

蕭峯の例・振る舞いなどは別にグロテスクなものではないので、あるいは他の4人は人格的に未熟だからそうなるんだという見方も可能かも知れませんが、では金庸全キャラ中随一の好漢とも言われる蕭峯ならどんな立派な恋愛をするかというと、しないわけですね、要するに。
まともな男(人間)は恋愛なんてヤクザなものには関わりあいにならないと、逆にそう言ってるとすら、多少強引ですが作品内コントラストとしては言えなくもない。


勿論”恋愛”というのは一つの例で、ひいてはこの世の人々の狂奔する/情熱を燃やす営みの全てがそうである、無常である、厭悪すべき対象であると、それが大きく言えば仏教の基本的立場・出発点なわけですね。
それを「恋愛」を使って表現しようとしたのか、他の作品より「仏教」的見方をはっきりと打ち出す、その一環として恋愛についてもこういう描き方をしたのか。まあ、後者ですかね。

つまり小説上の体裁としての主役は、やはり蕭峯の救いの無い運命に代表される、”評判”で取り上げた「ダイエットに挫折して飲んだくれる俺。」さんがまとめたような、「民族」や「因果」をめぐる大きな無常観なのでしょう。(余裕があればそれらについても書きます)
ただそれは多かれ少なかれ金庸の他作品でも繰り返し出て来るお馴染みのモチーフなので、僕としてはこの作品で特別に大きくフィーチャーされている、あざとくも華々しい例として「恋愛」を取り上げてみました。


・・・・と、ここまでが原則論的な、あえて言えば小乗仏教的な仏教話。
次はもっと衆生の生(せい)の実際に近付いてみます。(笑)

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