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「仏教」小説としての『天龍八部』 (3) 

天龍八部〈3〉運命の激流 天龍八部〈3〉運命の激流
岡崎 由美、金 庸 他 (2002/05)
徳間書店

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(1)(2)

本館が忙しくて放置してました失礼。新加入選手も確定したし、いいかげんレッズのことも書きたいんですか。
・・・・で、何書いてましたっけ?(笑)


段正淳というキャラ

主要登場人物のほとんどと、血縁(&結縁)を通じて何らか関係を持ち、滅法評判の悪い”天下のセックスマシーン”段正淳。
別に伊達にタネをバラ蒔いているわけではなくて(笑)、つまりはこの複数主人公による物語の背景に存在する「裏の」または「真の」主人公と言ってもいい重要人物だと思うんですが、物語の構造自体があまり説得力を持って完成できてないので、結果的にこの人自身の存在もなんだかわけが分からなくて、単に”女にだらしない人”になってしまっているという悲劇。または喜劇。(笑)

その本来持っていたはずの重要性を、今回の僕の論の脈絡で言えば、「(恋)愛の権化」ということになりますか。見たまんま?いや、そうでもなくて。

つまりここまで書いて来たように、僕の見方ではこの作品で金庸は仏教的な観点から、本質的に悪しきものとして(恋)愛を描いているわけです。ならば誰にも増して恋愛しまくった、ほとんどそれしかしていない(笑)段正淳は最悪かというと、それは少し違うと思うんですね。
むしろ天晴れであると、逆説的に貴い人であると、ここまでやれば、ここまでやってこそだとそういう描き方をしていると思います。

普通に読んでもそれは分かると思います。これだけ好き放題し、実際に恨みや争いの種を蒔きまくった人であるにも関わらず、決して金庸はそれを批判はしていないし(他の”恋人”たちのように)醜悪にも描いていない。(結果的に浮気性ではあるが)「1人1人に対しては、その一瞬一瞬については真剣である、真心で接している」という意味のことを再三書いてますよね。多分あんまり一般読者には通じてませんが。(笑)

あの男女まとめて”皆殺し”の悲惨な「解決」にしても、描写としては拙速でお座なりであまりいただけないと思いますが、そもそもの意図としてはあれによって”浄化”される、仮に罪があったとしても”赦”されるという、そういう意味合いの強いものだと思います。単に因果応報で”裁”かれたというより。


例えば”悪人正機説”

浄土(真)宗の有名な説として、「悪人正機説」というものがあります。

「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや。」(『歎異抄』)


上の親鸞の言葉が有名ですが、最近の研究ではその師法然等、説自体はもっと前からあったらしいです。とにかく(日本の)大乗仏教を代表する思想の一つですね。

「善人より悪人の方が往生(成仏)しやすい」とはどういう意味か、説明としてはこちらなどが分かり易いので引くと、基本的には

「人間は弱く、罪をおかしやすい。だからこそ、その罪の意識を契機にして(正機)、信仰の道に入ることができる」

「悪事によって人間の無力さ、よわさを悟り、阿弥陀仏の絶対的なちからに思いをいたすとき、小さな我を捨て(他力)、衆生済度の誓願(本願)を心から信じることが可能になる」


というようなこと。中途半端な善=自力志向は、かえって遠回りであるという。

かなり大雑把な解釈ですが、さしずめ段正淳なども、ここでいう「悪人」に当たると言える気がします。あるいはより大きく徹底した「悪」を生きた人、悪の極み。・・・・つまり「悪」たる「(恋)愛」を何ら自己正当化することなく、その時その時無心に全力で行った人。それゆえ、他の誰(の恋愛)よりも仏に、往生に近い。


話戻して

勿論金庸が悪人正機説を唱えているとまで主張しているわけではないですし、知っているかどうかも不明です。(浄土宗そのものは宋代には既に中国で広まっていたらしいですが)
また作中段正淳の色好みや多情が、要らざる不幸の種を蒔いたのも確かなことで、だからこそああいう形で「清算」しなくてはならなかったわけですが。

ただそれでも段正淳の生き様にある種の崇高なものがある、少なくとも王語嫣との薄っぺらい”成就”(あれムカつく)に浮かれる段誉や、特定の相手への執着と期待に空回りする游担之や阿紫、それに観念や幻想としての”恋愛”をなぞるばかりのお上品な蕭峯たちに比べて、行くところまで行ったものの凄みがあり、掴むべき「正機」があると、そう言えるのではないかと思います。
・・・・本来的にはね(笑)。そのはずです。多少僕も論理で補強しながら読んでますが。そういうものとして書かれているだろうと。

挙げた中では相対的には虚竹の「愛」だけは、むしろ”性”と”肉”のその身も蓋も無さ、逆説的な純粋さゆえに、よりプリミティヴではありますが段正淳のそれに近いものがあると思います。何か善悪以前の世界に住んでますよねあの二人は。エデンの園というか。(仏教だってば)
共通しているのは世俗的な意味での道徳や価値、「善」への見切り、嘲笑。一番道徳的な虚竹に一番言い訳の利かない状況・変化を与えているのは、かなり意図的だと思います。

とにかく、殊更(恋)愛を冷徹に露悪的に醜悪に描くことにおいて、またその究極であり逆説として、段正淳の「罪の果ての救い」を、全編を結果的に貫く背景として浮き上がらせるように描いていることに、僕は非常に金庸の底意のようなもの、仏教的な価値観のいつにも増して濃厚な投影を感じるというそういう話です。


伝わったかな(笑)。あんまり自信無いですが。そもそもの”愛=悪”の部分が、ピンと来ない人には全然ピンと来ないでしょうからね。でもそこ説明し始めると・・・・。
要するに諸悪の根源は「執着」であり、そのトップ級の大物が「愛」だということですが。一応それはそれとして、あくまで作品内的な論旨として理解出来るよう書いたつもりですけど。(笑)

さてどうしましょう。出来れば『天龍八部』中に出て来る経典の文言のいちいちについて、それがどのように作中の出来事・内容と対応しているかとかも解釈してみたい気がするんですが。
・・・・つまり「恋愛」以外の仏教性ということですけど。どのみち今手元に本が無いので、ちょっと考えます。

天龍八部〈4〉行路茫々天龍八部〈4〉行路茫々
(2002/06)
岡崎 由美、金 庸 他

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