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「仏教」小説としての『天龍八部』 (補) 

かなり唐突ですけど、今週の『週刊サッカーマガジン』 (購入)

サカマガ岡ちゃん

の岡田監督のインタビューで、「執着」という仏教の基本概念が面白い説明のされ方をしていたので、強引にここに繰り込んで書き留めておきます。(笑)

サッカーと武侠の交差するブログ、それが赤の陋屋。(嘘です。別々です。)


以下岡田さんの言。

「人間というのは囚われたり執着したりしたら、うまくいかない。(中略)

僕はライフル射撃の日本代表監督である藤井(優)さんと仲が良いんだけど、練習用のレーザーピストルを持たされたことがあった。僕は集中力に自信があるから、絶対に当てると。ところがいつになっても銃口が止まらない。動いてしまうんです。
それを見て藤井さんが『岡田さん、それでは絶対に当たらないですよ』と。本物の集中とは全体視。つまり全体を見ながら、点を見る。そうすると、すっと止まる。当てたいというのは集中ではなくて、執着なんですよ。」


「執着や囚われでは絶対に勝てない。難しい話をすれば、新皮質(学習や論理)で考えながらやっていることなんです。演算速度でいえば、旧皮質(本能行動や情動)で考えるよりも、はるかに遅いんです。
(中略)
スポーツも同じなんです。執着も頭で考えることになる。」


ポイントは、執着=頭で考える=新皮質というグルーピングですね。
欲望や感情=旧皮質がいけないのではなくて、それを新皮質の学習や思考、つまり社会通念やら観念やらで歪めてしまうのがいけない。肥大化させたり不純化させるのがいけない。
それが迷いであるし錯誤であるし、人間ならではの(新皮質的な)悪/罪であるという。勿論悟りや救いの妨げでもあるという。


これを例えば(3)の”段正淳は相対的に往生に近い”論(笑)の脈絡で言うなら、段正淳は底の抜けた色好みで最初から倫理(という新皮質的な歪み)的であることにこだわっていない、不倫の誹りは受けるつもりでいる。
あるいは「1人1人に対しては、その一瞬一瞬については真剣である、真心で接している」という例のアレ、その場その場の気持ちのままに行動し、それらの行動間で結果的に生まれる社会通念的な齟齬、「あちらが”本気”ならこちらは”本気”でないはず」「あちらにもこちらにも”忠実””誠実”なんてことは論理的におかしい」というようなそれに対する配慮を気にしない、囚われない。
・・・・そういう意味で「執着」が少ないのだというそんな話になりますか。

愛がいけないというよりは愛に関する観念・・・・その中には”独占”(忠実)であるとか、あるいは”報い”(こんなに想っているのだから相手も的な)であるとかいうエゴ、また「愛」を最初から一連の形式や物語性の中においてしか捉えないような心/頭の動き全てが含まれるわけですが・・・・がいけない。観念化された愛がいけない。
そして人間の「愛」はほぼ例外なくそれを逃れられない。執着そのものである。強い情動を伴う分、害も大きい。だから避けるべきであるという。


本当かどうかは知りませんし(笑)、必ずしも僕の考えとイコールではないですけど、なるべく引き付けてこじ付けてみるとこんな感じ。
ただ「執着」を道徳的価値的に”悪”であるのではなくて、錯誤であり認知の歪みという”害”がある、だからいけないという説明の仕方は、現代人に通じ易いのは確かでしょうね。

旧皮質的に愛せよ。動物のように、赤子のように。それが仏へ通じる道。(?)
イタいエントリーだなあ。(笑)


ちなみにこうした概念を使って説明された岡田監督の(その箇所での)サッカー論自体は、特に感心しませんでした(笑)。要は特定のスタイルにはこだわらないというだけの話で、普通の話。
まあ言ってみたかったんでしょうね、充電期間に溜め込んだことを。


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