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金庸派究極奥義 ?『侠客行』(1) 

侠客行〈第1巻〉野良犬侠客行〈第1巻〉野良犬
(1997/10)
金 庸、岡崎 由美 他

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カテゴリーを再構成して、(総論)(各論)の区別とかまた曖昧にしちゃってますがすいません。
・・・・ああ、いっそ全部書き直したい!(それは駄目、ゼッタイ)

その中でも結構何書くかかなり困った『侠客行』の、今回は”総論”っぽい内容。
困った理由はつまらないからではなくて、逆に面白くて満足してしまうから。というのと、やっぱり・・・・内容が無いから。(笑)
だから主に形式についての話と、その「形式」自体が何を意味するかということを書こうかと。


金庸作品の基本的特徴

金庸作品全般に、見た目の特徴として通じるものを挙げてみると、こんなのが特に印象的かと。

(1)巻き込まれ型の主人公 ・・・・多くは消極的受動的or非社会的性格
(2)偶然的要素の大きい武芸修得
(3)主人公の意思や本意とは裏腹or無関係なストーリー展開


ある意味では全部同じことですけどね。

(1)巻き込まれ型の主人公であり、主人公は性格的にぼんやりおっとり、もしくはだらしない(笑)か、そうでない積極的or鋭敏な性格である場合も、社会的なことや立身の類には興味を持っていない
大別してみると、こんな感じ。
 前者:袁承志(『碧血剣』)、郭靖(『射英雄伝』)、張無忌(『倚天屠龍記』)、狄雲(『連城訣』)、
  段誉、虚竹(『天龍八部』)、狗雑種(『侠客行』)
 後者:楊過(『神剣侠』)、令狐冲(『笑傲江湖』)、韋小宝(『鹿鼎記』)
 中間:陳家洛(『書剣恩仇録』)
 例外:胡斐(『飛狐』シリーズ)、蕭峯(『天龍八部』)

陳家洛は基本的に天下国家の人ですし、性格的にも普通の人だと思いますが、”優柔不断”の悪評が高くて(笑)実際にそれにより作品に積極的な性格が失われているので、玉虫色の評価。
胡斐はよく分かりませんね。頭は切れますし父親の因縁にけりをつける問題解決の意欲も揺るぎないので前向きな人物と言っていいんでしょうが、そもそもどういうキャラなのか。『飛狐』シリーズそのものと同様、クオリティが低いわけじゃないんですが何か浮いた感じ。

蕭峯は苦難により後半はかなり厭世的になってますが、基本性格としては/何事もなければ丐幇の幇主として国の為民族の為尽くしたでしょうから、まあ例外ですかね。
ただし『天龍八部』という複数主人公のストーリーだからこそ、その1人として存在を許された捻りの無い人物像だと思います。実はあんまり僕好きじゃないです。興味無いというか。

あと韋小宝は”出世”はしますけど、あれは至って個人的な快楽主義・自己保存が、たまたま国家スケールで展開してしまっただけ(笑)なので、「社会性」とも「前向き」とも言えないでしょう。

そうした巻き込まれ型の主人公は、必要なスキルを努力や自ら求めてというよりは、僥倖や行きがかりで身に付けるのが常です。・・・・(2)
またそうして(笑)パワーアップした主人公たちはそれぞれに活躍しますが、所詮巻き込まれ型で太いモチベーションを持っていないので、ストーリー全体の中で彼の意思は必ずしも中心的位置では機能しません。”する”というより”なっちゃう”のが金庸のストーリーの基本です。・・・・(3)


正に”金庸”な『侠客行』

そしてこの’65の『侠客行』は、こうした金庸スタイルを純化した、そのエッセンス、技法の骨組みだけで出来上がっているような作品で、それゆえ「内容」というほどの内容が存在せず、いわゆる”感情移入”は難しいタイプの作品という定評。

項目別に見ていきますと
(1)
名前を知らないことに象徴されるように、出発点として「自己」や「自我」の意識のようなものをほとんど持っておらず、積極的/消極的という以前の無意志的なパーソナリティ。
(2)
最初に教わった武芸は上達の為ではなく、修練を誤らして自滅を誘う為。その危機を脱させた一撃は殺す目的で放たれたものが、正に僥倖として作用したもの。次に身に付けた「羅漢伏魔功」は、本人は人形で遊んでいるつもりでいたものが、その無欲が幸いして古今屈指の修得困難な武芸を自然に身に付けることに。
その後も主に他人の都合でひたすら受け身でいくつかの武芸を身に付け、最後には天下の名人達人が数十年頭を悩ました侠客島の武芸を、字が読めない/悩ます頭が無いという理由でその気もないのにあっさり身に付ける。
(3)
(1)のようなパーソナリティなので、他人や状況に反応するだけで、さしたる目的意識も持たずただただ流されるのみ。しかしなぜか結果的に事件の中心に位置し続け、あれよあれよと息付く間も無く話を転がす。

という具合で、徹底的に空虚というか、形式的というかパズル的というか。わざとらしいほど技巧的な、偶然の組み合わせで出来た作品。
それを無内容無感情と抵抗を感じるか、徹底ぶりとそこから来るスピード感、エッジ感、カラッとした馬鹿馬鹿しさを快と感じるかで、好き嫌いは分かれるようです。

公平に言って金庸の「仕様書」みたいなところはあって(笑)、それが習作や初期作品としてではなく、ひと通り書き終わった挙句の後期の作品(ラスト3作)として書かれているのが面白いところ。
つまりはこれは金庸の一種の「自己認識」であると、そう言って間違い無いと思います。

前後の状況的なことを言えば、その前に書かれているのが『天龍八部』(’63)、最長クラスのかつ最高クラスの複雑な構成を持った、それまでの蓄積と経験を一度全部まとめて注入しようとしたような、多少これ見よがしな作品で。
そうしたやや恥ずかしいタイプの(笑)”集大成”作品の経験を元に、またそこで色々滞留していたものを出し切って、今度は冷静にシャープに、ミニマムなアプローチによる、これはこれで”集大成”な作品かなと。

・・・・ついでに、だとすれば、また次の『笑傲江湖』(’67)は、両者の中間のバランスの取れた作品、かな?


というわけで表題の意味ですが。
とりあえず全部書いてあるカタログ的な『天龍八部』(か読み易い『笑傲江湖』)が一般門弟向きの”奥義書”だとすれば、不親切だけど凝縮度の高い『侠客行』は、限られた高弟向きの奥義書であると、そんなまとめ。

次からはその”内容が無い”中で、しかしその「形式」の中に込められた「内容」(ややこしい)について、書いてみたいと思います。

侠客行〈1〉野良犬 (徳間文庫)

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