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”知”と”非知” ?『侠客行』(2) 

侠客行〈第2巻〉闇からの使者侠客行〈第2巻〉闇からの使者
(1997/11)
岡崎 由美、金 庸 他

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承前
『侠客行』から無理矢理テーマを引き出す作戦その1。(笑)


”純”な男の価値 ?中国人の男性/性差観

我々日本人読者が金庸作品を読んでいると、作者金庸が意識的に「伝え」ようとしていることとは別に、むしろ中国人として無意識に/お約束として依拠・前提としていることこそ逆に面白かったりしますが、その内の一つとして僕が読んでいてあれ?と思ったのは、中国伝統文化における男性観、性的役割分担観。具体的には男が”純”であることの価値感。

代表的には勿論『射英雄伝』の郭靖、あるいはjinyuさんなどがよく指摘しておられる、郭靖の中国における、日本人には奇妙なほどの絶対的人気。
それには勿論、”大侠・郭靖”としての「国に尽くす」という、これも中国的な大道徳の要素も絡んでいるわけでしょうが、しかし現代の読者に彼が超・鉄板のヒーローとして受け入れられるに当たっては、彼の日本人からすると「ちょっと足りないんじゃないのか?」と少し引きかねないような(笑)人の良さ、盲目的な誠実さが、王道的な”ヒーロー”像/人間として純粋にプラスの属性として受け入れられているという、そういう土壌の存在が感じられるのですが。

実際にはこういうテーマ化し得るような大きな人物設定の問題というよりは、作品群の端々で、あるいは全てのキャラクターの描写における押し並べての価値基準としてそういうことを感じることが多々あって、基本的なところで中国人は純な男、男の「真心」に最大の価値を置き、才気とか現実的能力とかは、ヒーローとして副次的な要素であるようで。
勿論日本にもこうした感じ方は無くはないんですが、ちょっとスケールというか思い入れの熱が違うというか。まあ韓国ものなどでもそういうことは感じなくはないので、これは日本人が感情的に淡い/薄いか、中韓に前近代的心情がまだ色濃いとか、そういう一般文化的理由もあるのかも知れません。

で、ともかくその場合逆に女の側にどういう属性が帰せられるかというと、それは「気働き」であるとか「駆け引き」「打算」であるとか、そういうもっと分かり易く現実的外面的な”能力”で、何やらアダムに対するイヴ(エヴァ)的なそういう神話的古代的偏見(笑)の臭いもしなくはないですが、まとめて言うと、

 ”男は愛嬌、女は甲斐性”

的なコントラスト。頭を使うのはむしろ女の役目。男は心を使う。(?)
まあ逆に、実際の男に真心がないことの反映的願望かもしれませんが。(笑)

話戻して”純”という言葉自体について言うと、例えば少林派などの正統的武芸などについてよく言われる、「至純」の境地のような表現。色々目を配るよりも一つの道を真っ直ぐに極めるのが尊い・強いという価値観。
勿論それはあくまで世界観の基本設定であって、実際には金庸は主人公たちに様々にハイブリッドな上達を施して、それによってスペシャリティを、常識の超越をさせるわけですが。


”知”から見る”非知”

と、いうのは例えばの前フリですが。(長え)
より金庸的に言うと、彼自身は能力的にも階級的にも相当に知的な、「知」の色彩の濃い世界の住人であり、その自負も使命感もたっぷり備えているのは明らか。また世に様々頭の良い人がいる中でも、どちらかと言えばその・・・・はっきり言うと少しそれが小賢しい、鼻につくような出方をしないでもない(笑)タイプの人/作家だと思います。

勿論自分の「武侠」文学をこのような複雑で示唆的で、かつ突き抜けた快楽性を持ったものとして(ジャンルとして)構成したそもそもの見識・手腕自体は、間違っても単なる軽薄才子でも俗物知識人のものでもないとこれははっきり言っておくべきですが、気質というか手癖的に、それほど機微や情に通じたタイプの人ではなくて、ある意味”情”すらも理論的にやっているところがある。

そうした傾きを自覚しないわけはない(たまに吐露もしてますね)金庸にとって、例えば男の”真心”、あるいは素朴で一途で純真な心情のようなものは、ある意味では憧れであり、微妙にコンプレックスを掻き立てられる要素でもあるのだと思います。
程度の低い人の場合はそうした自分の苦手なものを、価値的に下に書いて自己防衛したりということも可能でしょうが、それをするには金庸は賢過ぎる。

その流れでより一般的に言うと、真に知的な人ほど、その逆の”非知”の価値が分かる、分かってしまうものなのですよね。既に十分な”知”を得ていれば、それに無闇な幻想や強迫観念は持たずに、逆にその限界を日々感じながら暮らすことになる。
そしてそれとのコントラストや境界付けで、それぞれの”非知”がどのような意味と価値を持ち、”知”とはまた違う特有の困難があるかを理解し、尊敬することになる。攻撃の対象とするのはむしろ中途半端な”知”の方。


半端なものは好かんというのは、この前の”愛”の話とも通じるところがありますが。悪人は正機に、大愚は大賢に通じる。ある意味ではこの世の「外」からの視点も持っている人でありますし。
結論的に何を言いたいかと言いますと、どうして金庸がホケキャラ系主人公を書きたがるか(笑)というと、それは
1.純真さに対する中国的な土壌を背景にし、
2.知を極めたものとして非知の価値を十分に知っていてそれを描きたいと思っている

からだというそういうことですね。

そしてその究極が、『侠客行』の主人公”狗雑種”であるという、そういう話。
やっぱ狗雑種最高!(笑)


もう一つ行きます。

侠客行〈2〉闇からの使者 (徳間文庫)

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コメント

なるほど

その件に関しては、僕は水滸伝で一番びっくりしましたが。(笑)

背景としては、
1.”義”や”天”など、人の物理的生存より優先すべきものがあるということが、むしろ積極的に受け入れられている、あるいは称揚されている。
2.「近代的な」歴史小説、つまり”ヒューマニズム”や”人権”など、近代的意識・常識の支配下にある歴史小説が、ジャンルとして未成立である。
みたいなことがあるのかなと思います。

1.は一種の「中国教」ですよね。そうした観念に従うのは、ある意味”まともな中国人”であることの自己証明みたいなそういうダンディズム。
日本にも「武士道」がありますが、比較するとあれは”新興宗教”か。(笑)
2.は要するに普段目にする日本の「歴史小説」は、そうした配慮と無縁でいられないということの逆みたいな。
金庸さんはやろうとすればどちらも書けたんでしょうが、ジャンルとしては古いスタイルのまま、新しい切り口で書くことを選んだというか。

無意識の前提

わたしが一番感じるのは、大衆の扱いですね。物語のその他のひと。軍で言うなら兵。
この人たちは死んでも、狗や馬が死ぬ程度にしか扱ってもらえない。
馬なら財産だからもっと大事にするか。
とにかく、人として扱われないのは、説明抜きの前提です。
読み始めたときはとまどいました。

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