スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

メモ:”無我”と”縁” 

天龍八部〈6〉天山奇遇天龍八部〈6〉天山奇遇
(2002/08)
岡崎 由美、金 庸 他

商品詳細を見る

金庸ファンの皆様どうも。
放置中もポツリポツリと過去ログに拍手が来るのが、微妙にプレッシャーなアトです。(笑)
順番としては『侠客行』の(3)なんですが、書こうとしている内容がカブリそうなのでこっちでやっておきます。
一応、”「仏教」小説としての『天龍八部』(4)”ですが、(1)(2)(3)の続きではないので、特に前のを確認する必要は無いです。

無我と縁
改めて作中に引用されている経典の文言を総チェックしてみて、取り上げるとすればこれかなと。他は本編中に解説がついているor普通に読めば分かるものか、言い方が仰々しいだけで大した内容ではない(笑)と思われます。

まずは引用箇所を。


「衆生は無我にして、苦楽はにしたがう。たとえ栄誉を受くるとも、過去の宿因のなせるもの、今はこれを得ようとも、縁が尽きれば無にかえる。何の喜ぶことあらんや。得失は縁により、心には増減なし。」

(単行本6巻p.181)



「み仏の教えでは、万法はこれの一字です。『諸法は縁より生じ、諸法は縁より滅す。我仏大沙門、常にかくのごとき説をなす。』」

(単行本6巻p.285)


いずれも小坊主虚竹の言で、面目躍如ですね。段誉の引き方だと、どうにも薄っぺらくて仕方ありません。(笑)
前者は文中にあるように少林開祖の達磨さんの言葉(曇林『入道四行観』)、後者はずばりお釈迦様(”我仏大沙門”)の言葉とされるもの(馬勝『地蔵本願経講記』)ということ。

以下とりあえず文中語それぞれの標準的定義。(参考にしたのは各Wiki、及び財団法人仏教伝道協会「やさしい仏教用語」

”衆生”・・・・生命あるものすべて。

”無我”・・・・”我”が無いこと。

 ”我”
 ・狭義にはバラモンの”アートマン”、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
 ・広義には自分も世界も全てを含めた、個々の存在の実体のこと。

従って”無我”も、

 ・永続的な確固とした「我れ」、主体が無いという意味(狭義)と、
 ・「世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」という意味(広義)

と、二つの場合がある。

”縁”(”因”と”縁”)

・因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける間接的原因、外的条件。
・過去の宿因。(↑引用部分)

 ”縁起”
 ・「因縁生起」(いんねんしょうき)の略。「縁って起こる」こと。
 ・世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って消滅変化しているという考え方。

”法”(万法、諸法)

1.「法則」「真理」。教法、説法。時に「秩序」「掟」「慣習」。
2.存在。具体的な存在を構成する要素的存在。

・・・・ここでは主に2の意味と考えられる。


(”無我”と”縁”の関係)


釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。

”縁起”Wikiより)


あらゆるもの、個物には実体は無く、「無我」である。その意味で区別は無い。
しかし同時にあらゆるものは関係性の中にあり、それぞれの関係において生起する。だからそれぞれの関係の個別性具体性によって、束の間意味や価値や個別的存在性が規定される。彼が彼であるのは、彼の持つ「縁」による。

ただしその「縁」が尽きれば(縁の影響の範囲を越えれば)、彼が彼であった根拠や個体性は失われる。すなわち『縁が尽きれば無にかえる』『縁より生じ、縁より滅す』。(↑)

・・・・まあ仏のスケールでは無でも、凡俗のスケールでは有みたいな話です。(笑)
究極的には無いけれど、とりあえずは有る。あるいはそれぞれの「縁」の実効範囲内でなら、有ると言っても当面差し支えは無い。


というようなことを押さえつつ、話を金庸に戻します


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/274-094cd39d

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。