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その他金庸と仏教 

天龍八部〈5〉草原の王国天龍八部〈5〉草原の王国
(2002/07)
岡崎 由美、金 庸 他

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早くキリをつけてしまおう。まあ大した話ではないです。(笑)


「頓悟」と「漸悟」、と金庸の武術修行


「玄難大師は禅の理に精通しておいでゆえ、禅宗の要旨が『頓悟』にあることは存じておられよう。棋道においても同じこと、十にもならぬ神童が、しばしば一流の名手を破る。」

(単行本5巻p.247)


少林派とのからみもあってでしょう、金庸の仏教の多くが”禅”であり、また少なくとも作品内では決まって『頓悟』の優位を語っているのは、何冊か読めばすぐに分かることだと思います。

ここで『頓悟』とは、またそれの反対である『漸悟』とは何かというと、


一足とびに究極の悟りに至るのを頓悟、漸漸に順序しだいを経て悟りに進むのを漸悟という。

「松風>茶道レポート凌亂>頓悟主義と漸悟主義について」


ということです。
修行や悟りのプロセス論として、特に禅や各種の「道」においてよく問題となる対立。
その細かい話や金庸がどういう理由であそこまではっきり頓悟の優位を語るのかは置くとして、ともかく金庸作品では、頓悟の優位はお約束として確定しているわけです。

そこから僕が想像する、言っておいた方が面白いかなと思うのは、例の金庸の主人公たちが身につける奇妙奇天烈な武芸の数々、特にしばしば「あんなにあっさり上達するのはおかしい」「理屈だけでああも簡単に出来るものか」と慣れない人からはクレームが出ることも無くはない(笑)独特の修行と上達の世界観、その背後にこの『頓悟』の思想があるのではないかなということ。

・・・・いや、そんな真面目な話ではないんですけどね(笑)。基本的には単なる金庸の稚気、悪ふざけなんでしょうけど。ただその”悪ふざけ”を支える屁理屈として、こういうものが用意されているのではないかな、そう考えると一応は納得できるかなというそういう話です。


”人無我・法有我”説

すっげえ細かい話で興味無い人はスルー推奨。


部派仏教になるとこの定型が形式化し、説一切有部(せついっさいうぶ)においては、要素である法の分析にともない、その法の有(う)が考えられるようになる。元来の初期仏教以来の無我説はなお底流として継承されていたので、人無我(にんむが)・法有我(ほううが)という一種の折衷説が生まれた。
この「法有我」は、法がそれ自身で独立に存在する実体であることを示し、それを自性(じしょう)と呼ぶ。



このような「法有我」もしくは「自性」に対して、これを根底から否定していったのが大乗仏教とくに龍樹(りゅうじゅ)であり、自性に反対の無自性を鮮明にし、空(くう)であることを徹底した。
(中略)
このような「縁起―無自性―空」の理論は、存在や対象や機能などのいっさい、またことばそのものにも言及して、あらゆるとらわれから解放された無我説が完成した。龍樹以降の大乗仏教は、インド、チベット、中国、日本その他のいたるところで、すべてこの影響下にあり、空の思想によって完結した無我説をその中心に据えている。


・・・・いずれも Wiki”無我” より。

前々回説明したことと合わせて簡単に言うと
1.仏教以前のインド思想の、「我」(人/自分や世界の実体)の実在説。
2.それを否定した原始仏教の「無我」説
3.そこから世界については実体性を回復させた部派仏教の「人無我・法有我」説
4.最終的にやはり全て無我であるとした大乗仏教(以降)の「空」。

何を問題にしているかというと。
金庸が”無我”的な、”縁”主義的なスタンスで、主人公ら登場人物の「自由意志」や「努力」の影響力を極小化する方向の、ある種「運命論」的なストーリー展開を重点的に行っているという話を、前回まででしました。

ここらへんに関して、かつて僕は(やや留保的な書き方ですが)『射英雄伝』の項で、郭靖の”成長”や”自己実現”とのコントラストとして、「ギリシャ悲劇」という例を挙げました
代表的には「オイディプス王」。”父を殺し、母を犯す”という予言に逆らう為の人間側の努力にも関わらず、気が付けばそれと知らず正に予言通りの人生を歩んでしまったオイディプスの悲劇。

これがつまり、世界の主役はある種の「運命」であり、その前には個人の意思など無に等しいという、古代世界にかなり共通する世界観の表現なわけですが。
そして金庸の”運命論”的表現も、単純な先祖帰りではないにしても、基本的にはそうした古代的古典的な文学表現・世界観と、近代的個人主義的なそれとのハイブリッドの一種であると、そう僕は認識しているわけですが。

この認識にそう大きな間違いは無いと思うんですが、ただその時金庸が想定/イメージしている言わば”人無我”は、いったいどういう構図の元のものなのかなという。
つまり人は無であるが運命や世界(とその背後にいる神々)は有であるギリシャ悲劇は、ある意味「人無我・法有我」説に立っているわけで、それは人間の『自由意志』に対する神の『恩寵』の優位を基本的に語るキリスト教(例)なども大きく言えばそうでしょう。
・・・・というかこれが一番素朴・普遍的な古代/前近代的な考え方なので、「法」(世界、神)まで無我だと言い切ってしまうところに、仏教の特異性があるんだと思うんですが。

結論は特に無いんですけどね(笑)。今回調べていてちょっと考えてしまったというだけで。
禅である、大乗仏教であるという意味においては、デフォルトで「空」である、両方無我であるということになるかも知れませんが、そこまでは考えていないような気もしますし(笑)。さて。


ああ、めんどくさかった。これで”仏教”話は終わりです。
なかなか思ったようには説明できないものですね。もうちょっと上手く出来ると思ってたんですけど、言いたいことの半分も言えなかった。修行します。(笑)


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コメント

来週のナビスコ2戦が両方味スタなので、(テレビでやらない)そっちに観戦体力を回す予定です、すいません。

>天龍を書いたときは、「ハイブリット化してみました」で止まっている感
元の構想はそれなりにあったんでしょうけど、途中で香港を離れたりしてたせいか、正直かなり荒れた書き方になっている印象を受けます。特にキャラの殺し方に心がこもっていなくて、「運命の悲哀」とかよりも単に嫌な感じ。(笑)

>信じる宗教は「原始仏教」
ああ、そうなんですか。沢山引かれている割りに、”禅”にはあまり本気度を感じないなあとは思ってたんですが。知的な人はむしろシンプル/ミニマムな方に行く、というパターンも一つありますよね。
そもそも執筆当時は、そんなに歳でもないですしね。39歳か。

>古代的古典的な文学表現・世界観と、近代的個人主義的なそれとのハイブリッドの一種
同感ですね。 ただ天龍を書いたときは、「ハイブリット化してみました」で止まっている感あり。 さらに個人的に突き詰めていき、信じる宗教は「原始仏教」と言うところまでいくのは息子さんの自死という不幸を乗り越えるために相当「突き詰めて」いった結果のようです。 彼の対談集で独白していました。

追:明日は宜しく(笑)お願いします。 味スタ観戦されますか?

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