スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

17.過去の不確定性(2) ?「出来事」と「記憶」 

(1)より。


「出来事」と「記憶」

現在、ほとんどの人々は、記憶それ自体は、作動すると忠実な記録を残すビデオカメラとは違うという、ごく当たり前の考え方を受け入れている。

われわれは、経験した一連の出来事を、(中略)色々な要素を再配置し、修正して、それらを思い出す際に意味のあるものへと作り変えたり、時には、謎めいていて、矛盾すら生み出してしまうような構造しかもたないものへと作り変えるのである


活動そのものは記録されるが、<ある記述の下の行為>は記録されないのだ。


それが心象であれ、画面上のビデオ映像であれ、イメージというものは、「この二人の男は何をしているのか?」という質問に対する、十分な答えを用意するものではないのだ。


われわれが心理学的に興味を持つような思い出された過去とは、あいさつとか、取り引きの合意といったような(注・上”二人の男”)、まさに人間の行為の世界なのである。



(参考)”トラウマ”の実体 ?「意図」下の出来事と非個人的な出来事

現在、恐ろしい事故の犠牲者と時々面接するという、研究のようなものが行われている。
(中略)
トラウマの専門家はこうした出来事に強い関心を持って、犠牲者たちの記憶を(心的外傷後ストレスの症状と共に)何度も研究している。この分野の先駆者ルノア・テアは、(中略)彼女が単事象トラウマと名付けたものの犠牲者は、(例えば幼児虐待のような繰り返されたトラウマの犠牲者とは違い)何が起きたかについて明晰な記憶を保持していると、彼女は主張している。


しかし、私は、こうした事件と取り戻された記憶の間の、もう一つの相違点を指摘しておきたい。トラウマの本質的特徴は、人間の行為ではなかった。トラウマとなる出来事は、出来事そのものであり、意図や記述の下での行為は起こらないのである。


従って、わたしは、人間の行為によって引き起こされたトラウマに、個人の行動とは無関係な状況によって引き起こされたトラウマの結果を適用することに対しては、強い警告を発したい。



過去の”改訂”

新しい記述の下における古い行為は、記憶の中で再体験されるものなのかもしれない。
そして、もしこれらが純粋に新しい記述、すなわち、そのエピソード(記憶)を覚えたときには利用できなかったか、または存在しなかったような記述であるならば、ある特定の意味で以前には存在しなかった何事かが、現在、記憶の中で経験されていることになる。


私が言いたいのは、行なわれたことに対してわれわれの意見が変わるということだけではなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行なわれたこと自体が修正されるということなのだ。
われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行なわれたときには存在しなかった意図的な行為によって満たされていくのである。



(3)へつづく。


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kinyo.blog66.fc2.com/tb.php/285-13541b5f

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。