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中田力 『脳のなかの水分子』 より ?孔子と老子 

脳のなかの水分子―意識が創られるとき脳のなかの水分子―意識が創られるとき
(2006/08)
中田 力

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「意識が創られるとき」という副題は、この本単体だと誇大広告に近かったですが(笑・著者の他の本に詳述してあるみたいです)、『閉鎖系』『開放系』という物理学・熱力学概念から、孔子と老子・荘子の思想を位置付けてあって面白かったので、中国思想ブログとして(笑)メモっておきます。
メインの内容はちょっと、僕の文責では紹介し切れません。


商(殷)王朝と古代日本、そして殷周革命

白川静博士の言を借りるまでもなく、古代日本を築いた人々が、商(殷)王朝文化の継承者であったことは間違いないようである。

漢字を生み出し、アジア文化の祖となる中国古典文化を作り上げた商王朝は、(中略)自然の中の人間という存在をはっきり意識した、ある意味、融和を求める優しい心の文化が生み出したものである。神がまだ人々を支配する存在ではなく、単に「母なる自然」の代弁者だった、古き、良き、時代である。


実は初耳で特に言うことはありませんが、ありそうな話だとは思います。
ただしこの段階では、(日本人は)「ムー大陸の生き残りの子孫である」みたいな話と、大差ない受容の仕方ですが。(笑)
まあどっちでもいいですよ。なんなら両方でもいい(笑)。ともあれ今日に至っても高い知的水準と非論理性・厳格性の不思議な共存を特徴とする日本文化は、サブカルチャーを中心に日々面白いものを生み出し続けていると思います。(その点Jリーグはまだまだ型通り)
それらにこうした分かり易いロマンチックな起源があるのなら・・・・楽しいことです。

ところがその後、

太公望と、姫昌の子、発によって、神の国は滅ぼされた。(中略)
殷周革命である。
世界が、文化よりも力を優先させる戦いの時代に入ったことを象徴した事件でもある。


孔子の”理想”である周王朝を。こういう文脈で性格付けたものを見るのは、個人的には初めてかもしれません。理想の国ではなく、理想を終わらせた国。


儒教と老荘思想

孔子はそんな(周が倒れた後の長く続いた戦乱の)時代に生まれた、魯の国の人である。
人となりとしての仁、規範としての礼を説いた儒教は、その後、東洋思想を長年にわたって支配することになった。

それはまた、放っておけば世の秩序は乱れるという概念に基づいた、中世封建国家を支える。厳格な身分制度の根底にある考え方でもあった。


前の項目と合わせれば、自然的秩序を壊してしまったからこそ必要となった、人間的秩序ということでしょうか。
それが「理想」だというのは、根本的にはマッチポンプであるという。


儒教の掲げた人間絶対主義に反発し、あくまで自然と調和した生き方を主張したものが老荘思想である。老子から尹喜へと受け継がれた道教の成立は、ある意味、商王朝文化の復興であった。
商王朝文化を継承した古代日本を引き継いだ平安朝廷が、道教的古典思想の影響下にあったことにも、うなずけるものがある。


老荘/道教自体が分からないことだらけなので、かなり危うい話にはなってますが、一つだけ言うと”平安朝の道教的古典思想”というのは、簡単に言えば「陰陽道」のことでしょうね。
ともあれこの人の論の面白いところはこれらの対比そのものにあって、以下。


閉じた系と開いた系

熱力学の言葉を借りて現代的に表現すれば、儒教の発想は第二法則に基づいている
つまり、閉じた系においては常にエントロピーが増大するのである、エントロピーとは無秩序を表す物理量であるから、エントロピーの増大とは無秩序が増大すること、つまりは、秩序が乱れることを意味する。
封建国家という閉じた系の中では、放っておくと世の秩序は乱れるのである。だからこそ、仁と礼を重んじる必要がある。


あんまり厳密に受け取らないで、”儒教と熱力学”という取り合わせの意外さを楽しんで下さい。(笑)

それに対し、老荘思想は自己形成の考え方を表している
つまりは、開かれた系における発想である。
開かれた系で自然に起きるパターン形成、つまりは、自己形成による秩序に任せるとの考え方である。


”無為自然”っちゅうやつ?
熱力学(の第二法則)については、ほぼ『現代用語の基礎知識』なのでいいですね。
「自己形成」というのはれっきとした科学用語で、『規則と環境に従って、自動的に適切な構造(形やパターン)が作り上げられる』現象、働きのこと。例えば”形状記憶合金”や”ブラウン運動”など。(p.34から)

筆者が自己形成を重視している、もしくは愛しているのは商王朝文化の理想化を見れば明らかですが、ちゃんと(?)こういう総合的な視点も示してはあります。

明らかに閉じた系に属する中世封建国家における儒教的発想の適合性を認める一方で、開いた系を基本とする民主主義を獲得した現代社会では、自己形成を重んじる道教的発想が重要度を増していることも否定できない。


+”グローバリゼーション”という、究極的に「開いた」系。


まとめ

究極的になぜ自己形成が重要かというと、

自然科学を語る限り、老荘思想が適しているのはいうまでもない。自然界に現れるものはすべて、自己形成するからである。
言い換えれば、人間の努力ではどうにもならないのである。人間が自然を支配できると考えた瞬間から、崩壊が始まる。


これ自体はよくある警句ですが。

僕自身は孔子という人は、やはり(怪力乱神を)「語らず」の人であって、つまりあえて形式的に社会秩序内的に、思索・主張の内容を限定した人だと思います。
だから多分なろうと思えば「老子」にもなれた人で、そういうつもりで読むと見かけの堅苦しい倫理観や処世訓的内容の背後に、語られなかったものも含めた全体性が、直接的な文言の形式性ゆえにかえってクリアに見える気がする、そういう思想家だと思っています。

そこらへんが閉じた&開いた「系」という分類概念が導入されることによって、要するに”条件”の設定の問題であるという形で、整理できる気がするかなと。
と同時に、筆者の重点としてはこっちですが、何やらボヤッとした身も蓋も無いようなことを言っているようにも見える老荘の思想も、「開いた系」というより現代的な条件下ではむしろ相応しい、リアルな認識であると、そういう形で掬い上げることが出来るという、その視点は新鮮でした。

まあ所詮比喩ですし、ありがちな拡大&移転解釈ではありますし、細かいところで突っ込みどころは沢山あるでしょうけど。


日本人は老荘思想、なんですかねえ?(笑)


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