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『ゴサインタン』プチ感想 

ゴサインタン―神の座 (文春文庫)ゴサインタン―神の座 (文春文庫)
(2002/10)
篠田 節子

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篠田節子のネパール仏教小説?
中国もの・・・・ではないけど、中華文化圏ものということでこちらで。(笑)
まあ遥か先ですが、いずれ金庸を論じ尽くしたら、ここは普通に「書評ブログ」になる予定ですので。


ネレーロさんの書かれていることはこととして総じて同感ですが、あえて僕が最も単純にこの小説を性格付けるとすると、やはり

宗教小説

ということになります。
それは”宗教的な”小説ということではなくて、”宗教を”書いた小説ということです。”教団を”と言った方が分かり易いかな。狭いけど。

一つの宗教・教団の形成・変転を追ったフィクションということなら、角川版『幻魔』を筆頭に(筆頭か?)いくつもあるでしょうが、この作品が特徴的だなと思うのは、それを徹底的に此岸的に、現世の範囲で書いているということです。
といって科学主義とか合理主義とかで、宗教を否定しているということではなくて、むしろ狂おしい宗教的関心を持って。

つまり例えば『弥勒』

弥勒 (講談社文庫)弥勒 (講談社文庫)
(2001/10)
篠田 節子
商品詳細を見る
などを読んでも、あるいは他の芸術や”才能”を採り上げた作品群を見ても、この作者が宗教や何らか神的超越的、この世ならざる、理性を越えた/越えて行くものに寄せる関心は”敬虔”と言ってもいいくらいのもので、何らか自分なりの宗教的直観(信仰ではないと思います)を持っている人なのは明らかだろうと思います。

この作品もそうした関心に基づいて書かれているわけですが、ただそれを、”この世の外”や”あちら側”のようなものを、極力持ち出さないで書こうとしている。それは意識的なものだと思います。
いかに”外”を持ち出さずに”内”の範囲で、しかし徹底的に敬虔に宗教を描けるか、その限界に挑戦している作品だと思います。


勿論この作品でも、主人公(日本人)のネパール人妻”淑子”は、数々の「奇蹟」的な業を顕して、それがそもそもの「教団」形成のきっかけにはなるわけですが、しかしそれが要するに何なのかは、虚実を含めていっさい最後まで明らかにされない。秘されているというのではなくて、問うことを禁じられるというか、放棄されるというか。
それはネパールに戻った後の妻の人格変容の意味についてもそうですね。現象は現象であって、それが”宗教的”(もしくは科学的)に意味として組織されることはない。「世界観」は提示されないというか。

それで成立しているのか、いないのか、それは微妙なところもありますが。
一つにはそれを問わない為に(または問わないことを示す為に)、かなり目まぐるしい場面や構図の転換が行われているわけですが。
成立しているとすればある意味凄く怖い話なんですよね、これは。つまり”内”で成立してしまえば、”外”の救いは期待出来ない、保証されないわけですから。決して反宗教的動機で書かれていない、中立的ですらもない作品なだけに、そう。そういう”宗教”小説。


・・・・と、いう感じです、ネレーロさん。(笑)
「奇蹟」すらも現世に閉じ込めてしまう作品、みたいな。一種の思考実験かもしれません。


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