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コミュニケーションとその前提 ?篠田節子『ハルモニア』 

ハルモニアハルモニア
(1997/12)
篠田 節子

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総評に続いて。ブログまたぎ失礼。

ちょうど今週の(TBSの)「CBSドキュメント」で、この『ハルモニア』のアイデアの元になった”サヴァン症候群”(Wiki)の天才音楽少年(ピアノと作曲)の継続リボートが上がっていましたが、その中で彼の音楽教師が、彼の表現における
 1.感情の抑揚の無いこと(理解しないこと)
 2.”感情表現”の為に、演奏に強弱(という”抑揚”)をつけられないこと(必要を理解しないこと)
 3.作曲は出来るが、それに歌詞を付けたり具体的なイメージや感情を付与出来ないこと
を、彼の”欠点”として挙げていました。
善意で言っているようでしたけど、僕からするとこれらは別に欠点でも何でもなくて、彼の「音楽」がより純粋であること、その形式性そのもののに中に必要な全てが詰まっていること、そして更に、その音楽教師が言うレベルの「感情」というものが、余りにも日常的で通俗的で、かつローカルで慣習的で、文化固有的なものである、そのことに教師が気付いていなくて無前提に自明化しているという、それだけのことに思えました。

・・・・まあ論理的に思っただけですけどね。つまり実際の彼の”音楽”をよく聴いて、そう反論しているわけではないですけど。
ただその教師が、僕が言うような次元の論理的可能性を、視野に入れていないということは、ある程度自信を持って言えます。
更に言うならば、多分”抑揚”はついているんじゃないかなあと、彼なりに。ただそれは、俗人(笑)や彼と脳の構造もしくは認知と伝達の枠組みを共有しない人には、感じ取れない微妙なレベルで。必要十分には。
僕自身も、実際に聴いてみないとよく分からないですし、”共有”はしていないけれど一般的な意味では熟達した音楽聴きの耳に、心に、”感じ取れ”ないなりにどれくらい伝わるものがあるのかとか、そこらへんは興味深いですけど。
つまり、使い方は違っても、「ヒトの脳」には違いないわけで。共通性で行ける部分と、行けない部分と。

まあ、そんなようなことと、関連した話です。


『ハルモニア』の音楽指導場面

改めて確認すると、『ハルモニア』は上記”サヴァン症候群”をヒントに設定された、幼い時の特殊な脳外科手術とその手術中の事故によって、重度の情緒障害や自閉症的な適応・学習・コミュニケーション障害を抱えたある女性が、その代償に得た天才的な音楽的能力(絶対音感と記憶力と再現力)を見出され、それを伸ばそうとあるいはそれによって他人や世間とコミュニケートさせようと、基本的には善意で努力する人たちと関わり、巻き込まれ、引き起こした騒動の顛末を描いた話です。

ちなみに「ハルモニア」というのは、古来ギリシャ/ヨーロッパで考えられていた、神の創造物たる宇宙の全要素・存在の調和、その調和そのものが奏でている”音楽”のことで、超絶的な再現能力と、裏腹のオリジナリティや”感情表現”の欠如との間で引き裂かれているヒロイン(?)が、最後には到達して、それを通して初めて「自己表現」に成功したように見える、そういう観念です。
ここらへんの「音楽論」の部分も非常に面白いんですが、専門的になり過ぎるし僕の手にも負えかねるところがあるので、とりあえずモチーフとしてだけ、押さえておいて下さい。あくまでコミュニケーションと認知と伝達一般が、このエントリーのテーマ。


さて本題に入って、小説の前半部分は、主に男性チェロ奏者の音楽教師(努力で何とか身を立てた二流の演奏家)が天才だけれど障害者の彼女を指導する、その苦闘の過程、特にコミュニケーションの困難に焦点が当てられます。
登場場面で彼女は、目の前で幼い子が怪我して泣いていてもいっさい無関心で反応しないという、やや類型的な描写でそのキャラクターが示されますが、そういう価値的道徳的”感情”以前に、そもそもの意思疎通、意思が通じているのかいなのか、喜んでるのか嫌がってるのか、好きなのか嫌いなのか、そういう感情自体があるのかと、その段階で男性教師は途方に暮れます。

それ以前に他の患者たちに対する「音楽療法」場面で、その彼の演奏を傍観していた彼女がとったリズムの正確性から、彼女が音楽に反応することも素質があることも、分かってはいるんですが、いざ教師と生徒として向かい合ってみると、何を言っても何を指示しても、勿論言語的な応答は無いですし、表情や仕草で反応するわけでもない。仕方なく妙齢の女性(20代後半)の体に触れる居心地の悪さを抑えつつ、一つ一つ手を取って(チェロを抱えさせる為に)足を開かせてともかくも弾く態勢を取らせてみても、あるいは手を添えて動かして音を出させてみても、なすがまま。
そうかと思えばやたら激烈な反応をすることもあって、それはそうして出させた音などが彼女の感受性に不快な場合で、唐突に断固として拒否し、あるいは楽器を取り落として壊し、あるいははねのけた腕で彼に怪我を負わせる。

ただそれはそういう結果を企図した「意思」的行為ではなくて、限りなく反射に近い、単なる反応なんですね。含むところがあるという意味での「感情」ではないし、我慢の挙句の「かんしゃく」ですらもない。ほとんど機械。
逆にそうした反応を時にはするということは、彼女が彼とのレッスンそのものは、おおむね受け入れている、弾く/学ぶこと自体は拒否していないということの、証しではあるわけですけど。こうした受容と拒絶の無慈悲な峻別は、レッスンがかなり進んでより音楽的になって、かつそれなりに長期的に安定した「人間関係」を構築出来ているように見えるようになっても基本的には同じで、今度は彼女の音楽的能力の絶対レベルの高さによって、彼のミスや演奏力不足への、剥き出しの違和の表明や拒否や無反応によって、凡才の彼の自尊心を手酷く傷付けるわけですね。


絶対的ディスコミュニケーション。”思いやり”の敗北

こうした彼の苦闘を、時に彼の立場で、時に俯瞰的客観的な立場で見ながら感じるのは(”彼女”の立場はなかなか難しい)、絶対的なディスコミュニケーションの恐怖、心臓がギュッと縮こまるような、あるいは皮膚が冷んやりしたものに不意に触れたような感覚。
そして僕も含めた我々「普通の」人間が、日常無意識に依拠している”コミュニケーション”の世界、その前提と構造が崩壊して行く感覚。

問題は感情ではないんですよね。意思でもない。彼女は確かに時に取り付く島の無い「拒否」を示しますが、それはディスコミュニケーションの表れや産物ではあっても、”原因”や”本体”ではないんですね。上で言ったように、彼女が具体的には模倣を基本としながらも、結果的に従順に長期にわたって彼とのレッスンを続けている時点で、あえて言えば彼女の”意思”としては、実は十分に彼を「受け入れて」いる。様々な場面での反応から、彼に「好意」を持ってさえ、いるのかも知れないと感じられる。
明示はされないですが、それは実は終始一貫そうで、にも関わらず彼と周囲の人が悩み、苦しみ、大騒ぎし、しばしば疑い、絶望もし、それに従って彼女の境遇も時に危機的なものとなったり二転三転するわけですが、しかしそれらの過程から透けて見える彼女の「不動」性、あえて言えば”愛の不変”の可能性には、読んでて酷く切なくなるものがあります。”初めて会った時から好きでした。あなたを疑ったことはありません”・・・・のかも、知れない。

ともかく彼は彼女と意思疎通をしようと、彼女の意を図ろうと苦心惨憺するわけですが、その中で明らかになるのが、通常”コミュニケーション”の場面で主役的扱いを受けることの多い、例えば「熱意」であるとか、「善意」であるとか、あるいは「思いやり」であるとか、働きかけの「努力」であるとか、そういうまとめて”情的な”要素群の、恐るべき無力さ
更に言えば、目を正面から見るとか、付随して優しいまなざしとか目と目で通じあうとか、包容的な仕草や接触であるとか、そうした正統とされるノンヴァーバルな身体言語やゼスチャーの類も、全くと言っていいほど意味をなさない、機能しない。

いや、通じてるのかも知れないですよ。根底では、究極的には。悪意や暴力よりいいのは確かでしょうし。しかし、当座、役には立たない。”通じない”ものは通じない。何かもっと前提的な、構造的な、あえて言えば技術的な要素の欠落や障害や理由があって、彼女は反応してくれない、従ってくれない。そこで「俺の気持ちは分かるだろ?」などと言っても、意味は無いわけです。夜回り先生の不良たちへの”熱血”指導は、ここでは通用しない(笑)。”本気”でぶつかったからどうだという、そういう類のディスコミュニケーションではないわけです。
逆に実は多少乱暴に何かをさせようとしても、その方向づけさえ正しければ、乱暴さそのものにはそれほど彼女は頓着しない、適切な刺激には適切に反応してくれるんですね。

どうしたら「適切」なのかというのは、勿論最後まで彼も試行錯誤し続けるわけですが、一つ言えるのは、指導力にそれなりの定評がある音楽(個人)教師である彼の指導の、他の生徒たちには通じたのであろう「熱意」や「思いやり」や身体言語、それらがなぜ他の生徒たちには通じて彼女には通じないかと言えば、それはそれらコミュニケーション上の『言語』、こうしたものはこういうものを意味するというシステム、それを彼と他の生徒たちは共有しているけれど、彼女は共有していないという、そのことです。
逆に言えば彼が日常、生徒たちと彼らを筆頭とする「普通の」人たちと取り交わしている”コミュニケーション”は、その大部分が単なる習慣的行動であるし、内輪の約束事の応酬であると、そういうことになりますか。「熱意」が相手を動かした、「思いやり」が通じた、そう思っているもののその実態は、多くは相手の言動や行動の記号的意味に対して、快不快の一定の生理的限界の範囲で、システムに則って半ば自動的に反応しているだけだと。こういう時は、こうするものだと、無意識に自分に強制した結果だと。それを社会的な命令や外聞として、意識して(抵抗を感じて)いる時も、無くは無いですけどね。

繰り返しますが、彼女は感情的に拒否しているわけではないし、彼の善意を疑っているわけでもないし、音楽やレッスンに乗り気ややる気が無いわけでも、全然無い。むしろ言葉を失った彼女なりの「言語」として、外界と関わる、それ以前に外界を積極的に認識するほぼ唯一に近い手段として、相当に、切実に求めている追求しているらしいということも、後に明らかになります。
しかし、具体的な応答場面では、とにかく通じない。彼女がそれを気にしているかどうかはともかく(それが彼女の「感情」「文化」なのかも知れない)、我々が考えるような意味での”コミュニケーション”は、まず成立しない。なぜなら、それを支えるシステムを共有していないから、あるいは存在していないから。

実際にはそれでも徐々に彼は、彼女の”反応”(反応しないことも含めての)の読解や予測が出来るようになりますし、彼女も彼女なりに、我々が認知可能な”表現”を、時に示すようになります。(少なくともそう見えます)
そういう場面では、今度こそ、コミュニケーションの単なる相対的なシステムや約束事ではない、基底的な何かが見えて来るような、そういう段階が予感されるわけですが、それについては特にテーマ的にこの作品で追求されているわけではありませんし、余りに大ごとなので僕も今回はパスさせてもらいたいですけど。(笑)

・・・・ああ、まあ、「ハルモニア」というのが、正にその”基底的な何か”だと言えばそうか。少なくとも、”音楽”という次元においては。他にも彼が彼女の精神世界を(テレパシー的なチャンネルで)体験する場面では、彼女が幾何学的な”秩序”世界を、かなり直接的に内面に抱いていることが示唆されます。数式で話しかければ、通じるのかも知れない。(笑)
まあそこらへんは、興味ある人は読んでみて下さい。


以上、多分あんまり納得してないのではないかとも思われますが(笑)、次に他の(サヴァン的なもの以外の)例を使って、もう少し説明を試みてみたいと思います。


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